なだらかな山を見つめる
今をときめく阿波しらさぎ文学賞に今年応募した物に加筆修正した作品です。
駐輪場に自転車を置いて空を見上げた。
真っ暗な中をちらほらと星が光っている。
2月の山から吹く風が冷たく身を竦める。
目の前には眠る事がない12階建ての白い巨塔が建っていた。
ぼんやりと緑色の光を放ちながら病院名を誇らしげに掲げている。
これから出勤する場所だ。
午前4時10分。タイムカードを押して、薄暗い手洗い場に立つと目眩がした。トイレからの尿臭と給食室で作っている料理の匂いが交じりなんとも言えない生ぬるい空気が漂う。気持ちが悪い。込み上げて来るものを押さえ込み、更衣室の扉を開けた。
白いユニフォームに着替え全身にローラーをかける。
手から始まり肘まで洗い、ペーパーで水気を拭き取りアルコールを噴霧する。
「よしっ」
憂鬱な気分を振り払うため声を出した。
自動ドアにコックシューズに包まれた足を踏み入れる。
「おはようございます」
先に入っている調理師たちに挨拶をしていく。長く慌ただしい一日が始まった。
3年前、19歳の時に調理師見習いとして個人病院で勤め免許を取った後に、たまたま求人で見つけた大規模な中核病院の給食室の調理員募集案内を見て応募した。大は小を兼ねるのではと考えたからだ。
調理師として採用されたが、雑用を多岐にわたりこなすポジションに人が足りないとの事でそこに配置された。
その判断が良かったのか悪かったのか未だに自分の中ではハッキリとしない。
ただ一つ言えるのは給食の仕事が好きだということだった。
「何が腹立たしいって、もう分かりきったことをお前は阿呆だからと言わんばかりにあれやっといてと言われることですよ」
しゃもじで軟飯を掬い上げ茶碗によそいながら、茶碗に蓋を置く石崎さんに言った。
「それそうなんよ、なんであない言われなあかんのかなあ」
噎せ返る蒸気が消え一升の炊飯釜が空になる。続いて米飯の釜を後ろの台からミトンを使い軟飯を盛り付けていた台に乗せる。しゃもじについた軟飯をお湯で流すがなかなか取れない。擦り合わせて米粒を落とすが、丸い点のついたそこにこびり付いたものは頑固だ。
腹立たしい。
何に対してかなんて分かりやしない。
ようやく綺麗になったしゃもじで作業を再開する。米飯小盛りを50個。
「この作業しようとしてたらそんな事しなくてもいいからアレをしてとか監視して文句ばっか言われて本当に嫌んなりますよね」
文句を言いながら眠気を吹き飛ばす。
時刻は4時45分。あと15分したら配膳車のトレーに軟飯と米飯を置かなくてはいけない。時計を気にしながらも口は止まらない。
うんうんと頷く石崎さん。
「まあとりあえず上に言うしかないな、変えていかなな、ほうでないと新しい人、入っても続かんしな」
そうよ。そう呟いて数えられた中盛りの器をに取りに行く。今朝は50個。
途方に暮れる量の白飯を盛り付け終わり、彼らを台車に乗せ配膳車へ向かう。
轟音を立て冷気と熱気を出している扉を開け一瞥する。
綺麗にトレーメイクされたそこには食札と先に置かれたであろう小鉢と牛乳とふりかけが整頓され乗っている。
やまさんと呼ばれている、几帳面な勤続15年のベテラン栄養士がセッティングする時はいつもこうだ。
『食札の書いてある文字が見えるようにね、気配りしながら置いてねみんなぐちゃぐちゃに置くけど私あんなの嫌いなのよ。それに患者さんが食べるものでしょう?お金払ってるのに見た目が綺麗じゃないなんてね、気持ちの問題よ』
やまさんと1ヶ月だけトレーメイクの仕事をさせて貰った時のことを思い出す。大雑把な私の肌に合わず結局今のポジションに来たが彼女のことは好きだ。
白い紙に病名と氏名と個別対応の文言が書かれている。文字が隠れないように米飯と軟飯の器を置いていく。何を置けばいいかはそこに全て書いてあるので一瞬で判断して行わなくてはならない。
時刻は5時過ぎ、まずい、後10分もすれば味噌汁が用意される。味噌汁を置くのも私の仕事だった。
置くものを置いてから布巾を持ち、台車を押して回転釜の前に行く。
がらがらと沸く茶色の液体。白くむせかえる蒸気。
同い年の男性調理師が塩分濃度を測り、味見をしている。彼の手には火傷のあとが沢山あった。
「裕次郎くんあせらんでもええけんな」
ご飯の蓋をする係の石崎さんは味噌汁の蓋もするので注がれるまで待機している。
-それぞれ役割がしっかりと決められている-
ように見えるが実態は大雑把そのものだった。ここには決め事をすればそれ以外の仕事はやらない正社員が多々いる。
やりたくない仕事はパートに押し付ける。そしてそれらが滞りなく進んでいようがいまいが「早くやれ、終わったならアレをしとけ」と命令してくる。
「格差が激しいよねここは」
ボソッと呟くのを石崎さんは聞き逃さず「それ!」と人差し指を作る。
「パートへの扱いが酷いんよな何様っていうか、カスみたいやん。いつも、ほんで何言うても聞いてくれんし」
私たちは渦巻く鬱積を隙を見ては愚痴り晴らす。こうでもしないとここではやっていけない。それでも、こんな現状を変えたいと思っているのも確かだった。
話終わるとようやく、味が整った味噌汁が注がれる。
5時17分。かなり遅れてしまった。
「じゃあいってきます!」
汁椀を代車に乗せてまた配膳車へ行く。
汁がこぼれないように布巾で丁寧に椀の底を拭きトレーに置く。病気によっては味噌汁を飲めない人もいるので置くのか置かないのかも病名を見て瞬時に判断することが求められている。
『ごめんなさい私この仕事無理です』
食器を用意している中川さんの言葉が浮かぶ。60代、寡婦の彼女は長らく連れ添った夫が亡くなりずっと専業主婦だったので働いてみようと応募したらしい。
入ってみれば当てつけや恫喝にイジメが蔓延する汚濁にまみれた立派なパワハラ給食室だということでショックを受けていた。
みんなそんなものよと慰めながら彼女に退職を待ってと言ったのは6ヶ月前。入社して3日目の出来事だった。
煩雑な飯置きと汁置きが出来ないと訴えた彼女にその作業をさせない方針が決まってから、安心したのか続けて勤務してくれている。代わりに私が毎日その作業を行う。休みの日はもう1人の安永さんという40代前半のパートがしている。
「あっ」
そんなことを思い出していると汁をこぼした。蓋がカーンとひっくり返り溢れ出てくる茶色の液体。里芋とネギが床に転がる。
あちゃーと叫んでも始末は後回しにした。
周りで作業している社員は誰も気に止めない。ここでは人の仕事をむやみに手伝うと怒号が舞う。助け合うことを激しく憎んでいる所。その事がさらに腹立たしく、舌打ちをしたくなる。
栄養士の検品が始まる。トレーに乗っていないもの、乗せ間違えているものを変えるように指示を出す。配膳間違いを起こすわけにはいかない。これらを食べる方は身体も弱っている。健康な自分たちとは違うのだから誤って召し上がったもので命を落とす場合もあるので細心の注意を払わなくてはならない。
それは自分たちの使命だと胸を張って言える事だ。それでもこの場所に漂う空気はそれとは別物に思えた。
検品が終わり出発の指示と共に次々と配膳車が病棟に上がっていく。それを見届けるとゴミを捨てにゴミ箱前まで行く。料理の余り、ペーパー、ビニール袋、ゴム手袋。
燃えるゴミ、プラスチックゴミを分けて入れるペールからゴミ袋を取り出す。
プラゴミと燃えるゴミが混在していないか確認して口を結んでゴミ捨て用台車で給食室の外に出してゴミ捨て場へ行く。
外は冬にしては珍しく明るく、作業が押しているように思えて腹立たしかった。
ずっと暗ければいい。太陽なんか出てくるな。
呪詛のように独り言をつぶやき目的の場所へ向かった。
朝の作業が終わる。
休む暇もなく昼食の準備作業に取り掛かる。
滝のようにあっという間に午前中は時間が流れていく。
午後1時、終業時刻が来たのでタイムカードを押して病院の外に出ると裸の木が生い茂るなだらかに盛り上がった山が見えた。
空は雲が暗く腹黒い人の怨念が渦巻いているかのようだ。
このままずっと光なんか出なければ良い。
明るいのは嫌いだ。
空を睨みつけ自転車に勢い良く乗った。
翌日の昼食の盛り付けは特に忙しかった。
かぼちゃの煮物を中川さんと二手に分かれて盛っていく。煮崩れしかかったオレンジ色とくすんだ緑色の彼らをスチームコンベクションオーブンから取り出し、2つずつ手でつかみ器に入れる。
ある程度盛れたら煮汁をポットに入れて注ぎ分けていく。かぼちゃが汁を吸うので少し多めに。
「あら、かぼちゃ足りないかも10人前かしら」
中川さんが困ったわという声を出した。
「えっ本当ですか?じゃあ炊こうかなあ煮汁ある?」
主菜の盛りつけをしていた勤続25年以上の上条さんが慌てた様子で話しかけてきた。
作り足しを頼むと、和え物を盛っていた勤続30年の女性調理師がやってきた。
「あら足りないの?じゃあその空いてる器は最後のおぼんにまとめておいて、中川さんは早くインゲンを置いて」
私は最後まで自分が采配して仕上げたかったのに邪魔をされたように感じてぶすりとした顔で煮汁を注ぎ分け続けた。
主菜の盛り付けが終わり次々と配膳車に運ばれる。かぼちゃの煮物も検品を行い蓋をする。
それが終われば昼に提供する米飯と軟飯用の茶碗を数えていく。
気が抜けない。少しでもスピードを緩めると怒号がやってくる。
「中川さんそんな洗い物しなくていいからさあ!選択食の手伝いしに行ってよ!何してんの!」
選択食のうどんが茹で上がるまでオーブンのバットを洗っていた中川さんが、勤続35年の1番のボスの女の調理師に恫喝されていた。
はあと溜息をつき中川さんを見つめる。
大丈夫よと手を振ってくれた。
誰に対する当てつけなのか理不尽な怒号が毎日飛び交う。
忙しさに目を回せながら、様々な雑用を終わらせていく。
昼食の配膳車が上がるのを見送り、ゴミ箱へ向かう。缶の袋もそろそろいっぱいだ。
先々に行う作業を頭で整理し、ゴミ袋の底に敷く新聞紙を広げるともう1人の同じ年の男の調理師が載っていた。
「これ木川くんちゃうん?!木川くんよ!」
「え?」
中川さんが「?」マークを顔に浮かべて私を見る。
「カメラで美しいT県の風景を写真に……かあ、カッコイー」
はしゃぐ私を見て中川さんが聞いてきた。
「あの笹さん……木川さんてどなた?」
私たちは顔のほとんどを覆う帽子とマスクをしているので誰が誰だか分からないのだ。
「あのほら、大人しいけど重いもの持ってくれたりみんなに号令かけてくれる人よ」
ジェスチャーをして話すと分かってくれたようだった。
「ああ彼かあ、でも凄いですね新聞に載ってるなんて」
「2年も前の記事だけどね、なんで今ここにあるんやろ」
載っていた写真は夜の橋だった。
オレンジ色に光る灯りと新町川に架かる2つの橋。背景は水色に色付いた空、夜なのに暗く映っておらず幻想的だ。
暫く見つめて2人でなんか不思議だと話してゴミ捨てに向かう。
外は寒いものの白く明るい。
ゴミ捨て場の重い扉をあけ慎重にゴミ袋から汁が垂れないように括り口は上にして、重ならないようにそっと置く。
この場所も暗い。
扉を閉めていると轟音が聞こえてきた。
白い機体に赤いライン。ドクターヘリ。
「また来たな」
ぽつりと呟いて台車を押していく。
「こんな寒い中大変ねえ」
中川さんが同調しながら話す。
この作業が夜だったらどうなんだろう。
例えば午後8時。嫌だ。私には向いてない。
夜に閉じ込められている気がする。
だから夜の洗い場の人は尊敬する。
給食室に戻ると北川くんがいた。
「なあなあ北川くん、2年前の賞取った新聞記事たまたま見たんやけどあの写真綺麗やなあ、何時に撮ったん?」
一気に言葉をかけると彼は「はあ」と気圧されたように後ずさった。
「午後8時位ですかね」
先程考えたことを思い出して、灯りが灯った白い橋を想像した。浅い川にふたつの橋。
「ほうなんじゃあ、ありがとう、また見に行くわ」
木川くんに礼を言って作業に戻る。
作業用トレーを洗い
暗闇が良いと言いながら室内は明るい方が良いという自分の矛盾に気が付く。安全圏から見る闇。
明るいからこそあのヘリの色も分かるし、山の滑らかさもわかる。木川くんの写真の灯りも元々は安全に人が夜を過ごすためのもの。
それでも暗闇が良いのは何故か、本当は腹立たしくも悪意渦巻く深夜から早朝にかけて仕事をするのが好きなのかもしれない。
星と月しか見えない夜空を見ながら出勤することや見ながら寝静まっている時に働く特別感。
タイムカードを押して外に出た。山は白く化粧をしていた。
「雪ふんりょったんですねえ」
自転車の鍵を開けながら中川さんに話す。
「今年はようけ雪降ってますね」
単車で通勤している彼女がヘルメットを被って相槌を打つ。
この山はこの病院に関係した人の生き死にを黙って見ている。当然、暗闇が良い明るいのは嫌いだと傲慢なことを言う私の姿も。
「はよ山に桜が咲くの見たいけんどしばらく寒いの辛抱せなですね」
中川さんにおつかれーと言いゆっくりと自転車をこいだ。
腹立ちも苛立ちもいつかこの山のようになだらかに保たれるようになれば良いなと、穏やかな気持ちになっていた。
ゆっくりと時間をかけて変えていこう。
当初はゴミを中心とした話でした。
4部くらい続けられたらと思ってます。