マダラメの森【第二回幻想と怪奇SS・コンテスト 応募作品】
第二回『幻想と怪奇』ショートショート・コンテストに出した作品です。
その森に入ると、たぐいまれなる才能を授けてもらえるという。
授けてもらえた人間はかならず幸せになれる。
生きるのに疲れてしまった者、生きるのに行き詰まってしまった者はこの森に立ち入れ。
さすれば、無意味な残りの日々は報われる。
それだけが近隣の村に伝わっていた。
村の住人は森を神聖視し、よそ者が立ち入ろうとするのを厳しく取り締まった。
しかし、こっそり森を訪れる者は後を絶たなかった。
男もまた、その言い伝えを人づてに知り、訪れた一人だった。
早朝。人目を避けて森に入った男は、さっそく途方に暮れてしまった。
「いったいどっちへ行けばいいんだ」
行けども行けども同じような景色が続いていた。
一応目印となるように、いままで歩いてきたルート沿いの木に赤いビニールひもを結び付けてきた。これをたどれば森の入り口には戻れる。しかし、どれだけ進んでも目立ったものは見当たらなかった。
才能を授けてもらえる、とのことだったが、いったい「何」から授けられるのか。
そんなものはそもそも存在しないのか。
ただ歩いていれば自然と身につくものなのか。
まるでわからなかった。
GPSは役に立たず、スマホで地図を確認しようとしても、同じ場所でぐるぐると現在地のマークが踊っているだけだった。ただ徒労感だけが募る。
男はどうしても今の状況を巻き返す必要があった。不幸だけが詰み上がっており、どうしようもなくなっていた。この森にやってくるしか望みがなかった。
「俺にはもう後がない。だから絶対に才能を手に入れて帰ってやる」
男には五歳になる娘がいた。娘は生まれつき体が弱かった。妻はそんな娘の看病に疲れ果て、つい先日家を出ていってしまった。娘は男の両親が面倒を見ることになったが、男には趣味のギャンブルで作った借金が山のようにあった。
その借金取りが毎日実家に押しかけてくる。男は両親や娘にこれ以上迷惑をかけるわけにいかず、別の場所で暮らしていた。
男の仕事はもっぱら日雇いだった。学が無いので肉体労働を主にしていた。しかし、それもついこの間労災に遭ってしまい、満足に働けなくなってしまった。
男は傷む右腕をかばいながら先に進む。
やがて、木々の切れ間に大きな池が見えてきた。景色が変わったことに喜びが抑えられない。男は思わず駆けだした。
「あっ!」
しかし、男は木の根か何かに足を取られ、大きく前のめりに転んでしまった。胸と腹を強打する。手のつき方が悪かったのか、仕事場で負傷した腕がさらに悲鳴をあげた。
男は痛みに堪えながら、なんとか起き上がろうとする。その度に周囲に堆積していた落ち葉がかさかさと音を立てた。かさかさ。かさかさ。かさかさ。かさかさ。
ぱしゃっ。
合間に魚の跳ねるような音がした。
顔を上げて池の方を見ると、なんと女の首がひとつ、ぷかりと水面に浮かんでいた。男は息を飲んだ。水に濡れた長い髪が、顔や額に張り付いている。女の首は水面を移動して、男のすぐそばまでやってきた。しかし、一向に池から出てこない。
男は女を凝視した。
「なん……なんだお前は……」
恐怖で奥歯がかちかちと鳴っていた。かろうじて声をかけると、女は水の中から両手を出して自分の両眼を抉りはじめる。そして取り出したふたつの眼球を男の方へと差し出してきた。
「ドチラカヲ エラベ」
ヒキガエルを踏み潰したような気味の悪い声だった。
男は躊躇した。しかし、ここまで来て引き下がることはできない。匍匐前進で女のもとへ近づくと、濡れるのも構わず女の手中にある眼球を奪い取った。
男が選んだのは向かって右の眼球だった。
「ソレヲ オノレノ メニアテロ サスレバ――」
そう言い残すと、女はあっという間に池の中に戻っていってしまった。男は言われた通りにその眼球を自分の右目に当てる。すると、女にもらった眼球は煙のように消え、男の中に一気に吸収されていった。
「いったい、なんだったんだ……」
しばらくすると、突然、男の脳裏にある映像が浮かんだ。自分の手とは思えない華奢な若い手が、アコースティックギターをかき鳴らしている。同時に沸き上がったのは、懐かしいような焦燥感を覚えるような複雑な感情だった。
ふらふらと立ち上がり、男は元来た道をひもをたよりに戻りはじめる。
腕の痛みはもうすっかり無くなっていた。
住んでいた町に帰り着いた男は、さっそく楽器店でギターを買い求めた。
安アパートでは音が響くので、近くの河川敷で練習することにする。
「えっ、まさか。嘘だろ」
複雑なメロディを、一発で奏でることができた。生まれてから一度もギターなど触れたことがなかったのに。すべての弦が男の指に吸い付いてくるようだった。どこをどう押さえれば素晴らしい音が出るのか、どんな順番で弾けばいいのか、不思議なことにすべてわかってしまっていた。
夢中になって弾いていると、いつのまにか周囲に人だかりができはじめた。野球をしていた小学生たち。ランニングに来ていた青年。犬の散歩をしていた老人。買い物帰りの主婦。みんなが足を止め、男の演奏に聴き入った。
やがて、最後の音を弾ききると、周囲から割れんばかりの拍手が巻き起こった。男はいままでに感じたことがないような充足感を得た。
「そうか……これが俺の授かった才能だったのか。これなら!」
男は次の日から人の多く集まる駅前や、イベント会場などに足を運んだ。その都度、多くの通行人たちが彼を取り囲み、彼の演奏を絶賛した。演目は誰もが知る名曲ばかりだったが、そのうちオリジナルの曲も弾くようになった。
SNSで誰かが動画をあげたのをきっかけに、男は一躍有名人となった。テレビの取材や、レコード会社の営業マンが彼の元にやって来たりした。
「このままいけば、俺は――」
金持ちになれるかもしれない。その一心で、男は毎日ギターをかき鳴らしつづけた。ある日、駅前でいつものように弾いていると、家を出ていった元妻が現れた。
「あなた、こんなところでいったい何をしてるの」
「弓絵……」
元妻である弓絵が、怪訝な顔で男を見ていた。演奏の手を止めた男は、自信にあふれた声で言う。
「見てくれ。今のこの俺の姿を。ある森に行ったら、こんな才能を授けられたんだ。これから俺はこのギター一本で成り上がる。なあ、そしたら弓絵、俺たちのところに帰って来てくれないか?」
「馬鹿言わないで。ねえ、美香は? あの子は今どうしてるの」
「ああ、美香は今のところ安定してるよ。でもあの子はまた入院することになるかもしれない。そんなことが起きた日には、俺が成りあがって金を蓄えてないといけないんだ。だからこうして頑張って――」
「そう。でももうわたしには関係ないわ。さよなら」
「えっ」
弓絵は踵を返すと、さっさと去ってしまった。
男は割り切れない思いを抱いたが、すぐに演奏を再開しはじめた。こんなことで立ち止まってはいられない。
「本当に、ありがとうございました!」
数か月後、大きなコンサートホールで満場の拍手が巻き起こっていた。
舞台上の男は、感涙しながら観客席に向かって何度もお辞儀をしている。男は相棒のギターを抱えながら、入院中の娘を思っていた。公式SNSで発した「娘の手術代のクラウドファンディング」はすでに目標金額を達成していた。男はファンたちに感謝の言葉を述べつづける。自分たち家族を救ってくれたのは、他ならぬこのファンたちだった。
男はあの森で才能を授けられたことを、心底感謝した。
「本当に、言い伝えは本当だったんだ。こんな幸せが訪れるなんて」
娘の手術もつい先日行われ、成功したばかりだった。あと半年もあれば退院できると、主治医も言ってくれている。こんなに人生がうまくいくなんて、以前の自分だったら想像もできなかった。
「いずれ、弓絵とも……」
再婚する目もあるかもしれない。
目。
思えばあれは、あの眼球は「才能そのもの」だったのかもしれない。
あの池の女が何者かはわからないが、なにかしらの力を眼球に託して、それをさらに自分に授けてくれたのだろう。とすれば、あの女は今どうしているのだろう。
そう思ったとき、男はステージの上から一気に転落した。
「うわあっ!」
気が付くと、いつのまにかあの森にいた。目の前にはあの池があり、女が水面から顔を出している。
左目だけがない。向かって右側の眼窩だけがぽっかりと空洞になっていて、その穴に池の水が溜まっていた。
「ソロソロ カエシテモラウ」
あのヒキガエルを踏み潰したような声が聞こえてくる。そして、さらに水面からあの植物のつるのような長い手が伸びてきた。男の顔にその両手が触れる。逃げようとしても、男は金縛りにあったかのように動けない。
「シアワセハ タクサン ミレタカ」
ならもう終わりだ、とばかりに女は男の右目を抉り出した。男は森中に響くような絶叫をあげた。血が吹き出し、あたりが真っ赤に染まる。男の服も、女の腕も。女は血にまみれた男の眼球を、自分の空いた左の眼窩に収めた。
「モウヒトツ アル」
女は自分の右目をえぐり取ると、男に向かって差し出した。
「コレヲ オノレノ メニアテロ サスレバ――」
別の幸せを見ることができる。
男は痛みに体を震わせながら、それを受け取った。残った自分の左目に女の眼球を触れさせる。すると、またもや霧散し男の体の中に吸収された。あっという間に右目の出血も止まり、痛みも消える。右目の視力だけは失われたままだった。
気が付くと、女はまた池の中に姿を消していた。
どこをどう歩いたのか、男は実家に帰り着いた。
家の中に入ると、自分の両親と元気いっぱいに遊ぶ娘、そしてなぜか妻の弓絵がいる。
「どういう……ことだ? 美香はまだ入院していて、弓絵もいないはずじゃ」
「何言ってるのお父さん」
「どうしたのあなた」
娘と妻が不思議そうに男を見つめている。男の両親も「あいかわらず変な子だねえ」「あいつは昔からどこか抜けていたからなあ」などと笑い合っている。
なんだこれは。
池の女は別の幸せを見ることができると言っていた。これは、あり得たかもしれないもうひとつの未来なのか。
「さあ、今日はみんなの好きなしゃぶしゃぶよ」
「わあい」
食卓に次々と料理の準備がなされていく。
カセットコンロの上に土鍋が置かれ、火がつけられる。ぐつぐつと湯が沸く。ぐつぐつ。ぐつぐつ。
その中には眼球が一つだけ浮かんでいた。
誰もそれに気付かない。男だけがそれに気付いている。
「なんだ? でも、幸せだ。これが、幸せだ……」
鍋に肉が投入される。
眼球はそれを湯の中から見つめている。ぐつぐつ。ぐつぐつ。
湯の中の景色を、男も見ている。
箸が湯の中にもぐってくる。肉が泳ぐ。肉が取り出される。
「ああ、幸せだ。幸せ、なんだ……」
男は湯の中でしきりとそう繰り返していた。
家族の笑い声。あたたかな場所。
「シアワセハ タクサン ミレタカ」
池の女の声が聞こえる。
いつのまにか、男は鍋の中から池の中に移動していた。
女の顔が目の前にある。植物のつるのような長い腕が、水中の男をがんじがらめにしている。
男はしゃべれない。呼吸しようとしても、口や鼻に池の水が入ってくるだけだった。
女は言った。
「シアワセヲ タクサン ミタラ」
もう眠れ。
男の残った左目が、女によって抉り取られる。
男はもう何も見えない。
ぐつぐつ。ぐつぐつ。
幸せな、あの実家の光景だけが脳裏に浮かんでいる。
<了>