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03 真夜中の加志町で

■5月1日

 ゴールデンウイーク初日。僕が実家に戻った理由は、単に暇を持て余していたからだ。

 短い大学生活でできた新しい友人たちは、帰郷やらバイトやらで忙しかった。休み中にやらなければならない課題なども特に無かった。

 数日間の食費を浮かせようといった浅い考えもあったけれど、それは言い訳でしかなく、初めての一人暮らしの寂しさに負けそうになっていただけなのかもしれない。


 電車が着いたのは、午後三時を少し回ったころ。懐かしの加志駅に降りると、ホームには笑顔の母が待っていた。本当は入場券が必要なのだが、過疎の無人駅にわざわざとがめる奴なんかいやしない。

 一か月というわずかな時間だったけれど、母の顔を見て「久しぶり」というべきか「ただいま」なのか、少し悩んで言葉に詰まってしまった。

「よう帰ってきたねえ、疲れちょらん?」

「たいしたことないよ。そもそもまだ一か月しか経ってないしさ」

 強がってはみたものの、実のところ疲れ果てていた。すぐにでも座り込んで靴下を脱ぎ捨てたいくらいだ。

 原因はというと、電車代を浮かせようと鈍行を選んでしまった自分にある。

 カバンの中にあるオスカー・ワイルドは、きっちり二周読み切った。かっこつけで選んだタイトルに後悔もしていた。

 首も肩もごりごりする。「時間をお金で買う」ということの意味を知った気がする。ついでに言うと、特急券をぽんと買うことができる親の(というか、大人の?)財布の大きさについても。

 けだし今までの十八年間で気づけなかったことをわずか一か月で学べるんだから、「一人暮らしはしておくべきだ」という母の言葉はまったくもって正解なのだろう。自分は果たして、ちゃんとした大人になれるのだろうか? 輝かしい未来を考えるとクラクラする。


 母の愛車であるダイハツ・タントで、懐かしいスーパーへと向かう。昔からよく買い物をしていた馴染みの店だ。夕食のリクエストを聞かれ、たいしたものはいらないと答える。

 母はずいぶん高めの肉を――この肉の値段がわかるようになったことも、一人暮らしの成果の一つである――買い物かごに入れていく。やはり親としては、久しぶりに帰ってきた息子に、良いものを食べさせねばという使命感があるのだろうか。

 中学校に上がったばかりの弟について話していた時だ。母が僕の腕を軽く叩いた。

「祐樹、絵里ちゃんがおるよ。久しぶりじゃろ、挨拶しちょきい」


 懐かしい顔がそこにあった。絵里もすぐに気付き、目が合う。

「久しぶりね、元気だった?」

「あ、久しぶり。まあ、普通かな」


「連絡くれないから、どこまで行ったのか心配してたのよ」

「どこまでって、福岡って前に言ったじゃん。連絡は、まあ、そうだね。ほっといてごめん。……今日は夕飯の買い物?」

「うん」

「えと、最近何してんの?」

「んー、特になにも。相変わらずよ」


 久しぶりに見る絵里の肌は、やけに白かった。五月とはいえ、九州の春はすでに暑い。絵里は疲れたような笑顔を浮かべた。僕はそれを愛想笑いだと判断する。

 僕は戸惑っていた。たった一か月離れていただけで、こんなにも話しづらくなるものなのだろうか。

 二人の言葉のちぐはぐさはまるで、へたくそが奏でる紫の煙(パープル・ヘイズ)のようだ。僕は無意識のうちにマリを探していた。落っことしてきたメロディラインは、おそらくマリなのだろう。今の僕には彼女の助けが必要だった。


 そのあともいくつか言葉を交わしたはずだけど、ろくに記憶には残っていない。いつまでこっちにいるのかとか、最近読んだ本の話だったりとか、当たり障りのない話だった。

 そんなことよりも僕の心を深くざわつかせたのは、別れ際の彼女の一言。「――じゃ、また明日ね」だった。



■5月2日

 翌朝。あれだけ疲れていたはずなのに、目覚まし時計を待たずに目が覚めていた。布団から首を伸ばし時計を見ると、朝の六時。眠気はすでに失せている。布団の中で何度か寝返りを打ったあと、母の作るみそ汁のいい匂いに気が付いた。

 えいやっと勢いをつけて起き上がる。台所の母に小さく「おはよ」というと、そのまま洗面台に向かい、顔を洗う。

「起きちょったんね、挨拶くらいしなさい」

「したよ、さっき」

「そう? 聞こえんかったよ」

 そんなやりとりをしながら、母はみそ汁をよそってくれた。

 白味噌の上品な味が染みわたる。具は豆腐と玉ねぎ、それとワカメと。

 辛みの中に甘みがあった。どうやって出せるのだろうと、僕は首をかしげる。ここ一か月で同じようにみそ汁を作ってみたのだが、どうやっても塩辛い味ばかり。だしの取り方がおかしいのだろうとにらんでいるが、あえてよく調べてはいない。ある程度自分でトライアンドエラーを繰り返してから調べるのが、子供のころからのやり方だから。


 食事を終えたあとは、本を読むふりをしながら悩んでいた。絵里に「また明日ね」と言われたものの、しっかりした待ち合わせなんかしていない。

 絵里は、僕が来るのを待っているのだろうか。それとも逆に、自分からうちに来るつもりだろうか。

 僕と絵里との仲だ、連絡なしで行ったとしても嫌がられるとは思わないけれど、一か月という時間が二人の間にガラスの壁を作っていた。

 僕は畳に横になると、携帯電話を手の中で転がしていた。絵里の番号は入っていない。買ってもらったのは福岡に行く二日前、絵里と番号をやりとりするタイミングはなかった。

 いや、それこそ言い訳だろう。彼女の自宅の番号くらい暗記している。適当に家に電話をして、こちらの番号を教えるだけのことなのだ。

 結局のところ遠ざけていただけなのだ。僕の方から、絵里のことを。


 父と母は仕事にでかけてしまい、家の中はがらんとしていた。なんとなくつけていたテレビは、お天気コーナーからペットコーナーに移っていく。憎たらしい顔の子犬たちが、視聴者に媚を売っている。

 静かな家で一人きりになった僕は、縁側でぼんやりと過ごしていた。エリザベス・ボーエンを手に、いろいろと考えてしまう脳みそを無理やり活字で埋めようとしていた。目は文字を追うものの、頭までは届いてこない。流れる空気は福岡よりも湿っており、懐かしい草の匂いが流れてくる。


 小さな足音がして、寝転んでいた僕は、顔を起こす。

 田んぼしかない風景の向こうから、絵里が歩いてくるのが見えた。

「おはよ、祐樹」

「あ、ああ。おはよ。……どしたん?」

「これ、回覧板持ってきたよ」

「ありがと。あがってく? 久しぶりだし、少し話しもしたいし」

「うん、私も」

 絵里は回覧板を居間のテーブルに置くと、僕の横にちょこんと座った。


 久しぶりに見る彼女は、やはりかわいかった。記憶にある通りの、昔の絵里のままだった。

 話自体は他愛もないものだった。最近何してたのだとか、大学ってどういう感じかとか。こういう自然な雰囲気でしゃべるのは、まるっと一年ぶりくらいだろうか。

 難しく考えすぎていたんだろうか。もともと問題とは、僕と絵里の間にあったわけではなかったのだ。もっと早くこうすべきだったんだ、本当に。

 今となっては悔やむしかない。


 ひとしきり話したあと、僕は飲み物も出していないことに気づいて、冷蔵庫からアップルジュースを出してくる。

「珍しいね、この家にジュースが用意してあるってさ」

 そういえばそうかもしれない。絵里の言葉に、子供時代を思い出す。あの頃の退屈な夏休みの日々だ。僕らがまだ子供のころ、冷蔵庫の中にあるのは麦茶くらいだった。そのころはそれが当たり前だった。

「弟君の? だったら勝手に飲んじゃうのは悪いわ」

「今いないし、また買っておけば大丈夫だよ」

「そうなんだ。どこに行ったん?」

「たぶん山だと思うよ。じいちゃんと一緒に」

「お手伝い? 偉いじゃん」

「いやー、手伝いってよりは、虫目当てなんじゃないかな。もう明るいからカブトムシはいないだろうけど、セミとかかな」

「セミかあ。懐かしいなあ。ねえ祐樹さあ、昔、セミで女の子を泣かせたことあったよね」

「え、そうだっけ」

 突然の絵里のセリフに、僕はどきりとする。身に覚えがなかったから。


「そんなことあったっけ?」

「あったよ。ほら、小学生のころに皆で神社の裏道を通ったときにさ、セミを見つけたのを覚えてない? 祐樹が一緒にいた子の麦藁帽子をぱっと取って、捕まえたの」

「小学校のころ? うーん、あったような気もするけど」

「でっかいアブラゼミ。でもその子、虫が苦手でさ、わんわん泣いちゃって困ったの」

 そこまで聞いても、記憶にはたどり着かなかった。

 大抵の思い出で、僕と絵里はセットになっていた。絵里が覚えているのなら、きっと僕もその場にいたのだろうけど、さっぱり思い出せなかった。

 思い当たるとすれば――、


(マリちゃんのこと?)喉の奥で引っかかった言葉は、結局出てこなかった。絵里が別の話を始めて、そのままになってしまった。


「ねえねえ、明日暇?」

「うん。明日というか、しばらく暇」

「じゃあさ、由布岳行かない?」

「は?」

 今日の絵里はずいぶん唐突で積極的だ。

「いいじゃん、免許こないだ取ったっしょ? 連れてってよ」

「えーと、いいけど、母さんに聞かないと、車を借りられるかわかんないよ? 運転も自信ないし」

「別にゆっくり走っていいよ。事故しても困るし。じゃ、また明日の朝に来るね」

「わかった。……頑張る」


 夕方、母が帰ってくるとすぐに、車が借りられないかと交渉してみた。母がいつも通勤に使っている、例のダイハツ・タントだ。

 使用許可はすんなり出た。幸い明日は車を使う用事はないそうだ。ただ、母の心配は止まらなかった。

「使うのはいいけど 運転は久しぶりやろ。やりかた覚えちょん? 道わかる?」

「大丈夫だって、ほっといてよ」

「だって、絵里ちゃんも行くんでしょ? もし何かあったら大変よ。携帯ちゃんと充電して行きいよ? あ、保険確認しといたからね。何かあったらここに電話しい」

 大丈夫とは言ったものの、実際のところ不安はいっぱいだった。考えてみれば卒業してから運転したのは数回だけで、いずれも母か父が隣に乗っていた。大人なしで(もちろん僕も絵里も成人してはいるけれど)路上に出るのは初めてのことだ。

「んー、じゃあ、ちょっと夕飯食べたら練習してくる」

「本当に大丈夫? 暗いからスピード出さんようにね。動物に気を付けるんよ」


 二時間後、僕はガレージにあるタントに向かい合っていた。

 教習所でもらった初心者マークは、ダッシュボードの中に入ったままだった。ボディの前後に貼り付けると、シートやミラーを合わせ、教習所の記憶を掘り起こす。

 キーをひねると、軽い音とともに車内に灯がともる。

 高校時代は何度もこの車で練習していたけれど、最後に運転したのは、ほんの一か月前だ。高鳴る心臓に気付かないふりをして、なんとかなるだろと声に出してみる。

 ゆっくりとブレーキから足を離す。 

 一度動き出してしまえば、動かすのはハンドルとアクセルとブレーキくらい。楽なもんだ。駐車や右折は緊張するけど、この時間ならそこまで苦でもない。他の車を気にしなくていいのは、田舎の数少ない利点ではある。

「運転なんて慣れだからね」

 ちょくちょくいろんな人に言われたセリフだ。親からはもちろん、大学の先輩からも聞いたし、なんなら同級生も言っていた。僕とほんの数か月しか変わらないやつらだ。


 少しずつスピードを出すと、だんだんと怖さも薄れてくる。

 道なりにあてもなく進み、コンビニに寄り、缶コーヒーをゲットする。寄ってきた羽虫を払いのけつつ背伸びをする。

 時刻は夜の十一時(イレブン・PM)

 思えば一人でこんな静かな場所にいるなんて、久しぶりかもしれない。高校生の時以来かな。

 そうだ、僕が孤独を見つけたのは、高校時代だった。夕飯後に部屋にこもって、少し遅くまで勉強するようになってからのことだ。

 夜の静けさと一人きりの心地よさを初めて知った。いろいろと考えるには一番向いた時間だった。

 今だけは、絵里を連れてこなくてよかったと思った。けれど、絵里がいたらいたで、どんな話をしていたんだろう。


 コーヒーを飲み終えて再び走る。次のコンビニを探して。ほどほどにしとけよと脳みその奥で声がしたが、素直に従うのはもったいない気がした。

 結局家に帰ってきたのは、日付が変わった後だった。

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