10 エピゴーネン
■8月3日-③
「俺、帰るわ」
山田が言った。少し寂しそうに。
山田は最初から、絵里に告白を受け入れてもらえるとは思っていなかった。何も言わずに困り顔を見せるか、「ごめん」と控えめに断られるか。とにかく、それで笑い合って終わりだと思っていた。
ただ、胸に秘めた気持ちをそのまま押さえておくことはできなかったし、自分の告白で祐樹がどう思うかくらいは考えていた。だからこそ、祐樹がいる前で、あのタイミングで思いを話すことにしたのだ。
なぜ絵里にここまで惹かれたのか彼自身わからない。けれど恋というものはそんなものだと、自身では納得していた。
「帰るの?」
絵里は言った。
彼女の寂しそうな表情がどこから来たのか、山田には判断がつかなかった。自分に向けられたものであればいいと願っているものの、素直に喜べるほど楽観的でもない。
きっと絵里は、一人で部屋に残されるのが寂しいだけだ。そうに決まっている。
ちらつく祐樹の顔を振り払いつつも、歓迎会をぶち壊したことだけは謝らないといけないと思っていた。
「絵里ちゃん、ごめん。今夜は帰るけど、また連絡するよ」
山田は立ち上がって、玄関に向かう。
帰りたくはなかった。祐樹のことは気になるが、せっかく絵里と二人きりになる機会をふいにするには、勇気が必要だった。あらためて「帰る」と言葉にしたのは、口にしないとこの場を去る決心がつかないからだ。
もう一度、絵里は言った。
「へえ、本当に帰るんだ」
たった一言が山田の不安を掻き立てた。山田はびくりとして動きを止めた。思わず振り向いて、声の出どころを確認した。
部屋にいるのは絵里一人だけ。当たり前だ、今日はずっと三人きりだったんだから。
絵里の声はもっとふんわりとして柔らかいはずなのに、今の声はまるでコードAmだ。
よせばいいのに、山田は聞いてしまう。
「今の、絵里ちゃんだよね?」
「うふふ。なんでそんなこと聞くの?」
絵里は笑っていた。記憶にある優しい笑顔ではなく、こちらの心を値踏みするような乾いた笑いだった。
山田は急に空恐ろしくなる。部屋の中の温度が急に下がったような気がする。
山田はついこないだの茜との会話を思い出す。歓迎会をすると言った山田を、茜は信じられないと言った顔をしていた
「本当だって。あの子、包丁持ってきてたのよ。止めときなって」
「大丈夫だって。俺、重い女好きだし」
「バッカじゃないの。私、止めたからね。刺されても知らないわよ」
おそらく、いや確実に、茜が言ったのはこのことだろう。
絵里は、猫をかぶっている。なんのために? バカな問いだ。祐樹のために決まっている。
違う、それは誰のためにだ。なんのために? なんのために猫をかぶって、そして自分の前でその仮面を脱いだのか。
山田自身アホなりに、自分が断崖絶壁に立っていることに気が付いた。ようやく。この期に及んで。
「なんでこんなことを言い出したか、不思議なんでしょう? 私のこと、誰かから聞いてない?」
山田は何も言わず、ただ首を横に振る。
絵里は少しほほ笑むと言葉を続ける。
「山田くんってさ、自分が何のために存在するかなんてこと、考えたことある?」
山田は少し考える。山田だって普通の学生だ。頭の中で能力バトルを繰り広げたり、都合のいい女に告られたり、その程度の妄想は朝飯前だ。当然それくらい、何度だって考えてきている。
自身の存在意義、アイデンティティ、人生の目的。自分なりの答えも持っている。
少し考えたのは、それをそのまま話して良いものかどうかを悩んだからだ。
山田は自分の不器用さを思い知っている。どうやればうまくいくか迷った時には、大抵がどうやってもうまくいかないのだ。
自分なりに、一番ましなやりかたを選ぶ。つまり、素直に吐き出すのだ。
「……ない。そういう問いはたまに聞くけど、人間みんな生まれたから生まれただけで、そこに意味なんか無いよ」
「そうだよね。ほとんどの人がそうなんだろうと思う。でも、意味がないと存在できない人もいるんだよ、きっと」
「どういうことさ?」
ぼんやりとしか聞けなかった。簡単にだが、祐樹から絵里のことは聞いている。彼女の過去に踏み込んで良いものか悩んでいた。いや、踏み込む勇気が持てなかった。
「何もなかったの。私には何も。成長もないし、学習もない。変化は――、少しはあったかな。二人が勉強して、恋愛して、そういえば免許だって取ってたよね。そういうの全部、私は置いてけぼりなの。一人取り残されるの。この辛さがわかるかしら?」
辛いというわりには、絵里の声は明るかった。混乱と拍子抜けとが頭の中を流れていく。まるでルーシー・イン・ザ・スカイのように。
山田は棒立ちのまま、絵里の言葉を聞いていた。言っていることは理解できるが、それはそれとして、なぜ自分にこんな話をするかはさっぱりわからないままに。
黙ったままの山田に、絵里は次の質問をした。
「オーウェルって人の本は、読んだことある?」
「オーウェル?」
「そ。1984。フィリップ・K・ディックでもいいわ」
「ええと、1943ならわかる」
山田は友達の家で遊んだ古いゲームのことを思い出した。あまりにも的外れな答えだが、お互いにすれ違いには気づかないまま。
「1943? そんなタイトルのシリーズもあったのかしら。まあいいわ。あのね、思考は、検閲できないのよ。私はその隙間に生きているの」
絵里の言葉は、山田の頭に疑問符を増やすだけだった。
「なんで俺にこんな話を? その……、祐樹じゃなくて、俺に?」
絵里はにやりと笑った。
「あのね、私、なりふり構わない人って結構好きだよ」
絵里はにやりと笑った。ああ、この笑い方は茜に似ているなと、山田は感じた。
「それ、俺のこと?」
「他に誰かいるのかしら?」
「いないね、確かに。ごめん、あんまり女性から好きって言われたことねえからさ。信じられなくて」
「本気で好きにならないと、好きになんかなってもらえないのよ。手を伸ばすくらいじゃ全然足りないんだってさ」
なるほど、身につまされる言葉だ。恋人が欲しいと思ったことはあっても、この女性が欲しいと思ったことが自分にはあっただろうか。
おそらく茜が見透かしていたのも、そんなところなんだろう。
冷や水を浴びせられて、少しずつ現実感が戻ってくる。
山田は、もう一度口にする。
「じゃ俺、帰るわ」
「うん。わかった、またね」
今度は絵里も引き留めなかった。立ち上がりもしなかったし、手も降らなかった。
ドアが閉まるまで、静かに山田を見つめ続けていた。




