もう一人の証人:CHORUS.(In which the cook and the baby joined):—'Wow! wow! wow!'
なにかひとつ古いもの、なにかひとつ新しいもの、
なにかひとつ借りたもの、なにかひとつ青いもの、
そして靴の中には6ペンス銀貨を。
ボンヤリしていると、玄関から何やら話し声がして、こちらに向かってきた。
台所に入って来たのは、弓手に胡瓜のパンパンに入ったビニール袋を引っ掛けながら携帯電話で電話をし、馬手で、眠りこけている翼君と、小さなリュックを抱えている、瑞月だった。
淡い水色の、シフォン地のワンピースに、白い薄手のカーディガンを羽織っていて、髪は、一部の隙も無いくらい見事に結い上げられていて、項の白さと、服の色調の明るさが相俟って、夏の朝の空気の中で、存在感そのものが、青空と雲のように爽やかで、台所の出汁の香りのイメージが、その姿を見た瞬間に、何処かへ飛んでいってしまった程だった。
えー…「綺麗」。何で、朝からそんなに、バリッと「綺麗」なの?朝三時にテレビ局入りする、朝のニュース担当の女子アナか秘書?
そして、なんで俺は、六時半に起きたのに、何か「寝坊」した感じになってるの?
瑞月は、俺に気づくと、済まなさそうに、顎で、ダイニングテーブルの上を示した。
…えっ?
トーストエッグベネディクト?!
何これ、食べて良いの?
わー、ポーチドエッグ綺麗…。
ベーコンカリカリ…。
「はい、はい、ええ。ですので、私は何も…。はい、はい、ええ」
…取引先とかと電話してるの?高校生が?この時間から?
…じゃなかった、先ずは助けよう。
俺が、翼君とリュックを抱き取ると、瑞月は、申し訳なさそうに、こちらに一礼すると、胡瓜の入ったビニール袋を、シンクに置いた。
「ええ、承知しました。はい、はい、…ええ。はい」
俺は、電話しながら困った顔をしている瑞月に一礼すると、翼君を抱いて、自分が寝ていた部屋に戻った。
自分の寝ていた布団を敷き直して、翼君を寝かせたが、翼君は、全然起きなかった。
翼君にタオルケットを掛けて、サッシを閉め、弱冷房をつけた。
まだ、鳥の声がしていて、どう考えても、まだ早朝だった。
…可愛いけど。
何で、朝の六時半に、しかも御盆に、この子は、他所の家にいるんだ…?
そりゃー、まだ寝てるよな?服は、パジャマじゃなくて、普段着みたいだけど…。
着換えて顔を洗って、身繕いを済ませて台所に行くと、瑞月は、古ぼけた薬缶で御湯を沸かしていた。
「さっきは有難う、つーくん、まだ寝てる?」
「あ、うん、全然起きなかった…」
「そう…。Would you like some coffee or tea?」
「あ…紅茶で」
普段ならコーヒーって言うだろうけど。
…当然のようにイングリッシュブレックファーストの缶が手元に置いてあるからには、そっちかな。あれ、好きだし。
細い、高い声が、「Sure」と、微かに笑いを含んだ音で返事をした。
爽やかな色のワンピースは、氷を思わせる程の淡青色だったが、よく見ると、白い花が細かく、柄として描かれている生地のせいか、冷たい感じはせず、本当に、朝、暑くなる前の、ほんの短い間の、外の空気、そう、夏の朝の空気で織ったのではないかと一瞬思ってしまうくらい、軽やかで、明るかった。
「サラダでも作る?」
見事な手つきで、飾り気のない白いティーポットに湯を注ぎながら、瑞月は、そう言った。
ティーカップだけ、白地に小さなピンク色の薔薇が描かれている金彩の縁の物で、他の食器のシンプルさと合っていないところが、如何にも仮の、逗留時の間に合わせ、という感じがした。
「え?これで充分だけど」
少なくとも、朝起きたら確実に朝食が、しかもトーストエッグベネディクトが用意されてるような日常を送って生きてきてないから。
父親しかいない時は、父親の分の朝食を作って出す生活してるから。
遜ってるわけでも何でもなく、これで本当に充分過ぎるくらいなんですが。
「それ、大叔父が食べてくれなかった物なの。盆に肉食は、迎え火焚くまでだ、って。ベーコンも駄目だなんて、徹底してるわ。自分で食べようかと思ってたんだけど、思ったより、今朝はポーチドエッグが上手くいったもんだから出しておいたの。でも、悪いから、何か作り直しましょうか?冷めたわよね?」
「…とんでもない、頂きます」
何時起きでポーチドエッグなんて作ってくれたのか分からないけど、作り直させる気は毛頭無いですよ、勿体無い。
そうか、盆期間中の、肉食の戒めね。
平成の頭くらいまでは、そういう記録も読んだことあるけど、まだ忠実に守る人もいるんだな。
…他人が作ってくれた物を残す方が罰が当たる気もするんですが?
美味い。
…けど、何か、宿命かなぁ。
父親のついでの自分のバースデーケーキ、優将さんのついでのキャロットラペ、銑二さんのついでのトーストエッグベネディクト。
これも、「自分用」ではないんだよな、贅沢は言わないけど。
何か、それが、手が込んでて美味い程、自分の為だけのものではない、っていうことに、多少の引っ掛かりが出てきちゃうようになってしまった。
それが普通なんだろうけどね、『子ども用のカレー』みたいな自分専用の食べ物なんて、幼少期に母親くらいしか作ってくれないもんなんでしょうから。
…え。何それ。
それじゃ、こいつに、自分だけの為の食事を作らせたいみたいな文脈になるじゃん。
無い無い無い。どうした?まだ寝ぼけてる?俺。
…バリッと「綺麗」な女子高生に、朝からゴールデンルールで紅茶を淹れてもらってる時点で、現実感ゼロだしねぇ、本当はまだ夢の中の可能性あるけど。
「…何時に起きたの?」
「四時半よ。大叔父に胡瓜もげって言われてたから。それと、涼しいうちに済ませたかったのと、今日は予定が詰まってるから、この後、御墓参りにも行きたいし」
「四時半?!」
瑞月は、小声で「シー」と言った。
あ、翼君が寝てるんだった。
「銑二さんは何を食べたの?」
心持ち小さい声で、そう聞くと、瑞月は、困った顔で「それが」と言った。
「ここの家、綾さんが、天つゆ作ってくれないでしょ?」
「ああ、昨夜も塩で天麩羅食べたけど」
あれはあれで美味いから気にしてなかったけど。
「御盆って、この家、天麩羅がよく出るもんだから、私が帰って来た時は、出汁を取って天つゆを作るんだけど」
…出汁を取る高校生、いたんだ、ここにも。
そんなことで共感するとは思わなかったけど。
「ああ、出汁の良い匂いがしてた、とは思ったんだ。…朝から出汁取ってたの?」
「海外暮らしの習慣でね。顆粒出汁を売ってる店が見つけられない時もあるもんだから、乾物を買って作るの」
それは、売ってない時もありそうではあるけど。
…偉っ。
「今朝も、それで、天つゆを作ったの?」
「そう、大叔父は、食べ物には滅多に文句を言わない人なんだけど、本当は、天麩羅には天つゆ派なのよ。綾さんには言わないけど。もう、朝から喜んじゃって、昨日の残り御飯に、昨日の天麩羅の残りを載せて、熱々の出来立ての天つゆをかけて、掻き込んで、畑に行っちゃったわ。油が酸化してそうだから、止めたんだけどね」
…そんな、闇落ちしたテンドンマンみたいな朝食を…。
ベーコンを理由に、せっかくのトーストエッグベネディクトを拒否するなんて、とは思ってたけど、出汁から取った天つゆをそんなに喜んだなら、まぁ…。
…出汁取って天つゆ作って、ポーチドエッグとか作って、身綺麗にして、胡瓜もいで、翼君抱いてたの?四時半に起きて?偉過ぎなんだけど?
あー、なんか、本当に「寝坊」したんじゃないかって気がしてきた。
「そうだ、翼君って、どうしてここにいるんだ?」
「あー…」
紅茶を出してくれながら、瑞月は、困った顔をした。
「あの子のママの彩雪が、綾さんの姪で、私と同い年で、割と仲良いんだけど。これからバーベキューに行くから、って、つーくんを置いてっちゃったの」
「…え?こんな早朝から?」
ド迷惑では?
…ってか、翼君の御母さんって十八歳…?
「綾さんのお姉さんが、盆に水辺に行くな、引っ張られるぞ、って怒っちゃったらしくて」
おお、それも聞いたことある。
『盆に水辺に行くと死者に足を引っ張られる』って言う地域があって、迷信かと思いきや、この時期、台風の後で増水してたり、海の波が強くなってたりして、意外と水難事故が多いんだよな。
ただ、注意する側には『盆』でも、行く人にしてみれば、『せっかく取れた休み』だったりするから、最近じゃ、あんまり気にされないもんだと思ってたんだが。
「それで、ここに翼君を?」
「…墓参りもしないで、目を離せばバーベキューだなんだと、外で肉を焼きたがる、川原で焼くなら、もう焼き肉屋に行け、二歳の子まで親の身勝手で水場に連れて行って巻き込むな、って、自分の母親に怒られたもんで、叔母の綾さんに預けに来たんですって。大叔父が、この子のせいじゃないのに置いて行かれて、って、気の毒がるもんだから、せめて涼しい場所に、と思って、私が、ここに抱いて連れて来ちゃったの。綾さんも、どうせ彩雪も、つーくんのパパも、仲間内のバーベキューに夢中で、ろくに面倒なんか見られないんだから、川に流されるくらいなら預かるって言うし、そのうち、ここに、面倒見に帰って来てくれると思うわ」
「…うーん」
翼君、それは流石に気の毒なような…。
何か、俺が喜んでたかどうかは別として、調査地にも、学生との食事にも、俺を連れて行くような父親に育てられたせいか、盆に、両親に、叔母の嫁ぎ先に置いて行かれる、って感覚が、分からないんだよな。
ただ、確かに、川原でバーベキューするなら、よく見ておいてあげないと、二歳じゃ、川に流されるか火傷するか、って気がしちゃうもんな。
それが気になるなら、盆の忙しい時でも、預かった方がマシ、って思っちゃっても、仕方ないのかな…。
瑞月は、俺の向かいの椅子に座って、自分も紅茶を飲み始めた。
「綾さんが戻ってきたら、つーくんを任せて、うちの御墓参り行かない?涼しいうちに。それで、午後に柳澤さんのお宅に行って、夕方から花火会場に向かいましょ」
朝から、本当に、秘書並みにスケジュールをサポートしてくれるな…。
やっぱり凄いわ、この人…。
「ああ…そっか、何故か、うちの親戚の迎え火には一緒に来てもらったんだったな」
「ええ、まだ、こっちの御墓には行ってないから。『彼氏』と帰省して、『彼氏』を置いて出掛けるのも、何かね…」
あ、そうだ、今、俺、『彼氏』で、…一緒に花火を見に行くんだった。
黙って向かい合って、そうして、静かになると、ふと、胸の奥が、微かに、ギュッ、となるような感覚を覚えた。
あれ?
なんか…朝御飯、作ってもらって、向かい合って食べて、何か、…変だ。
紅茶の良い香りがするけど、食べてる物の味が分からなくなってきた。
…前も、こんなこと、あったような?
相手の白い繊手が、手にしたティーソーサーから、無駄に豪華な、繊麗な造りをした取っ手のティーカップを、優雅に持ち上げた。
そうだ、あの手と、腕に触れたんだ。
…手、だけじゃなくて、今、ティーカップに触れてる、唇にも…。
…積極的に忘れよう、って、決めたじゃん、何を、このタイミングで思い出してんだよ、俺は。早く食べ終わらないと。
「あ、そうだ、朝から、電話してたんだな」
そのせいで、あの腕は、その細さにも関わらず、千手観音みたいな働きっぷりをしてたんだった。
「…待てよ?六時半だったよな?」
何か…凄い時間に掛かってきた電話だったんじゃないか?
…ド迷惑な…。
瑞月は、いつもの困った顔をして、「それがね」と言った。
「日出、って分かる?大町日出。会ったことあるかしら」
「…あー、大町さん。分かる」
今、一番聞きたくない名前だったけど…。
迷惑of迷惑だったHalleluiah事件の人ね。
「実は、さっき、日出の携帯電話を使って、日出のお母さんから電話が掛かってきたの」
「…どういうこと?」
「日出がいないけど、行き先を知らないか、って」
「え?」
「最近、GPS機能付きの携帯を置いて出掛けるようになったらしいんだけど、御盆なのに、姿が見えないんですって」
「…何それ、事件性無い?」
「それも分からないらしいの…。お父さんも仕事でいないし、相談出来る人がいなくて、って」
「いない?」
「あの子の家、お母さんが自宅でトールペイント教室のサロンを開いてて、忙しいらしいんだけど、お父さんも、結構大きな企業の社員さんで」
社名を聞いて驚いた。
業界シェア70%の、幼児保育教材教具の会社だった。
「…へー、誰もが一度は御世話になってそうな…」
「そう、それで、今、スペイン出張中らしくて、御盆だけど、日本にいないんですって」
「はー…海外のイメージ無かったなー」
「他所で聞いた話だと、海外に幼稚園とか作る時に、相談を受けるらしいわよ。遊具とかの」
「あー、流石、良い企業だな…」
「それで、親戚に、警視総監がいるもんだから、却って、そっちには相談できないらしいの。だから、問題起こされると困るんだ、って」
あらららら。
割合、良家、って感じかね。
…猛ダッシュでケーキ屋に連行された怖い記憶しかないけど。
「居場所を知らない、としか、言えなかったんだけど。…何だか、妙な話ねぇ、まるで、親に居場所を誤魔化してるみたいな行動じゃないの」
ゾワッ、とした。
「まるで、と言うか、…そうとしか、思えない行動ではあるけど。だとしても、理由は…?」
「そこなのよね。…一切分からないから困るわ」
急に、俺の携帯電話が鳴った。
俺と瑞月は、ハッとした。
瑞月が、コクリ、と、頷いた。
俺も頷いて、中座して、仏間に行かせてもらって、電話に出た。
相手は、絆だった。
「あ、高良?今、大丈夫?電話しても」
わー、久しぶりだな、何か。
懐かしくて、嬉しい。
カレー作って持って来てくれて以来だけど、一ヶ月も経ってないのに、ちょっとだけ日常が戻ってきた感じがして、ホッとする。
…あー、愛犬にも会いたくなってきた。
何か、本当に、懐かしい。
こんなに、絆とも、歴史さんとも、離れてたこと、無いし。
「大丈夫だけど。珍しいな、こんな朝早く」
「えっと、今、何か、長野にいるの?高良」
「そうだけど…」
「うん、えっと、その方が良いよ。今帰って来ない方が良い」
―この時期に、今住んでいる場所を離れられただけでも、物凄い加護だと思いません?
「…え?」
「あの、えっと。親がいるから、あんまり、長い間話せないんだけど。うちの監視カメラ映像、警察に提出したから」
「はっ?…絆の家って、監視カメラ、あったのか?」
「…実は、親父の部屋の窓付近から、庭と玄関に向かった画角で、一個だけ。一族の家訓でさ。コンビニとかの売り上げを家に置いてるって勘違いされて、空き巣や強盗に入られた時の為に、って、内緒で設置することになってるんだけど」
待てよ。
…絆の家の規模でも監視カメラがあるんだったら。
もっと豪邸はどうだ?
―…え、高良?…ひとんちの郵便受け見てんの?
―え?優将?いつの間に?
―あー、高良っぽい奴が見えたから、迎えに来てくれたんかと思って出てきた。駅前で集合って言ったかなと思ってたんだけど。
―何処から見てたの?
…待って。若しかして。
優将の家にも、監視カメラがあった?
つい、黙りこんでしまった俺に構わず、本当に時間がないと見えて、絆は、「それでね」と言った。
「俺の家と、ミコチンの家で、盗聴器が発見されてさ…。ホント、そういうのは駄目、だよね…」
「…は?」
電話の向こうが、急に騒がしくなった。
「あっ、ごめん、警察かも」
「…警察?」
「切るね、またね、高良」
一方的に切られた電話を耳から離し、俺は、呆然とした。
丁寧に整理された瑞月の荷物が片寄せされている仏間は、明るくなっても点けられている盆提灯の電気の熱で、提灯の中のプラスチックの筒が回り、ミラーボールのように、不思議な光を、クルクルと回転させていて。
俺の持ち物ではない、女の子の荷物と、俺と、壁と、畳に、妙な光の粒を投げかけていて。
…本当に、本当に不思議な、知らない世界に、迷い込んでしまったみたいだった。
俺は、思わず、台所に走って行った。
「瑞月」
「えっ」
「頼む、昊さんに確認してくれないか?家に、監視カメラはあるか?…いや、あるよな」
「えっ?あるけど。社宅の入り口に…」
「そうか、あのさ、お前の家、盗聴器仕掛けられてないか、確認してくれないか、郵便受けとかに」
「…高良?」
「頼む。…えーっと、Jasmine」
瑞月は、目を白黒させながらも、頷いて、携帯電話を手にして、仏間の方に去って行った。
台所に戻ってきた瑞月は、青い顔をしていた。
「どうしよう、高良」
「…瑞月?」
「多分、誤魔化されたわ」
「え?」
「Dad、嘘ついてる、多分。…じゃあ…、多分、盗聴器、あるんだと思うわ、私の家に。…そう言えば、Dad、どうして今年は、帰省に、ついて来てくれない気だったのかしら、最初から。あの人、あっちに残って、何をしているの?御盆に」
俺も、それを聞いて、血の気が引いているところに、綾さんが戻ってきた。
「あー、ごめんなさいね、瑞月ちゃん。もう、戻ったから」
瑞月は、幾らか気を取り直した様子で「はい」と言った。
「…高良、御墓に行きましょ」
「あ…、分かった、これ、食べちゃう。あ、えっと、翼君は、客間に寝かせてます」
「あら、ありがと」
綾さんは「御墓は、暑くなる前が良いわよね」と言いながら、翼君の寝ている部屋に向かった。
何となく無言で、二人で、逃げるようにして、苧干原共同墓地に向かった。
供花の百合とスターチスの花束を抱えた瑞月は、弥朝さんの墓の前につくと、花束を、そっと傍らに置いて跪き、そっと、右手で墓石に触れた。
「Tears are almost gone but the symptoms in my heart」
涙は、ほとんど無くなったのに、あなたを思うと、心臓が、病のように痛む、という、娘の言葉に、墓石は応えない。
「So tell me what is the cure for you」
囁くような、細い声が、母親に、だから、胸の痛みの治療法を教えてほしい、と問い掛けるが、返事は無い。
生き返らないことだけは分かっていて、だから、…治療法は無いのだ。
答えが分かっている問い掛けが、応じる者の無い孤独に締め付けられて、ただ、細い形で宙に浮かんで、瑞月を縛っているかのようだった。
「…Nobody can save me from myself.I am under my own wicked little spell」
本人も、自分が、自分の発する、悲しい言葉に呪われて、縛られているのが分かっている。
だから、…『誰か助けて』と、言えないんだろう。
だから、行動として、ここで暴れるしかなくて。
…甘えて、攻撃する対象が、母親の墓石しかなかったんだろう、ということが、今なら分かるんだが。
結局、墓の前で跪き続ける背中に、何も言えなかった。
変な感じだ。
墓の前で暴れる、なんて行動を見たのは、つい、今月の頭で。こいつが日本に帰国したのも、つい、数ヶ月前で、こいつに出会ったのも、先月のことなのに。
あまりにも急に、生活の中に入ってきた相手で。
あまりにも急に、御互いのことを知ってしまって。
今、相手を、どう考えて良いのか、分からない。
「瑞月って」
「え?」
「瑞月って呼んでも、良いわ」
「あ…。…えっと、契約違反だったな、Jasmine」
瑞月は、こちらに背を向けたまま、「良いの」と言った。
「Jasmineが本当の名前だって、自分では思ってたけど。…誰かに呼んでもらえるんだったら、何だって良かったのに。…贅沢言ったわ」
悲しい声だと思った。
「急に、名前を呼んでくれる人が、誰もいなくなっちゃうことだって、あるの、知ってるのに。…呼び方なんて、つまらないことに拘ってたって、思い出した」
―…多分、Dadが死んじゃったら、私、一人ぼっちだと思うの。…誰にも、自分の死んだ後のこと、頼めないと思う。
胸に突き刺さるような孤独を、相手が抱えていることだけは分かるから、きっと、こいつの『死んだ後のこと』を、頼まれないといけないんだ、と、思うんだが。
目の前の相手も、急に、いなくなってしまう、ということは、有り得るんだ、と思うと、何だか、胸が痛んで。
本当に、軽々しく、何かを言う気に、なれなかった。
瑞月は、立ち上がると、気を取り直したように「でも、良いの」と言った。
「あの子も言ってたもの、良いことだって、…あるのよ、私の人生にだって」
「あの子?」
「あ、えっと、優将、って子?」
「そう言えば、優将に、耳元で、何を囁かれたの?あの時」
瑞月は、ボッと赤くなって、俯いた。
「…えっと、あの…」
…何か、つられて、赤くなっちゃうな。
…どうしたんだろう。そろそろ、暑くなってくるからかな?
「あの…。良い誕生日に、自分ですることだって、出来るんだってこと」
「ああ、明日が誕生日だもんな。…そういうや、二泊三日なんだな。送り盆まで居るなら、三泊四日なんじゃないのか?」
「あー…。Dadがね、八月十六日がBirthdayなの。一日違いでね。…だから、腑に落ちないことは多々あるけど、…たった一人の家族だから、誕生日には、一緒にいるわ」
あー、やっぱり、昊で、夏生まれの人だったんだ。
「…帰ったら、流石に、とっちめてやらなくちゃ。私に、何の隠し事、してるのか…」
「…俺も、親に、聞かなきゃな」
俺は、ザックリと、絆からの電話の内容を、瑞月に共有した。
「…どういうこと?私達の周りに、何故か盗聴器が仕掛けられてる、ということ?」
「そうだな…。何となく、勘で、お前の家にもあるんだろう、って推測しただけなんだが。心言の家にまで、っていうのが、却って、訳が分からないんだよな…。果たして、同一人物が付けたのか、同時多発的に、全くの別人が、それぞれに、盗聴器を設置してるのか」
「…待って、その、ミコト?の家って?」
「あー、それこそ、お前の家の最寄り駅と、次の駅の真ん中くらいにあるマンションらしいよ。徒歩通。行ったことは無いけど、立地を考えると豪華だよな」
親が両方薬剤師だって聞いたけど、お母さん、共働きなのに、毎日弁当作ってくれてるんだよな、って思ったのだけ、覚えてる。
瑞月は顔色を変えた。
「…じゃあ、同一犯なんじゃないかしら…」
「…つまり?」
「…そのマンションにも、防犯カメラがあって、何か写ってたから、盗聴器設置の事実が判明したか、…それとも、何らかの理由で、盗聴器が先に発見されて、盗聴器設置の犯人が同一犯かどうか確認する為に、防犯カメラの映像を集めている、と考えると、どう?」
「…絆と、心言の家と、若しかして、お前の家に盗聴器がある、として?」
…そして、こいつには言ってないけど、俺の家に、防犯カメラが設置されて?
優将と、茉莉花さん宅の郵便受けに、盗聴器があって?
「そんなのの同一犯って…とは思うけど。…今考えるべきことって、そこじゃないんだろうな。…俺の家にも盗聴器が設置されてる可能性も考えられる、ってこと、なんだろうな…?」
瑞月は、困った顔で「ええ」と言った。
「今ここで理由を考えても、答えの出ない問いではあるけどね」
両親にも優将にも、絆にも、聞かないといけないことが、沢山出来てしまって、帰るのが怖くなってきたな、と思った瞬間、大音量で、蝉の声が鳴り響いた。
涼しい朝は、終わってしまったらしかった。