15話 「朕は、民の安寧を重んず。然れども――天の理に応ぜよ」
六月の雨は、政庁の白壁に滲んでいた。
麹町政庁・奥の会議室。午後の空気は重く、誰もが声の出しどころを測っていた。机上には朝鮮の地図と、清国の電報写し。床の上に薄く響くのは、外から届く雨の囁きだけである。
「――これは国難である」
最初に声を発したのは、陸軍大臣・大山巌だった。軍服の襟に金の桜が浮き、眼差しは火を帯びていた。
「全羅道に蜂起した東学党の勢力は一万を超えた。朝鮮政府は清国に出兵を要請し、すでに天津の部隊が仁川へ向かったと報がある。対馬の向こうに敵が現れたも同然だ」
その声に誰も異を唱えない。
続いて、外務卿・榎本武揚が資料を掲げた。
「清国の出兵は《天津条約》に違反しております。事前通告は一切ありません。……これは、明白な侵害行為です」
厚紙の上に並んだ文字を、誰もが覗き込んだ。赤い印が仁川を囲む。
「我が国が沈黙すれば、列強は“黙認”と見なすでしょう。我らの立場が東洋において消える」
誰かが小さく咳をした。
伊藤博文は、正面の畳に胡坐をかいたまま、やや身を乗り出した。
「諸君、いま我が国は、“内”と“外”の両側から引き裂かれようとしている」
誰もが目を向けた。
「農村は疲弊し、士族は行き場を失い、都市は不安に満ちている。そこへ清国が“宗主国”として乗り込むならば、朝鮮の自立は破れ、日本の独立も風前の灯火だ」
沈黙の中、伊藤は扇子で地図を指した。朝鮮の付け根を、刃物のように撫でる。
「――ここを押さえねばならぬ」
視線が一斉に西郷従道に集まった。
海軍大臣として列席していた従道は、懐中時計の蓋を閉じ、口を開いた。
「海が動かねば、兵は向こう岸に渡れません」
落ち着いた声音が、広間の温度をわずかに下げた。
「我らが兵を輸送するには、艦隊の護衛が不可欠です。だが、艦艇の老朽、石炭の備蓄、砲弾の数……準備は万全とは言えない」
伊藤が問うた。
「海軍は、動けるか?」
従道は一枚の表を差し出した。軍艦の名が並ぶ紙を、ゆっくりと指でなぞる。
「『高千穂』『松島』『吉野』。この三隻を仁川沖に進出させます。直接交戦は避けつつ、清国艦隊に“見せる”。それが、戦火を防ぐ最初の一手となります」
大山が低く唸った。
「つまり、日本国の畏を見せるということか」
「いえ、“油断”の準備です。清国は、日本國海軍を見くびっています。その、油断を活かします」
その言葉に、誰かが息を呑んだ。
伊藤は静かに机を叩いた。
「よし。出兵の方針を決す。陸軍は第一師団を動かす。――出兵の奏上は、明朝、陛下へ行う」
朝の霞が、御所の大手門をうっすらと覆っていた。
かつて江戸幕府の象徴であった江戸城本丸は、明治維新ののち火災により焼失し、その跡地には、今や天皇の住まう新たな御所が建てられている。
その奥、杉と檜で組まれた政庁の大広間には、淡く香る木の匂いが満ちていた。漆黒の柱が天井を支え、障子越しの朝光が、絵襖の金地にかすかに揺れていた。
その場に集まっていたのは、日本の未来を担う者たち――国の内と外、戦と政の岐路に立つ、高官たちの姿であった。
中央に伊藤博文、左右に大山巌と西郷従道。その背後に、外務卿井上馨、内務卿山縣有朋、川村伯爵の姿もある。
近衛の衛士が、奏上文を読み上げた。
「……清国、仁川へ兵二千余名を上陸せしむ。朝鮮政府の要請と称すれど、条約に基づく通告なく、事実上の占領なり」
報告の間、天皇は微動だにせず、ただ両手を膝に置き、静かに耳を傾けていた。
そして、奏上が終わったあと、ゆっくりと口を開いた。
「朕は、民の安寧を重んず。然れども、国の威信を失ひ、義務を忘るること叶はず。
慎みて事に臨み、軽挙を避け、国を守ることを以て、天の理に応ぜよ」
言葉は穏やかであったが、その響きは広間の空気を震わせた。
従道は膝をつき、深く頭を垂れた。
(兄上……あなたが求めていた征韓が始まります。しかし、私は国を守る為に戦います)
天皇の退出のあと、静まり返った広間に、伊藤博文が声を落とした。
「――出兵は、帝のご裁可により決した。あとは……行動あるのみだ」
その日付をもって、日本の朝鮮派兵は正式に発令された。
数日後。横須賀港。
鉄と油の匂いが港の空気を満たしていた。湾内には艦艇が並び、桟橋では水兵たちが甲板の手入れに追われていた。
海に浮かぶのは、装甲巡洋艦「高千穂」。英国式の設計を取り入れた新鋭艦は、波間に沈まず、重厚な船体を天に向けて堂々と構えている。
岸壁には、西郷従道が立っていた。軍服の襟に風が吹き込み、帽子の影が頬を走る。
「……始まるな」
背後から声がした。川村伯爵だった。
白髪混じりの顎髭を撫で、かつての海軍卿は隣に並んだ。
「やはりおいででしたか、伯爵」
「この眼で、船が海に出るのを見るまではな」
二人の視線の先、「高千穂」では汽笛が鳴った。合図であった。出航準備完了。
従道はわずかに首を振る。
「兄は刀で散りました。私は――船で護ります」
川村は何も言わず頷いた。
空にはまだ梅雨の雲が残っていたが、港の上だけ、わずかに光が射していた。
波の向こうに、朝鮮。そのさらに先には、清国。
だが従道の眼は、もっと遠くを見ていた。
“日本のかたち”――それが、今まさに海から始まろうとしていた。




