13話 四十二隻体制
明治十年、西南戦争が終結したとき、日本の空気は大きく変わった。薩摩士族の蜂起は鎮められ、武士の世は完全に幕を閉じた。熊本城を落とせなかった薩軍、城山に果てた西郷隆盛の姿は、「武力で政府に抗う時代はもう戻らぬ」という象徴だった。人々は敗れた士族の姿に涙を流しつつも、心の奥底では新しい世の到来を悟っていた。
政府にとっても、それは一つの区切りだった。国内の反乱が収束したことで、いよいよ目を外へと向けることができるようになった。内乱のために割かれていた兵力や財政を、今度は国防と近代化へと注げる時が来たのである。
翌年の明治十一年、政府は「軍人勅諭」を発布した。これは単なる軍規則ではなかった。兵士や士官に「忠節」「礼儀」「武勇」などの徳目を徹底し、何より「天皇への絶対の忠誠」を求めるものであった。士族の私的な忠義ではなく、国家としての忠義。明治政府が軍を「国家の軍」へと塗り替えるための宣言であった。
士族の時代が終わったあと、徴兵制で集められた若者たちが兵営に並んだ。農村から出てきた者も、町の職人の子も、同じ制服を着て銃を持った。軍人勅諭は、そうした寄せ集めの兵を「国の兵」とするための精神的支柱だった。そこには、西南戦争で学んだ苦い教訓――「軍が国家から離れれば、国が割れる」という恐れが込められていた。
同じころ、国内では殖産興業の掛け声が高まっていた。明治十二年、東京で開かれた全国産業博覧会には、西洋式の機械や新しい工業製品が並べられ、人々は目を見張った。蒸気機関、紡績機、ガラス製品――それらは単なる見世物ではなく、「富国強兵」の裏打ちとなる力であった。近代産業を育てなければ、軍備は紙の城にすぎないと政府は知っていた。
だが、外の世界は待ってはくれなかった。明治十五年、朝鮮で壬午事変が勃発した。兵士たちの俸給が滞り、反乱が広がり、日本の公使館が焼き討ちに遭った。現地にいた日本人は襲撃され、多くが命を落とした。日本にとっては衝撃だった。西南戦争で国内をまとめた矢先、今度は隣国の混乱に巻き込まれたのである。
東京の政府内では激しい議論が交わされた。
「朝鮮を放置すれば、清国やロシアに呑み込まれるぞ」
「だが、軍を送るには財政が持たぬ」
「海軍を強化せねば、朝鮮半島をめぐる列強の動きに対抗できぬ」
西南戦争では影の役割しか果たせなかった海軍が、ここで再び注目された。朝鮮半島をめぐる外交は、制海権を握る力なしには成り立たない。陸軍が大陸を志向するなら、海軍はその背を守らねばならなかった。
さらに国外を見れば、列強の影が濃くなっていた。中央アジアでは、イギリスとロシアがアフガニスタンをめぐって睨み合い、第二次アフガン戦争が続いていた。遠い異国の戦争であっても、日本の知識人や軍人は新聞を通じて熱心に追い、地図を広げて議論した。
「ロシアが南下すれば、次は極東に来る」
「インドを守るために英国が血を流すなら、日本もいつか同じ道を歩まねばならぬ」
また、南アフリカでは第一ボーア戦争が起こり、小国の民が大帝国イギリスに抗った。ゲリラ戦、補給線の断絶、地形を生かした戦術――その報告は日本の軍人たちに強い印象を与えた。「少数でも戦える」という希望と、「帝国に逆らえば潰される」という恐怖、その両方である。
東アジアでも嵐が起きた。フランスが清国と衝突し、ベトナムをめぐって清仏戦争が始まった。欧州列強と衝突した清国は、海で敗れ、弱さを世界に晒した。これは日本にとっても衝撃であった。大国と見られていた清国が、欧州の一国に打ち負かされたのである。
この清仏戦争の報は、海軍拡張を訴える声を強めた。議会でも新聞でも、「清国が敗れるなら、日本も列強の餌食になる」との論調が広がった。ちょうどそのころ、政府は新しい建艦計画を議論していた。イギリスに艦を発注し、最新鋭の巡洋艦を導入する――その必要性を国民に説く格好の材料となったのである。
清仏戦争の余波が東アジアに広がった頃、日本の政界では海軍拡張計画が本格的に議論されていた。四十二隻体制――それは当時の日本にとって大それた数字であったが、清国の敗北を見た後では、誰もが「艦を持たねば国は守れぬ」と思い知らされた。議場では陸軍の将官が眉をひそめた。
「海軍ばかりに金を割いては、陸の守りが手薄になる」
これに対し、海軍卿は机を叩いて言い返した。
「陸にいかほど兵を置いても、海を破られれば補給は絶たれる! 西南戦争の時とは訳が違う!」
議場の外では新聞記者たちが血走った目で筆を走らせていた。清国艦隊の敗走は格好の材料であり、「列強の足音迫る」と見出しを打った紙面は庶民の目を奪った。町の辻では職人や商人が立ち話をし、
「清国でさえ敗けるなら、日本はどうする」
「やっぱり船がいるんだろうな」
と不安げに語り合った。
一方で、朝鮮半島では甲申政変が起き、日本が支援した改革派が一夜にして潰えた。街の片隅で新聞を広げた学生が、悔しそうに叫ぶ。
「また清国に押し戻された!」
横にいた友人は苦い笑みを浮かべた。
「力が足りぬんだ。軍がなければ外交も口だけだ」
二人の言葉は、政府の中枢で繰り返される議論と同じであった。
このころ欧州では、列強がアフリカを分割するためにベルリン会議を開いていた。地図の上で線が引かれ、大陸は植民地として切り売りされていく。日本の知識人はその報に眉をひそめた。
「アフリカがああなら、アジアもいずれ……」
危機感は国の内側に静かに染み込み、富国強兵の合言葉にさらに重みを加えた。
松方正義の財政改革は、明治十四年以降に始まった。歳出を切り詰め、増税を行い、さらに紙幣を市場から吸い上げることで、物価は急激に下落していった。農村では米価が下がり、疲弊は深刻となったが、それでも軍事予算だけは削られることがなかった。やがて明治十八年、海軍が英国に発注した新鋭艦「高千穂」が帰国すると、横浜の港には人だかりができた。鉄の巨体を仰ぎ見る人々は、その存在を国の未来そのもののように感じていた。
「これが日本を守る船か」
群衆は口々に歓声を上げ、蒸気を吐く鉄の艦を見上げた。
軍人養成も整えられた。帝国大学に学ぶ若者の中には、欧州の軍事学を研究しようとする者も現れた。
「西郷どんのような戦ではなく、これからは科学の戦だ」
若き士官候補生の言葉には、もはや旧い武士の考えはなかった。
明治二十年前後、日本は新しい段階に入っていた。国内の士族反乱は影を潜め、政府は産業・教育・軍事を並行して育てていた。欧州列強の戦争記事は新聞を飾り、アジアの緊張は毎月のように議場で取り上げられた。国民は気づかぬうちに「列強の仲間入り」を目標とする意識を共有し始めていた。
やがて憲法制定の議論が始まり、帝国議会の準備が進むと、軍は国家の中で確固とした地位を得た。軍人勅諭は若き兵の心を縛り、横須賀の港に並ぶ艦列は、その巨大さゆえの「力」と同時に「戦争」の影を国の未来に落としていた。
――西南戦争からわずか十余年。薩摩の土に散った士族の叫びは、今や「国を外に示す力」として形を変えつつあった。




