兄弟姉妹:The Garden of live Flowers
白いノースリーブワンピースを着て、普段は耳たぶの裏に少しだけつけるロールオンパフュームが無いから、膝の裏に、瑠珠のアトマイザーに入ってるパルファムを、一吹きだけかけてみた。
スカートが動くと、仄かに香る。
胸元が寂しい気がしたけど、何かアクセサリーを選ぶ気力もなくて、髪を下ろした。
少しだけいつもよりヒールの高い白い、スパンコールの光るミュールを履くと、普段とは別人になった気がした。
優将には、ああ言ったけど、泊まるつもりは無いから、普段の造花付きの籠バックを持って出かけようとしてると、中澤家の前で、慧に小声で呼び止められた。
「茉莉花。ごめん、こっち来て」
「慧?」
慧は、シーッと言って、右手の人差し指を、自分の唇に当てた。
「ごめん、来て」
Tシャツに短パン姿の、完全に普段着姿の慧は、中澤家の庭の隅に、私を誘導した。
「実は、うち、郵便受けに、盗聴器が仕掛けられてたんだ」
「…嘘っ」
慧は、シーッと言って、もう一度、右手の人差し指を、自分の唇に当てた。
「これから通報する予定なんだ。仕掛けた相手に、こっちが盗聴器に気づいたことを、気づかれない方が良いんだって。だから、ごめん、小さい声で」
「分かった…」
どういうことなの?
慧の家まで?
「御盆、木曽に帰る新幹線、キャンセルして、家族会議。俺も、防犯に、GPS機能付きの携帯、持て、って。茉莉花、連絡先、交換してくれない?」
「分かった」
御互い、小声のまま、携帯電話の連絡先を交換した。
「若しかして、茉莉花、出掛ける?」
「あ、うん」
「…若し、アレだったら、暫く、どっか、友達の家とか、行っといた方が良いかも。この辺、何か、キナ臭いから」
「あっ、うん」
これから水戸さんちに行くとは言えないけど。
慧は「気をつけてね」と、小声で言ってくれた。
「うちに、盗聴器を仕掛けられた理由が、全然、分かんないからさ。防犯ブザー、ある?」
「あ、あるある、持ってる…」
「そっか、なんかあったら、連絡頂戴ね」
「ありがと…」
それから、何か、凄く普通に、パッと慧と別れて、私は、駅に向かった。
…基本、『いい奴』ではあるんだよね。
やっぱり、別に、今も嫌いじゃないな、と思った。
姉弟の距離感、ってこんなかも。
喧嘩しても、ハッキリした謝罪を御互いする、って感じは無くても、会って、用があれば普通に話して、御互いが危なさそうだと、心配する、みたいな。
これって、自然かも。
…何か、今日、すっごく始めて『自然かも』って思った。
変な依存も期待も、相手に対して無くて、『姉弟』みたいだな、って。
あ。
―…若し、アレだったら、暫く、どっか、友達の家とか、行っといた方が良いかも。この辺、何か、キナ臭いから。
優将にだって、似たようなこと、言われたのに。
慧に言われた時は、悲しくなくて、『心配してくれてるんだな』って、普通に聞けた。
…これって、何か。
私、優将とは、姉弟の距離感|が、取れてない…?
でも、そっか、アリスにだって、沢山いたんだよね。次女で、九人兄弟の第四子だったって言うから、『お姉さん』のイリーナだけでなくて、書かれてないだけで、他にも。
駅を降りて、水戸さんの家の方に向かうと、台風の雨風で木の葉が落ちて、湿った地面の上で、押し葉みたいになってた。
こんなに綺麗にペチャンコになるんだよねぇ。
ここを人が通るんだ。
立ち止まって、繁々と足元の葉を見た。
地面に、くっきり浮かぶ葉脈。
その葉っぱのギザギザの縁。
これは、皆の合作の押し葉なんだな。
無作為だけど。
『自分』も、何だか、踏み拉かれて、地面に貼り付いてる気分になった。
…本当は分かってる。台風の夜、一度も、水戸さんに連絡しなかった。
「風が怖いね」とか。
「そっちは一人暮らしだけど大丈夫?」とか。
台風が怖いってことも伝えなかったし、相手の安否を気遣うこともしなかった。
優将と高良と夕飯食べてる方が、…『彼氏』と一緒にいるより楽しかった、って、気づいてる。
それでも、今日は、ここに来た。
正しいことかどうかは、分からないまま。
あ。長身に、黒のスキッパーシャツ。
絵の具の着いた、黒いチノパン。
歩いてる途中で、坂の手前に、水戸さんが立ってるのが見えた。
水戸さんは、驚いた顔で、「迎えに行くところだった」と言ってくれた。
「あ、えっと。おはよう。…有難う」
水戸さんは、少し顔色が悪くて、不機嫌なのに、無理して笑ってるような感じに思えた。
連れ立って坂を歩いていたら、相手が話し掛けてきた。
「ねぇ、常緑って、学園祭いつ?」
「四月の中旬。創立記念日の近くの土日にやるの」
「そっか、じゃあ、もう終わっちゃってるんだね」
会話が途切れた。
何かあったのか聞くべきなのかな。
隣を歩く水戸さんの顔を、ジッと見てみた。
絶対、痩せた。
付き合いだしてから、確実に痩せた。
―――私と一緒にいても、楽しいのかな。
亡くなった誰かに似ている『私』と、…『死人』と付き合ってるんだから。
やっぱり相手も、楽しくはないんじゃないか、って、思っちゃって。
それが楽しいんだったら、酔狂な人だという気もする。
そのまま連れ立って歩くと、台風の後でも坂の脇に咲き残ってる山百合の蕾が、一斉に、こちらに向いてくる気がした。
あれはマドンナ・リリーなんかじゃない。
だって、雄蕊があるから。
夏の、濃い緑の中で、白く浮かび上がった山百合が、私を責めるように生えてる。
あれが、もし、The Garden of live Flowersなんだったら、そこの足元にも、そこの塀にも、暗闇の隙間から、ちらちら見えるけど。…誰も助けてくれない。
自分で選んで、今日、ここに来たくせに、少し、怖い気がする。
相手にこれ以上踏み込むにも、やっぱり、気が進まない。
相手に踏み込まない、誰かと抱き合ってたって聞いても、尋ねもしない代わりに、相手のことも自分に踏み込ませなかった。
そんなこんなで、水戸さんの家の前に着いてしまった。
…結局、自分の『家』に盗聴器が仕掛けられてて、防犯カメラの映像が横流しされてるから、暫く傍にいてほしい、『家』に入れてほしい、とは…言えなかった。
自分で相手に踏み込ませなかったのに、今更、守ってくれ、とか…。
それとも、自分といると危ない、って、言ってあげる方が、正しいのかな。
…変なことが起きてる原因が分からないんだから、私と一緒にいると、水戸さんも危ないかもしれないのに。
その場合、自分の『家』に盗聴器が仕掛けられてて、防犯カメラの映像が横流しされてるから、暫く傍にいてほしい、と、言わないことの方が、卑怯になってしまうかもしれない。
…どうするのが、正しいんだろう。
これで、誰かの『家』に入りたいなんて。
誰かに、これ以上踏み込むなんて。
…盗聴器や防犯カメラのことを相談しないと、自分から誰かの『家』には入れないし、誰かに『家』に入れてもらえることもないなんて。
お父さん、本当に、迷惑だな…。
アパートの一階のベランダに、キャンバスが置いてあるのが見えた。
「大きいキャンバスだね、水戸さんち、って、すぐ、分かる」
「ああ、今、matière…えっと、絵を描くための画面を作ってて」
「マチエール?」
「そう、キャンバスに、下地材を塗って、乾かしてるの。薄く溶いた絵の具で描きたくて。普段とマチエールを変えたいんだ。何回か、下地材を塗って、乾かして、を、繰り返して、凸凹を均す為に、紙やすりで研ぐんだ。あのサイズだと、干す場所、他に無いし」
「キャンバスを研ぐ…」
意味は分からないけど、「へぇ」と言った。
「あー…一階って、不用心じゃない?」
ベランダから、悪戯で、キャンバスに、火を点けられたり、とか、ベランダから侵入されたりとか、干してある物、取られたりとか、無いかなぁ。
水戸さんは、不思議そうに「そう?」と言った。
「治安良い国だから、ピンと来ないなー、でっかい野郎の一人暮らしだし。歩く時は用心してるけど、落とし物が戻ってくる奇跡の国だし。今日は、何で、そんなこと言うの?」
ドキッとする。
そうだ、何回ここに来ても、防犯を気にしてる風なことなんて、言ったことなかったのに。
「…んー、女の子の一人暮らしだと、住むならオートロックにしたら、とか、言われるから」
水戸さんは、「それは確かにね」と言って、鍵を開けて、招き入れてくれた。
エアコンを入れててくれたみたいで、涼しい空気の中に、いつもの絵の具の臭いがした。
揃ってキッチンで手を洗っていると、見たことのない粉が見えた。
「…小麦粉、じゃないね」
「ああ、挽き玉蜀黍。美味しいよ」
「へぇ…」
グリッツって、何だろう。
「あ」
キッチンの足元にある段ボールの中に、ビール缶が何本か、無造作に置いてある。
…御酒…。
私の視線に気づいた水戸さんが「ああ」と言った。
「親が、期限切れのビール、送ってくるんだ。飲み切れないからって、ビール煮用に」
「へぇ…」
…別に、そんなこと、聞いてないから、言わなくていいのに。料理してるとこなんて、見たことないし。自分で買ったのでも、親が買ったのでも、料理に使ってても、実は飲んでても、あんまり興味無い。
でも『御酒飲んでるのかも』っていう『情報の厚み』が、目の前の相手に足されるのが、何だか『重たい』だけ。
あんまり、知りたくない。
…変なの。
優将がハンバーガー好きかどうかは、あんなに気になったのに。
いつもの、ベッドの傍に立つと、不意に、相手の顔が、頬に近付いてきて、少し嫌な顔をされた。
「…香水かえた?会わないうちに」
「ああ、貰ったの」
急に、空気が、ジャリッとした。
…ああ、『誰から?』って?
「瑠珠と御揃いなんだ。覚えてる?髪の長い友達」
「…あー、いかにもイケてる女子って感じの」
何か、カチンときた。
意味は分からないけど、『瑠珠が自分の好みじゃない』ってニュアンスが伝わってきた。
別に、そんなの、知ったこっちゃないから、言わないでほしいんだけど。
『知りたくない』。
…あーあ。
でもこれ、『女の子の友達からのプレゼント』だから、スルーしてもらえるんだ。
男の子から貰ったんだったら、アウトだったんだろうな。
面倒臭。
…自分で買った、って、嘘つけば良かったのかな。
…『嘘つけば良かった』って、何それ。
嘘つかないと、普通でいられない関係って、何?
…あーあ。
私、瑠珠、好きなのに…。
優しいし。
なのに、なんか、見た目で、先入観もたれてるんだろうなって感じがして、それが、何か、気に入らない。
瑠珠だって、良い所ばっかりじゃないけど、完璧な友達なんて、いないんだから。
瑠珠が優しいことも知らないのに、こういうの、何か、気に入らない。
その、『何か』を、上手く、伝えられないけど。
そもそも、自分のことだって教えてないのに、瑠珠のことが、相手に分かるはずもないんだし。
黙ってたら、ベッドに座らされて、「…怒った?」と囁かれた。
「…んーん。嫌いな匂い?」
隣に座ってきた相手の顔が、右側の耳元に来る。
「嫌いな匂いじゃないから、嫌なんだ…」
「そう?」
難しいこと言うなぁ。
「…えっと、…優将とか、慧に、会った?」
ギクッとする。
「…うん、近所だし」
「そう」
相手は、私の右肩に頭を凭れ掛けて、長い溜息をついた。
…どうしよう。
『他人』が入れない。
『二人っきり』でしか、関係が作れない。
間に、『瑠珠』とか『優将』とか、『御酒を送ってきた親』とかの情報が入り込むと、たちまち、気まずくなっちゃって、…何か、ジャリッとする。
優将といると、そんなこと、ないのに。
他の子も一緒に、遊べるのに。
…そりゃ、そっか。
優将は、『彼氏』じゃないんだもん。
昨日も、高良もいて、凄く楽しかった。あんな状況でも。
…今、少なくとも、楽しくない。
この人のこと、嫌いじゃないのに。
何となく、相手の頬を舐めてみた。
こっちを向いて、少し驚いた顔をされた。
「…犬だったら、これで仲直りなのにな」
相手が、私が言った『仲直り』という言葉に、目を見開いた。
そして、私の胸元に、顔を埋めて、呟いた。
「…喧嘩も出来ないじゃん」
それは確かに言えてる。
仲直りどころか、喧嘩も真面に出来てない。
…踏み込まないし、踏み込ませないから。
優しいだけ、とか、喧嘩しないだけ、って、多分、本当に『優しい』ことにはならないんだろうな。
高良が『優しい』のは、『向き合う』からだと思う。
私に向き合って、考えてくれたから、嬉しかったんだと思う、高良が出してくれた、友達になろうっていう提案が。
…向き合う?この人と。
…格好良いとは思うし、嫌いじゃ、ないんだけど。
これ以上、自分から踏み込む気が、どうしても起きない。
そのままの姿勢で、ベッドに押し倒された。
相手の膝が、自分の膝と膝の間に入り込むのが分かった。
…あーあ。
耳元で、「する?」という声がする。
…あーあ。
自分の胸元に見える、相手の前髪を、右手の指で摘まんで持ち上げてみる。
「…持ってる?」
「…持ってる」
…あちゃー。持ってるのか…。
そうか、『家』に行く日を、指定したからな…。準備があるのか…。
どうしよう、めちゃくちゃ冷めた。
何でかな。
格好良い『彼氏』なのに。
嫌いじゃないのに。
…気づきたくないけど、それって、…座標軸がゼロなんだよね。
嫌いじゃない、ってことは、…別に、…好きじゃないんだ…。
…どうしよう。
「…したら、好きかどうか、分かるかな」
…しまった。
…泣かせた。
まぁ…泣くか。
このシチュエーションでは、断るよりも不味かったかも、「貴方が好きかどうか分からない」って、言ってるようなもんだし。
白いノースリーブのワンピースの胸元が、どんどん湿っていくけど、何にも感じない。
可哀想だとも、不快だとも、何にも。
「…他の女の子と、学校で抱き合ってたのに、今、泣くんだ…」
「…誰から聞いたの?」
「誰から聞いたとかは、別に良いんだけど、…分かんないんだ」
相手は、泣き顔を上げた。
「分かんない?」
「瑞月が好きなの?それとも、…私が、ミサさんって人に似てるから、好きなの?」
相手は、驚いた顔をした。
「…ああ、良いの。私、分かんないから」
「分かんない、って?」
「人を『好き』って、どういうことなのか」
アルフレッド・テニスン『モード』第22歌
庭にいらっしゃい、モード、
黒い蝙蝠の夜は飛び立ってしまったから、
庭にいらっしゃい、モード、
門のところで一人待っているから。
忍冬スイカズラの香りが散らばり、
薔薇の芳気が吹き撒かれる。
朝のそよ風が香りを運び、
愛の惑星が天高く昇り、
あのひとの愛する光のなかを
水仙のような青空をしとねに薄れてゆくから、
あのひとの愛する太陽のなか薄れてゆくから、
陽光のなか薄れゆき、死に絶えるから。
夜通し薔薇は聞いていた
フルート、ヴァイオリン、バスーンを。
夜通し窓辺のジャスミンは揺れていた
調べに舞い遊ぶ踊り子に合わせて。
やがて鳥の目覚めとともに静寂が訪れ、
月の沈むとともに沈黙が落ちる。
ぼくは百合に話しかけた、「一人だけなんだあのひとが心を浮き立たせるのはね。いつになったら踊り子たちはあのひとから離れるんだ?踊りにも見世物にも飽きているじゃないか」
すると半分は沈む月に向かい、残る半分は昇る太陽に向かった。
砂の上で小さな音を、石の上では大きな音を立て最後の車輪を響かせながら。
ぼくは薔薇に話しかけた、「束の間の夜は過ぎる。歓談と饗宴とワインのまにまに。ああ幼き神の側女よ、手に入れられないもののために、あんなため息をついて何になるんだ?
ぼくだけのものなのだから」と薔薇に誓った。
「永遠に、ぼくだけのもの」
薔薇の心がぼくの血を侵していた、音楽が屋敷に鳴り響いているあいだは。
ぼくはもうだいぶん庭の湖のほとりに立ったまま、小川が湖から、草原や森に、水を落とすのを聞いていた、何よりも愛しいぼくらの森に。
あなたの歩みが香しい跡を残した草原から、いつも三月の春風がそよぎ、あなたが宝石のような足跡を、瞳のような青い菫に押し当てたあの草原から、ぼくらが逢瀬を交わした森の谷間に、楽園の峡谷に。
可憐なアカシアは、樹上に咲いた長いミルク色の花を揺らすこともない。
白い湖花は湖に身を投じ、瑠璃はこべは草地でまどろむ。
だが薔薇はあなたのために夜を更かした、ぼくとあなたの約束を知っていたから。
百合も薔薇もまんじりともしなかった、夜明けとあなたを待ちわびて。
少女ばかりの蕾の庭におわす女王薔薇よ、こちらにいらっしゃい、踊りは終わった、繻子のつやと真珠の光に包まれた百合と薔薇の女王を兼ねた女王よ。
巻き毛ごと陽にさらした、小さな頭を、花々にきらめかせ、そして花々の太陽であれ。
門のところで、情熱の花からきらめく涙が一粒落ちた。
あのひとがやって来る、我が恋人、我が友人。
あのひとがやって来る、我が生命、我が運命。
赤い薔薇が叫ぶ、「もうすぐよ、もうすぐ」
白い薔薇がむせぶ、「遅いわね」
飛燕草が耳を澄ます、「聞こえた、聞こえた」
そして百合がささやく、「あともう少し」
あのひとがやって来る、我が分身、我が宝物、どれほど軽やかな足音だろうと、ぼくの心はそれを聞きつけて高鳴るだろう、土中に横たえられて土をかけられようと。
ぼくの塵がそれを聞きつけて高鳴るだろう、一世紀のあいだ死んで横たわっていようと。
あのひとの足許で目覚めたり震えたり、紫や赤の花を咲かせたりすることだろう。
岩波文庫『対訳テニスン詩集』(西前美巳編)参照、東照訳