02 青空と二枚舌
■小学一年生の夏休み
マリが生まれたのは、絵里が小学一年生のころだ。
二人が育った大分県加志町は、山と田んぼに支配された、典型的な田舎町だ。灰白色のビルディングに出会いたいと思っても、子供の足では遠すぎる。
すでに時代は二十一世紀に移り変わっており、加志町の人々も少しずつ情報化社会の恩恵を受けては来たけれど、それはかえって格差を可視化しただけでもある。幸せかどうかというのは相対的な話であり、人々が我慢できたのは、単に外の世界を知らずにいたからだ。
加志小学校は小さな学校だ。一学年の人数は、十人いれば多いほう。そんな環境だったから、男女や学年に関係なく遊んでいたし、友達の兄弟たちともみんな顔見知りだった。
その頃の祐樹にとって一番の友達は、同級生の絵里だった。絵里は極度のインドア派で、暇さえあれば本を読んでいた。休み時間になるたびアガサ・クリスティだのカーター・ディクソンやらを取り出している彼女に、祐樹はひそかに憧れていた。
祐樹と絵里が仲が良かったのは、単純に家が近かったからだ。保育園のころから家族ぐるみの付き合いだ。学校で仲のよい友達は他にもいたが、田舎の学校の校区というやつは広いのだ。子供には気軽に遊びに行ける距離ではなく、特に夏休みともなると、自然と遊ぶ相手は限られてくる。
祐樹が子供時代に一番長い時間を共に過ごしたのは、家族を除くと間違いなく絵里だ。そして、次に長い時間を過ごしたのが、マリだった。
初めての夏休み。少年は、夏休みは退屈なものなのだと思い知る。目指すような荒野はなく、あるのはいつもの緑の牢獄。
朝の勉強を終わらせるとセミやカブトムシを探して山に入り、午後には川で泳いで過ごす。それはそれで楽しくないわけでもないのだが、一人だとどうやってもつまらない。
どうせ絵里も同じだろうと考えた祐樹は、川遊びに誘おうとして、彼女の家を訪れた。
農道を走り、水路を飛びこし、いつものように裏口の植木の間から庭に入ると、縁側をのぞく。
声をかけようとして祐樹は、そこで止まった。絵里が誰かと話している。
首を回して回りを見たが、どう見ても絵里しかいない。
不思議に思い、絵里に尋ねる。
「誰と話てるん?」
「マリちゃんだよ」
「マリちゃん?」
「そう、マリちゃん」
知らない名前だった。祐樹のクラスには、そんな名前の友達はいない。
「どこにいるのさ」
「ここにいることにしてるの」
「え?」
あまり聞かない言い回しに、祐樹は混乱する。
困っている祐樹を見て、絵里は笑う。
「私ね、友達作ったの。マリちゃん。白いワンピース着てて、麦藁帽子かぶってて、背も高いの」
絵里はよいしょっと背伸びをして、手をヒトの形になぞる。そして祐樹に、マリのことを熱心に説明した。見た目だけでなく、趣味や性格、言葉遣いも。
なんてことの無い子供の空想だった。長期休みで遊び相手のいない絵里は、どうすればいいかをずっと考える。そして思いついたのが、マリという友達がいるかのようにふるまうこと。
年齢相応の頭脳しか持たない祐樹には、そのときの絵里の説明がよく理解できない。何かよくわからないが、絵里が言うならそうなんだろう。そんな程度の認識で、些細ないたずらに加担する。
■高校生活
劇的に環境が変わったのは、高校に進学してからだ。友情はもう少し強いものだと思っていた子供時代。
入学してすぐに、初めてのクラス分けがあった。もともと絵里は、休み時間まで席で本を読んでいるようなおとなしい性格の子だ。あげくに今までの十五年間は、ほとんど人の入れ替わりの無い環境で育っている。見知らぬ同級生との付き合い方なんて、学ぶ機会はなかった。
それでもまだ一年目はよかった。絵里が本格的に追い詰められてしまったのは、二年生になってからのことだ。絵里のおとなしい性格が、悪いほうに傾いてしまう。新しくできあがったクラスのグループにうまく溶け込めず、いじめに発展してしまったのだ。
今にして思えばだが、祐樹の存在が逆に悪かったのかもしれない。絵里がクラスでうまくいっていないことはわかっていた。わかっていたから、気を付けていたつもりだった。ただ、女の子たちのグループになじめない状態で、男友達とばかり話していたらどうなるか。そのあたりにもう少し考えが及べば、もう少し違った結果になったかもしれない。
ある日の夕食後。祐樹はテレビで、親をハンターに殺された猿のドキュメンタリーを見ていた。人間に保護されて育てられたはいいけれど、山に放された後はいいとこなし。既存の群れに入れずに、最終的には逃げるように、一匹で別の地を求めて旅立っていった。人間に育てられると人間の臭いってやつが邪魔をして、うまく野生のグループに溶け込めなくなるらしい。
なんてことはない、人間も猿も、同じ動物だということだ。
何を言ったってもう遅い。善意でしたことが必ずしもいい結果になるわけではないし、祐樹がそれを学ぶ前の話なんだから、仕方がない。
せめてもの救いと言えば、卒業式に絵里が出席できたことくらいだろうか。
受験の空気がクラスでだんだん濃くなって、だれもが他人にかまっている余裕なんてなくなってきたころ。授業が少なくなって、学校にくるやつらも減ってきたころ。そのあたりから、絵里は少しずつ元通りになっていった。
卒業式で絵里は、久しぶりに笑っていた。昔から見慣れた笑顔だった。その横では絵里のお母さんが泣いていた。まるで二人分の涙を引き受けているような勢いで。
祐樹は自分の親とどんな会話をしたかもあいまいなのに、その時の二人の様子だけは、はっきりと頭に染みついている。
後ろめたい気持ちでいっぱいだった。進学を決めた夏のころからだろうか、もう一人の”僕”が「お前は絵里を見捨てたんだ」とずっと囁き続けている。ふとしたときに現れて、胸の奥をぐじぐじと小さな針で突いている。
やっとこれで終わるのだという、安心感も含んでいたのだろうか。
そして祐樹は、マリのことを忘れかけていた。
四月には祐樹は家を出て、福岡で暮らすことになる。大学進学のためだ。特に勉強したいことがあったわけではない。社会に飛び込んでいく勇気が出ずに、時間稼ぎからの選択だ。
絵里と祐樹が離れ離れになるのは、これが初めてのことだった。一人暮らしの不安はもちろんあるけれど、祐樹にとっては絵里と離れ離れになることのほうがはるかに大きな意味を持っていた。
マリにとってはどうだったのだろうか。それがわかる人なんてどこにもいない。