メアリの下拵
初日の夕食会を終え、翌朝を迎えた。
メアリは早起きをして身支度を済ませると、早朝から厨房へと向かう。
「おはようございます、メアリお嬢様。こんなに早くから、いかがされましたかな?」
朝食の準備に忙しいシェフたちだったが、メアリの訪問に嫌な顔ひとつ見せない。彼らもまた、愛らしいメアリがかわいくて仕方ないのだ。
「邪魔をしてしまってごめんなさい。あの、少しお願いがあって」
メアリもまた、素直に謝ることの出来る娘であった。だからこそ、よりかわいがられるのだろう。
シェフたちの目尻が下がり、何でも言ってくれという声色も柔らかい。
「フェリクス様のメニューだけ、お肉料理を少なめに、お野菜を多めにしてほしいの」
「それは構いませんが……でも、どうしてですか? まさか! 何か言われ……」
「ううん、そうじゃないの。ただ、昨日の夕食の時にお野菜を好んで食べてらしたから。全て召し上がってはいたけれど、お肉料理は食べるペースがとても遅かったの。もしかしたら、苦手なのかもしれないと思って」
夕食の時、メアリはひたすらフェリクスの観察をしていた。もちろん、ただジッと見つめ続けていれば不審がられてしまうので、あくまでもさり気なく、だ。
ただ、母ユーナや姉たちがフェリクスと話している間もその会話に耳を傾け続けた結果、結局メアリは一言も喋らずに終えてしまったのだが。
しかし、メアリはそれで良かった。まだフェリクスが噂通りの人物なのか確信が持てない以上、余計なことを口にすべきではないと心得ているのだ。
そうは言っても、直感ではフェリクスが上辺だけ良い人を取り繕っているように見えている。それでも思い込みで動かぬようにと見極めから入る程度には、メアリは慎重派だった。
「メアリ様はよく見ていらっしゃいますねぇ。それにお優しい。わかりました。お客様のためです。少しだけ量を調整してみましょう」
「ありがとう。いつもおいしいお料理をありがとう。今日の朝食も楽しみにしてるわ」
「嬉しいことをおっしゃる。ええ、任せてください」
伝えた言葉はもちろん本心だが、何を言えばシェフが喜ぶかをメアリは知っていた。人が欲しがる言葉を欲しい時に与える。メアリはそれが無意識に出来る子であった。
厨房を出ると、メアリは次にダイニングルームへと向かった。そこへ辿り着くためには一度リビングルームを通らなくてはならない。
大きなドアを開けてリビングルームの中へ一歩足を踏み入れると、そこには普段はないはずの人影があった。そのことにわずかに驚き、メアリはピタリとその動きを止める。
「ああ、おはようございます。すみません。早くに目が覚めてしまったので、水をいただけたらと思いまして」
「おはようございます。そうでしたか。え、っと、少し、お待ちください」
メアリは普段から少し考えてから言葉を発する。そのため急な会話には慣れておらず、心構えが出来ていないと少し戸惑ってしまいがちだ。
それがまだよく知らない観察対象である者なら余計に。要は、軽い人見知りのようなものである。
ドキドキしながらどうにか言葉を返すと、メアリは出来るだけ急いでダイニングルームへと向かう。
チラッと後ろを窺うと、どうやらフェリクスもついて来ているようだ。メアリ任せにせず、自分で水を貰いに行くつもりらしい。
それが彼の表向きの姿勢なのか、それとも当たり前のように身に付いた行動なのかの判断はまだ出来ない。いずれにせよ、配慮が出来るのは良いことだとメアリは思った。
「おはようございます、メアリお嬢様……と、フェリクス様!? あっ、あのっ、いかがされましたかっ!?」
ダイニングルームには朝食の準備を進めるメイドたちが仕事をしていた。その一人にメアリが声をかけると、後ろにいたフェリクスに気付いて動揺し始めてしまう。
メイドたちは一般的な乙女なのだ。不意打ち早朝イケメンにはめっぽう弱かった。
「お水をいただきたいそうなの。でも、忙しそうね。私が取りに行きましょうか?」
「いいいいいえっ、メアリ様にそんなこと、させられませんよ! 大丈夫です、お任せください。ふぇ、フェリクス様、少しお待ちくださいね!!」
「仕事中に申し訳ありません。ですが、助かります。ありがとう」
申し訳なさそうに眉尻を下げて微笑むフェリクスに、メイドたちの視線は釘付けとなる。やはり整った顔の微笑みは、乙女に想像以上の影響を与えるようだ。
メアリはその様子を不思議そうに眺めた後、フェリクスに椅子を勧めた。そして自分は座らず、バルコニーへと繋がる大きな窓付近に立つ使用人に近付いていく。
レースのカーテンがかかったその窓は、部屋の中にたくさんの光を取り込んでくれる。そのため、ダイニングルームは明かりを点けなくても良いほど明るい。
空が晴れ渡った日にこの部屋で摂る朝食がメアリは大好きだ。しかし今日は————
フェリクスはしばらくメアリの動きを目で追っていたようだが、メイドが水を持ってきたことで視線を戻した。
そうしてフェリクスがメイドに礼を言って水を飲んでいる間に、メアリは手早く用を済ませる。
そのまま逃げるようにリビングルームの方へ立ち去ろうとした時、背後から声がかけられた。
「メアリ嬢、どうもありがとうございました」
「えっ?」
「ダイニングルームまで案内してくれたでしょう」
まさかこの程度でお礼を言われるとは思っていなかったメアリは一度パチクリと瞬きをした。フェリクスの微笑みはとても美しかったが、それにときめく乙女心を彼女はまだ持ち合わせていなかった。疑問が勝ってしまったのである。
やはり、どうしてもその笑顔が作られたみたいに思えるのだ。とても優しそうであるし、こちらに好意的だとも思う。だが、どうにも壁を感じるのである。
なぜそう感じるのかはわからない。ただの勘でしかなかったが、メアリはそれを信じることにした。
しかしそう決め付けて行動するのは早計だ。メアリはそれら全てを心の内にしまい込むと、ふわりと微笑みを返した。
「いいえ。お力になれたのなら良かったです」
その瞬間、フェリクスがほんの少しだけ片眉を上げたのをメアリは見た。
(何に驚いたのかしら……?)
メアリはフェリクスの僅かな変化をそう受け取った。だが、特に気にすることなくそのままダイニングを後にしたのだった。
「メアリ嬢……何を考えているのか、読めないな」
一方で、後に残されたフェリクスが口の中でそう呟いたことは、誰の耳にも入ることはなかった。