06 夏への扉
■5月22日
時計を見ると一時間以上経っている。さすがに茜は逃げ出してくれただろう。
僕と絵里はアパートに戻ってきていた。祈りながら、恐る恐るアパートのドアを開ける。細く開いたドアから、玄関を覗く。
既に茜の靴はなかった。今日一番大きなため息が出た。もちろん、安堵のため息だ。
マリは楽しそうな声で言う。
「そんなに心配しなくても、何もしないって」
そうだ、僕の隣には未だにマリがいる。ジップロックに入った凶器を持ったままのマリが。
仕方ないじゃないか、夜の街に女の子一人ほったらかすわけにもいかないんだから。
テーブルに置きっぱなしだった携帯を確認すると、何度も着信があった。茜だろうな、どうやって言い訳したものかと頭を抱えて確認すると、相手は実家の母からだった。
留守電を聞いてみると、何てことはない。絵里がいなくなったからそっちに行ってないかという、確認の電話だった。
母さん、大当たりだよ。絵里はこっちに来てる。心配いらない、元気いっぱいだ。ただ、もう少し早めに教えて欲しかったな。
どっと肩が重たくなって、忘れていた疲れが押し寄せる。胃の奥がじくじく痛んでいる。
夜は十一時を過ぎていたが、事情が事情だ。連絡しないわけにもいかない。重たい指でボタンを押す。母さんに事情を説明したら、次は絵里のお母さんだ。といっても、僕が知っている事情なんて、火星に残る水跡程度のものだけど。
結局絵里は、今夜一晩僕のアパートに泊まることになった。どうせ明日は日曜日だ、予定なんて何もない。
おばさんの声が明るかったので、僕の心は少し軽くなった。絵里が見つかって安心できたこともあるんだろうけど、僕には、絵里が一人で遠出をしたこと自体を喜んでいたように思えた。
電話が終わるとマリは立ち上がり、台所に向かった。フライパンの中では生焼けのハンバーグが主人の帰りを待っていた。
コンロに火を入れる。すっかり冷めた肉塊が、ゆっくりと温まっていく。僕の恋心にもスイッチ一つで火がつくなら、こんな簡単なことはないのだが。
マリは自慢げに言った。
「料理は得意だと思うよ、ずっと家でお母さんの手伝いをしてたから」
「それは、どっちが手伝ってたのさ?」
どっちというのは、もちろんマリと絵里のことだ。意図が伝わっているのかいないのか、マリは質問には答えず、意味深に小さく笑っただけ。
温め直したハンバーグはなかなかの味だった。マリはまるで自分が作ったように自慢げにしていた。
「ね、美味しかったでしょ?」
「ほとんど僕が作ったんじゃないか」
「じゃ祐樹がクイーンで、私がポール・ロジャースってことね」
「そこまで褒められると悪い気はしないな」
「でしょ?」
食後に僕らは、交代でシャワーを浴びた。色気なんかくそくらえだ。ワンルームのアパートだ、脱衣所なんかない。近くのコンビニでマリを待ち、マリが呼びに来たら代わりに僕が浴びる。
僕が浴室から出ると、マリはアイスをかじりながらテレビに向かっていた。そそくさと着替えると、僕も冷凍庫からアイスを取り出す。
僕は聞いた。
「ねえ、絵里って今はどうしてるの?」
「わかんないよ。今度本人に聞いてみて」
「今じゃないんだ?」
「そ、今じゃない。今がいいの? 私といるのは、嫌になった?」
「嫌ってわけじゃないけどさ。絵里ともちょっとは話したいし」
そうだ、嫌じゃない。自分でも不思議だけど、その言葉に嘘はない。
……いや、特に不思議ではないか。なにせどちらも付き合いの長い親友なんだから。
他の人から見れば、今の状況をすんなり受け入れている僕のほうが変なのだろう。けれど、僕は絵里についてはむしろマリがいてくれた方が安心なんじゃないかとも思っている。茜のこともタイミングが悪かっただけで、マリに悪意があったわけじゃないんだ。
ただ、三人一緒に話せないのは少し寂しいな。
「祐樹ってお酒飲まないの?」
「ん? 今日は飲まないかな」
「ふふ、嘘だね。冷蔵庫には入ってなかったし。飲めないんでしょ?」
「いや、飲んだことないだけだし。嘘だってついてないだろ」
マリの言葉はいちいち僕の心をつついてくる。不快なわけじゃないけれど、いちいち昔のきれいな思い出を掘り返そうとしてくる。こういう気分はたぶん、中年以降になってから味わうべきものなのだ。
ふと思った。
「ダニエル・ブーン、なんだっけ?」
「夏への扉のことなら、確か――、デイヴィスかな」
「そっか」
「どうしたの? 急に」
子供の頃はなんとも思わなかったけど、少し大人になって読み返してから、ずっと疑問に思ってたことがあった。
ダニーの前に妙齢のリッキィが現れたとき、彼はどんな気持ちだったんだろう。
ダニーとリッキィは本来、親子ほどの年の差があったはずなんだ。いくら冷凍睡眠で年齢差が縮んだからと言って、意識までそう簡単に切り替えることができるんだろうか。
妹は妹で、娘は娘で。そういう関係って、すぐに変わっちゃうようなものなんだろうか。
急にダニーと自分が重なって、長年の疑問が解けたような気がした。
リッキィに結婚を申し込まれたとき、きっと彼は今の僕と同じようなくすぐったさを感じていたんだろうか。置いてきた子供のころの自分自身を、ちくちくとつつかれるような。
僕が説明すると、マリは冷めた様子で「ふーん」と返した。
「言いたいことはわかるよ。けどさ、胸のちくちくは若者の、青春の特権だわ。三十を過ぎたダニーが感じていいものじゃない」
「それはちょっと言い過ぎじゃない? 別に恋愛に年齢は関係ないと思うけどなあ」
「恋愛じゃなくて、青春ね。たぶん若かったのよ。ダニーがじゃなくて、ハインラインのほうが」
「もしかして、年齢差を気にしてるの?」
「もちろん。だって、若い女の子なんて恋に恋するもんじゃない。他の男に目もくれずに、生涯をダンに尽くしてるのよ。ちょっと都合良すぎじゃないかな?」
なるほど、そういう考え方もあるのか。男女の考え方の違いってやつなのかなあ。
マリが大きなあくびをしたから、僕はそこで話を打ち切った。
■5月23日
翌朝。僕が目を覚ますと、マリはすでに身支度を整えていた。テーブルにはトーストと目玉焼きまで用意して。
「あ、おはよう祐樹。私、もう行くね」
「あ、うん。早いね」
「また、来るね」
「え? うん」
マリは少しよそよそしく、僕の顔を見ようとしなかった。
寝ぼけていた僕だけど、そこでようやくわかった。
「もしかして、絵里?」
絵里は少しだけ迷ったようなそぶりを見せてから、小さく頷いた。
「いつから、絵里だったの?」
「えーと、起きてから、かな? びっくりしたよ、知らない部屋にいるから。でも、隣で祐樹が寝てたからすぐわかった。……マリちゃんでしょ、ここに来たのって」
少しだけ答えにつまった。本当のことを言うべきかどうなのか。ただ、隠したところでさほど意味がないこともわかっているし、絵里自身もわかっているようだった。
「心配しないでね。初めてじゃないから、こういうの。こんなに長い時間マリになってたのは、初めてかもしれないけど」
「あのさ、絵里――」
何を言おうとしていたのか、僕自身よくわからない。絵里には色々聞きたいことはあったけど、具体的な質問が浮かんでいたわけじゃない。きっと沈黙が怖かったから、とにかく言葉を続けたかっただけなんだろう。
どちらにせよ、絵里は僕の言葉を遮って出て行った。
「また、来るからね」
絵里は明るく笑っていた。その顔を見て「まあ、いいか」と安心できるくらいには。