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誰も知らない冷蔵庫

作者: 闇男

## 第一章 新居


真っ白な冷蔵庫の扉に、黄色い付箋が一枚貼られていた。


「牛乳を買う」


そう書かれた文字は、明らかに私の筆跡ではなかった。


新築のマンションに引っ越してきたのは三日前のことだった。妻の美咲と二人で選んだこの部屋は、陽当たりも良く、キッチンも広々としていて理想的だった。冷蔵庫は引越し業者が設置していったものの、電源を入れたのは昨日の夜だった。


「美咲、このメモ書いた?」


リビングでテレビを見ていた妻に声をかけた。美咲は振り返ると、不思議そうな顔をした。


「メモ?何のこと?」


「冷蔵庫に貼ってある付箋。牛乳を買うって書いてある」


美咲は立ち上がり、キッチンまでやってきた。付箋を見ると、首をかしげた。


「私じゃないよ。あなたが書いたんでしょ?」


「僕の字じゃない。見れば分かるでしょ」


確かに、私の字はもっと乱雑で、美咲の字はもっと丸みを帯びている。この付箋の文字は、どちらとも違う、几帳面で角ばった文字だった。


「おかしいわね。引越し業者の人が冗談で貼ったのかしら?」


美咲はそう言って付箋を剥がしたが、私には妙に気になった。なぜ「牛乳を買う」なのか。我が家は普段、豆乳を飲んでいる。牛乳を買うことなど、ここ数年なかった。


その夜、眠りにつく前にもう一度冷蔵庫を確認したが、何も貼られていなかった。きっと美咲の言う通り、引越し業者の悪戯だったのだろう。


翌朝、目を覚ました私は、まず冷蔵庫を確認した。


また付箋が貼られていた。


今度は水色の付箋で、「卵が足りない」と書かれていた。昨夜と同じ几帳面な文字で。


「美咲!」


私は妻を起こした。美咲は眠そうな目をこすりながら、キッチンにやってきた。


「また付箋が貼ってある」


「え?でも昨日剥がしたでしょ?」


美咲は付箋を見て、首をひねった。


「これも私の字じゃないし、あなたの字でもない。一体誰が...」


その時、ふと思い出した。この部屋の前の住人のことを、不動産屋は詳しく教えてくれなかった。「個人的な事情で急に引っ越された」と、曖昧に説明されただけだった。


「前の住人が置いていった付箋じゃないかな」


美咲にそう言うと、彼女は困ったような顔をした。


「でも、どうして今になって出てくるの?冷蔵庫の中を空にして、掃除もしたのに」


確かにその通りだった。引越しの際、冷蔵庫の中も外も念入りに掃除をした。付箋が隠れているような場所はなかった。


その日の午後、我々は近所のスーパーに買い物に出かけた。無意識のうちに、牛乳と卵を買い物カゴに入れていた。


## 第二章 増える付箋


付箋は毎日現れるようになった。


「パンを切らしています」

「醤油の残りが少ない」

「野菜室を整理してください」


どれも家事に関する内容で、几帳面な文字で書かれていた。不思議なことに、付箋に書かれた内容は的確だった。パンは確かに切らしかけていたし、醤油も残り少なかった。野菜室も、引越しの荷解きで乱雑になっていた。


美咲は最初のうちこそ気味悪がっていたが、次第に慣れてしまったようだった。


「案外便利じゃない?忘れっぽい私たちには助かるわ」


そう言って笑う美咲を見ながら、私だけが不安を募らせていた。誰かが我が家を見張っているのではないか。そんな疑念が頭を離れなかった。


マンションの管理人に相談してみたが、「そんな話は聞いたことがない」と言われた。前の住人についても、「ごく普通の方でした」と教えてくれるだけだった。


付箋の文字を筆跡鑑定に出すことも考えたが、美咲に笑われた。


「そんな大げさな。きっと合理的な説明があるはずよ」


ある夜、私は冷蔵庫の前で張り込みをすることにした。リビングのソファから冷蔵庫が見える位置に座り、一晩中見張った。しかし、何も起こらなかった。


翌朝、冷蔵庫には新しい付箋が貼られていた。


「夜更かしは体に良くありません」


その文字を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。誰かが私を見ていたのだ。


「美咲、これはもう警察に相談すべきだ」


しかし美咲は首を振った。


「証拠がないでしょ?付箋だけで警察が動くと思う?それに、被害を受けているわけでもないし」


確かにその通りだった。付箋は邪魔をするわけでもなく、むしろ生活の助けになっていた。しかし、得体の知れない恐怖は日に日に大きくなっていった。


## 第三章 隣人


ある日、エレベーターで隣の部屋の住人と一緒になった。五十代半ばの男性で、いつも無愛想だった。


「お隣の田中です」


私が挨拶すると、田中さんは少し驚いたような顔をした。


「ああ、新しく入られた方ですね。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」


思いのほか丁寧な口調だった。エレベーターが三階で止まると、田中さんが降りた。


「お困りのことがあれば、何なりと」


そう言い残して、田中さんは去っていった。


その夜、冷蔵庫に新しい付箋が貼られていた。


「隣人を信用してはいけません」


私は愕然とした。まるで昼間の出来事を見ていたかのような内容だった。


翌日、田中さんの部屋を訪ねることにした。呼び鈴を押すと、田中さんが出てきた。


「昨日はありがとうございました。実は、ちょっとお聞きしたいことが」


田中さんは快く招き入れてくれた。部屋は質素だが、清潔に保たれていた。


「前にお住まいの方のことを、覚えていらっしゃいますか?」


田中さんの表情が急に曇った。


「ああ、山田さんですね。とても几帳面な方でした」


几帳面。付箋の文字を思い出した。


「どのような方だったんですか?」


「一人暮らしの中年女性でした。看護師をされていて、夜勤も多かったようです。とても面倒見の良い方で、よく近所の方の体調を気にかけていらっしゃいました」


「なぜ引っ越されたんでしょう?」


田中さんは少し躊躇してから答えた。


「病気をされたんです。入院が長引いて、部屋を引き払うことになったと聞きました」


「今はどちらに?」


「それが...」


田中さんは言いにくそうに口ごもった。


「亡くなられたんです。退院することなく、病院で」


私は言葉を失った。付箋を書いていたのは、もう亡くなった人だったのか。


「いつ頃のことですか?」


「三ヶ月ほど前です。あなた方が入居される直前でした」


部屋に戻ると、美咲が心配そうに迎えてくれた。田中さんから聞いた話をすると、美咲の顔が青ざめた。


「それじゃあ、付箋を書いているのは...」


私たちは同時に冷蔵庫を見た。新しい付箋が貼られていた。


「私のことを忘れないでください」


## 第四章 山田春子


翌日、私は市役所に向かった。死亡届の記録を調べてもらうと、確かに山田春子という女性が三ヶ月前に亡くなっていた。享年五十二歳。死因は膵臓癌だった。


住民票の履歴を見ると、山田さんは十五年間、我が家と同じ部屋に住んでいた。家族はおらず、身元引受人は遠縁の親戚だった。


近所の病院にも足を運んだ。山田さんを担当していた医師に話を聞くことができた。


「とても責任感の強い方でした。病気が進行してからも、患者さんのことを心配されていました。最期まで、誰かの世話をしたいと仰っていました」


医師の話を聞きながら、付箋の内容を思い返した。どれも誰かの世話を焼くような内容だった。


帰宅すると、冷蔵庫に新しい付箋が貼られていた。


「私の部屋で幸せに暮らしてください」


その夜、美咲と話し合った。


「引っ越そうか」


私が提案すると、美咲は首を振った。


「山田さんは私たちを傷つけようとしているわけじゃない。むしろ、世話をしてくれているんでしょ?」


確かにその通りだった。付箋の内容は、常に我々の生活を良くしようとするものだった。


「でも、気味が悪いよ」


「最初はそう思ったけど、今は違う。山田さんは寂しいのよ。十五年も住んだ部屋を離れて、誰にも看取られずに亡くなって」


美咲の目に涙が浮かんでいた。


「私たちが山田さんを受け入れれば、きっと成仏できるわ」


その夜、私たちは冷蔵庫の前に花を供えた。


「山田さん、いつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします」


美咲がそう呟くと、部屋の空気が暖かくなったような気がした。


翌朝、冷蔵庫には新しい付箋が貼られていた。


「ありがとうございます」


それ以来、付箋の内容が変わった。買い物の提案ではなく、日々の暮らしへの温かいメッセージが書かれるようになった。


「今日は良い天気ですね」

「お疲れ様でした」

「お風邪など召しませんように」


## 第五章 新たな住人


半年が過ぎ、私たちは山田さんとの共同生活に慣れていた。朝起きると冷蔵庫の付箋を確認するのが日課になった。山田さんのメッセージは、我々の心の支えにさえなっていた。


ある日、美咲が嬉しそうに報告してくれた。


「妊娠したの」


私は飛び上がって喜んだ。ずっと子供が欲しいと思っていたのだ。


翌朝、冷蔵庫の付箋には「おめでとうございます」と書かれていた。山田さんも一緒に喜んでくれているようだった。


妊娠が進むにつれ、付箋の内容も変わった。


「葉酸を摂取してください」

「無理をしてはいけません」

「体を冷やさないように」


まるで看護師だった山田さんが、美咲の健康を管理してくれているようだった。実際、山田さんのアドバイスに従っていると、美咲の体調は良好だった。


ある夜、美咲のお腹が大きくなってきた頃、付箋に変化があった。


「赤ちゃんが心配です」


翌日、産婦人科で検診を受けると、医師が深刻な顔をした。


「胎児の心拍が少し不安定です。念のため入院していただきましょう」


山田さんが危険を察知してくれたのだ。お陰で早期発見となり、適切な治療を受けることができた。


入院中、私は毎日冷蔵庫を確認した。


「美咲さんは大丈夫です」

「赤ちゃんも元気です」

「安心してください」


山田さんのメッセージに、どれほど励まされたか分からない。


## 第六章 出産


美咲は無事に男の子を出産した。健康で元気な赤ちゃんだった。退院の日、冷蔵庫には嬉しそうな付箋が貼られていた。


「おかえりなさい」


赤ちゃんが家にやってくると、付箋の内容はさらに細やかになった。


「授乳の時間です」

「おむつを替えてください」

「赤ちゃんが泣いています」


まるで二十四時間体制で赤ちゃんを見守ってくれているようだった。夜中に赤ちゃんが泣き出す前に、付箋で知らせてくれることもあった。


「山田さんがいてくれて本当に助かる」


美咲はそう言って、毎日冷蔵庫に向かって感謝の言葉を述べていた。


ある日、赤ちゃんが高熱を出した。慌てて病院に連れて行くと、医師が首をかしげた。


「熱はありますが、他の症状がありません。念のため検査しましょう」


検査の結果、軽い風邪だった。しかし、その夜の付箋には意外なことが書かれていた。


「もう少し様子を見た方が良いです」


翌日、再び病院に行くと、医師が驚いた顔をした。


「昨日は見落としていました。中耳炎を起こしています。よく気付かれましたね」


山田さんの判断は正しかった。看護師だった経験が、今でも私たちを助けてくれているのだ。


## 第七章 成長


息子の太郎が歩き始める頃、付箋の内容も変化した。


「危険な物は手の届かないところに」

「階段にゲートを付けてください」

「誤飲に注意」


山田さんは太郎の成長を見守り、常に安全を考えてくれていた。


太郎が言葉を話すようになると、不思議なことが起こった。太郎がキッチンを指差して「ばーば」と言うのだ。


「ばーば、ばーば」


太郎は冷蔵庫の方を見ながら、嬉しそうに手を振った。まるで誰かが見えているかのようだった。


「太郎には山田さんが見えるのかもしれない」


美咲がそう言うと、私もそんな気がした。純粋な子供の目には、大人には見えないものが見えるのかもしれない。


ある日、太郎が熱を出して寝込んでいると、冷蔵庫の付箋に書かれていた。


「太郎君の側にいてあげてください」


その夜、太郎の枕元に座っていると、太郎が寝言で「ばーば、ありがとう」と呟いた。きっと山田さんが、太郎の夢の中に現れてくれたのだろう。


## 第八章 山田さんの過去


太郎が三歳になった頃、管理人から意外な話を聞いた。


「山田さんには昔、お子さんがいらっしゃったんです」


私は驚いた。田中さんからは一人暮らしだと聞いていた。


「十年ほど前に、交通事故で亡くなられました。三歳の男の子でした。それから山田さんは一人になられたんです」


太郎と同じ年齢だった。それで山田さんは、太郎を特別に気にかけてくれるのかもしれない。


その夜、冷蔵庫の付箋には珍しく長い文章が書かれていた。


「太郎君を見ていると、昔の息子を思い出します。あの子も太郎君のように元気な子でした。太郎君には幸せになってほしいです」


私たちは山田さんの気持ちを理解した。山田さんは失った息子の面影を太郎に重ね、母親として愛情を注いでくれているのだ。


## 第九章 危機


太郎が四歳になったある日、事件が起こった。太郎が高い熱を出し、痙攣を起こしたのだ。急いで救急車を呼んだが、病院に向かう途中で太郎の容態が急変した。


「危険な状態です」


医師の言葉に、私たちは絶望的な気持ちになった。


その時、私の携帯電話に美咲からメッセージが届いた。


「冷蔵庫を見て」


病院から一時的に家に戻ると、冷蔵庫には普段より大きな付箋が貼られていた。


「○○病院の△△先生に相談してください。必ず治ります。諦めないで」


○○病院は隣県にある小児専門病院だった。△△先生について調べると、小児神経科の権威だった。


私たちは太郎を○○病院に転院させた。△△先生の診断は的確で、適切な治療により太郎の容態は急速に回復した。


「よく気付かれましたね。この病気は専門医でないと見落としがちなんです」


△△先生はそう言って、太郎の回復を喜んでくれた。


山田さんが太郎の命を救ってくれたのだ。


## 第十章 別れ


太郎が小学校に入学した春、付箋の内容が変わった。


「そろそろお別れの時です」


私たちは動揺した。山田さんがいなくなってしまうのか。


「まだいてください」


美咲は冷蔵庫に向かって懇願した。しかし、翌日の付箋には冷静な文章が書かれていた。


「私がいては太郎君の成長に良くありません。自立を学ぶ時期です」


確かに、太郎は何でも山田さんに頼ろうとする傾向があった。困ったことがあると、冷蔵庫を見て「ばーば」と呼ぶのだ。


「私は太郎君をずっと見守っています。でも、もう手助けはしません」


それが山田さんからの最後のメッセージだった。


翌日から、付箋は現れなくなった。


## 第十一章 新しい生活


最初の数日は、付箋がないことに違和感を覚えた。朝起きて冷蔵庫を確認するのが習慣になっていたからだ。


太郎も「ばーば」がいないことを寂しがった。しかし、次第に自分で考えて行動するようになった。


転んで怪我をした時も、以前なら冷蔵庫を見て「ばーば」と泣いていたが、今は自分で絆創膏を貼ろうとした。


「太郎、偉いね」


美咲が褒めると、太郎は得意げに胸を張った。


私たちも、山田さんに頼らずに生活することに慣れていった。買い物の計画も、太郎の健康管理も、自分たちで考えるようになった。


ある日、太郎が学校から帰ってくると、嬉しそうに報告してくれた。


「今日、転んだお友達を保健室に連れて行ったよ」


きっと山田さんの優しさが、太郎にも受け継がれているのだろう。


## 第十二章 記憶


太郎が中学生になった頃、ふとしたきっかけで山田さんのことを思い出すことがあった。


太郎が風邪をひいた時、以前なら山田さんが付箋で指示してくれていたことを思い出した。今は自分たちで判断しなければならない。


「山田さんがいてくれた時は楽だったね」


美咲がそう言うと、太郎が首をかしげた。


「ばーばって誰?」


太郎は山田さんのことを忘れていた。それも当然で、まだ幼い頃の記憶だったからだ。


私たちは太郎に山田さんのことを話してあげた。


「太郎が小さい頃、この家にはもう一人家族がいたんだよ」


太郎は興味深そうに聞いていた。


「それで、その人は今どこにいるの?」


「きっと、太郎を遠くから見守ってくれているよ」


その夜、久しぶりに冷蔵庫を確認した。もちろん、付箋は貼られていなかった。しかし、冷蔵庫の前に立っていると、暖かい気持ちになった。


## 第十三章 高校受験


太郎が高校受験を控えた冬、私たちは不安でいっぱいだった。太郎の成績は悪くなかったが、志望校の倍率が高かったからだ。


受験の前日、太郎は緊張でなかなか眠れなかった。


「大丈夫かな」


太郎が不安そうに呟くと、美咲が優しく背中をさすった。


「きっと大丈夫よ。太郎は今まで頑張ってきたんだから」


その時、ふと冷蔵庫を見た。もちろん付箋はない。しかし、なぜか山田さんの声が聞こえたような気がした。


「太郎君なら大丈夫」


翌日、太郎は無事に受験を終えた。合格発表の日、太郎の番号を見つけた時の喜びは忘れられない。


その夜、家族三人で合格を祝った。ふと、四人で祝っているような錯覚を覚えた。きっと山田さんも一緒に喜んでくれているのだろう。


## 第十四章 大学進学


太郎が大学に進学することになった。下宿先を探していると、太郎が意外なことを言った。


「看護学部に進みたい」


私たちは驚いた。太郎は理系だったが、医療系に興味を示したことはなかった。


「なぜ看護師に?」


「人の役に立ちたいんだ。困っている人を助けたい」


その時、山田さんのことを思い出した。山田さんも看護師として、多くの人を助けてきた。太郎の中に、山田さんの精神が受け継がれているのかもしれない。


太郎が家を出る日、私たちは寂しい気持ちでいっぱいだった。十八年間、この家で育ってきた太郎が巣立っていく。


「時々は帰ってくるんだよ」


美咲が涙ぐみながら言うと、太郎は照れながら頷いた。


太郎を見送った後、私たちは冷蔵庫の前に立った。長い間、この冷蔵庫が我が家の中心だった。山田さんとの思い出が詰まった場所だった。


## 第十五章 変化


太郎が家を出て、私たちは二人きりの生活に戻った。静かな家で、改めて山田さんのことを思い出すことが多くなった。


ある日、古い写真を整理していると、引越し当初の写真が出てきた。まだ若い私たちが、新居で笑っている写真だった。


「懐かしいね」


美咲がそう言いながら写真を見つめていた。


「あの頃は山田さんのことで騒いでいたね」


「最初は怖かったけど、今思えば温かい思い出よ」


その時、玄関のチャイムが鳴った。宅配便かと思って出てみると、見知らぬ女性が立っていた。


「こんにちは。山田と申します」


私は驚いた。まさか、あの山田さんが?


「山田春子の姪にあたります。叔母がこちらにお世話になったと聞いて」


女性は丁寧に挨拶をしてくれた。


「叔母の遺品を整理していて、この部屋のことが日記に書かれていました。とても大切にしていた場所だったようで」


私たちは女性を家に招き入れ、山田さんとの思い出を話した。女性は涙を流しながら聞いてくれた。


「叔母らしいです。最期まで誰かの世話をしたいと思っていました」


女性は山田さんの写真を見せてくれた。優しそうな笑顔の女性だった。


「叔母も、きっと喜んでいます」


## 第十六章 太郎の結婚


太郎が看護師になって五年が経った頃、結婚の報告をしてくれた。相手は同じ病院で働く看護師の女性だった。


「彼女も太郎と同じように、困っている人を助けたいと思っている人なんです」


太郎の婚約者の恵子さんは、温和で優しい女性だった。太郎を支える良いパートナーになりそうだった。


結婚式の日、私たちは感慨深い気持ちでいっぱいだった。太郎が立派な大人になり、人生のパートナーを見つけた。


式の途中、ふと山田さんのことを思い出した。きっと山田さんも、太郎の成長を喜んでくれているだろう。


披露宴で太郎がスピーチをした。


「僕を育ててくれた両親と、見守ってくれたすべての人に感謝します」


その言葉を聞きながら、私は確信した。太郎の中に山田さんの愛情が生き続けている。


## 第十七章 孫の誕生


太郎夫婦に子供が生まれた。女の子で、桜子と名付けられた。


初めて桜子を抱いた時、太郎の赤ちゃん時代を思い出した。あの頃、山田さんがどれほど太郎を愛してくれたか。


桜子は健康で元気な赤ちゃんだった。太郎と恵子さんが大切に育てていた。


ある日、桜子を我が家に連れてきた時、不思議なことが起こった。桜子がキッチンの方を見て、じっと手を伸ばしたのだ。


「何を見ているのかしら」


恵子さんが首をかしげると、太郎が笑って答えた。


「きっと、ばーばが見えるんだよ」


その時、私たちは全員で冷蔵庫を見た。もちろん何も見えない。しかし、確かに誰かがそこにいるような気がした。


## 第十八章 桜子の成長


桜子が歩き始める頃、太郎から相談を受けた。


「桜子がよく冷蔵庫の前で手を振っているんです。まるで誰かに向かって」


私たちは太郎に山田さんのことを詳しく話した。太郎は驚きながらも、納得しているようだった。


「それで僕は看護師になったのかもしれませんね」


太郎の言葉に、私たちは頷いた。山田さんの影響は、確実に太郎に受け継がれていた。


桜子が言葉を話すようになると、やはり「ばーば」と言うようになった。太郎と同じだった。


「桜子にも山田さんが見えるのかもしれない」


美咲がそう言うと、桜子は嬉しそうに手をたたいた。


## 第十九章 時の流れ


年月が流れ、私たちも年を取った。太郎は病院で看護師長になり、桜子は小学生になった。


この家で過ごした歳月を振り返ると、山田さんとの思い出が蘇る。最初は恐れていた付箋も、今では懐かしい思い出だ。


ある日、桜子が学校から帰ってくると、興味深い話をしてくれた。


「お友達のお母さんが病気になったの。でも、きっと良くなるよって言ったら、本当に良くなったの」


桜子の中にも、山田さんの優しさが受け継がれているようだった。


その夜、久しぶりに冷蔵庫の前で手を合わせた。


「山田さん、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」


風もないのに、カーテンが揺れたような気がした。


## 第二十章 新たな住人


私たちが七十歳を過ぎた頃、体力の衰えを感じるようになった。大きなマンションでの生活が負担になってきた。


太郎と相談した結果、老人ホームに入ることを決めた。長年住んだ家を離れるのは寂しかったが、仕方がなかった。


引越しの準備をしていると、新しい住人が決まったという連絡があった。若い夫婦で、もうすぐ赤ちゃんが生まれる予定だという。


「山田さんは喜んでくれるでしょうね」


美咲がそう言うと、私も同感だった。山田さんは新しい家族を温かく迎えてくれるだろう。


引越しの日、最後に冷蔵庫を確認した。長い間、付箋が貼られた場所だった。何も貼られていない白い扉が、かえって新鮮に見えた。


「山田さん、新しい家族をよろしくお願いします」


そう呟いてから、私たちは家を後にした。


## エピローグ 永遠の絆


老人ホームに入って三年が経った。太郎は相変わらず忙しく働き、桜子は中学生になった。


ある日、太郎が面白い話をしてくれた。


「前の家の新しい住人から連絡があったんです。冷蔵庫に付箋が貼られるようになったって」


私たちは顔を見合わせて笑った。山田さんは新しい家族の世話を始めたのだ。


「最初は怖がっていたそうですが、今では感謝しているそうです」


きっと山田さんは、新しい家族にも同じような愛情を注いでくれているのだろう。


桜子も高校生になり、将来の夢を語るようになった。


「私も看護師になりたい」


その言葉を聞いた時、山田さんの想いが次の世代にも受け継がれていることを実感した。


私たちの人生で、山田さんとの出会いは特別な意味を持っていた。最初は恐怖を感じた付箋も、今では愛情の証だったと分かる。


見えない存在でも、確かにそこにいる。愛情は形を変えて、永遠に続いていく。


山田さんは今でも、どこかで誰かの世話をしているのだろう。そして、私たちもいつか、誰かを見守る存在になるのかもしれない。


冷蔵庫に貼られた付箋から始まった物語は、今も続いている。愛情という名の絆で結ばれた、見えない家族の物語が。


「山田さん、ありがとう」


私たちの感謝の気持ちは、きっと山田さんに届いているはずだ。そして、これからも新しい家族に、温かい愛情を届けてくれるだろう。


誰も知らないはずのメモが教えてくれたのは、愛情に終わりはないということだった。死を超えて、時を超えて、愛情は永遠に続いていく。


そして今日も、どこかの冷蔵庫に新しい付箋が貼られているのかもしれない。見知らぬ誰かの幸せを願って、温かい言葉とともに。

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