10話 ならば、わしが立ちもす。ただし忘るな。この戦は義の道ぞ。利を求める戦ではなか
明治九年の秋。薩摩の空気は澱み、町には重苦しい影が垂れ込めていた。廃刀令によって刀を奪われ、禄を絶たれた士族たちは、日々を押し潰されるように生きていた。かつて床の間に誇らしく飾られていた古刀は、いまや錆びた鉄の塊にすぎず、誰も手を伸ばすことはなかった。
「これでは武士も骨なしじゃ」
ある若者が吐き捨てるように言えば、隣にいた者が頷いた。
「西郷どんがおられるから、まだ生きておれる。でなけりゃ、とうに死んでおった」
士族の不満は、鹿児島城下のはずれに建つ一つの学舎に吸い寄せられていた。私学校――西郷隆盛が都を去り、郷里に戻って設けた学び舎である。擦り切れた畳、隙間風の通る板戸。だがそこに集った若者たちの眼差しは炎のように燃えていた。
「西郷どんがいる限り、我らはまだ見捨てられちょらん」
そんな声が町中に広がり、日ごとに私学校の門をくぐる者は増えていった。
その中心に座していたのが西郷隆盛だった。巨岩のように沈黙し、ただ膝に手を置いて動かぬ。征韓論で意見を退けられた無念は胸の奥に沈めたまま、政を去った身である。だが静けさを求めた郷里でも、人々は彼を離さなかった。
ある夕暮れ、学舎に一つの噂が飛び込んだ。
「政府が武器庫を接収するらしいぞ」
若者たちは顔を見合わせ、たちまち騒ぎ立った。
「武器を取られる? 俺たちに何を残すつもりか!」
「西郷どんを潰すつもりじゃ!」
町に怒号が広がり、武器庫の周りには人が群がりはじめた。
その夜、私学校の畳の間には腹心たちが集まった。燭台の炎がゆらめき、四人の影が壁に大きく伸びる。
桐野利秋が真っ先に口を開いた。
「西郷どん! このまま黙っちょったら、奴らに武器を持って行かれもす。刀も銃も奪われたら、士族は骨なしも同じごわす!」
篠原国幹が拳を膝に打ちつける。
「殿! 禄を絶たれ、刀を取られ、今また武器まで失うとあれば、薩摩隼人の魂はどこに残りもす!」
村田新八は眉をひそめ、静かに諫めた。
「町の衆はすでに騒ぎ立てちょります。『西郷どんが立つ』と信じ、皆が心を寄せております。されど、このままではただの乱になり申す」
別府晋介が低い声で言った。
「殿が立たぬとあれば、我らが立ちます。じゃどん、殿の旗なくしては皆はまとまらん。どうか……」
彼らの言葉を、西郷はただ黙して聞いていた。巨体は動かず、膝の上の手がわずかに震える。
桐野が痺れを切らして叫んだ。
「殿、答えてくだされ! 黙ったままでは皆が散り散りになりもす!」
だが西郷は顔を上げず、ただ深く息を吐いた。その沈黙が、かえって座敷を圧した。
外では、群衆の声が波のように押し寄せていた。
「これ以上、奪わせるな!」
「西郷どんを守れ!」
「武器まで取られては犬も同じじゃ!」
声の中には女や子供の声も混じっていた。
「父上、刀を返して!」
「西郷さぁ、見捨てんでくいやんせ!」
その叫びは、畳の間にいる者たちの胸を震わせた。
夜風が畳の間を抜け、炎を揺らした。外の怒声はますます強くなる。
「武器まで取られては犬も同じじゃ!」
「西郷どんを見捨てんでくいやんせ!」
「立ってくだされ、殿!」
女の泣き声も混じり、子供の高い声が震えを帯びて響いた。
桐野利秋が立ち上がり、畳を踏み鳴らす。
「殿! 聞こえちょりますか。外では民が殿にすがって叫んじょります。殿が立たねば、あの声はただの嘆きに終わりもす!」
篠原国幹が負けじと声を張った。
「薩摩隼人がこれ以上辱めを受けて、黙っておれますか! 殿が立たぬなら、この篠原、命を投げ打っても戦います!」
村田新八は両手を膝につき、必死に諫める。
「殿、このままでは乱にございます。血が流れれば、民は塗炭の苦しみを味わいます。……されど、皆は殿を旗と仰いでおります。殿が声を発せねば、道は混乱しか残りませぬ」
別府晋介は一歩進み出て、低くしかし重く言った。
「殿が立たぬなら、我らが立ちます。けれども……薩摩は殿の旗なくしてまとまりませぬ。どうか……どうかお応えくだされ」
四人の声が重なり、座敷は熱気で満ちた。だが中央に座す西郷は、巨岩のように動かぬ。灯の影に沈むその顔は硬く、拳は膝の上でわずかに震えていた。
「殿、答えてくだされ!」
桐野が叫ぶ。
「もう一言でよか。立つか、立たぬか、それだけでよか!」
長い沈黙が座敷を覆った。炎の音すら聞こえぬほどの静けさ。外の怒声すら、一瞬遠のいたように感じられた。
やがて、西郷が低く、重く口を開いた。
「……わしは争いを望まん。政を去ったのも、そのためでごわす」
その言葉に、桐野の目が見開かれ、篠原が思わず拳を握った。
しかし西郷は続けた。
「じゃどん、民の声を背けることもできん。民が義を叫び、誇りを取り戻そうとするなら、わしはその先頭に立たねばならん」
座敷の空気が震えた。桐野は拳を畳に叩きつけた。
「殿……よう言うてくだされた!」
篠原は大声で泣き笑いした。
「これでこそ薩摩隼人の大将じゃ!」
村田は深く頭を垂れ、別府は唇を噛みしめて震えていた。
西郷は立ち上がり、巨躯を障子に映した。影が大きく揺れ、外の群衆がざわめきを止めた。
「ならば、わしが立ちもす。ただし忘るな。この戦は義の道ぞ。利を求める戦ではなか」
その声は座敷を突き抜け、外に集まる群衆の胸へと届いた。
「西郷どんが立ったぞ!」
「殿が旗を掲げられた!」
怒号は歓声に変わり、夜の町を揺るがした。女たちは涙を拭い、子供は父の背を追って駆け出した。老いた者は「これが薩摩の終わりか」と嘆きながらも、その声に胸を震わせた。
西郷は深く息を吸い、静かに言った。
「この身ひとつで背負う。民のため、義のために進む」
その宣言が夜気を震わせた時、薩摩はすでに戦の入口に立っていた。




