愛情:Wool&Watermelon
「ここが、一件目の、苧干原広定さんの御宅?」
「ええ、分家の人ね。確か、大きな山葵田を持ってたはずだけど」
なるほど、豪農、って、分かるなぁ。
比較的新しい家で、平屋で百坪くらいありそう。
田舎の家の土地の余り方って、ホント、凄いよな…。
瑞月がインターフォンを押して、「ごめんください」と声を掛けながら、いきなりドアを開けると、年配の女性が、これまた、その女性の息子くらいであろう年配の男性の言葉に対し、「あいあい」と相槌を打っている言葉が聞こえる。
…一定数いるよね、鍵を掛けない人達。
田舎あるあるなんだろうか。
お金持ちそうなのに…。
「あらー、瑞月ちゃん。来たねー」
八十代後半くらいの女性が、ニコニコしながら、上がり框に腰掛けている。
半袖に長ズボンで、足首くらいまでのストッキングを履いていて、髪は、短くて真っ白だった。
六十代半ばくらいの総白髪の、上は、少し土が着いた白いTシャツ、下はジャージ姿に、首にタオルを巻いた男性が、「あー、良かった、来てくれて。もう、ばあちゃんが、楽しみにして、玄関で待ってて」
瑞月は、余所行きの顔で微笑みながら、「民さん、広定さん、お久しぶりです」と言った。
いよっ、コミュ強。
民さんは、照れ臭そうに「そんな事ないわよ」と言いながら、俺に向かって「聖さん、馬刺し、好きだじー」と言った。
広定さんが「違うって」と言った。
「聖さんじゃなくて、農協の聖さんの、甥御さんが来たの。及木さんところの貴ちゃんの息子さん。貴ちゃんそっくりだろ」
「あー、おんなじ顔だー。貴ちゃん、寄ってください」
「いや、貴ちゃんじゃなくて、貴ちゃんの息子さん。寄ってくださいじゃなくて、わざわざ寄ってくれたの」
…ちょっと耳が遠いのかな…。
のっけから不安。
「あ、どうも。降籏高良です。本日は、宜しく御願い致します」
「あらー、あんたもくりゃーいいだにー」
息子らしき男性は「だから、来てくれたんだって」と言って、「どうも、苧干原広定です」と名乗ってくれた。
「こっちは、母親の民。小松の分家から嫁いだので、昔のことは割合覚えてるから、話が出来るかもしれませんが、何分、年なので、俺が通訳みたいな感じになるかもしれません。ほら、エアコン効いてるとこ移ろう、瑞月ちゃん、来てくれたから。ほら、敦子が水羊羹だすから」
「あいあい、好きですよ、水羊羹。広、仕事してください」
「仕事してください、じゃないのよ。盆で仕事休みだから家にいるの」
「あいあい、お茶出しますから、家の中に上がってください」
広定氏は「埒が明かないわ」と言って、俺達を、広い家の中に通してくれた。
涼しい…。
有難い。
広定さんの奥さんだという、敦子さん、という、これまた六十代くらいの、ボヤッとした柄のカットソーに黒いゴムウエストのズボンを穿いた短髪の女性に、手土産のゼリーの詰め合わせを渡すと、敦子さんは、微笑んで、俺達を、八畳二間続きの床の間の、障子を開け放って、十六畳ほどの広さにしてある場所に通してくれ、人数分、麦茶と、水羊羹を出してくれた。
…何か、嫌われてる感じはしないんだけど。
本当に、ここの人達が、瑞月の国籍のことなんかに、口を出したんだろうか。
そういう感じじゃないんだけど。
民さんは、ニコニコして「飲んでください」と言った。
洋蘭が生けてある床の間の掛け軸には、行書で『敬天愛人』と書いてあり、大きなテーブルは、冬は家具調炬燵になるものと思われた。
…これ、仏間は別にあるってことだよな。
広い…。
両親の忠告を聞いて、『綺麗な靴下』を履いて来て大正解。
「そろそろ昼だから、馬刺しも、食べてってくださいね。山葵田を、最近、クレソン栽培に切り替えたもんで、うちのクレソンと一緒に」
「ありがとうございます」
…ランチに、自家製クレソンを添えた馬刺し。
…豪華…。
あ、弁当あるのに。
しかし瑞月は、弁当の用意があることなどおくびにも出さず、微笑んで、「ありがとうございます」と言った。
…弁当が傷む前に、弁当は弁当で食べないと、流石に悪いな。
「あらー、山葵田行くのー?沢山歩くよ」
広定さんは、困ったように「行かないのよ」と言った。
「うちに、来てくれたの。山葵田行かないし、もう、山葵、作ってないの」
「あいあい。食べてください、野沢菜」
「野沢菜出てないのよ。…埒が明かないわ。敦子ぉ、野沢菜ぇ」
…聞き取り、いつから開始できるかな。
そりゃそうなんですよね。
いくら、聞き取りで来たからって、そりゃ、話者さんが話したい話が先に来たり、メインに来たりするもんでして。
時間を頂いて、聞きたい話が聞き出せたらいいけど、ってところですよね。
…聞けるかなぁ…。
だから、事前準備として、郷土資料の読み込みが大事なんですよね。
本に既に載ってることも知らないで行って、本を読めば分かるような年中行事の固有名を話者さんから聞いて帰っても、ただ、実地で巡検しながら、貴重な時間を使って、本の内容をなぞっただけになってしまいがちなので。
で、その土地の年中行事なんかの『基本』を知らなければ、『特異性』にも気づけないので。
その、郷土資料を読み込む、という手間を惜しむと、また、うちの父親に『勉強不足』って言われちゃうんだろうな、っていう話で。
だから、予習はバッチリですけど、どの程度それが通用するかは未知数ですね。
何せ、門前の小僧習わぬ経を読む、とは言っても、所詮、親のフィールドワークで連れ回されたことがあるだけで、一人で聞き取りなんて初めてだから。
コミュニケーション能力が試される…。
試練ですな。
結局、敦子さんも交えて、皆で昼食に、美味い馬刺しを食べていると、途中で民さんが疲れてしまい、敦子さんに連れられて、自室に下がってしまった。
残された、俺を含む三人は、気不味い気待ちで、食事を続けた。
広定さんは、「すみませんね」と言った。
「お客さんが好きだもんで、昨日は、興奮して、よく眠れなかったらしくて」
「いえ…」
そんなに楽しみに…。
広定さんは「瑞月ちゃんも、ごめんね」と言った。
「年寄り連中、あんたが好きなんだわ」
瑞月は、「え?」と言った。
「あのー…、子どもが減っててね。子どもっていうか、そもそも、若い人が減ってるの、周りに。だから、子どもと遊びたいくらい気持ちは元気なのに、孫のおらん人も、曾孫のおらん人も増えてて。墓掃除に帰って来てくれたり、墓参りに帰って来てくれたりする子が減ってるから。うちも、誰も帰って来ないから、あんたが来るって言ったら、ばあちゃん、ああして、玄関で待っとる。あんたが国籍変える、なんて聞いたら、外国から、親戚の、若い別嬪の子が帰って来なくなると思ってんのよ。元々、向こうで生まれたバイリンガルなんだから、国籍変わったって、あの子が今までと変わるわけじゃないのよ、とか、難しいこと言っても、分かんないの、カタカナは苦手だから。寂しいのよ。あんたに、来てほしいわけ。帰ってくる親戚の若い子は、『皆の』孫なの」
…おー。
そういう事情に加えて、過疎化、高齢化は、課題ですよね、少子化共々。
広定さんは「俺等の話なんか聞いてくれんのよ」と言った。
「いやー、俺なんかが、それは違うよ、好きにさせてやりなよって言っても、この野郎、口答えか、ふざけたまねをするな、って言われて、罵詈雑言吐かれて終わり。俺達みたいな六十代なんてねぇ、あの人達からしたら、息子や娘の世代だから。ほら、あんたの大叔父の銑二さんも、まだ七十代だからね。若手だから、あんたを庇ってたけど、話を聞いてもらえてなかったでしょうが。銑二さんは、あんたが可愛いから頑張ってたけど。今回も、泊ってくれるって、自慢してたからね」
定年退職して地元に戻ったら、青年団に入れられた、とか、聞きますからね…。
八十、九十代からしたら、六十代は『若手』なんですよね。
…えー、七十代は若手なんだ。いや、そうなのかも。九十代から比べたら、二十も若いんだ。
…いやいや、思わぬ『聞き取り』をしてしまった。
「確かに…遊ぼうって、よく、昔から、言われてたけど。すっごく、個人的なことに口も出されるし、悪口も言われるし」
瑞月は、困惑したように、そう言ったが、広定さんは「違うのよぉ」と言った。
「悪口じゃないのよ、口出してるつもりも無いの。若い子と共通の話題が無いから、『自分の時代の常識』っていう引き出しから古い価値観を引っ張り出して来て、ああだこうだ言ってるだけで、本当は、若い子と話がしたいだけなの、寂しいから。ああだこうだ言われてるのも、あんただけじゃないの、皆なの」
瑞月は「そうなんですか?」と聞き返した。
「そうよ。御蔭で、うち、御盆、誰も帰って来なくなっちゃったんだから。親戚中で、まだ結婚せんのか、彼氏はおらんのか、孫の顔が、曾孫の顔が見たい、結婚したらしたで、子どもはまだか、一人生まれたら、一人だけか、二人生まれたら、男の子は生まれないのか、三人以上産んでたら、育てきれるのか、って、それぞれ、好き勝手に喋るからさぁ。…言われてる方にしたらね、『どうしろってんだ』って、帰って来たくなくなっちゃうのも分かるのよ。貴重な休みと交通費使って、嫌な思いしに帰るもんか、って、なっちゃうじゃない。ある程度の年取ったら、結婚して子ども産んで、が、普通の世代の人たちは、若い人が、何で結婚せんのか、なんて、理解が出来ないから、本気で、不思議で、『腰かけで働いて、結婚したら家に入れ』って言ってたりするからね。悪気が無い、という、質の悪い愛情だったりするのよ」
愛情の反対は憎悪では無くて無関心、ってやつですかね。
無関心じゃないから口を出すわけなんでしょけど、言われてる方は、愛情だとは思わないかもね…。
ラッピングが包装紙とリボンが普通だと思ってる子達が、新聞紙に包まれた菊を貰っても、ラッピングされてるプレゼントだとは思わないけど、中身の菊は、おじいちゃんが丹精込めて育てた菊だったりする、みたいな、悲しいジェネレーションギャップ、みたいな話なんだろうか…。
この価値観の溝も、埋まらないやつね。
加えて、海外の個人主義の価値観で育ったら、逃げ出して、国籍変えたいわ、って言われても、宜なるかな、というところでしょうか。
広定さんは「あんたもそうよぉ」と俺に向かって言った。
「御盆なのに、伯父さんちに泊らないで、本家の、彼女の大叔父のとこに泊るって噂になってて、聖さん、しょげてたよぉ、銑二さんは喜んでても。貴ちゃんから、息子がこっち来るって電話で聞いて、家に来てくれるもんだと思って、西瓜買って待ってたって」
「…ええええええ?」
なっ、初耳なんですけど。
「いくらこんな、別嬪の彼女いるからって、聖さん、可哀想じゃないの。あそこは、親も死んで、夫婦二人暮らしで、大きな西瓜なんて、買っても食べ切れないから、甥っ子が来る時は買って待ってるんだって、農協でも有名なんだからぁ」
「…えっ、ええー?」
「聖さんの書斎、甥っ子の写真でいっぱい、って有名よぉ?あそこは子どもがおらんのだから。千代子さんが気にするから言わんのだろうけど、相当可愛いのよ、あんたが。悪いこと言わんから、うちの帰りに、クレソン持って、伯父さんち寄ってください」
「あっ、はい…」
ゼリーの詰め合わせは、伯父さんちの分も、一応、今、持って来てるけど、そんな重ための愛情を向けられてたとは…。
確かに、書斎、お邪魔したこと、なかったけど、本当に、そんなことに…?
何か『高良君の手作りケーキ』の画像データが、何故、聖伯父にまで送信されてたのか、分かった気がする。
うちの父親なりの気遣いだったのかも…。
凄い『聞き取り』してしまった。
あと『彼氏』だって、広まり過ぎ。
聖伯父さんまで、俺が、この子の『彼氏』だと思ってるってことでしょ?
田舎、怖ぇー。
新幹線降りたら肩書が『別嬪の彼女の家に泊るから自分の伯父の家に泊らない彼氏』になってる、みたいなメタモルフォーゼ、あんの?
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった…。
ただし、来ちゃったのは、雪国は雪国だろうけど、真夏の信州で、夜じゃないし、雪も降ってないから、夜の底も別に、白くならなくて、wonderlandだから、肩書が『彼氏』になる、みたいな。
取り敢えず、ごめん、聖伯父さん、職場の農協で、そんな噂になってしまってて。
…でも、そうだな。
そういう意味じゃ…俺、伯父さん夫婦に『無関心』だったかも。
残酷な話だよな。
散々、お年玉や西瓜を貰ってても、俺に伝わってない、っていうのは。
結局、そのまま食事を終えたところに、「起きませんねぇ」と、申し訳なさそうに言って、敦子さんが戻ってきた。
よく見ると、カットソーの下に穿いたゴムウエストの黒いズボンの膝に、百合の花粉のようなものが付着している。
別室に、盆花が生けてあるのかもしれない。
…何柄のカットソーなんだろう。よく、年配の方が御召しになってる、ボヤッとした、花柄と水玉を滲ませたみたいな、様々なバリエーションの色のある、あのカットソー、偶に、よく見たら縞柄とかも入ってる、あのカットソーの柄、名前あるのかな…。田舎のスーパーの衣料品コーナーに、短いストッキングとかと一緒に、絶対置いてあるやつ。
「あー、申し訳ない。えっと、俺が瑞月ちゃんから相談されて、予め、ばあちゃんに聞いといた話を、しますか。詳細が、違っちゃってるかもしれないけど。俺は、ここの出身だし、せっかく来てくれたんだから、聞かないより、良いでしょう」
「いえ、助かります。御願いします、広定さん」
広定さんは、黄色い、卵の特売のチラシの裏にボールペンで書かれたらしいメモを、老眼鏡を取り出して掛けて、読み上げた。
「えっと、一、『つねちゃんふみちゃん』という言葉を聞いたことがあるか、ある場合、どういう時に使うか。二、降籏本家の蔵の前の像について、何か知っているか。三、降籏本家の蔵の中に、何か珍しい物があると聞いたことは無いか。だったね」
Jasmine、凄いな。
軽くメッセージを送っておいた内容、アンケート形式で相談しててくれたんだ。
『聞き取り』としてはアレかもだけど、フィールドワークとしては、その形式もあるし、話者さんが寝ちゃった今となっては、助かり過ぎる。
…いやー、名サポーターじゃない?
調整力といい、仕事出来るねぇ。
「一、『つねちゃんふみちゃん』という言葉。これはね、俺も聞いたこと、ある」
「おお、そうですか」
「うちの母親の親世代は使ってたよ。母親世代は使わない。俺の、ばあちゃんとかが、何か、小さいものに言ってた。『チビ』みたいな意味。野良猫とかに、『つねちゃん』とかいう」
…流石、実地。
出てくるなぁ、話が。
「…その、どうして、そう呼ぶようになった、とか、いつから、とか、分かりますか?」
「…理由までは分からんなー。親も、もう、使ってない言葉だからね。聞いても分からんかった。でも、降籏本家の蔵の前の像のことを、『つねちゃんふみちゃん』って呼ぶ年寄りは、まだいる」
「本当ですか?!」
「あー…、えっとね。亡くなった子どもの供養?そういう感じだって、うちの母親は、えっと、寝てる、うちのばあちゃんね、は、言ってた。結婚してるんだって」
「…えっと、あの像が、ですか?」
「そう、亡くなった子ども二人を娶せてるとかなんとか、詳細は分からんけど、そういうのらしい。御供養ね。で、降籏本家の蔵の話はねー。…分からんけど、今なら、見せてもらえるかもよ?」
俺と瑞月は、声を揃えて「本当ですか?!」と言った。
「…そんな、見たかったの?中身、結構、苧干原本家の蔵に入れたらしいじゃない、そっちも、銑二さんに見せてもらえば?あのねー、最近代替わりしたのよ、降籏本家。去年、篤さんが亡くなって、息子の茂さんが継いだんだけど、茂さんは、蔵を解体したがってるのよ。文化的価値が有るかどうかも分からん、って言ってたから、価値が有るもんがあるんだったら、教えてあげれば?」
篤さん…ヘルニアだった人かなぁ、よく分かんないけど…。
すっごい、良い情報を得た。
実地調査、すげぇ…。
文字の中だけだったことが、立ち上がってくる、というか。
今日、これだけでも、聞いてよかった。
書いて読んで、とかしてたら一時間のことでも、聞くだけだと、三十秒くらいで説明出来ることとか、あるからなぁ。
対面のコミュニケーションが、そこまで得手ではなくても、やっぱり、直接会う意味って、あるよね。
「でー、明日、あんた達が話を聞きに行くのは、俺の姉の恵美子の嫁ぎ先の、柳澤さんとこね」
「や…、柳澤?」
広定さんは「そうそう、石屋さんだったんだけど」と言った。
「嗣品さんっていって、市役所に勤めちゃって、石屋さん継がなかった方の人なんだけど、古い先祖の帳簿とかの管理をしてるのよ。蔵、解体しちゃってね、随分前に。中身は、あの人がまだ持ってて。あの石像彫った人の話とかが分かると良いねぇ」
「あ、有難うございます!」
う、うわー。
地縁、大事。
こうやって紹介してもらわないと、やっぱり、話聞くのって、難しいよな…。
Jasmine、ホント、有能…。
さて、聖伯父宅にでも、と、広定さんと別れると、庭先に、敦子さんと、見覚えのある受け口の、四十代半ばくらいの痩せ型の女性が立っていた。
「千代子伯母さん」
「高良君…」
「どうも、御墓掃除以来ですね。ああ、こちらでクレソンを頂いたんで、丁度、御土産と一緒に持って行こうと思ってたとこだったんですけど。…伯母さん?」
「うん、うん、そうなんだってねぇ、今、敦子さんから聞いて…」
チリチリパーマの伯母は「良かった」と言って、両手で顔を覆って泣いた。
半袖シャツから出ている腕はガリガリで、ステテコみたいな、例の謎の柄の短目のズボンから出ている脚も、地黒で、細い。
敦子さんが、気の毒そうに「暑いから中へ」と言った。
俺と瑞月は、顔を見合わせて、結局、一緒に、広定さんの家の中に戻った。
「あの人、迎え盆なのに、西瓜抱っこして、リビングで寝てて。…高良君、来てやってくれないかしら」
う、うわぁぁぁぁぁぁぁ。
そんなにぃ?
もうやめて、西瓜は抱いて温めて孵す物じゃなくて、冷やして食べる物よ。
「あ、いえ、これから、ゼリーの詰め合わせ持って、伺うところだったんですけど…」
「やっぱり、貴子さん、うちのこと、怒ってるの?高良君、泊まらせないなんて…」
…え?
「そういう話は、聞いたこと、ないですね。苧干原本家に泊めてもらうのは、フィールドワークの為なんで。御墓の用事だったら、そちらに伺ってたと思いますけど」
でも、確かに、泊まろうとはしなかったのは事実だな。
何かあったのかな…。
「その、フィ、フィールドワーク?も、うちを頼んなかった、って、うちの人、しょげてて」
「い、いやいや、あのー、話者さん、正直、高齢な程助かるんですよ、今回の件は。別に、頼らなかった、というか、四十代の伯父さんの知り合いからより、七十代以上の人の伝手の話が聞ければ、というだけの話だったんで、他意は無いんですが…。特に今回、ピンポイントで、降籏本家に用事があったんで…。期間も、二泊三日しかないし」
「…あー、ほら、農協の伝手が使えたのに、って、しょげてたんだけど。そういうことだったのね。確かに、降旗本家は、最近代替わりして、茂さんは、他所から帰ってきたばっかりだから、あんまり面識ないし、あの家は、とっくに離農しちゃってるし、苧干原本家の伝手の方が…。そういうことだったの…」
いや、俺が今『そういうことだったの』って思ってるからね。
…Jasmine、スゲーな。
農協の職員より、良い伝手を持ってたの。
…当たりだ、この協力者。
聖伯父さんには悪いけど…。
「申し訳ないんだけど…。振りでもいいから、その、フィールドワーク?おじちゃんからも、お話、聞いてあげてくれないかしら…」
「え、良いんですか?…正直助かりますけど…」
伯母から『お願いだから伯父ちゃんを話者さんにしてあげて』と言われる日が来るとは思ってなかったけども。
うちの母親の五歳上の兄か。
うちの母親より、話を知ってる可能性、あるじゃん。
「じゃあ、千代子伯母さんにも、お話伺っても、良いですか?」
千代子伯母は「勿論よぉ」と言って、泣いた。
「あー、良かった。もう、あの人ねぇ、西瓜の上に乗ってる、小さい頃の高良君の写真を撮ろうとして、貴子さんがトイレに行って、あたしが台所にいて、明良さんが雨戸を閉めてる間に、夢中で一眼レフを向けてて」
い、一眼レフ…。
思ったより愛情が重い…。
「高良君、それで、西瓜から落ちちゃって…。怪我はなかったんだけど、貴子さんが怒って、うちに写真、送ってくれなくなっちゃって。明良さんが気を遣って、メールくれるんだけど…」
…怒るかもなぁ。
「ああ、まぁ、じゃあ、この後、伺いますんで。実はまだ、苧干原本家の銑二さんにも御挨拶してないんですよ。一度、用意をしてから、伺って宜しいですか。今聞いた御話しも、ちょっと纏めたいし」
「良かったー、あたし、今、クレソンとゼリー、頂いて、家に持ってって、待ってるからぁ。あー、良かった」
千代子伯母は涙を拭いながら「本当に良かった」と呟いた。
「うちに、小さい高良君が来てた時に掛けてあげてた、手編みの毛糸の膝掛も、西瓜に乗ってる写真も、あの人の書斎に、ずっとあるのよ。…あたしが、生んであげられたら良かったんだけど」
連れ立って苧干原本家に戻りながら、瑞月は「愛されてるのね…」と言った。
「そっちも、随分可愛がられてたみたいじゃん」
「…高良ほどじゃない気がするけど。でも、…不公平だったかも」
「ん?」
「ここのこと、とか、ここで、自分が、どう思われてるのか、とか、よく知らないのに、日本の国籍を捨てようとしてたのかもしれない、って、ちょっと、思っちゃった。公平ではなかったかも。もっと、足元を見てから、国籍を決めても、良かったかも、って」
「んー、そっか。公平っていう考え方は好きだけどね」
「…何してるの?」
「何って、お前の弁当が傷まないうちに喰ってんだけど。このまま、何処かの家に着いたら、また御馳走になっちゃって、食べ損ねるぞ、これ。歩きながらでも食べられるように、サンドイッチにしてくれたんじゃないわけ?」
行儀悪い、みたいなクレーム?
「…傷んだら、捨てちゃっていいのに、暑いんだから…」
瑞月は、一瞬、不思議そうな顔をしてから、真っ赤になって、そう言った。
「…だから、傷む前に食べるんだって。聞いてた?」
せっかく作ってもらった物を粗末にはしませんし、出された物を極力残さないのも、フィールドワークの礼儀の基本ですよ。
「若しかして焼いたラム肉?美味いね。胡瓜とチェダーチーズと?粒マスタードか」
「う、うん…。胡瓜は薄切りにしてビネガーに漬けて、マスタードも、二種類混ぜてる。粒のと、そうじゃないのと」
そんな手の込んだものを、朝から作ってくれたとは。
やっぱり、残したら、バチが当たると思う。
いやいや、味自体はシンプルで、ホント、美味い。ラム自体はオリーブオイルと塩、くらいの味付けなんだろうけど、この、胡瓜という野菜のチョイスが、如何にも、英国よねー。
「…どうした?本当に」
「…ううん」
俺が食べ終わるまで、結局、瑞月は、赤い顔をしていて、ほとんど喋らなかった。
俺も、口に物が入っているから、ほとんど喋らなかった。
俺は、食べ終わってから、まだ少し凍っている保冷剤を、ブルーのギンガムチャックのペーパーナプキンに包んで、片手に握りながら、苧干原本家に戻った。
「あ、あの、もしかして、サンドイッチ食べる方便に、一度、ここに戻ってきたの?」
「そうだよ?ついでに御挨拶も出来れば、別に嘘じゃないじゃん」
瑞月は、苧干原本家の玄関先で、「そう」と言って、真っ赤な顔をして、俯いた。
熱中症、とかじゃ、ないよね…?
水、飲んだ方が良いんじゃない?