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日本國海軍  作者: maron
14/16

14話 『西郷従道』。海軍大臣に任ずる

明治十八年十二月二十二日。


宮中の石造りの広間には、しんと冷気が張りつめていた。金の燭台の灯火が揺れている。壁に映るその光は、まるで命を見つめるかのように淡く、長く、儀式を見守っていた。


居並ぶ軍人、文官、官僚たちはみな一様に背筋を伸ばし、その中心に進み出た一人の男の足音を黙して聞いていた。


『西郷従道』


あの城山の戦から、すでに八年の月日が流れていた。兄・隆盛が薩摩に殉じ、血にまみれたその地で志を託して果てたその弟が、今、明治国家の新たな「海軍大臣」としてこの場に立っている。


その名が呼ばれると、広間の空気がわずかに震えた。


「西郷従道。海軍大臣に任ずる」


静かな宣言に続き、辞令が差し出される。従道は微かに目を伏せた。心の奥に、今は亡き兄の声が蘇る。


――大日本帝国を守れ。


誰にも聞こえぬその言葉が、石床よりも冷たい空気の中で、ただ従道の鼓膜にだけ届いていた。血の匂い。焼けた土。あのときの死を、彼は忘れてはいない。


(兄上……やっとここまでこれました。兄上の義の心は忘れません)


そう誓いながら、従道は迷いなく辞令を受け取った。


その瞬間、広間には様々な思惑が飛び交っていた。特に陸軍の目は厳しかった。あの、西郷の弟に権力を持たせる事に戸惑いの声が聞こえる。

「国を分断させる」

「陸軍の力が奪われる」

「この男は本当に信用できるのか」


ただ一人、最前列。川村純義が沈黙のまま従道を見つめていた。その視線には、共に海軍の地位を押し上げてきた者の責任と誇りがあった。


従道にとって、川村は教官であり、上官であり、制度の礎そのものであった。長崎海軍伝習所の設立、旧幕から新政府への橋渡し、海軍卿としての実務――すべてを見届けてきた者。


今、この場で、すべてを託している。


式の後。


静かな回廊を抜けた執務棟の奥で、従道は川村の前に立った。


「――命令の重さ、わかっているな」


川村の声には、昔と変わらぬ重みがあった。儀礼でも訓示でもない。ただの上官としての最後の言葉だった。


従道は直立不動の姿勢で敬礼を返した。


「海軍卿殿の教え、肝に銘じております。必ずや、海軍を強くし、この国を護ってみせます」


川村は表情を変えず頷いた。


「その意志を見た。それで充分だ。――君の責を果たせ」


二人は言葉を交わさず、それぞれの背を向けて歩き出した。だが、その間に流れていたものは、血縁よりも深い、軍の誓約であった。


翌朝――。


まだ朝霧の残る時間、従道は海軍省の執務室にいた。机には前任の川村が残した分厚い報告書の束が積まれている。一つひとつに目を通すたび、心臓の奥で何かが締めつけられる。


艦艇の老朽化。砲の不足。石炭の備蓄量の推移表は傾き、演習記録には「中止」の赤字が並ぶ。


(これは戦だ。まだ始まってもいないのに、すでに削られている)


ガリリとペン先を滑らせたとき、執務室の扉がノックされた。


「失礼いたします」


入ってきたのは川村だった。手には別の資料束を抱えている。


「相変わらず書類と格闘しているな。まだ、あるからな」


笑いとともに差し出された紙束は、想像より重かった。紐を解けば、墨で綴られた士官たちの署名と嘆願が並んでいた。


 「沿岸部隊の弾薬供給は三カ月遅延」

 「水兵訓練中断」

 「整備班の交代志願、半数辞退」


従道は一気に最後の頁まで読み切ると、束を閉じた。机の上に拳を置いた。震えはない。だが、冷たくもなかった。


「……私は、兄の志を、海軍を立て直すことで成し遂げます」


その一言は、私語でも演説でもなかった。ただ一つの決意だった。


川村はそれを聞き届け、頷いた。今度は、上官ではなく、見守る者として。


「慌てることは無い。機会は必ず来る。それに備える事が、今の君の役目だ」


従道は顔を上げ、まっすぐに川村の目を見た。


その瞳の奥には、まだ誰も知らぬ戦いの輪郭が、ひと筋の覚悟となって形を成し始めていた。


 三日後。麹町、政庁の奥座敷にて。


 細く冷たい風が障子を鳴らす。曇り硝子越しの冬空は鈍く、灯火もその色を奪われたように冴えない。だが、この日この場所に集まった面々は、東アジアの未来を左右する重みに意識を研ぎ澄ませていた。


 西郷従道は、海軍大臣として初の戦略会議に出席していた。


 長机を囲むのは、陸軍参謀本部、外務省、大蔵省、内務省、そして川村純義ら旧来の海軍首脳。机上には、各国の電報写し、清仏戦争の海戦図、朝鮮半島の政治報告、各地の騒乱記録が積まれている。


 最初に言葉を発したのは、陸軍の壮年将官だった。


 「国内は緊張の極みにあります。松方財政による緊縮は成果を上げましたが、同時に農村を疲弊させ、米価の下落で士族層も職を失いつつある。熊本や鹿児島では、既に一揆の兆しが表面化しています」


 「このままでは、第二の“西南”が起きかねません」


 その言葉に、一瞬、室内の空気が固まった。


 続いて立ったのは、外務省の若い官吏。手にした地図の上、朝鮮と中国南部を指でなぞる。


 「清国は仏国との戦に敗れ、北部港湾を失いました。旧体制の象徴だった北洋艦隊も壊滅に近く、彼らの威信は崩れました。代わって南下を進めるのはロシアです。いずれ、朝鮮に視線を向けるでしょう」


 「それを座して待てば、我が国の対馬海峡も安泰とは言えません」


 文官らの頷きが波のように広がった。


 そして、伊藤博文がゆっくりと口を開いた。


 「――我が国はいま、外患と内患の狭間に立っております」


 その声音は柔らかく、しかし芯があった。


 「疲弊した民、失業した士族。富国は達せられつつあるが、強兵はまだ途上。我々が掲げる“国の形”は、いまだ宙に浮いているのです」


 彼は一枚の地図を机に広げ、その中心、朝鮮半島の付け根を指で押さえた。


 「ここに一手打つ。朝鮮を抑えれば、清に睨みを利かせられる。列強に“日本の意志”を見せることもできる。加えて、国の内を一つに結ぶ“外の目標”となる。これは、政治でも軍略でもなく――国策です」


 室内に沈黙が落ちた。誰もが、その言葉に反論を挟まなかった。


 だが、従道だけは動かなかった。机の前で微動だにせず、視線を落としたまま、ひと呼吸を整えた。


 「……私は、志を選びます」


 誰かが顔を上げる。従道はそのまま、淡々と続けた。


 「兄は、“義”のために戦を選び、そして斃れました。私は、策ではなく、守るために立つ。……海を守る。民を守る。――それが、海軍の志です」


 低く抑えたその声は、凍てついたような部屋の空気に、静かな温度をもたらした。


 伊藤博文がゆっくりと従道を見た。短く、無言で頷いた。


 そして夜。


 従道は一人、横須賀の岸壁に立っていた。


 港に浮かぶのは、英国より届いたばかりの新鋭艦――「高千穂」。


 鋼鉄の船体が水を押し分け、月の光を黒く撥ね返している。その艦首は、真東、朝鮮の方向を向いていた。


 従道は背筋を伸ばしたまま、しばし艦を見上げる。足元に風が吹き抜けた。


 「兄上――私は、もう迷いません」


 「この国を、海で守ります」

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