05 夜景とミスゲシュタルト
■5月22日
連休ははるか遠くに過ぎ去って、僕は日常の忙しさに流されていた。
絵里とは結局それっきり。電話番号は交換したものの、何となくでそのままだ。
もちろんその日も、普段と変わらない日常とばかり思っていた。
携帯のランプが静かに点滅していた。着信を知らせる黄色のランプだ。
当の持ち主、つまり僕はというと、ちっとも気づかずに夕食の準備をしていた。もっとも、気づいていたとして、好ましい未来が選べたのかは別問題だけど。
「ねえ、まだできないのー?」
甘えたような声を出す女。大学でできた友達の茜だ。レポートの課題をちょっと手伝ってやってから、それからやけに絡んでくるようになった。
茜はテレビを見ながら、夕食の催促をしていた。
今夜作っているのはハンバーグ。一緒に作っているみそ汁は、帰郷前より少しだけ母の味に近づいた。
これは浮気になるのだろうか。いつも僕は疑問に思っている。別に絵里と(茜とも)恋人関係だという意識はないが、こればっかりは理屈ではないのだ。胸の奥に引っかかっている小骨の正体は、きっと罪悪感に違いない。
それでも茜の甘い誘いを断れるほどの強い意志は僕にはなく、きっと明日も明後日も、流されるままに過ごしていくのだろう。
絵里を思って胸がじくじく痛むときは、鴎外のことを考えることにしている。あんなお話を書いた彼だって、平成の今では偉人のカテゴリだ。彼に比べれば僕の方がずっと真摯に彼女たちに向き合っている。エピソードのどこまでが真実かは知らないが、あえて調べてみるつもりもない。真実を知らない限りは、彼はずっと僕のサンドバッグでいてくれるのだから。
ピンポーン
突然鳴ったインターホンに、僕は舌打ちをした。最初に頭に浮かんだのは、アホな男友達の山田だった。
家が近いせいで、帰り道によくうちに寄るのだ。頭の中に空き缶を詰めて生まれてきたような性格で、こういう時に邪魔しに来る間の悪さも含めて、少なくとも僕よりはずっとアホなやつだ。
「ったくもう、なんだよ」
文句を言いながらドアを開ける。のぞき穴なんか見もせずに、勢いよく全開だ。
僕は言葉を発する暇もなく、即座に凍り付く。
そこにいたのは、絵里だった。
「久しぶりね、祐樹。背、だいぶ伸びたのね」
「あ、……絵里。えっと、どしたの?」
暢気に料理をしていた台所は、急転直下で断頭台だ。脳ミソに必死で鞭を入れるが、積み上げた言葉は端からガラガラ崩れていく。猿にジェンガを組ませるほうがまだマシだ。
「誰ー? 山田が来たのー?」
奥から茜の声が聞こえてくる。絵里の顔に、何かを察したような薄い笑顔が浮かんだ。
絵里は言った。
「もしかして、彼女作っちゃったんだ? ダメじゃん祐樹、絵里がいるのに他の女の子と遊んでちゃ」
『絵里がいるのに』?
よく見ると違和感はあった。髪はまとめず降ろしているし、絵里のワンピース姿なんか見たこともない。それに何より、ワガママそうなその表情。
「もしかして、マリなの?」
絵里はただ、にんまりとした笑みを浮かべるだけだった。
話し声が聞こえたせいだろう、茜は立ち上がってこちらへやってくる。
僕と絵里を見比べると急に不機嫌そうな顔になり、一言ぶすりと先制攻撃だ。
「なに、祐樹、彼女いたの?」
恋愛経験が薄い僕にだって、ここに至って否定するのがどれだけ無駄なことかくらいはわかる。
冬眠明けの灰色熊じみた茜と、ペニー・ワイズのような微笑みを浮かべたマリと。僕は一体どちらの味方をすべきなんだろうか。
それでも一応、精いっぱい誠実なところを見せるなら、こんな言葉くらいしか思いつかない。
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「うそ。じゃあその子だれ?」
茜が食い気味に問い詰めてくる。思った通り、こいつはやはり僕の言葉なんか聞いちゃくれない。
茜が聞いているのはマリについてであって、マリ自身とは誓って恋人関係ではない。いや、絵里だとしても彼女じゃないんだけど。もっというと茜、君だってね。
「ねえ、マジで彼女なの? 地元の子?」
グリズリーが、本格的に威嚇行為を始めようとしている。
情けなくおろおろする僕は、助けを求めてマリに視線を送る。「大丈夫だよ」と言うようにマリはゆっくりとほほ笑むと、持っていたトートバッグに手を突っ込む。
ごそごそとあさった後、取り出したのは、ジップロックに入った包丁だった。
「一応持ってきてみたの。あんまり恋愛小説って読まないんだけどね、こういうのが効果あるってのは知ってるわ。準備いいでしょ?」
マリの言葉は落ち着いていた。何なら少し得意げに、気が利く自分を褒めて欲しそうにすら思えた。
マリはそれを、茜の顔の高さまで持ち上げる。透明なポリエチレンの袋は、明確に敵意を透過させていた。
は?
ちょっと待ってくれ。それは洒落じゃすまない。
喉が貼り付いて声が出ない。体の芯から石膏で固められたように、動けなかった。
「ねえ、ちょっと、それ何よ? 何するつもり?」
茜の声も引きつっている。背後で彼女が後ずさるのを感じた。
僕はマリから目が離せなかった。いざという時にはとびかかってでも止めなければ。
このアパートが一階でよかった、茜には、できることならすぐに窓からでも逃げ出して欲しいんだけど。無理だろうな。
頭は未だ働いていないが、吞まれている場合でもない。僕は素足にスニーカーをひっかけて、とにかくアパートから離れようと、マリの腕を引っ張りながら歩きだした。
僕はマリの腕を引っ張って、あてもなく歩き続けた。とりあえずアパートから離れようと必死だった。ようやく立ち止まったのは、素足で蒸れたスニーカーの気持ち悪さに気付いたころ。
「ねえ、どこまで行くの? そろそろ疲れてきたわ」
「落ち着いて話ができるところだよ」
「だからそれってどこ? すごいよねえ、どこ行っても人がいるとか、加志町じゃ考えらんないよ」
マリの言葉はもっともだ。憧れていた夜の街に、今は鬱陶しさしか感じない。
「ねえ、あれおっきいね。あの建物って何?」
観光気分なのか、マリは暢気にきょろきょろしている。
「キャナルシティだよ、でっかいショッピングモール」
「へえ、愛情省かと思った」
「窓はあるだろ」
「少ししかないじゃない」
「少しはあるだろ」
デートしたり別れたり、たまにはプロポーズの舞台になったりと、どうでもいい男女同士が時間をかけて変容していく場所だ。その意味なら確かに愛情省だろう。僕は悔しくなって、再び歩きだす。
「ねえ、さっきの女の子って、彼女なの?」
「いや、まだそこまでの関係じゃないよ。よく遊びには来るけど」
「ふーん。”まだ”ってことは、これから進展する予定なんだ?」
「知らないよ、そんなこと。……それより包丁なんか持ってきて、どうするつもりだったのさ?」
「私だって、恋愛もののドラマも見るんだよ。浮気相手にはあれが一番効くって言われたから、わざわざ準備してきたの。実際、役に立ったでしょ?」
マリは包丁のことを、邪魔な虫を追い払うハエ叩き程度にしか思っていなかった。茜のこともさほど気にしているようには見えない。
とはいえ、茜はもう僕には近づかないだろうな。次に大学で顔を合わせたとき、一体何て言われることやら。
横にマリがいるのに、頭の中でずっと別の女のことを考えている自分がちょっと意外だった。絵里よりも茜の方が身近な存在になってしまったということだろうか。
喉がイガイガして上手く喋れない。鼻の奥も詰まってるし、目の端だって曇ってきた。
自販機を見つけて財布を探すが、見つからない。代わりにマリが自販機に小銭を入れてくれた。ヴォルヴィックを取りだし、一気に喉を潤す。
「ねえ、あっちはどう? 人、いないと思うよ」
絵里が朱色の鳥居を指さした。地元のあれとは似ても似つかぬ、まったく別物の立派な神社だ。
静かな境内に入ると、神聖な空気がお出迎えだ。気温も数度下がったような気がした。
目についたのは、ぶすっと愛想の悪い牛の銅像。鼻先と角とが、やけに安っぽいペカペカの金色になっていた。きっと観光客に触られ過ぎたせいで、機嫌を損ねたのだろう。
適当なベンチに腰掛けると、僕は聞いた。
「君、マリ、だよね?」
「今更? そうよ、聞かなくてもわかるでしょ」
「そうだけど、一応確認しておかないとね。その……、帽子もかぶってないし」
クスクスと笑うマリに、僕は何をしに来たのかを聞いた。
マリは一言「別に」と答えただけだ。
梅雨前の生ぬるい風が吹いていた。木々に囲まれているのに漂ってくる排気ガスの酸っぱい香りは、現実の証しだ。
「何しに来たの?」
「祐樹を見張りに、かな」
「見張られるようなことはしてないよ」
「うそ、浮気してたじゃん」
マリはからからと笑っていた。からかっているというより、こちらの反応を面白がっているような。
僕は聞いた。
「どうしたいの? 僕を」
「んー、わかんない。どうしたいっていうよりは、助けて欲しいかな。もちろん私じゃなくて、絵里のことを。祐樹が離れて行っちゃって、ずっと一人で閉じこもってるんだよ。本当に死んじゃうかもしれないよ? 祐樹さあ、絵里が加志町を出たがってたのは知ってるでしょ。こないだも話してたし。でも、あの小さな高校ですら無理だったのに、うまくいくと思う?」
「うまくって、まだ一回失敗しただけだろ」
自分で喋っていて、何て薄っぺらいことを言っているんだろうと嫌になる。マリがどう思ったかはわからないが、どうせ響いてはいないだろう。
「そんなに器用にできるなら、最初から困ってないよ」
「それで、僕のところに来たわけだ。僕の社会的なつながりを犠牲にして、幸せになるんだね?」
「犠牲って、ひどいなあ。絵里はそんなこと思ってないよ。祐樹に迷惑かけるくらいなら、一人で閉じこもってると思う」
「じゃあ、なぜ――」
「違うわ。だからこそ、よ。絵里自身が無理なら、憎まれ役を引き受けるのは私しかいないじゃない」
これ以上大きな”大きなお世話”を、僕は未だかつて見たことがない。ダモクレスの包丁は、未だに僕の首にかかっている。
事態はかろうじて理解できたものの、女心の複雑さについてはとてもじゃなかった。
かつての絵里への恋心を思い出す。絵里のことは好きだったけれど、それはまだ子供の頃のことだ。どうすればいいかってのはわからない。
恋人として付き合うにしては、距離が離れすぎている。結婚はと言われても、まだ学生の身でそこまでの覚悟はない。
「そんなこと急に言われても、心の準備ができないよ」
「もしかして結婚とか考えた? まだそこまでの余裕はないから、大丈夫だよ。」
眉をひそめるマリ。あっさりとうぬぼれを見透かされて、ちょっと恥ずかしくなった。
「やっぱり迷惑だよね? でも、優しくしてあげてよ。絵里がこのまま死んじゃったら、私だって困るんだから」