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日本國海軍  作者: maron
12/16

12話 兄上の無念。愚弟の私が受け継ぎます。必ず日本國を欧米列強から守ります

 横浜の港に、黒煙を吐く社船が戻ってきた。甲板には、空になった米俵や火薬箱が無造作に積まれている。かつて熊本の兵を支えたそれらは、いまやただの藁と木屑にすぎなかった。港に吹き込む潮風は冷たく、春を告げる季節でありながら、兵たちの胸にはまだ冬の影が残っていた。


 岸壁には整列した水兵たちが並び、荷を降ろす音だけが響いていた。俵が地面に落ちる鈍い音、鎖が軋む響き。それは勝利の凱旋ではなく、影の戦を終えた者たちの静かな帰還を告げる音であった。


 「……俺たちは、結局ただの荷運びだったな」

 若い水兵が肩を落とし、隣に並ぶ仲間に洩らした。


 「馬鹿言うな」

 年長の水兵がすぐさま言い返す。

 「お前が担いだ俵で、熊本の兵は飢えをしのいだんだ。銃を撃たずとも、戦は支えられた」


 「だが、歴史に名は残らん。陸軍ばかりが語られる」

 「名を残すために務めたのか? 国を支えるためじゃろう」


 言葉を重ねるごとに、周囲の水兵たちも耳を傾け始めた。ある者は悔しさに拳を握り、ある者はうなずきながらも沈黙していた。


 そのやりとりを聞きながら、川村純義は岸壁に立っていた。海軍卿としてこの戦を政府軍の参軍として指揮したが、心に去来するのは勝利の実感ではなかった。戦わずして支えるという役割の重さと、陸軍に比べて海軍が軽んじられる現実。その狭間で揺れる兵たちの思いを、彼自身も痛いほど理解していた。


 「戦とは、刀や銃を振るうことばかりではない」

 川村は声を張り、水兵たちに言った。

 「兵站を繋ぐこともまた戦じゃ。俵ひとつ、箱ひとつが国を動かす」


 水兵たちは顔を上げた。だが胸の奥に燻る悔しさは消えなかった。


 そのとき、一人の伝令が駆け込んできた。足音は石畳を打ち、息は荒く、声は震えていた。

 「報――! 西郷隆盛、城山にて自刃!」


 港にざわめきが走った。誰もが手を止め、互いの顔を見合った。

 「ついに落ちたか……」

 「西郷どんが……」

 「薩摩はどうなるんじゃろう」


 鹿児島出身の水兵は膝をつき、俵を落とした。目を覆い、声にならぬ呻きを洩らす者もいた。


 川村はゆっくりと目を閉じ、深い息を吐いた。胸に残るのは同郷の英雄を失った痛みと、国を支えねばならぬ責務の重さだった。


 従道はただ黙って報を聞いた。表情は石のように動かず、視線は遠くに投げられていた。若い士官が恐る恐る声をかけた。

 「大輔殿……いまのお気持ちは」


 従道は振り返らず、短く答えた。

 「わしは公務に殉じた。それだけじゃ」


 その言葉は冷たく響いた。だが、誰も言い返せなかった。兄を討つ側に立ち、その最期の報を受け止める重さを、誰も量ることができなかったからだ。


 沈黙の中で、鎖の軋む音と波のざわめきだけが響いた。兵たちは互いに言葉を交わすこともできず、ただ従道の背中を見つめた。そこには涙も怒りもなく、ただ公務に殉ずる覚悟だけがあった。


 「兄上の無念。愚弟の私が受け継ぎます。必ず日本國を欧米列強から守ります」

 ――従道の姿は、そう語っているように見えた。


 報せの余韻は、港に重く垂れ込めていた。西郷隆盛の自刃――その一言は、誰の胸にも深い影を落とした。荷を降ろす手は鈍り、鎖の軋む音すらどこか湿りを帯びて響いた。


 若い水兵が拳を震わせながら呟いた。

 「俺たち、結局は一度も銃を撃たなんだ。歴史に残るのは陸軍ばかりで、海軍の名など影も形も残らん」


 すぐさま別の水兵が怒鳴り返す。

 「黙れ! お前の担いだ俵が兵の命を繋いだんだぞ。戦に立たずとも、俺たちは確かに国を支えた!」


 「だが、名誉も勲章もない!」

 「名誉が欲しくて務めたのか? 国を守るためだろうが!」


 二人の言葉はぶつかり合い、周囲の兵たちもざわめいた。悔しさと誇りがせめぎ合い、港の空気は張り詰めた弦のように震えた。


 若い士官がその間に立ち、声を上げた。

 「落ち着け! 確かに我らは戦場に立たなんだ。だが、熊本城は落ちておらぬ。なぜか分かるか。兵が飢えず、銃が弾を失わずに済んだからだ。俵ひとつ、弾薬箱ひとつ――それが勝敗を分けたのだ!」


 しかし水兵の一人が吐き捨てるように言った。

 「それでも、誰も俺たちのことなど覚えちゃおらん」


 その言葉を聞き、川村純義は一歩前に出た。大きな声ではなかった。だが、港のざわめきを圧する力があった。

 「覚えられずとも構わん。影の務めを笑う者は、国の重さを知らぬ者じゃ」


 川村の眼光が鋭く光った。

 「黙れ! 戦を支えたのは誰か。お前らの手だ! 俵を担ぎ、波に揺れる甲板で銃弾を守ったのは誰だ! 海を渡る米ひとつで兵の命は繋がった。そのことを軽んじる者は、二度とこの海を踏む資格はない!」


 叱咤の声に、水兵たちは肩を震わせた。ある者は悔し涙を拭い、ある者は拳を固く握りしめた。誰も反論しなかった。港を吹き抜ける風の中で、ただ川村の言葉が胸に響いた。


 その場に従道も立っていた。兄を失った痛みは計り知れぬ。だが、彼は一言も発さず、ただ遠い海を見つめていた。その沈黙は雄弁であった。兵たちはその背に、情を押し殺して公務に殉ずる覚悟を見た。


 若い士官がそっと声を洩らした。

 「大輔殿……兄君を討つことになっても、なお務めを貫かれるのか」


 従道はわずかに目を伏せ、しかし答えなかった。拳を握る指先が白くなるだけであった。その沈黙が、何よりも重く響いた。


 夕陽が港を朱に染めた。水面に揺れる光は船体を照らし、影を長く引いた。戦場の銃声は遠くで消え、ここには波の音と鎖の軋みだけが残った。


 西南戦争は陸軍の戦いとして記録されるだろう。だが、この港に立つ者たちは知っていた。――戦わずして支える戦があったことを。


 川村は静かに振り返り、兵たちに告げた。

 「悔しさは残ろう。じゃどん、この悔しさが、やがて海を護る力となる」


 水兵たちは沈黙のまま敬礼した。誰も声を発さなかったが、その胸の奥には同じ誓いが宿っていた。


 こうして海軍は「影の戦」を終えた。だがその影は、未来に押し寄せる大きな波を支える礎となっていった。


 そして、世界の近代化の流れはさらに加速していく。


 やがて日本を取り囲む欧米列強は、

 ――この小国を無視できぬ存在、時に危険な国とさえ見なすようになっていった。

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