出発:Visit either you like,they're both mad.
怖いくらい、『家』は、普段通りで。
強いて言えば、歴史さんが、一晩不在だった俺に対して不機嫌で、暫く抱っこをせがんできて、俺も、二泊三日も愛犬と離れるのが初めてだという事実に気づいて、不安になり、優将に、くれぐれも歴史さんを頼む、とメッセージを送ったくらいのものだった。
…本当に、御盆の間に、何か起こるんだったら、犬の散歩どころではないであろうことは、理解は出来ていたのだけれども。
当日は、何と珍しいことに、新幹線の駅まで、あの放任主義の母親が、タクシーで送ってくれて、自分も、そのまま、タクシーで帰っていった。
普段通りの中の、ちょっぴりの、『いつもと違うこと』。
帰宅した家に、何故か取り付けられていた、防犯カメラ。
それについて、何も言わない両親。
却って、現実感が無くて、聞き出せなくて。
一体、何が起こるんだろう、って。
奇妙なことに、土壇場だというのに、難無く、予め瑞月によって購入されていた新幹線の指定席の、隣の席が取れてしまった。
用意されていたような席に思えてしまって、ラッキー、と言える気分にはならなかった。
「御盆料金だから、高いし、混むし、もー。帽子の準備くらいしたの?田舎、舐めてるでしょ。虫除けは持ったの?」
何故か同じ新幹線で長野に行くことになった瑞月は、会うなり、真っ赤になって、そう言った。
…言い方…。
「あ、いや、確かに。キャップ忘れたわ。…虫除けは持ったけど」
それは俺のミスだと認めよう。
でも、混んでるったって、何故か、スルッと、隣同士の席、取れたじゃん。
…とか言っても、仕方ないか。
瑞月は、淡い、綺麗なグレーのパーカーの下に、パープルのレーススリップと、黒いカットソーとジーンズ、スニーカーという出で立ちで、今日は、低めのポニーテールに、黒いキャップを被っている。
スポーティーな出で立ちでも、露出も少なく、女の子らしい要素をファッションに取り入れられる、というのは、そういうことに疎い俺からすると、かなり新鮮に感じた。
…このくらいの感じだと『友達です』って親に言えるんだけどね、布面積…。
俺は、無難に、黒い襟付きの白いポロシャツにジーンズ姿で来たが、確かに、虫に刺されたくなければ上着は必須だろうし、熱中症などを気にするのであれば帽子も必須。俺が甘い、というのは指摘としては正しいのだろう。
黒いリュックの中に、ネイビーのメッシュ地パーカーは入っているが、あまりにも親に、靴下のことを気にされたせいもあってか、帽子のことは、完全に、頭から抜け落ちていた。
曰く、豪農が多い地域だから、裸足で家に上がり込もうなどとするな、綺麗な靴下必帯の案件だ、とのことである。
両親共に言う、ということは、かなり重要な要素なのだと思うので、守った次第だが、それで帽子を忘れては、先が思いやられるというものである。
あんなことの後で、意識してしまうかと思ったが、相手に、出合い頭に、割合強めの棘がある言葉を吐かれて、逆に、以前と同じな気分になって、少し気が抜けた。
考えてみれば、相手も、あの時は、自分の出生の秘密を知って動揺していたのであろうし、その点に関しては、時間が経過するにつれて、同情心の方が強まってきたので、俺も、犬に噛まれたか舐められたか、という感じで、努めて、水に流そう、と、決めた。
何しろ、これから二泊三日、世話になるのである。
ミスを責められ続けるようであれば、しんどいが、険悪には過ごしたくないものだと思った。
…女子と接するのに、優将さんという優秀な高速処理機能付き美形型緩衝材が無いなんて…。
うわ、美形の友人の機能を全部足すと気持ち悪い名前に。
何かごめん、優将。
こう考えると、甘え下手な割には、優将に頼ってたのかも、って、思っちゃうよな。
優将に指摘されたように、出汁を取ったり、餅をついたりして、他人に依存せずに解決しようとしてしまうところは確かにあるけど、そこは、俺も、変化した部分かもしれない。
だが、意外にも瑞月は、自分の荷物の中から、自分が被っている物とは別の、黒いキャップを出して、俺の頭に被せてくれた。
花の香りがした。
「ほら、頭皮が日に焼けるわよ。これ、向こうで被れば?」
「…どうも」
やっぱり、この子の名前と同じ花の香りなんだと思う。
新幹線が出発した。
茉莉花さん、どうしたかな、あれから。
小松瑞穂氏という、会ったこともない人物。
その人物の娘の茉莉花さん。
茉莉花さんと、瑞穂氏が脅していた人物は母子。
…事情は、どうにも複雑で、全てを、目の前の人間に話すわけにもいかず、気になること全部を置いて、これから、俺は長野に行く。
ジャスミンの花の香りで思い出す女の子が増えるのは、何か複雑だな、と思ったが、皆に、無事でいてほしい、と、思った。
しかし、窓の外を見て、そんな感傷に浸る暇も無く、どぎつい言葉が来た。
「似合うじゃない、The Mad Hatter.そのせいでここにこんなに沢山の御茶道具が出ているのね」
瑞月は、ツン、と、して、「私 の 好み じゃ ない わね」と言った。
…誰が『御茶会やってる、答えの存在しないなぞなぞで困惑させてくるヤバい帽子屋』だよ。
御丁寧にAlice's Adventures in Wonderlandの原文、暗唱してくれちゃって。
…なんか、ホント…。ピンポイントで、俺がカチンとくること言う奴だなー。
中身のない帽子屋になんて、なったって仕方がないのに。
因みに、Alice's Adventures in Wonderlandの原文には、The Mad Hatterって言い方は無いんだからな。単に『The Hatter』だろ。他人に『Mad』と言うからには、喧嘩を売ってると、俺は取るぞ。
「…カラスと書き物机が似ているのはなぜか、ってか?皮肉はやめろよ 」
瑞月は「Good」と言って、少し笑った。
俺が受け取った意図は当たってたらしい。
何かもう、豊富な語彙で『よくできました』みたいなニュアンスの言葉ぶつけてくるの、ホント、イラっとする。
「…俺の問いは、答えのない問い掛けで?求めている答えも、ナンセンスで?目には見えないような、形而上学的な問いで?現実的じゃなくて、いくらでも答えがこじ付けられて、人によって答えが違うって?やっても意味も生産性も無いって?」
そんなこと言い出したら、フィールドワークも研究も哲学も何もかんも、文系の教科全般、そうじゃん。へー、死んだ人間のこと、ほじくり返して回ってるってか。
「そんなにSelfishに見えるかよ」
…おお。
言ってて、何だか、自分で腑に落ちた。
そうだ。俺は、そもそも、利己的だった。
いや、人間は利己的なんだ。
優将さんも、人間は、自分がやりたいことしか出来ないって言ってた。
…俺も、最後はセルフィッシュになってくれ、って、頼んだじゃないか、あいつに。
座敷童がどうの、『預かり物』がどうの、っていう、個人的な理由はあるにしろ、他人の墓の上で踊って、掘り起こしてるだけかもしれない、と、頭の何処かで感じてしまう。
それは、変わらない。
何の役に立つか、誰が喜ぶかも分からないのに、過去のことを調べて、ほじくり返して、記録して、検証して、比較して、研究して。
それがしたいことに、少し、罪悪感があった。
実際、『告発文』を元に、行動しようとしているのだ。
降籏本家の人が、嫡流ではないにしても、祖先の『告発文』をどう捉えるか否かで、『預かり物』を見せてもらえない可能性もある。
『歴史』や『伝統』を残す、とは、過去の恨みや罪を忘れない、記録しておく、という側面を持つ可能性のある事柄でもあるからだ。
それを喜ばない存在が居る場合も、当然、あるだろう。
だから、腹が立ったのかもしれない。
相手が、そういうことを、直接言ったわけではないのに腹が立ったのは、自分の問題で、図星を刺された気分に、勝手になったからなんだろう。
「…ああ、何か、喧嘩売られた気になって、勝手に買いそうになった。らしくないな、疲れてるのかも。忘れてくれ。隣の席同士で喧嘩しながら新幹線移動なんて、良くないよな」
疲れてる自覚はある。
そうだな、腹を立てる前に、腹が減ってるか、喉が渇いてるか、眠くないか、ということを自問してからにしよう。
非日常が立て続けに起こっているのは事実でも、それが、自分が冷静さを欠いていい理由にはならないだろう。
瑞月は、目を見開いた。
「…怒るかと思った」
「…喧嘩、売ってたの?」
何なの。
…直情的な人ね。
…俺とはやっぱり、方向性が真逆な気がする。
「まぁ、腹は立ったけど。利己的であることについては、自覚を持つべきなんだろうな、と思ったから。そういう意味では図星なんだろうね」
瑞月は、俺の顔を見ながら、ポツリと、言った。
「…意味分かんなくてキョトンとするか、馬鹿みたいにキーキー怒るかと思った」
「…なんじゃそりゃ。あんまり他人を試すなよ、シンプルに気分悪いぞ。…よく分かんない人だなぁ」
初対面から、よく分かんない人だったから、今更だけども。
そんな、気軽に試みに遭わせないでくれ給えよ。
何様なんだね。
「…ごめん。Communicationって、難しいよね…。言葉が違うと…特に」
「…いい加減 自惚れるなよ。多言語のコミュニケーションだけが難しいと思うなよ?俺なんか、日本語だろう何語だろうと苦手だよ。他人と分かち合うなんて、最初から諦めてる部分さえあるからな。ともあれ、利己的だってことについては自覚があるから、今後、指摘されても、腹も立てないよ。喧嘩も買わない。イカれてるだろ」
「…Madは言い過ぎた。ごめん」
おや。
謝ってきた。
…素直だと、それはそれで調子が狂うんだよな。
「…まぁいいよ、Madなんだろうな、と思うことはあるんだ、自分のこと。奇矯というか…。変なこと、言っちゃうこと、あるし。フィールドワークだって、まぁ…、やりたい、って積極的に言い出す高校生、何人いるんだろう、って気も、するし。それでも、敢えて、夏休みを使って、やろう、ってんだから…自分がやりたいことやってるんだと思うと、SelfishでMadなんだろうな、って」
『なんで、空気なんか読まなきゃいけないの?なんで、誰かが喜ぶことを考えないといけないの?俺がやりたいことやってるだけなのに、なんで、研究で、誰かに貢献しないといけないの?なんで、評価されないといけないの?評価されなくてもやるよ、やりたいことだから。欠けてて、何が悪いの?』
…あーあ。遂に、気持ちが分かるようになってしまった。
俺、父親そっくりだったわ。
外見以外は、才媛のサイエンティストの方じゃなくて、Madな方に似てたなんて、ホント、悲報だな。…あと、やっぱり、親父ギャグは…しっくりきませんでした、栗川先生、すみません。
「誰にも喜ばれなくても、生産性が無くても、何にも貢献出来なくても、評価されなくても…自分がやりたいからやるんだ。利己的だろ」
ゆっくりと、そう言うと、瑞月は、のキャップの鍔の陰からでも分かるくらい、頬を染めて、俺の顔を見詰めた。
「…暑いんだったら、水分摂れよ?」
一応気遣いのつもりで俺が掛けた言葉に、瑞月は、「うん」と言って、俺に背を向けた。
「…着いたらすぐ、一軒目に案内する」
「貴女の御支援に感謝 します、Jasmine」
「…有難う御丁寧に接していただいて」
わぁ、声音が『Thank you』って思ってないやつ。
何で急に、そんな、真っ赤になって、刺々しい口調に。
…本当に、茉莉花さんとは真逆だねぇ。
…いやぁ、英語力が上がってる気がするのは何故なんだろうなぁ。
長野にフィールドワークに行くのであって、イギリスに語学留学に行くわけではなかったはずなんだが。何故だか流暢で綺麗なイギリス英語を話す人と長時間接していて、案内まで依頼している次第で。
…俺にとって、開拓すべき未知の部分がある場所という点では、Adventures in Wonderlandだし、長野でもイギリスでも置換可能なんだろうか。流石に怒られそうだから誰にも言えないが。
ああ、ルイス・キャロルもイギリス人牧師で、大学の数学教師だったっけな。
ルイス・キャロル…。
あの人はあの人で…。
生涯で三百人の少女の写真を撮り続けた、とか、アレクサンドラ・キッチンという少女を、四歳から十六歳までの間、五十回にわたって撮影し続けた、とか、四歳から十歳のアリス・プレザンス・リデルに、様々な衣装を着せた写真を撮りまくってた、とか聞くと、こう…。
『乞食に扮したアリス』とか。
ヴィクトリア朝時代の子どもの写真に裸が多めだったことを考慮しても、ドキッとする時があるよな。
アリスの母親から、再三、撮影を辞めるように言われてたっていうし。
…いや、その、アレクサンドラ・キッチンに関しては、十六歳の時、水着写真を撮ろうとして断られてるし。
実際は、全年齢の女性が対象だったが、少女の写真しか残してないから少女愛の説が出た、という話も聞くが、そうだったとしても、そうではなかったのだとしても、なんと言うか。
未就学児の女児が喜ばないのに、素描を続けた話にも、通じる何かを感じるんだよな…。
お人形遊び、って言うかな。
あ、こういう時に使うんじゃないの、背徳感って単語。
そんなWonderlandでAdventuresする必要はないけども。
「ああ、そうだ、はい、Lunch」
瑞月は、こちらを振り返りもせずに、ブルーのギンガムチェック柄の包みを押し付けてきた。
両手で受け取ると、ヒヤリとした。
保冷剤が入っているらしい。
「…え。有難う」
作ってくれたのか。
…素直に有難い。
「同じ立場だったら私にも同じことしてくれるでしょ」
…意訳すると『どういたしまして』くらいの感じの言葉だろうけど…。
…弁当までは、作るか分からんな、朝、わざわざ。
家族でも恋人でも何でもない奴に。
…だから本当に、…弁当は、有難う。
「弁当と、…それと、フィールドワークに対する協力には、素直に、感謝してる」
「ああ、…翻訳の内容が、興味深かったから」
「え?」
「私も降籏本家で『預かり物』を見たくなったの」
…何だろう。
急に、ちょっと、不安になった。
「そ、そう。翻訳した甲斐はあったかな、興味深かったなら…」
「あとは…誕生日に、Dad以外の人と一緒にいたかったから」
「誕生日…ああ、花火大会の次の日、って言ってたか」
「そう、八月十五日に、十八歳になるのよ。だから、八月の頭に、国籍をイギリスにしたかったの。…それを、法事の時に報告して、散々、親戚に責められたってわけ。勝手に国籍決めるな、って。Dadが親戚に相談なしに許可したのも気に入らなかったみたいね。妹の時みたいに、また勝手にイギリスに連れて行くのか、って。…ホント、田舎って嫌い。私の国籍を私が選んで、何が悪いの?」
…そうか。
目の前の人間も、少し、優将と似ている、と思った。
努力もしていて、能力も高いのに、自分の思うことが、ほとんど叶っていないのだ。
母親は亡くなってしまって、国籍は自分で選べなくて。
…両親が、兄妹で。
それを考えると、どうしてあげようもなくて、何だか、途方もない気分になる。
どうにも、相手が、自分の背負っているものより、大きなものを背負っている人間のように感じてしまって。
それでも、こうして、他人に、弁当まで作ってくれるっていうのは、良い人間、って思っても、いいのかも。
「そっか。…そういう場所に、一人で帰省する、って思うと、考えちゃうだろうな、いくら、その、Dad?と一緒に誕生日を過ごしたくない、と思ってても。あ。そういえば、あの時、優将に、何言われたの?耳元で。フィールドワークの協力を引き受けてくれる前に」
瑞月は、真っ赤になった。
「…あの。…いいの、何でもないの」
…真っ赤だけど。
つられて、こっちも赤くなりそうなくらい。
「興味深いと思ったのも、本当だから。知識を知恵に変えて頂戴ね」
瑞月は、「お願いよ」と囁いた。
…利己的かもしれない、フィールドワークでknowledgeを収集したい、という俺の行動を、wisdom、即ち、知識の活用にまでturnさせてpleaseと言ってもらえるのは。
…有難いというか。嬉しい話だよな。
多分、それが『研究』なんだと、俺は思うから。
そんな高尚なことを言ってもらえるなら、knowledgeをwisdomにturnさせられるように尽力しなければ、という気になるよな。
knowledgeの、wisdomへのturn依頼は…なかなか、信頼されたもんだな、と。
最下級の丁寧語とは言え、please、とまでつけていただいたので。
素直に嬉しい。
「そう言っていただけて感謝します」
…丁寧に言ったつもりだったんだが。
こちらを見返す相手の笑みは、少し寂しそうに見えた。
な、何か、やめて。ああ、やっぱり、駄目だ。ポンポン言われた方が、接し易いかも。俺が喧嘩を買わなきゃいいだけの話だから。
寂しそうにされたり、悲しそうにされたりすると、何か、モヤモヤして、胸が、ギュッとする。
瑞月は、俺から顔を背けて通路側を見ると、「それでね」と言った。
「元々、Dadは、別件で用事があって帰省しない予定だったし、御盆で、私だけ、こっちに帰ってくるなら、不自然じゃないから。Dadには、私が、一緒に誕生日を過ごしたくないって思ってること、知られたくないし」
「誕生日を、一緒に過ごしたくない…か」
「何か、…気持ち悪くて。あの手紙のことも、結局、言えなかった」
…何も言えない。
「あの手紙の内容、知った時ね。ちょっとだけ、『やっぱり』って、思っちゃったの。…私、姪にしては、Dadに似過ぎてる、と思ってたから」
…実際、似てた。
「養子にしてくれたから、Dadが、戸籍上もお父さんだけど。伯父…、母の兄、というには、…あまりにも、母に…親身だったのよ」
…オブラートに包んでくれて有難う。
「考えないようにしてたんだけど。あれを読んだら、ストン、と、腑に落ちちゃって」
掛ける言葉が、流石に無い。
「ああ、やっぱり、私って。…そういう経緯で…許されざる経緯で、生まれてきたんだな、って。それを隠して、妹を引き取ったという体裁で、自分の子を、海外で妹に産ませた人間が、伯父って建前で、自分と同居してるんだ、って、思っちゃって」
…それは、共感も理解もしてしまう、と言うか。
本当に言葉にならない。
…今だったら、墓で暴れてもいいかって聞かれても、Goサインを出してしまいそう。
「本当にお父さんだったんだ、と思って。…何か…。一緒にいたくない、って、思っちゃって。唯一の家族なのにね。生まれた日をDadから御祝いされるの、嫌になっちゃったの。…えっと、『どの面下げて』?『どの口が言う』?」
…日本語上手いよ。
…悲しいくらい、使い方、合ってる。
「丁度、御盆だから、えっと、ここに来られるのは『渡りに船』?でも、一人では来たくない場所だったし。誰かと一緒なら…来られるかな、って」
「…俺?」
「事情を知ってるんだもの、最初から。何か、助かるって言うか、楽?…だって、友達に言える?お父さんとお母さんが兄妹でした、って…」
…無理だなー、俺も、それは、本当に。
「…知る前と知った後で、態度を変えないでいてくれて、…有難かったんだけど。何か、…試すみたいな…。どこまで酷いこと言ったら、怒って…離れていくのかなって。無意識で…試しちゃってたのかも」
瑞月は、消え入りそうな声で、こちらを振り返らないまま、「ごめん」と言った。
他人に知られたら、距離を置かれてしまうのではないか、と思うほどの秘密を抱えた人間に対して、やっぱり、掛ける言葉が無くて。
そういう理由で、他人を試さずにはいられなかった、と言われたら、結局、腹を立てることは出来なくて。
自分は、そういう理由では態度を変えたり、離れたりしない、ということを、結局、態度で示すしか、無いんだろう、と思うと。
「そう」としか、言えなかった。
…あれ?『自分から離れないでほしい』って言われてる?
…いや、流石に、気のせいだよな?吃驚した。
相手は、ずっと、通路の方を見ている。表情は、伺い知れない。
暫くの沈黙の後、やっとこちらを向いた相手は、ポツリと話し始めた。
「茉莉花ってね、生まれて初めて、私が自分から、友達になりたいな、って、思った子だったの」
「友達?」
「…うん。友達って、作るの、簡単なの。私、Communication?上っ面のね。得意過ぎて。『自分』を出さなくても、こなせちゃうの」
…おー。
それは羨ましい。
営業向きとも言えましょうか。
俺とは真逆じゃないですか。
確かに、優将さんとも、ジムとかプロテインとかチョコの話で、場が持ってたし、本当にコミュ強なんだろうなと思う。
「友達出来ても、私がすぐ、転校しちゃうし…。日本でね、えっと、向こうで通ってた学校の、提携校?あー、Protestantの、…同じ宗派の、高校に通えることになって」
「常緑学院って、そうなのか?」
「紫苑学院もでしょ?Émile…えっと、大空も、それで、紫苑学院だったんじゃない?State of Georgiaにも、提携校があったはず」
「…あー、そういうことか。提携校ね」
「それで、珍しく、日本で、卒業まで在籍出来るんだ、って思って。…そしたら。…母に似てて、Jasmineって意味の名前の子がいたから、…えっと、『運命を感じた』?」
「…そうか」
…いやいやいや。
茉莉花さんのお父さんの瑞穂さんの妹が、弥朝さんの親友で、瑞月って名前で。…そこから取られたのが、自分の『瑞月』って名前で。瑞穂さんが、妹の日記から、自分の出生の秘密を知って、弥朝さんを脅して、心中されようとしたと知ったら。
…運命なんて。
運命どころか…。業とか、因果とか。…宿命とか。
いや、偶然も必然も、同じマトリクス図の上に整理された要素に過ぎないのなら。
運命も宿命も、一緒に、同じマトリクス図の上に載せて、美しい、垂直に交わる矢印の図を彩る、要素に過ぎないのかもしれない。
…だから、これは。
俺は、墓まで持って行くことにする。
お前には、教えない。
「でも、上手くいかない。…友達って、どうやってなったらいいか。…ちゃんと考えたら、分かんなかった。あの、もう一人の子?うちに来た。タクシーの…」
「ああ、優将?」
「うん、そう。美術館も一緒だった子、か。えっと、優将に、もっと茉莉花を見てやって、って言われて。…あー、失礼な?ことをしたんだって。…Émile…大空にも、酷いこと言ったって。なんか、あの子、しつこかったから、私の気を引こうとして、茉莉花に近付いたんだと思ったの。で、…邪魔だなって。誤解かもしれないし、ちゃんと茉莉花と付き合ってるなら…」
「…うーん。パーソナルなことだしね、その辺は…」
あっちはあっちで大変そうだからね…。
どう付き合ってる、とかの詳細は、流石に知らないにしても。
「そうよね、…誰が、誰と付き合ったって、良いわよね、本当は。…大空のことね、怒ってたわけじゃなかったの。でも、なんか…母を取られたみたいに思うことが、昔からあって。多分…、大空の初恋って、うちの母なのよ。…凄く、懐いてたし。でも、…やっぱり、酷いこと、言ったな…。お腹殴ったのは、全然悪いと思ってないけど。掴み合いの喧嘩だって、挨拶のキスだって、散々したんだし」
あー、やっぱ、キスも挨拶か。
それにしても。
…浮舟じゃーん、やっぱり。
んもー。
「…聞きたくなかった、あいつの初恋とか。どいつもこいつも俺に、すげーこと暴露してくんなぁ」
あ、珍しく本音を話してしまった。
「…そんなに、打ち明け話、されてるの?」
「何でか知らんがな。知りたくもない他人の事情を、何故か知ってしまう羽目になると言うか。宿命かな」
「…口が堅そうだからだと思うわ。…実際、私の秘密だって、バラさないじゃない。御墓で暴れてたことも、紫苑学院に乱入したことも、Dadに言わないでいてくれたし」
褒められたと取って良いのかな、それは。
「…それは品性の問題というか。俺は、初対面の人に、御宅の娘さんはこうしてた、なんて、告げ口する人間ではないし、守秘義務も守るぞ。二言は無い。例え五万だろうが、何万だろうが、その金額に恥じない仕事を、俺はやるし、実際、翻訳は、友達の手は借りたが、遣り遂げたからな」
「…秘密を知って、脅す人じゃなくて、良かった」
やらないけど…。茉莉花さんには気の毒で、それこそ、言えやしないけど。
誰かの出生の秘密で、誰かを脅したら…。瑞穂さんとかいう人と、方向性が同じになっちゃうんですよ。
それだけは嫌だ。
「何度でも言うけど、こうして、フィールドワークに協力してくれただけでも、本気で感謝してる。恩人だ。親の伝手だけじゃ、話者さんを、あんなに集められる自信はなかった。それこそ誰かの、掘り返されたくない墓かもしれないのに…。ま、今年は、本当に助かった…。今後は、どうしようかな。今回のことが無事に終わって、もし、調査地として、O地区を選ぶとしたら、来年から、どの伝手で調査するかな。調査を重ねるなら、自分でも知り合い増やさないとキツいかな…。あー、受験生の時は、流石にいいか。そうすると、一年開いちゃって…」
「毎年、一緒に来る」
「え?」
「毎年、御盆に帰ってきて、一緒にフィールドワークする。海外にいても、日本の何処にいても。絶対、…会いに来る」
「…いやいや、助かるけど。流石に、毎年は」
「一生」
「え?」
「一生、フィールドワーク中に会いに来る、だから」
「だから?」
「私が死んだら、散骨してほしい」
…今までの短い人生で言われた言葉の中で、一番重いような気がするんですけど。
え?普通、言われる可能性のある重い言葉って、何だろう。
求婚とか?愛情の告白とか?殺人の告白?
出生と犯罪と虐待の告白は、もう聞いたか?…じゃなくて。
「散骨…?えっと、遺骨を海に撒いてくれ、って?」
「うん。私、家族を持たないと思うから」
「…家族を持たない?」
何か、ドキッとする言葉だった。
『恋愛より楽しいことがある』人間なんだから、『家族を持たない』生き方にも、もっと、共感して良いはずなのに。
「…うん。持てないと思う。…この秘密を話さずに、誰かと、そういう関係になるのは…無理だと思う。新しく誰かに、この秘密を知られたいと思えないし、…言いたくないから」
「…そっか」
…それを言われたらな。
…黙るしかないな。
分かるよ、とは、軽々しく言えないし。
…そういう風に思ったって、俺に、何かを言う権利もない。
でも、それって、この先、目の前の人間に、好きな人が出来たり、家族になりたい人が出来たりしても、自分からは、その秘密のせいで、愛情の告白も、家族になりたいとも、言い出せない、ってことに、他ならないんじゃないか、と思うと。
何だか、胸が痛んだ。
それ程の重いものを、多分、自分は、抱えたことが無い。
「だからね。…多分、Dadが死んじゃったら、私、一人ぼっちだと思うの。…誰にも、自分の死んだ後のこと、頼めないと思う。Dadと同じ御墓、って、何か…嫌、って」
…本当に、こんなに、言葉が出ないことって、あるんだな。
…骨くらいなら拾ってやろうかって気にはなってきた。
「…友達も、上手く作れないから。私の秘密を知ったついでに、…散骨、依頼したい。…えっと、許諾?してほしい」
…断り辛い。
え、こんな断り辛い頼まれ方、ある?
「…分かった。許諾、する。…先に死なないように気を付ける。先に死んだら、その時は、済まん」
…そんなことで他人に『済まん』とか言う日が来ようとはな。
でも、まぁ、その際には他を当たってくれ。
瑞月は、こんな時なのに、何故かクスクス笑って「OK」と言った。
「大丈夫、年下だから。私より長生きよ」
…何か、イラっとすんなぁ。
「…一歳違いとか、宇宙規模だと、誤差の範囲だと思いますけどねぇ」
あ、また本音の方を話してしまった。
それにしても…すんごい、年上面してくるなー。
やっぱりカチンとくるなー、何か。
はー、この期に及んで、子ども扱いですかね。子どもに散骨頼むとは、酔狂な御仁でいらっしゃることで。
あれ?
…まただ、何で、年上面で子ども扱いされるとカチンと来るんだ?
売られた喧嘩も買わなかった癖に。
第一、面倒なこと言うのが、こいつの常態なのに。
瑞月は、まだクスクス笑っている。
…実際、子ども扱いなんだろうな、とは思う。
「でも、…あの手紙、見つけてくれて、良かった。ありがとう」
実は優将さんの功績なんですが。
両親も気づいてたけども、結局、優将さんありきだったよな。
「…何か役に立てたようなら、良かった。五万円は、出すの、キツかっただろうし」
帰ったら、優将に一万円渡しに行こう。
受け取ってくれるか分からないけど。
…帰ったら、どうなってるかも、分からないけど。
「あの手紙を読んで…母は、流されて、何も残さない人生だったんじゃないかって思ってたんだけど。違ったんだって、分かったから。母は、自分で選択して、私を産んで。…私は、その、選択の結果で生まれて。…十代で海外出産したんだ、って思ったら。…違ったんだ、って。母は、やりたいことをやったんだ、って。やりたいから、大空のこと、助けて死んだんだって。置いていかれた、って思ってたけど。優将って子も言ってたものね、人間は、自分がやりたいことしか、出来ないんだって」
それ、優将さんの名言だなー、とは思ってる。
「だから…。帰ったら、大空に、謝ろうかな」
「…そっか」
あ。
「…え、これ、散骨を引き受けたら…。俺が、散骨を引き受けたかったことに…?そういう文脈なの?」
何これ、『優将構文』とでも名付けるべき?
それは確かに、骨くらい拾ってやろうかってくらいには同情したんだけどね、こいつの出生に。
「…他人の一生の終わりを引き受ける、って、結構な話じゃないですかね?それを引き受けたいって…?俺が?」
あ、また、本音の方が出てしまった。
…今日どうしたんだろ、ホント。
しかし瑞月は、何故か頬を染めて、寂しそうに言った。
「…そうだといいな」
…何で?
あと、その表情で言うの、やめて…。
それにしても、Alice's Adventures in Wonderlandか。
自分がThe Mad Hatterだというのを否定したいなら、自分は、眼鏡は取ってしまったけど、時計を持ったWhiterabbitだとでも言わないといけないんだろうか。それはそれで奇矯、という気がするが。
仮に、自分が告発者でも、証人でもあるのなら。
…じゃあ、March Hare、Haighaは誰なのか。
Mad as a March hare.
The March Hare will be much the most interesting, and perhaps as this is August it won't be raving mad—at least not so mad as it was in March.
弥生の、朝より。
新幹線が着いた駅から、タクシーで、O地区に来た。
こいつとタクシーに乗るのも二回目だな、と思った。
妙な縁ではある。
到着するなり、苧干原本家に荷物だけを置かせてもらって、早速、一軒目に向かった。虫除けスプレーもぶっかけられた。使い方は合ってるけども…。
八月の農道は暑く、日影も無く、キャップがあって助かったし、そういう意味では舐めてたと言われても、仕方が無いかもしれない。
端正な白壁の塀に、屋敷林があったところで、結局、農道を通るのであれば、日影の恩恵には浴せない。
「…しっかし、遠いな。『隣の家』が隣接してないことがある、って感覚が慣れない…」
…今日は何時に無く、本音の方が口から出がちだから、愚痴っぽい人間みたいで、困るな。
よっぽど暑くて疲れてるのか。
…さもなきゃ。…聞き手に甘えてる、ってことなんだよな。気を遣ってない、というか。
…流石に、いくら勝手に年上面で子ども扱いしてくる相手にでも。俺の性格的に…甘えてる、とは考え難いんだが。
…ま、相手も、俺に、茉莉花さん程は気を遣ってくれてない気はしますから、御互い様なんでしょうか?
…でも、フィールドワークの立役者な上に、弁当まで作ってもらっちゃって、世話にはなってるから。…恩人か。
こいつと俺の関係性が、よく分からなくなってきたが。
…えっと、散骨、ということは、こいつが海外で亡くなった場合の連絡先が俺、ってことになりますかね。
とすると、散骨の依頼主と、死亡時の身元引受人、ってことで良いですかね。
…良くない!
そんなの…。ミューズと芸術家の方がマシですよ。
なんで、高校生で、そんな、沼みたいな人間関係を。
…それを引き受けるのであれば、インスタントな、『期間限定』の、『一夏』の関係は、確かに脱するけど。
『一生』一緒にフィールドワークする、っていうのも、『一生の終わりを引き受ける』っていうのも、…なんか、考えてみたら、結婚並みに凄いことを言われたんじゃないか、という気がするんだが。
ただ、相手の『家族を持たない』という言葉が、『持ちたいと思っても、きっともう持てないだろう』、という意味だとすると。
やはり、何だか胸が痛んで。
こんな、口約束だけでも、相手の気が済むなら、良いんだろうか、と、あまり、納得出来ないながらも、漠然と思った。
「御盆って、死んだ人が帰ってくるんでしょう?」
急に掛けられた言葉に、俺は、ゾクリとした。
相手の、今日は真っ直ぐな髪の、ポニーテールの毛先が、上品な、スカート状の、ジーンズの表面で揺れるレースが、ひらり、と、こちらを向く相手の動きに連れて、動いた。
『散骨の依頼主』が『死亡時の身元引受人』に掛ける言葉としては…。
horrorと言うかtellerと言うか。
ごめん、ちょっと怖い。
恐怖の種類を分析しようがすまいが、怖い。
『ホラー映画に出てきそうな美人』って言葉に笑って、本当に悪かったから、明るいうちから怪談はやめよう?
「うちの母は、何処に帰ってくるのかしら、って。御墓のある場所?…Dadのいる場所?」
…怖っ、細い声で聞く『御墓』ってワード…。
「…あのね、ここより、うんと治安の悪いとこでね。教会に行った時、小さな男の子がね、大人に、『天の御父様が愛してくださるから大丈夫』って言われてたのよ。多分…ストリートチルドレンだったんだと思うんだけどね。…親はいなくても、創造主は、創造物を愛してくださる、ってことかしらね。そういう、えーと、『慰め』?必要な存在だから、ここにいて良いんだよ、生きていていいんだよ、みたいなニュアンス?」
…ああ、ホログラフィ理論の引っ掛かる部分って、その辺なんだと思うんだよな。
その子が何故ストリートチルドレンになっているのかの説明が、あの理論だと、上手く出来ないだろうって思うから。
だから、うちの母親も、俺に最近まで、その話をしなかったんだろうし。
「でもそれって、その子が何故ストリートチルドレンになっているのかの説明にはなってないじゃない?だから、その時は、欺瞞だな、って思ってたんだけどね、幼心に」
「…はっきり言うよなー、欺瞞とか」
あ、また本音が出た。
…いかん、暑いからだろうか。
流石に水分補給しよう。
しかし、ペットボトルからスポーツドリンクを飲む俺を見て、何故か、瑞月は、クスクス、楽しそうに笑いながら、自分も、同じようにして、スポーツドリンクを飲んでから、言った。
「でも、今は、慰めだったんだろうな、って思ってる。…創造主にすら…。作り出してくれた存在にすら、愛してもらえないんだったら。…必要じゃないなら、この世に、いちゃいけないんなら。…生み出さないでほしかった。だから、…天の御父様くらいは、…うん、『天の御父様が愛してくださるから大丈夫』って、一番、綺麗な…優しい慰めだったんだろうな、って」
鳥の声が、いやに大きく聞こえて。
ああ、御互いが今、黙ってるんだって。
漠然と、そう思いながら、俺は、ペットボトルの蓋を閉めた。
「…気持ち悪くない?…その…兄妹同士から生まれた、私のこと」
「それは…近親婚に対しての問いか?」
「…そう…ね?」
「おお。それなら、はっきり言えるぞ」
「は?」
「宗教だ、哲学だ、理論だ、と、抽象的なことは苦手だが。民俗学における近親婚の範囲の話なら出来る」
「はぁ? あ…ごめんなさい I did not understand very well.」
「しまった。さっきから、本音しか話してない。そりゃ『よく分からなかった』よな。すまんな。…暑いからかな」
「…本音…で話してくれてるの?」
「そりゃ…日常会話で『民俗学における近親婚の範囲の話』なんてしてたら、友達なくすだろうがよ。偏差値ばっかで、蓋開けてみりゃ、常緑生見ただけで大騒ぎになるような学校に通ってんだ。これでも、話題を友達と合わせようと、調節して生きてんだよ。Communicationとやらが下手なりにな。どーすんだ、話し始めたら長いぞ、この話。引かないで聞く自信あるか?」
「一応、全部聞く…」
…全部聞いた上で引かれたら、程々に傷付くだろうけどな、俺も。
…え?傷付くのか?こいつに引かれたら。
…何でだよ。
「そーか、そりゃ、Communicationとやらが上手いんだな。羨ましい限りだ。俺とは逆だな。じゃー、今から言う本音を漏らさず聞けよ」
「…分かった」
「問いに対する答え。一つ目、お前の事を気持ち悪いとは思っていない。何かを、お前に対して思うにしても、お前の出生という、お前が自分で選べたわけではないものを要因とはしない」
「え…」
「二つ目、近親婚を気持ち悪いと思うか、という問いに対する答え。これは、生理的には受け付けない。と、言うより、近親婚を許諾している文化を寡聞にして知らない。人類規模で忌避されてきた事柄と考えているので、俺個人としても、気持ち悪いと思う」
「はぁ」
「お前からの問いに対する答えは以上だが。そも、近親婚とは何ぞや」
「…Could you say it, again, slowly, please? I cannot keep up with you.」
しまった、相手の方が、ゆっくり発音してくれてる、さっきから。
「えっと、もう一回、ゆっくり話してくれ、ついていけなくなっちゃった、って?…そうだな、『近親婚』の定義を述べよ。…否、ここで問題となってくるのは、やはり『民俗学における近親婚の範囲の話』だな」
「近親婚の範囲…」
「分かり易く言うと、従兄妹婚が可か不可かも、文化や国によって違うんだよ」
「…分かり易く言うと…?分かり易く…?うん、えっと、…えーっと、日本の戸籍制度では、従兄妹同士は結婚出来るけど。えーっと、確か、韓国とかでは、従兄妹婚って、できなかったわよね?」
「そう、お隣りの国の韓国では、罰則は無いにしても、八親等以内の血族の間の婚姻は法律で禁じられている。従兄妹は四親等だから犯罪だ」
「え?…八、って…」
「えっと…自分の従兄弟の孫が六親等だったかな。だから…自分の従兄弟の曾孫…くらい離れてる」
「…そんなに?」
「そう、で、ここで大事なのは、隣国の韓国では従兄妹婚は犯罪なんだ」
「あ…ちょっと言いたいこと、分かってきた」
…それは凄いと思う。
やっぱり、頭が良いんだろうな、こいつ。
「そう。『近親婚』はNGなんだが。『近親婚』の範囲は、国や文化によって異なるので。隣の国、という近さなのにも関わらず、恐らく、従兄妹婚の話をすれば、向こうの人にとっては犯罪の話をされていることになる。だから、これは、やはり『民俗学における近親婚の範囲の話』だな。もっと言うと、古事記日本書紀の時代だと、異母兄妹は結婚可能だし、結局、『近親』の範囲は、同じ国でも、時代で違ったりするから。難しいんだよ、『近親婚』の定義って。お前の出生、古代だったら、悩みじゃないんだよ、別に」
有名どころだと、藤原不比等も五百重娘っていう異母妹と結婚してるしな。
「それ、普段言ったら…友達なくしそー…。Communicationが下手なのは分かった…。理屈っぽいのは、私も、他人のことを言えた義理じゃないけど」
「…全部聞いた上で引かれたぁ。理屈っぽいとか、はっきり言うよなぁ」
「理屈っぽいっていうか、もう…論理?だった…。定義から求められないもん、日常会話で…」
「すみませんねぇ、どーもー。御丁寧にAlice'sAdventuresinWonderlandの原文を暗唱しながら皮肉言ってくる奴に、難易度を手加減して説明してやる理由も思い付かないもんでぇ」
「いや、でも。…慰められた気はする」
ありがとう、と、言われた。
新約聖書マタイによる福音書第6章9節‐13節・同ルカによる福音書第11章2節‐4節
主の祈り
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を
今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、
悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝のものなればなり。