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日本國海軍  作者: maron
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3話 日本國海軍の始動

 明治五年二月七日――雪を踏みしめ、私は太政官の正庁へ向かった。


 前夜からの冷え込みで石畳は白く凍り、吐く息が白く漂う。


 この日、兵部省廃止、陸軍省・海軍省新設を定めた太政官布告第六十二号が公布される。


 正庁の広間には、すでに各省の高官が揃っていた。


 陸軍省の席には山県有朋と長州の将校たち、海軍省の席には西郷従道、大久保利通、そして私。


 布告の朗読が始まると、広間の空気は一段と引き締まった。


 「兵部省ヲ廃シ、陸軍省及海軍省ヲ置ク……」


 声が高らかに響く。


 その瞬間、私は深く息を吐いた。長く続いた陸海同居の時代が終わったのだ。


 だが、山県の表情は微動だにしない。


 その目は、海軍が得た自由を祝うものではなく、むしろ「次は我らの番だ」とでも言うような冷ややかさを帯びていた。


 ――陸と海、これで完全に並び立った。だが同時に、二つの刃が向かい合うことにもなった。


 会議後、大久保が私に歩み寄り、低く言った。


 「川村殿、今日のこれは始まりにすぎぬ。陸は予算、人事、制度の隙を突いてくる。覚悟はよいな」


 私はうなずいた。


 「承知しております。勝利ではなく、これからの持久戦です」


 午後、海軍省初代卿の辞令が手渡された。


 厚手の和紙に墨で記されたその文字を見つめると、誇らしさよりも、冷たい重みが胸に広がる。


 机上に辞令を置き、私は独り窓外の雪景色を眺めた。


 白い街並みの向こう、港には旧式の軍艦が二隻、静かに碇泊している。


 あれを新鋭艦で埋め尽くすには、どれほどの年月と戦いが要るのか――。


 雪の中に立つ艦影が、次なる戦いの形を暗示しているようだった。


 海軍省が産声を上げてから、まだ一月も経たぬうちに、最初の衝突は始まった。


 太政官での予算配分会議――陸軍省の要求は前年の倍近くに膨れ、海軍省の予算はわずかな上積みにとどまった。


 その理由は「西洋式師団の早期整備」「西南境の防衛強化」という名目だったが、裏を知る者には明らかだった。


 ――陸は、海を試している。


 会議で山県は、さも当然のように言った。


 「外敵来襲の兆しなし。沿岸防備は現状で足る」


 それは太政官内の陸軍寄り官僚たちが繰り返す論でもあった。


 港湾整備の予算は削られ、艦船建造は遅れ、士官学校増員案は「時期尚早」として棚上げされた。


 私は海軍省の執務室で、西郷従道と向かい合った。


 「従道殿、これは布告で得た独立を形骸化しようという策です」


 西郷はゆっくりとうなずいた。


 「陸は予算と人事を握り、海の動きを鈍らせる。だが、我らは耐えて、力を蓄えるほかない」


 耐える――それは容易な言葉ではなかった。


 現場からは連日のように報告が届く。


 老朽化した艦の修理費不足、練習航海の短縮命令、新兵募集の制限……。


 私の机上には、海軍将校たちの憤りと焦りが積み上がっていく。


 ある夜、港に出た私は、静かに碇泊する艦影を見つめた。


 暗がりに浮かぶマストと帆走索、その下で眠る乗員たち――彼らを守るためには、政治の波にも沈まぬ艦隊を築かねばならぬ。


 「いつか、太平洋を渡り、帝国の旗を遠洋に掲げる艦隊を持つ」


 胸中でそう誓う。


 だがその道は、これまで以上に長く、険しい。


 陸との摩擦は、もはや一過性の争いではなく、制度そのものに刻まれた構造となっていた。


 私は心の中で、その構造を打破するための次の一手を描き始めていた。


 ――新たな戦いは、まだ始まったばかりだ。


 明治五年二月七日、兵部省の扉が静かに閉じられた。


 翌朝、太政官布告第六十二号が官報に刷られ、「海軍省」なる新しい役所の名が、初めて公に姿を現した。


 川村純義はその紙面を掌で押さえたまま、机上に置かれたインク壺の揺れを見ていた。揺れているのは自分の指先か、それともこの国の行く末か。


 喜びよりも先に、胸に広がったのは緊張だった。独立はした。しかし、予算も人員も、陸軍の背中に隠れたままの出発である。


 その午後、築地の海軍省庁舎には、薩摩出身の将校たちが顔を揃えた。西郷従道、勝海舟、そして若き士官候補生たち。壁には英国製の海図が掛けられ、墨で書かれた日本沿岸防御案がその隣に並んでいる。


 川村は会議の席で短く言った。


「この国は、海に囲まれた島だ。陸だけを見ておれば、いずれ海から呑まれる」


 薩摩訛りの低い声に、全員が頷く。だが頷きは同意だけではない——現実の壁も同じだけ理解していた。陸軍が握る予算、薩長の政争、そして政府内の温度差。新設の海軍省は、まだ紙の上の存在に過ぎなかった。


 翌年、英国からの来訪団が築地の海兵学校に姿を現す。指導に当たるのはダグラス海軍顧問団、総勢三十余名。制服の金ボタンが冬の光に光り、学生たちの目を射抜いた。


 彼らは測量術から航海術、大砲の射撃訓練までを、英国式の厳格さで叩き込んだ。中でも川村が注目したのは、まだ十代半ばの士官候補生たちの目の輝きである。


 その中に、薩摩から来た小柄な少年——後の東郷平八郎がいた。凛とした顔つきに、海の未来が一瞬だけ映る。


 だが訓練場の活気とは裏腹に、省の会計簿は冷えきっていた。蒸気艦一隻を満足に維持する予算すら、陸軍の兵備費の影に隠れる。川村は夜毎、電灯の下で英語の契約書案を睨み、艦船購入の道を探った。


 明治七年、台湾で日本人漁民が殺害される事件が発生。政府は出兵を決定する。


 海軍の役割は輸送と沿岸支援に限られ、陸戦の主役は陸軍が担った。だが輸送隊を指揮した川村は、暴風雨に揺れる艦橋の上で思い知る。——沿岸警備の脆弱さ、老朽船の危うさ、そして長距離遠征能力の欠如。


 「このままでは、海外で一度でも砲声を交わせば、我が艦は沈む」


 帰国後、彼は英国製装甲艦の導入を含む拡張案をまとめた。見積額は二百三十万円——国家予算の一割に迫る巨額である。


 案は初会合で即座に退けられた。財政負担を理由にした山県有朋の反対、陸軍官僚の冷笑。


 だが川村は退かなかった。装甲艦一隻とコルベット二隻への縮小案を再提出し、交渉を粘った。政府内の一部、特に大久保利通が外交防衛の要として支持に回る。


 数ヶ月の折衝の末、英国グラスゴーの造船所に発注が決まる。契約書にサインした夜、川村は机に突っ伏し、灯明の揺らぎを見つめた。「これでようやく、海が国を守る力を持てる——だが足りぬ」


 その頃、国内では地租改正が進み、税収がようやく安定の兆しを見せていた。しかし旧士族への俸禄支出、殖産興業の資金投入が優先され、海軍拡張の予算は限られたままだ。


 川村は陸軍省との予算折衝の席で、こう言い放った。


「我らが海を守らずして、この国の商船も港も生きぬ。砲弾は陸だけでなく、波間からも飛んでくる」


 言葉は記録には残らぬ。だが、その場に居合わせた若手士官の心には深く刻まれた。


 明治八年秋、朝鮮半島との関係が再び緊張を帯びる。日本の開国要求に対し、朝鮮側は沈黙を貫き、やがて敵意を隠さぬ態度を見せ始めた。


 港の夜、川村は新造艦の試験航海を見送る。鉄の船体が闇の海を滑り、灯火が遠ざかる。


 彼の耳に、波音と共に未来の砲声が聞こえる気がした。


「やがて、あの水平線の向こうで、我らは試される日が来るだろう」


 明治八年九月、その予感は現実となる——江華島の海で。

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