6話 日の丸を掲げろ!
雲揚の甲板は、まだ朝の潮風に湿っていた。
井上少佐は双眼鏡を外し、短く命じた。
「――上陸用意」
木造の舷側から吊り下ろされた小舟が、海面に落ちるたび低い音を響かせる。海兵たちは銃を抱え、顔を引き締めたまま次々と乗り込んでいった。
沖合から眺める江華島の海岸は、一見静かだった。だが、土色の胸壁の向こうに、火薬の匂いと殺気が漂っているのを井上は感じ取っていた。
彼は副官に低く告げる。
「敵の大砲は旧式だ。遠距離では当たらん……だが近づけば話は別だ。油断するな」
太鼓の合図とともに、オールが一斉に水をかき、舟は岸へ向かって滑り出す。
その瞬間、胸壁の上で白い煙が吹き上がった。耳を裂く轟音とともに、弾丸が海面を叩き、飛沫が雨のように降り注ぐ。
「低く構えろ!」
兵たちは反射的に体を伏せ、舟はなおも全速で進む。
砲弾は波間に落ちるばかりで、命中する気配はない――そう思った矢先、一発が舟の脇をかすめ、海兵一人を海中に弾き飛ばした。
「引き上げろ!」
仲間が素早く腕をつかみ、ずぶ濡れの兵士を舟内に引きずり上げる。だが動きは止まらない。
やがて舟底が砂を擦る感触が伝わった。
「飛び出せ!」
兵士たちは海水を蹴って浜へと駆け上がる。湿った砂を踏みしめ、銃口を敵陣に向けた。
胸壁の上から散発的な銃撃が降り注ぐ。
「撃て!」
小銃の火線が砂煙を割り、敵兵が一人、また一人と倒れる。
井上は腰の軍刀を抜き放ち、声を張り上げた。
「ここで止まるな! 一気に砲台下まで駆け上がれ!」
海兵たちは銃剣を構え、胸壁への坂を駆ける。足元の砂は重く、呼吸は荒い。だが、彼らの眼差しには恐れよりも、日本海軍の名誉を背負う覚悟が宿っていた。
あと十間。砲台の影が目前に迫る――。
砲台からの砲声が、海面を震わせていた。硝煙の匂いが鼻を刺す。
井上少佐は浜辺の岩陰に身をかがめ、目の前の胸壁を睨んだ。砲弾は旧式で照準も甘い。だが、弾は弾だ。当たれば命は終わる。
「左翼を回せ。正面は俺が指揮する。」
井上の声は、海風に混じってもなお明確だった。副官が一瞬ためらう。
「正面突破は危険です!」
井上はその目を射抜くように見返した。
「危険だからこそ行く。ここで怯めば、我ら海軍は一生、陸軍の影に埋もれるぞ。」
短い沈黙ののち、副官は頷いた。両脇に展開した小隊が素早く動く。砂浜を蹴り、銃剣を構えた兵たちが敵の視界の外へ回り込んだ。
「撃てぇ!」
乾いた小銃の連射が響き、前線が一斉に駆け出す。敵弾が砂を跳ね、砲弾が遠くの水面を白く爆ぜさせる。だが誰一人止まらない。距離が詰まれば、あとは銃剣と胆力の勝負だ。
胸壁に取りついた瞬間、肉弾戦が始まった。
銃剣が閃き、銃床が唸る。旧式の火縄銃を振り回す朝鮮兵が必死に応戦するが、海兵たちは一歩も退かない。側面から回り込んだ部隊が砲手を排除すると、砲声はぴたりと止んだ。
「砲台、制圧!」
報告を受けた井上は、即座に命じる。
「日の丸を掲げろ!」
胸壁に日の丸が翻った瞬間、兵たちの胸から抑え込んでいた息が一斉に解き放たれた。
しかし、その歓声の裏には、重く沈む代償があった。
「……二名戦死、十二名負傷!」
報告を受けた井上少佐の眉間がわずかに寄る。上陸直後、集中射撃を浴びたあの瞬間の光景が脳裏をかすめた。
だが、その誰ひとりとして足を止めなかった――それが何より誇らしかった。
砲座には、破裂した大砲が無残な姿をさらし、火薬の匂いがまだ鼻を刺す。側面から回り込んだ部隊の突入で、砲手たちは倒れ、黒煙を吐く砲は沈黙した。朝鮮兵の多くは、旧式の火縄銃を握りしめたまま地に伏している。
「砲台、完全制圧!」
その声に、海兵たちは泥にまみれた顔を上げた。
井上は歩み寄り、ひとり、またひとりと肩を叩く。
「よくやった。この旗は、お前たちの力でここに立った」
兵たちは言葉もなく敬礼を返した。
砲台の上で風を受ける日の丸が、大きくはためく。その向こうには、青く静かな海と、波の音だけが広がっていた。
勝利の証はそこにあったが、胸の奥にはまだ鉄と血の匂いが残っていた。




