婚約破棄の現場で~浮気を咎められても申し開きは出来ません。誘惑に完敗でした~
「婚約者以外の女とベタベタするなと言っておきながら、人目も憚らず、浮気をするようなお前は王妃に相応しくない! ――」
猫獣人の少女を腕にぶら下げて王子は言う。
王宮主催の舞踏会に招待された人々は、『婚約者のエスコートもせず、堂々と浮気相手をエスコートするお前が言うな』と心の中でツッコミを入れた。
しかし、浮気を咎められた公爵令嬢はガクリと膝を着いた。
「そ、その通りですわ」
「?!?!?!」
証拠も突き付けられていないにも関わらず、陥落するのが早すぎて、周りもついていけない。
現に婚約破棄を申し付けたい王子も、マナーだ何だと口煩い婚約者にいきなり崩れ落ちられて、言葉が続かない。
「だって、どうしても触らずにはいられなかったのですものー!」
それは彼女の心からの叫びだった。
「アレを触らないなんて出来る?いいえ出来ないわ人間なら誰も抗えないわ触ってしまったら最後フワフワモフモフに癒されてずっと触っていたくなって時間を忘れてしまうのよ噛まれるまで止められなかった本当アレは魔性よ傾国の魔物よ」
ノンブレスで捲し立てられる内容は惚気なのか、批難なのか、よくわからない。
わからないが、その誘惑に抗えないほどの魅力があったことだけは、伝わってくる。
「ええそう殿下の気に入っている獣人なんかよりずっとずっと素晴らしいわ耳と尻尾だけ?そんなのただの飾りよモフモフじゃないわ真のモフモフはコレよ」
そう言って立ち上がり、手提げ袋から取り出したのは、手に乗るほどの小さな毛玉。フワフワモフモフしている兎だった。
ああ、と聴衆から恍惚とした声が漏れる。一目で既に魅了されてしまったようだ。微妙に足を公爵令嬢に向かって出してしまった者もいる。
「ほらそうでしょう?そうなるでしょう?抗えないでしょう?」
得意満面な公爵令嬢とは裏腹に、王子はドン引きしている。公爵令嬢が自分と同じように獣人と浮気していると思ったら、完全に獣型、いや、兎に魅了されてしまっている。
浮気の責任を取らせて婚約破棄しようにも、獣に魅了されて浮気の責任を問うなど、今の王子にはできなかった。
獣人ならまだ浮気したと責められるが、相手は小動物。
顔の好みならともかく、比較対象にならない毛皮のモフモフさに負けたのだ。
人間の形すらしていない、ただの兎に負けたことは王子のプライドをズタズタに引き裂いた。
獣人相手ならまだ浮気だと言っても間違いにはならない。だが、相手は小動物な兎である。
獣人とただの獣の間には海溝より深い溝がある。王子と婚約者である公爵令嬢の間にある壁は地上一千メートルあって越えられなくても、壊すことが出来るが、獣人と獣の間にある溝は壊すことも出来なければ、埋めることも出来ない。
人間と対等に考えられない存在。
そんな獣に負けた。
それは人間にとって認めたくない事実の一つだ。
その上、触らずにはいられないなどと、惚気までしている。
婚約者との間には婚約者としての礼儀しかないものの、兎に負けた。婚約者にとって、兎以下の価値しかない。
浮気した、とイチャモンをつけたものの、浮気相手が兎となると、王子自身は兎以下の魅力しかないと、いうことを認めることでもある。
その事実は自尊心をぺしゃんこにするに相応しい質量を持っていた。
婚約者をいくら嫌っていても、無関心や眼中にない、などの態度をとられたら、ショックでしかない。
それが、兎に負けた。
兎との浮気を認めることは、人間として獣に完全に敗北したことを認めることになる。それも小動物の兎に。強さも何もない、ただのフワフワモフモフに。
王子がどうしようもないお花畑の住人なら、兎を浮気相手として認め、意気揚々と猫獣人の恋人との婚約を宣言しただろう。
だが、人間として認めたくない敗北に気付いた王子は、兎を浮気相手として認められない。
「ねえ、早く婚約発表してよ」
猫獣人の恋人が焦れて、王子の腕を引っ張る。
「ちょっと待て――」
「浮気したことは認めているんだし、さっさとしましょうよ」
「兎獣人ならともかく、兎相手に浮気されたんだぞ。そんな簡単に婚約破棄できるか」
「でも、浮気したんでしょ? 婚約破棄できるじゃない」
「・・・」
人間として譲れない戦いをしている王子の気持ちなど、王子の恋人は考えてくれない。
元々、この国は獣人の地位が低いというわけでもない。王子の恋人と同じ猫獣人が敏腕外交官として宮廷伯(領地のない伯爵。主に仕事柄、貴族との折衝の多い役人が拝命する)の爵位を与えられているし、他の獣人たちも公爵や侯爵の爵位を得ている。
宮廷に出仕するだけの教養のある者とは違うからこそ、王子は彼女に惹かれた。
だが、彼女をいくら愛してはいても、自分が人間として獣より魅力がないとは認められない。
王子が獣に敗北宣言をするか、自分の馬鹿さ加減を表明するかの瀬戸際だというのに、恋人は婚約破棄と婚約発表のほうが重要らしい。
でも、そんな彼女を可愛いと思い、愛したのは王子自身だ。
誰かが付き合うように脅したり、押し付けてきたわけではない。
悩む王子を他所に公爵令嬢は正気に戻った。
「フワフワモフモフの誘惑に負けてしまったわたくしには、王妃どころか、王族の妻の座も荷が重すぎます。よって、婚約の辞退をさせていただきます」
――いや、正気に戻っていないのかもしれない。
「?!!」
招待客だけでなく、婚約破棄を申し伝えようとしていた王子も公爵令嬢の申し出に呆気に取られた。
一人、王子の恋人の猫獣人だけが飛び跳ねて喜ぶ。
「聞いた?! これで私と結婚出来るわね!」
「では、これにて御前を失礼いたします」
公爵令嬢は何事もなかったように兎を手提げ袋に仕舞って、退出して行った。
◇◆
それはそれは誘惑の塊のような兎たちのいる宮廷があった。
兎たちは人間の言葉のわかっているとしか思えなかった。我が儘を言う者がいたら噛み付き、害を成そうとする者には血塗れになって洗濯所に行って洗濯女に洗ってもらう。
洗濯女たちは血塗れの兎を見かけたら騎士に連絡し、不届き者の後始末を任せて、兎を洗う。そこまでが仕事だ。
兎が我が儘を許さないのは『隣国に嫁に行った元婚約者が兎になったからでは』と、ある国王は言ったが、兎は十年程で寿命を迎えているので、獣人の中の特異体質の者でもなかったようだ。
その国王の王妃は猫獣人の伯爵の令嬢で、親と同じように外交で活躍したそうだ。だが、国王になる前に兎の餌食になった前妻も猫獣人だったので、国王は猫フェチだったではないか、と言われている。
ちなみにその国王の口煩い元婚約者は隣国の公爵家に嫁いで、故国に残してきたフワフワモフモフのことだけが心残りだったようだが、そのフワフワモフモフは子々孫々まで末永く宮廷に君臨していたので、心配は無用の長物だった。