観念:But then I wonder what Latitude or Longitude I've got to?
「この形はアレだ」
またも、優将は唐突に、そう言った。
優将は、見ていた参考書のページの図を指差した。
χ軸とу軸。
「これがどうした」
「十字架の形だ」
…言われてみれば、そう見えてきた。
「あと、これ自体が、でっかい、垂直条件のベクトルに見える」
…見えてきた。
あれ?…どういうことだ?
そういえば、何でχ軸とу軸って、こういう形なんだ?
χ軸とу軸…。
垂直条件。
優将に相当感化されてきているのだろうか。
俺には本当に、大きなベクトル二つが、ゼロの地点で垂直に交わっているようにしか見えなくなってきた。
それとも、これも、その方向に無限に伸び続けるベクトルなのだろうか。
何だか、そう見えるというだけで、物凄い発見をしたような気分になっている自分がいるのに気付いた。
「確かに、十字架に見えるな」
「なぁ」
俺は、しばらく、その図形に見入っていた。
頭の中で、ベクトルと座標軸と十字架が、心地好く重なっていく。
何か、世界の構造を示唆する物に出会ったような。
それとも、世界の構造を数で規定しようとする行為が数学そのもので、そのイメージの一端に俺は触れているのか。
それとも、疑問や、共通点をそこに見出だすこと自体が誤解なのか。
でも、誤解でも構わなかった。
幾何学の持つイメージが美しい、と、俺が、その時、そう感じたことが重要だった。
観念、ということか。
そう思うと、そういうものが存在するように思える、と。
ベクトルもそうなのだろう。
知覚することも出来ない物だが、観念としては、あらゆる場所に、『ベクトル』を想像することは可能だ。
常に、目に見えない無数の同じ方向のベクトルが存在することが可能で、辺り一面に、様々な矢印が浮かんでいる情景が、頭に浮かんでくる。だから、その観念の中では、十字架もχ軸とу軸になり得て、それを、俺は、とても美しい、崇高なまでに澄み切った観念だと感じた。
その時、一瞬、目の端で、何かが、カサリと動いた気がした。
小さいが、酷く見慣れた姿をしているもののような気がした。
これも何かの、『観念』なのかもしれない。
「あ、ねえねえ」
俺が崇高なイメージに浸っていると、絆と慧の、女顔語尾延ばしコンビが話し掛けてきた。
慧が、明るく言った。
「今度のカラオケさぁ、合コンになったよ」
company…学生用語で、会費を出しあって執り行う会。コンパ。
[名詞]会社、一行、仲間、来客、同席、同伴、一緒、交際
keep company with A…Aと交際する
美しい幾何学の夢は、脳内で、微妙な意味合いを含む和製英語の慣れの果てに打ち砕かれた。
何だって?
「…俺の中で、慧は、合コンのセッティングをしない人ナンバー1だったんだけどな…」
心言が、困惑を隠せない表情で、そう呟いた。
その点については、全く同意見だった。
いやぁ、理解出来ないんですよ、あの慧が、どういうメンタリティで、美形の幼なじみ二人、という環境で育って、その伝手で合コンしよう、なんて提案が出来るのか。
俺なら気後れするわ。
…あと、…あの美人の幼なじみを、そういう使い方するのか、と思うと、…結構図々しいよな、見掛けに寄らず、って。
意外、と言うか。
さすがに、そうは言えないけど。
「…まぁ、そう言うなよ。俺も、そういうのを慧が取り仕切るかと思うと、意外でならないけど、あの女子高在校の幼馴染がいる分、同世代の女の知り合いは、俺達よりは多いんだから、本当は、俺達よりは合コンのセッティングをする確率が高かったんだよ」
「…そうか…」
心言は、それにはそれでショックを受けた様子だった。
「この閉鎖空間で、女子に会えるのを幸運だと思って、この話は他言しない方が良いと思う」
「あっ…そうか」
心言は、俺の指摘に、ハッとした顔をした。
そう。
常緑生と合コンだなんて、他のクラスメイトに知れたら、殺されるか、ついてこられるかだ。
「ご、合コンってそんなに深刻な話だっけ?」
黙って話を聞いていた水戸が、これまた困惑気味に問うた。
「余所は知らんが、この学校に関して言えば、用心して、し過ぎることはないぞ。この前、女の子が一人来ただけで、あの騒ぎだ」
奇しくも、それは、先日の学園祭で証明されてしまった。
何が高偏差値の名門校だ、ってレベルの騒ぎだったな。
教員達が諫めに出て来なかったのがラッキーだった、というもので。
学園祭なんて、学外の人間が多数来校するんだから、セキュリティ的には、もう少し、教員の監視があっても良かったのでは、とは思うが。
茉莉花という常緑生一人で、あの騒ぎ。
変な単純計算だが、仮に、五人で五倍になるとすると…。
下手すると、五人対五人が、五人対∞…否、五人対二十五人くらいにはなるかもしれない。
それは避けたい事態だ。
「ああ…あれは確かに凄かった」
水戸の引きつった笑顔が、合コンを機密事項にすることに対しての、承認の意図を含んでいた。
アメリカのジョージア州では、学園祭に女子がいる場合、どうだったか分からないが、国際的な視点から見たら呆れるような状態だったのかもしれない。
恥ずかしいから、海外から見た、うちの学園祭に女子が来た時の状態について、水戸の口から聞きたくない。
「あ、でも、この前の子、可愛かったんだって?見たかったなー。その子も来る?」
心言が、期待を滲ませた声を、心持ち潜めて、そう訊ねてきた。
「ああ、来るね」
あちらの幹事は小松茉莉花嬢らしいから、五人揃ってドタキャンでもされない限りは、彼女だけは確実に来るだろう。
俺は、そう答えながらも、水戸の表情を伺うことを忘れなかった。
あれから、確実に水戸は変わった。
妙に考え深げになったというか。
口数が少なくなって、時々、嫌なことを思い出したような顔をしたりする。
多分、原因は小松茉莉花だ。
恋でもしているというのか。それにしては、当の茉莉花に会えるというのに、あの、以前の明るさを見せない。
今度、茉莉花と出会ったら。
本人の中でも、何かが、はっきりするのかもしれない。