01 新緑のジェイルハウス・ロック
■小学二年生の夏
「車線変更でふらつくようなドライバーにはなりたくない」
祐樹は言う。およそ小学生二年生には似つかわしくないセリフだ。
絵里はいつものように、手に持った小説から目も離さずに返事をする。
「徘徊老人みたいに?」
「そうだよ、去年死んだひいばあちゃんみたいな」
祐樹が遊んでいるのは、保育園の時から使っている運転席を模したおもちゃだ。
大きなハンドルの横に、カラフルなスイッチがついているやつだ。カチカチと鳴るはずのウインカーの電池は、残念ながらとっくに切れている。そろそろ彼とさよならする日が近づいている。
祐樹たちの住んでいる大分県加志町は、小さな田舎町だ。ティム・ロビンスだって出られやしない、緑の牢獄だった。
祐樹はまだ小学二年生だが、それでも知っている。わかっている。加志町とテレビの向こうの都会とは、地続きであることを。学校へ行く途中にある山田さんちのピカピカのN-BOXは、目の前に広がる山々の向こう側からやってきたことを。
せっかくの夏休みも、二人にとっては退屈な日々の積み重ねでしかなかった。
友達の家は遠く、気軽に遊びに行けやしない。アニメやゲームに出てくるようなイベントなんて存在しない。
つまらないわけではないけれど、どうしても飽きは来てしまう。変化は自分で探すしかないのだ。約一か月続く4分33秒は、子供には長すぎた。
「ねえ、その本って面白いの?」
「つまんないってわかってるなら、読んでないわ」
「一人で遊ぶよりはつまんなくなくない?」
絵里は小さいため息をつく。
「その言い方、嫌い」
相変わらず、目は本から動かさないままで。
「マリと遊んで来ようかな」
「マリちゃんよ、ちゃんとちゃんを付けてくれない?」
このころ、まだマリには所有権が存在していた。
マリはまだ正しい意味で陰であり、彼らの遊び道具の一つであった。
「じゃあ、”マリちゃん”と遊んでくる」
その言葉を聞き、ようやく絵里はまともに顔を上げる。
「外、行くの?」
「うん。一緒に行く?」
「……うーん、そうする」
絵里はにっと笑顔で返事をした。祐樹とともに外へ飛び出す。行先は家の裏山だ。
身軽な子供たちの足には、山道なんてあってないようなものだ。急な斜面でも足さえかかれば、どこからでも登っていく。
山に行って何があるわけでもないけれど、何かがあるかもしれないという気分には浸ることができる。子供たちにとっては、それこそが一番重要なことなのだ。
祐樹は足元に注意しながら、ずんずんと歩いていく。時折立ち止まり、辺りを見渡す。
しばらくすると何かを見つけて、絵里とマリを呼ぶ。
「見つけたよ、たぶん猪だな」
ハート型にえぐれた地面を、祐樹は指さす。
獣の足跡だった。鹿か猪か、本当のところは祐樹にはわからない。ただ、知ったかぶりで大きな顔ができるのは、絵里があまり外に出ないからだ。
「あっちかな」
祐樹が木々の間を指さした。ぽつりぽつりと、獣が通った痕跡がある。
「行ってみる?」
絵里が振り向き、マリに聞く。マリは、にっこり笑って頷いた。
「マリ、なんて?」
「だから、”マリちゃん”って言ってよ。マリちゃんも行ってみたいって! 早く探そ」
絵里も笑った。マリとは違って、顔全体をくしゃっとゆがめる笑顔だった。
二人が探しているのは、鹿や猪だ。田舎とはいえ、野生の獣が昼間に姿を見せることはそうそうない。だからこそ探す価値も出る。山は出入り自由な動物園であり、鹿の角はトライセラトップスの化石と同義だ。見つけたら学校のヒーローだ。
二人とも山育ちで野生動物の危険については親から叩きこまれているが、草むらに潜む蛇と比べて、出会ったことのない猪の脅威なんてピンとこない。
今の二人にとって、最大の恐怖はお化けと宇宙人だ。奴らの生息地は、本の中や画面の向こう側だ。マリの存在も、このころまではまだ、そいつらと似たようなものだった。
■小学六年生の秋
時は過ぎて、二人は少しだけ大人に近づいた。子供にとっての四年間は、大人には想像できないほどの密度が詰まっている。ただそのことを、ほとんどの大人たちは忘れている。
記憶だって、延々と紫外線にさらされるうちにもろくなる。大人たちは常に、自分が人生の秋にいるということを心に留めておくべきなのだ。
六年生になり、祐樹と絵里にも分別がついてきた。二人はマリの存在を隠している。大人たちと、大人のふりをし始めた友人たちに。
読書好きだったのが幸いしたのか、祐樹と絵里は周りの子供たちよりも少しだけ賢しかった。マリのことを他人が知ったらどう思うかくらいは理解していた。
その日は秋祭りだった。
出店の屋台は、消防団員の青年たちを中心に、地域の大人たちが持ち回りで担当している。
祐樹は思う。毎年恒例のこのお祭りは、この先いつまで続けられるのだろうかと。未来は誰にもわからない。だが少なくとも、今年は祭りをやっている。それで十分だし、それが精いっぱいだ。
県道から脇にそれた細い道、軽トラ一台が通るのがやっとの道の先に、目的地の神社がある。
神社まではもう少しあるが、耳を澄ますと祭囃子が聞こえてくる。
絵里は歩きながら、かねてからの疑問を口にする。
「なんで祭りには祭囃子なのかしら。定番なのはいいけど、ちょっと古臭すぎるわ。どうせCDで流してるだけなんだから、イエスでもELPでも流してくれたらいいのに」
「たまに演奏するからじゃないの? 神社の奥の倉庫に笛とか太鼓とかあったしさ。あ、佐藤の兄ちゃんならバンドやってたらしいから、何か弾けるかも」
「それならそれで、スパイダーでも弾き語ってればいいんだわ」
――「スピッツなんて歌ったって、じじばばあたちにはわかんないだろ? てかお前ら、イエスなんてよく知ってるな」
まさにその、”佐藤の兄ちゃん”が後ろから話しかけてくる。危なかった。祐樹は胸をなでおろす。思わずマリに話しかけるところだったから。
佐藤の兄ちゃんは祭り用の法被を着て、玉ねぎの絵の描かれた段ボール箱を抱えている。
祐樹は聞く。
「何してんの?」
「今ここで、祭りの準備以外にやることがあるか? お前ら子供たちのために色々食い物を作ってやるんだよ」
「ねえ、この音楽なんとかならない? 辛気臭くて涙が出るわ」
「演歌とか民謡が好きなばあさんだって多いんだよ。もし多数決が気に入らねえってんなら、文句の行先はギリシャ人だ。いいな?」
話しながら歩いているうちに、神社の石段にたどりつく。短い石段だが、車社会と狐世界を区切るための大切な門だ。
境内にはすでにいくつもの店が構えてあった。佐藤の兄ちゃんが抱えた箱をテーブルに置くと、ガチャガチャンと大きな金属音が響いた。そのまま乱暴に中身を取り出し、忙しそうに調理に入る。
ポン菓子の看板の横で、井上のじいさんが機械の準備をしていた。その隣では大きな鉄板でお好み焼きが焼かれている。
「爺ちゃん、砂糖多めに入れてくれない?」
「ああ? 入れすぎると焦ぐるぞ」
「それでもいいよ、カリカリになったやつがうまいもん」
「私も、カリカリのやつが好きだわ」
「んー、まあいいけどの。どうせお前らのために作っちょんのだし」
手ぬぐいで浅黒い顔をぐいっとぬぐい、井上のじいさんは笑う。
「ありがとう」
「先にお好み焼き食べて来いちゃ。二つでええやろ? 取っちょいちゃん」
「三つよ」
「二つで十分やろ」
「どうせ私たちのために作ってんでしょ? いいじゃん、三つちょうだいよ」
「二つで十分やろ。まあええけどなあ」
やりとりを聞きながら、祐樹は先週の夜にやっていた映画を思い出した。絵里も同じのを見たそうだ。もちろん、マリも。
三つ目のポン菓子は、もちろんマリのだ。後で三人でいただくつもりだ。
老人たちはずっと野球の話をしながらお好み焼きを焼いている。大分には(というか、九州には)ホークス以外に球団はないので、自然とホークスファンが増える。子供たちにとってはテレビの時間を奪う忌々しい存在でしかないのだが。
「ねえ、何が面白いのかなあ、野球って」
「さあね。あと半世紀くらい生きてみたら、興味もわくのかしら?」
ため息をつく絵里に、井上のじいさんは言った。
「なんだ絵里ちゃん、野球見ないのか?」
絵里は少し考える。
「ヤンキースとジョー・ディマジオなら聞いたことあるわ。本で読んだから」
「なんだそりゃ、えらい古い話を出しちくるなあ。――ほらよ、もうでくるぞ」
絵里の答えを聞いた祐樹は、ふふっと小さな笑みをこぼした。気づいたのだ、井上のじいさんもあの老人と同じく、猟師だということに。年老いてはいたが、海は似合わないが、猪と戦う立派な戦士なのだ。
熱々のお好み焼きを受け取ると、まずは紅ショウガを脇にどける。ソースが口の端につかないように、細心の注意を払ってかぶりつく。二人はさらっと平らげると、ポン菓子を手に神社を後にする。
裏道を通れば学校まではすぐに着く。神社の裏手の坂を下り、水路の横の階段を下りると、そのまま小学校の裏手に出るのだ。あとは刈り取り後の田んぼを突っ切るだけ。
祐樹と絵里は校庭の遊具に座って、もらったお菓子を食べるつもりだった。
歩きながら祐樹は言う。
「マリってさあ、いつまで麦藁帽子かぶってんの?」
「ずっとよ。目印なんだから、かぶっておかないとわかんなくなっちゃうじゃないね」
間違えるわけないじゃん。祐樹は思ったものの、口にはしない。
(私は気に入ってるから、別にかまわないけどね)
「ほら、マリちゃんも気に入ってるって言ってるし、いいじゃない?」
「気に入ってるのはいいけどさ。たまには別の服装でもいいじゃん」
「服ならいいわ。でも帽子は残しといて。こういうのってこだわりが大切なのよ」
学校のブランコには先客がいた。下級生たちだ。それぞれジュースやお菓子を持って、食べながら遊んでいる。
「あらら、ブランコ取られちゃったね。別のところにいく?」
「んー、タイヤのところなら大丈夫じゃない? 離れてるし、声も聞こえないよ」
「わかった。マリもそこでいいよね?」
(うん、私はどこでもいいよ)
「どこでもいいってさ」
二十一世紀になったというのに、謎のタイヤは未だに校庭に埋まっている。祐樹が確認した限りでは、母親の時代からあるらしい。きっとこれからも埋まり続けているのだろう。
三人は適当に腰掛ける。持ってきたポン菓子は躊躇することなく、三つとも開けてしまう。リクエスト通りの甘くてカリカリのやつだ。
食べながら、絵里は下級生を見ながら言った。
「ねえ、来年から中学生になっちゃうねえ」
「うん」
(不安なの?)
「いや、不安とかじゃなくて、むしろ逆。何も変わんないなあ、って思ってた」
「あー、わかる。せめてクラス替えとかしてみたかったけど、仕方ないよね。田舎なんだし」
生まれて十二年もこの町で暮らしているのだ、加志町が田舎だということくらいはわかっている。
アニメで見るような住宅街や商店街なんて、どこにもない。数少ない学校に子供たちをかき集めて、保育園も小学校も、ずっと同じ顔触れだ。当然、来年から通う中学校でも。
「祐樹ってさあ、早く大人になりたいとか思うタイプ?」
「んー、別に大人になりたいってわけじゃないけどさ、加志町の外で暮らしてみたいとは思うよ。そのためには大人にならなきゃいけないけど。」
「わかるなあ。私も、せめて高校になったら何か変わるのかなあとか思ってるもん」
「そういやさ、山下んちの兄ちゃんいたじゃん」
「うん」
「木田さんところで働いてるんだって」
「ふーん」
祐樹はそのあとの言葉を続けない。しゃこしゃことポン菓子をかじる音がするだけだ。
絵里も何も言わない。もちろんマリも。
木田さんのところというのは、小さな土木会社だ。そこで地味な仕事を地味にこなしているらしい。
それはそれで偉いことだろうけれど、祐樹が気になっているのはそんなことではない。せっかく大人になったというのに、車だって乗ってるのに、山下の兄ちゃんは外の世界が見たくないのだろうか。
昨夜テレビで見たのだが、湯布院に新しい美術館ができたらしい。同じ県内だとしても、人がたくさんいるところはそれなりの変化があるのだ。しばらく行っていないラクテンチも、何か変わっているんだろう。……いや、あそこは例外だろうな。
とにかく、祐樹は変化に憧れている。
東京や大阪はテレビでしか外の世界とつながりがない祐樹にとって、博多よりもずっと身近な街だ。目まぐるしく建て替わるビル、紹介される様々な店。キラキラした風景に、祐樹は憧れていた。と同時に、変化がない加志町に失望もしていた。
祐樹は変化が欲しいのか、この町から逃げ出したいのか、いまいちよくわからないまま暮らしている。万物は流転するそうだ。最近読んだ本に書いてあった、含蓄ある言葉だ。しかしこと加志町については、ヘラクレイトスが首をかしげるくらいに何も変わる様子はない。
■中学二年の春
その日、二人は絵里の部屋で読書に耽っていた。
「俺、バカだからわかんねえけどさあ」
「はいはい、言ってごらん」
仰向けで小説を読みながら、祐樹は言う。
絵里は隣で茶化さず話を聞いている。昔と違うのは、少しだけ微笑みながら相手をしていること。
「オーウェルとかディックとかの書いてた管理社会ってやつ、まさにこの加志町のことなんじゃないかな?」
「うん。……うーん? ――その心は?」
絵里は少し首をかしげて考えたけれど、すぐにボールを投げ返した。
「だってさ、車がないとまともに動けないし、テレビはチャンネル三つしかないし。ナチュラルな情報統制だよね、これって」
「NHKも数えてあげたら? 私にとってはテレビよりも、本屋さんがないのが深刻だわ」
「本屋ならあるじゃん、松井書店」
「品ぞろえが気に入らないもん」
松井書店とは、中学校の向こう側にある小さな本屋だ。自転車という武器を手に入れて、二人もようやく自分の足で買い物に行くことができるようになっていた。
だが絵里が本当に欲しかったのは、検閲された刑務所読書会なんかではない。不法投棄もどんとこいのゴミ箱だ。
最近気に入っているのはハヤカワのSF文庫シリーズだったけれど、松井書店の本棚では二人を満足させるには小さ過ぎた。
「ねえ祐樹、そんなことより、気になってることがあるんだけどさ。その、これ見よがしに置かれた袋は何なの?」
「ああ、これ。……クッキー。たまには持って行けって、母さんが」
祐樹の顔は真っ赤になっていた。
「ふーん、珍しいよねえ」
絵里はにやにやしながらクッキーの袋を持ち上げた。
「一緒に食べよ?」
「いいよ、絵里のだから」
「二人で食べようと思って持ってきたんじゃないの?」
困って何も言えない祐樹。絵里はふふっと笑うと、「コーヒーいれてくるね」と言って立ち上がる。
廊下を歩く絵里に、マリが声をかける。
(絵里、いじわるしないの)
「いじわるだったかなあ?」
(わかってるくせに)
部屋で待っている祐樹にも、マリは話しかける。
(ちゃんと言えばよかったのに)
「ちゃんとって、何を言えってのさ」
(恥ずかしがらずに、素直に言えばよかったのよ。ホワイトデーのクッキーだって)
「今更言えるかよ、もう四月になるってのに」
(意気地なしだなあ。わかってくれるでしょ、絵里は)
「俺だってわかってるよ、それくらい」
コーヒーを持った絵里が戻ってくる。
「お待たせー。はい、甘めにしてあるよ」
「あ、ありがとう」
絵里はテーブルにカップを三つ並べると、祐樹の隣に座り直す。
二人の肘が触れあい、祐樹は出来損ないのマリオネットのように体の向きを変える。大きくなる鼓動を絵里に悟られないように、ゆっくりとコーヒーをすする。
甘さはろくに感じなかった。ただ、熱が赤らめた顔を隠すにはちょうど良かった。
相変わらず変化のない加志町だったけれど、二人の間の空気は少しずつ変化していた。
変わらないものなど、やはりないのだ。