09 橋上のデッドエンド
■8月3日-②
僕は絵里のアパートを飛び出した。
自分でもべたべたな行動だなとあきれ果てている。こんなことをしても多少の気が紛れるだけで、絵里と山田の関係になんら影響が出るわけじゃない。そんなことはわかってる。
あてもなく夜の街をさまよって、夜風で顔の火照りが収まったころ、僕は橋の上から那珂川を眺めていた。涼しい風が少しだけ頭を冷やしてくれる。
絵里は当然に僕を選ぶだろうと思っていたけれど、今にして思えば僕はなぜそんな確信を持っていたんだろう。絵里には僕以外いないと思っていたんだ。
一体僕は、絵里の何を知っていたのだろう。
高校の頃もほったらかしだったし、マリが来るついこないだまでだって、こっちは絵里のことを忘れかけていたというのに。
僕の一番身近な女性は、いつの間にか茜になっていた。絵里の判断に文句を言うなんて、勝手な話なのだ。そんなことはわかっているけれど、それでも割り切れないものを感じていた。
ふと、茜に電話してみようかと思いついた。
思いついたというより、それくらいしか取れる行動がなかったというほうが正しいかもしれない。なにせ自分でもどうしたらいいのかわからないんだから。
アパートには帰れないし、どこかへ行くには夜も遅いし。一応財布は持っているけれど、たいした額は入っていない。
絵里が近所に引っ越してきたことが、今はほとほと恨めしかった。
数回のコールのあと、茜の元気な声が聞こえてきた。
「あ、祐樹? どしたのよこんな時間に。今日はあの子の歓迎会じゃなかったの?」
「そうだよ。それでちょっと色々あって落ち込んでんの」
「もしかして、山田がなにかやらかした?」
「やらかしたってのはちょっと違うけど、まあそうかな。ねえ、山田のやつ、今日のことで何か言ってた?」
「何かってことはないけど、浮かれてたわね。そりゃもう、メジャーデビューでも決まったんじゃないかってくらいに」
なるほど。歓迎会を提案したのも山田だし、最初から心を決めてたんだろう。なんてことはない、僕は最初から負けていたんだ。
「よくわかんないけど、何かあったんでしょ? うち来る?」
「ん、いいの?」
「別にいいよ。親はもう寝てるから、家の前に来たら電話して」
茜のうちは大学の反対側だ。歩いて十五分くらいだろうか。
茜は僕や山田と違って実家暮らしだが、その割に自由にやっているようだ。本人は放任主義だって言ってたけど、僕のアパートに来た時もまめに親に連絡していたから、両親との仲は良好なんだろう。
言われた通り玄関の前で電話する。「ちょっと待ってて」と一言あったあと、受話器の向こうからパタパタと軽い足音が聞こえてくる。
足音はすぐにガチャガチャとやかましい金属音にかわり、カギが開く。
顔を出した茜は、ピンク色のパジャマ姿だった。
「いらっしゃい。――とりあえずあがる?」
「あ、うん」
茜の部屋には前も何度か来たことはあるけれど、さすがにこんな時間に二人きりというのは初めてだ。
部屋の中は彼女の単純な性格とは逆に、女の子らしいピンク色に染められている。本棚ひとつとっても、カエルだのピアノだのの小物のほうが、本よりも多いくらいだ。極めつけは、ソファに鎮座する巨大なアヒルのぬいぐるみ。今夜も相変わらず能天気な顔で僕を睨みつけている。
茜は散らばっている本を雑に積み上げながら「適当に座っていいよ」と言った。当然のようにチューハイの缶を手渡してくる。
いらないという僕に、茜は、「飲んだ方がいいって」と言うと、プルタブを開けてもう一度手渡してくる。
僕はまるで毒見するかのように、恐る恐る口に含む。
甘過ぎない柑橘の味が喉を通り抜ける。うまい。大丈夫だと判断して、さらに缶を傾ける。シュワシュワした感覚が炭酸によるものかアルコールによるものなのか、飲み慣れない僕にはわからないけど、冷たくてとても心地よかった。
「でさあ、聞いた方がいいの? 聞かない方がいいの?」
気を使った聞き方がありがたかった。僕はゆっくりとさっきまでのことを話した。さっきの告白のことから始まり、高校時代のことも。マリのこと以外、情けない心の内まで含めて、揺りかごから墓場までだ。
茜は黙って僕の話を聞いていた。チューハイの缶は空になっていただろうけれど、口は一言も挟まなかった。
僕が話し終わって、茜は言った。
「ふーん。それで、絵里さんが山田を選んだのにショック受けて、私に電話したんだ?」
身も蓋もない。うなだれて、ただ小さく首を縦にふるだけだ。
「そもそも祐樹さあ、絵里と付き合いたかったの? それならすでにくっついてたんじゃないの?」
「……ずっと友達だったんだ。そう簡単にいかないよ」
茜は少し考えた後、
「……まあ、そうかもね。簡単にいけば苦労しないよね」
と言った。
僕は茜の部屋からも逃げ出したくなっていた。僕の勇気のなさを、茜に見透かされている気がして。
「ちょっと真面目過ぎるのよ、祐樹は」
「真面目?」
「そ、真面目。彼女をあっさり山田に取られてショックだったのはわかるけどさ、絵里さんの一言にどれだけ意味があるってのよ?」
「意味? だって、絵里は山田の告白にOKしたんだぜ? これ以上ない決意表明じゃないか」
「んー、でもさ、まだ一言「うん」って言っただけでしょ? デートしたわけでもないし、その――、エッチしたわけでもないし。これから仲良くやっていきましょっていう、単なる確認じゃない。だいたい皆、私だってそうだけどさ、普段からそこまで深く考えて喋ってなんかいないわけよ。山田から言われました。よく理解できてないけど、とりあえず「うん」って言いました。それもあり得る話なんじゃないの? 明日になったらやっぱりごめんなさいってことだってあるかもしれないよ? いつも小説ばっかり読んでるから、額面通り受け取るクセが付きすぎてんのよ。言葉なんて気持ちと一緒、あっさり変わるんだから、信じ過ぎたら損するわよ」
ぐうの音も出なかった。言葉があっさりと変わる、か。そんなこと考えもしなかった。
もう少し僕が恋愛慣れしていたら、少しは違ったのかもしれない。だからといって今の不安が消えたとも思えないけど。
「でも言葉を、――言葉にするからこそ、行動につながるものじゃない?」
「そのへんはケースバイケースじゃないの? 口にした時点じゃ何とも言えないわよ。そのあと行動を重ねていくから、信じられるようになるんだって」
「行動?」
「そうそう、こういうの」
茜は僕が手に持っていた缶を取り上げ、テーブルの上に置く。そのまま僕の顔に唇を近づけ、そのままキスをした。
「やめてくれ」
一度は遮ろうとした僕の手を取り、茜は自分の胸に持っていった。頭がかっと熱くなって、何も考えられなくなる。
茜は言った。
「なんで? こないだ、ふたりで家にいるの見られてるじゃん。どうせ絵里さん、私らがもうやってるって思ってるよ」
「そんなものなの?」
「そんなものよ」




