操縦者:The Lion and the Unicorn.
The Lion and the Unicorn,
Were fighting for the crown,
The Lion beat the Unicorn,
All about the town.
コンビニで買い物して、優将の家の二階に上げてもらうと、優将は、一番奥の部屋に入っていった。
伽藍洞の部屋の中の隅に、小さな、テーブルのようなものと、何か、外国のクッキー缶のような、洒落た小箱が残されていた。
「おおー、蝗も、流石に、これは要らんかったか」
優将は、少し嬉しそうに、そう言うと、制服姿のまま、そのテーブルを、伽藍洞の部屋の真ん中に移動させ、小箱の蓋の埃を気にした素振りで、そっと開いた。
「え、シュライヒ?」
小箱の中には、某有名ドイツの玩具メーカーの動物フィギュアが、ギッシリ詰まっていた。
金持ちぃ。
「え、このテーブル、ジオラマ?」
優将は、楽しそうに「そうそう」と言った。
「シュライヒのジオラマを、自分で、小さいテーブルにボンドでくっつけて作った。このテーブル、収納用の引き出しもあるんよ」
「おー、それは凄い」
金もアイディアも凄い。
「どっかにあるはずだから探してくれって頼んでも、面倒がって。十年近く見てなかった気がすんなー。この部屋、さっきまで物がギッシリで入れんかったんだけど、良いこともあるわな」
優将は「断捨離ってやつかね」と言いながら、小さなテーブルの傍らに胡坐を掻いて、引き出しを開けて、黙った。
家族写真が一枚、入っていた。
長身で、優将に、よく似ている顔だが、眼鏡で生真面目そうな表情をしていて、写真の印象だけでは美形か否かは分からない、無難な、ポロシャツにジーンズ姿の男性と、恐らく、若い頃の季湖さんであろう、カットソーにジーンズ姿、という、普段より相当地味な服装の、髪の長い、綺麗な女性の間に、笑い損ねたような顔をしている、何処かで見た顔をしている、小さな男の子が、手に、小さなライオンのフィギュアを持っているのが映っている。
優将は、穏やかに微笑みながら「ホラー映画だったら、冒頭で、こういう家族写真が映るんだけどな」と、優しく言った。
声と表情と話す内容がチグハグだったが、それが却って、泣くのも忘れたような様子に、俺には見えた。
優将は、そのまま、引き出しを漁って、ライオンのフィギュアを取り出してから、写真を、元の通りに突っ込んで、引き出しを閉めてしまった。
「最後に動物園行った時の写真だわ。ここに入れてたんか。…推しライオンの『お部屋』にしてて、宝物入れだったはずなんだけど。ビー玉とか」
宝物。
何となく、そりゃそうだよな、と思った。
承認欲求なんて。
人生で多分、最初に認めてもらいたかったのは、親に決まっているのであって。
それが得られないなら、他所で承認欲求を解消するか、諦めるか、しか、無いわけで。
諦めてしまったのなら、本人の外見や能力が、どれほど優れていても、他人の承認なんて、求めなくなってしまったとしても、仕方がないわけで。
その瞬間、豪邸も、高価な外国製の玩具も、何もかも、それほど意味が無くなってしまって。
『家』は、ギッシリ物が詰まった、開かずの部屋を内包して、住まいではなく、ただの入れ物になり果てる。
目の前で泣かれるより、伽藍洞の部屋の中の、小さな玩具のテーブルの中身を見た方が、その痛々しいまでの空虚さを実感出来るような気がした。
それでも、俺が泣くのは、違うと思って。
「推しライオン?」と、聞いた。
優将は、穏やかに「そうそう」と言って、微笑んだ。
綺麗な笑顔だと思う。
荒波に、何回洗われたら、こんな綺麗な表情になるんだろう、と思うくらいだった。
「ライオンちゃん、って呼んでたんよ、何の捻りも無く。紙で王冠作って、セロハンテープでくっつけたりしてたから、眉毛が消えてるわ」
「…シュライヒの動物フィギュアにも、容赦ないな、子どもって」
優将の傍に胡坐を掻いて、玩具を、よく見てみる。
いやー、しかし、揃ってるね。
存在を知った時には既に中学生だったから、俺の人生に於いて、親に強請り損ねた玩具と言えるんだろうけど。
壮観。
「サバンナジオラマかぁ。滝壺もあるんだ」
立体的。
今見ても、ちょっと羨ましいかも。
「うん、そこはクラーケンの住処な」
「…クラーケン?」
「大蛸のフィギュアを滝壺の裏に仕込んでたんだけど。茉莉花が泣いたから止めた」
…サバンナで、動物の親子、みたいな感じで楽しく遊んでて、滝壺の水部分を開くと、蛸のフィギュアが出てくるのか…。
…泣かないまでも、喜ばなさそうではある。
「…その世界観、女児にはウケなかったかもね、蛸には淡水種いないし…」
優将は「設定ガバガバよな」と言って笑った。
「ユニコーンもいるんよ。サバンナジオラマに置くと色味が浮くのが気になって、白で塗り潰しちゃったけど。修正液だったか…?」
「大胆…」
「…大蛸は許容してて、ユニコーンは色味を気にした理由が、今となっては、自分でも分からんけど」
「まぁ、子どもらしいっちゃらしいよね。強い物を揃えるだけ揃えて、自分の考えた最強のジオラマにしてる辺りが」
そんな子ども時代が、こいつにもあったのかと思うと、逆に安心する程に。
「よし、一旦は、ここに置いといて、落ち着いたら、埃払ってやろ。カビてる可能性さえあるかんな…まぁ、中身も、気が向いたら、そのうち」
『家族写真』の処遇も保留か。
…そうだよな。そんな、整理がつかないよな、急に。
「…無理に、色々、いっぺんに片付けること、ないよ。動揺してるんだろうし、自分が思ってる以上に…」
「ああ、その…。ハンバーガーの件は、ホント、ごめん、高良…。流石に気ぃ抜いて、喜び過ぎた。普段だったら茉莉花の前でやらかさんミスよな」
「…あー、あれ、やっぱ、動揺した…?もう、俺、頭の中に、『パリは燃えているか』の曲に合わせて、戦前戦後のモノクロ画像が流れて、焼け野原からの日本の復興を迎えそうになってたからね…」
これに懲りて、女子を、ハンバーガー喰う理由に巻き込まないで、お願い、美形。
俺、右脳と左脳が離れ離れになるかと思った、動揺して。
「一人『映像の世紀』を頭の中でやらせてたなんて…ごめんしか言葉が浮かばんな…。いや、ホント、…あの、何かを誤魔化してくれようとして、食品を全部、三等分にしてくれたんだろうな、とは…思ったんだけど、動機が不器用な割に、手先が器用過ぎて、途中から、マグロの解体ショー並みに面白くなっちゃって…。何だか分かんないまま終わっちゃったけど、結果、誤魔化せたし、面白かったしで、何て言うか…。ありがとう…」
「あー、あの…、テンパって、本当に、あれしか誤魔化す方法が見つからなかったんだけど、結果、計量に集中することで、自分も何か…途中、楽しくなって、割合、色々忘れた」
「頭も良くて、顔も綺麗で手先も器用なのに…。そんな、道化みたいなこと、させちまって。…しっかし、器用というか…。解決方法が丁寧過ぎるんだよな、毎度。煮干しが沢山送られて来て困ったから、もう出汁を自分で取ろう、とかさ…」
「不揃い煮干し、美味しいけど、うちの合理主義の母親、出汁なんか取らないから…。そのまま齧るにも限界があるし。水出しと煮出しで、何とか、賞味期限内に消費してる」
「いや、うちの親が出汁取ってんのも見たことないからな…。『かーちゃんみたい』を通り越してる、と言うか…。ま、うちなんて、炊飯器あっても、ほとんど俺が炊かなかったのに、この度、蝗に持ってかれちまったんだがな?」
「ああ、土鍋でも買う?ご飯の炊き方、教えようか?」
「いや、だから…。解決方法が丁寧過ぎるのよ。一合炊き炊飯器買おうか、にならないで、生活のクオリティを上げることで解決するのはなんなの、出汁を取ったり、米を鍋で炊いたり…。御菓子が無いなら原料の小麦から育てれば良いじゃない、って言われた気分なんだけど…」
「…そんな無理筋な提案だったとは思わないんだけども」
「逆なのよ、道理や理屈に合い過ぎてるのよ…。自分の努力で丁寧に解決出来過ぎちゃってて、高校生じゃないのよ、何かもう」
前は、竈の火起こしくらい出来たかもしれんから、何とも言えんな。
「確かに、手を動かして解決してしまうところはあるかも。餅をついたり」
ストライプケーキを作ったり。
…言われていれば…確かに、昔から、そういうところ、あるかも…。
優将は「幻聴かな?」と言った。
「餅?」
「ああ、ホームベーカリーの餅つき機能で、毎年、つきたての餅を、正月に」
「…詳しく聞いていい?」
「良いけど…。昔は毎年、長野の父方のお祖父ちゃんがついた餅が年末に送られてきてたんだけど。亡くなってから、届かなくなっちゃって、買った御餅じゃ食べても力が出ないよ、とか贅沢なこと言って、父親がしょげてたもんだから、一回作ったら、母親も珍しく喜んだもんだから、後に引けなくなっちゃって。十二月二十六日くらいに、毎年、一キロくらい糯米買って、残ったら、糯米と普通の米を混ぜて、炊き込みご飯にするんだけど…」
民俗学的には力饂飩みたいに、『餅を食べたら力が出る』みたいな話って、お年玉の起源が餅だったことなんかにも由来するんだろうけど、考えてみたら、しょげて、そんな愚痴言ったくらいで、毎年、息子のついた、つきたての餅を食べられてるんだとしたら、贅沢な話だよな。
優将は、困ったように「餅が無いなら、つけばいいじゃない、っていう解決方法…」と言った。
「ホントだ…。俺って、そういうとこ、あるんだね…。丁寧に解決してるつもりはなかったんだけど…」
「他人に依存しない、安易に金で解決しないところがあるんだな…。でも、あの…。辛くなったら、餅も買って良いんだし、誰かのことも頼ろう?…友達が、クリスマス終わったら即日、糯米購入してるとは、知らんかった…。このまま放っておいたら、キャロットケーキも手作りし始めそうだな。売ってないなら作れば良いじゃない、って」
「…何となく否定し難いこと、言われたな。…そうねぇ、誰かが作ってくれるわけでなし」
勝手にケーキ屋に引っ張り込まれたことはあるけど。
やっぱトラウマかもだな、あれ。
「…ホームベーカリーで毎年、餅をつく高校生…キャロットケーキを焼く」
「新聞の見出し風に言わないのよ…あと、何でホラー口調なの…。家族写真のこととかも、そうだけど」
「んー、でもまぁ…。『ホームベーカリーで餅をつく高校生』は、日本語としては分かるけど、脳内で処理出来ん感じするよな。その、処理出来ん感じは、結果『ホラー』な気はする」
「ホラーか…。今日も、疲れたなー、他所の家では倒れるし…。起きていることが霊障かどうか、何て分析、『女子の家』でするなんて、俺には、餅つきより、よく分かんないんだけどね」
「そう言われると、どっこいどっこいな状況な気もするけど…。あの…ホラー映画に出てきそうな美人よね、あの人…」
「ブッ…」
優将の指摘に、俺は、思わず吹き出した。
「どうしよう…分からんでもない…。細くて、色白で」
「うん、その…、美人なんだけど…繊細そうな外見過ぎて、ホラー映画で怯えたり、追い詰められたり、叫んだりしてそうな感じがする…」
「あー…、声のせいもあるかな。うちの母親が、割とアルト気味の声なんだけど、そういう落ち着きとは逆の声質、というか。細くて、高くて」
優将は「不安定そうっつーかね」と言った。
俺も「確かにな…」と言った。
「ずっと、印象が安定しないというか。生い立ちが波瀾万丈過ぎるんだろうか」
それで言ったら、優将さんも茉莉花さんも、どっこいどっこいかもしれないんだけど。
「逆に褒め言葉なんだろうか、ホラー映画に出てきそうなほどの繊細な美貌、って言い方すると」
「まぁね、『ホラー映画に出てきそう』は、本人には言わん方が良いかもだけど…」
「…おや、噂をすれば」
携帯に、苧干原瑞月ことJasmineからのメッセージが入った。
「え、…凄」
「どした?高良」
「二泊三日のフィールドワーク、一日目話者さん一人、二日目話者さん一人、三日目話者さん二人、三日目の二人目は、降籏本家だって…。合間で、泊めてもらう家の、あの子の大叔父の苧干原銑二さんの家族にも話を聞けば、って。…調整力、凄くない?いくら、親戚伝手だって。頼んだの、今日の夕方だよ?」
優将は「優秀ぅ」と言った。
「本当に、輸入家具の会社に入りたいのかもね。スケジュール調整とかマーケティングとか、上手そう。こりゃ、別に、国籍関係無く、自分で外国行ったり、イギリスに拘らなくても、そのうち、カナダとか、どっか、英語圏の国の永住権、取ったりして」
「あー…」
何か。
…胸が重くなった。
何でだろう。
「期間限定、一夏、彼氏の振り、美人と。フィールドワーク手伝ってもらう見返りに過ぎない関係だろうけど、見た目ばっかりは、高校生らしい夏かもよ。一夏、って言っても、二泊三日だけど」
「そっかな」
…何でだろう。
…あんまり、好きな言葉じゃないな、『期間限定』とか『一夏』とか。
インスタントな関係、って気がして。
モヤモヤする。
そんなにコミュニケーション能力が高いわけでもないのに、他人と、せっかく関わるんなら、そういう、いつか終わっちゃうことがハッキリしてる関係より、長く、ずっと一緒にいられる関係の方が。
…えっ?
嘘。そうなの?俺って、『誰かとずっと、長く一緒にいたい』人なの?
嘘嘘嘘。無い無い無い。
失恋も真面に出来ない朴念仁で、デートしたい、とか、誰かを好きだって認めることより、自分の遣りたいこと優先の人間じゃん。
なーにを贅沢なことを。
あー、吃驚した。
そっか、親の夫婦仲が、認めたくはないことだが、良好な環境で育ったから、そういうのが普通、って、バイアスかかってんのかも。
あー、驚いた。何を甘っちょろいことを、この家で、さっきまで何が起こってた?
目の前の友達、親が離婚しそうで、母親が金目の家財道具、ゴッソリ持ってっちゃったんだよ?
無い無い、大体は、そんな、都合良いこと、無いんだって。
うちが偶々、離婚しないくらいのもんで。
あれは、当たり前じゃないんだって。
自分が、親みたいに、良好な夫婦関係の家庭を築けるなんて、勘違いだって。
人間関係は相互努力なんであって、俺みたいなのに、そんな、長く、ずっと一緒にいられる人間関係なんて、築けるわけないって。
「高良?どうした?目が普段の倍くらいの大きさになってるけど?」
「いや…ちょっと、自分の人生観に疑問が…」
「今?!三十路に差し掛かってから、とかじゃ駄目?ちょっと、一回落ち着こう?いくら美人にキスされたからって」
「あ、それもあった…」
急に恥ずかしくなった。
頭を抱えると、自分の顔が赤くなるのが分かった。
「う、うわー、忘れてた…」
そうだぁ、とんでもないことされたんだ。
…あー、やっぱり、親への当てつけに使われたんだと思うと…。
何か、胸がチクチクする。
…相手にとっては、挨拶みたいなもんなんだって、分かってるのに、割り切れ切れてなくて、モヤモヤする。
…泣いてた癖に。
細くて、華奢な腕で、倒れそうで。
抱えてると、花の香りがして。
湿った頬と長い髪が自分の肌に触れて、唇から、甘い味がした。
ああいうこと、好きでもない相手と、挨拶や他人への当てつけで出来ちゃって、何かのダシに使うのに巻き込まれちゃって、それが、文化の違いだって言われても、やっぱり、受け入れられなくて。
腹が立つような、悲しいような、モヤモヤした気分。
きっと、謝ってももらえないんだろうし、謝られるのも、何か違うような気がするし。
こんな答えも出ないようなこと、真面目に考えたって、二泊三日が終わったら、きっと、続けて話もしないような間柄になって。
相手は、…高校卒業すれば、日本にいないかもしれない人間で。
やっぱり、何か、嫌だ。
言語化出来ないんだけど、自分に合ってない気がする、そういうの。
「…あれ?優将?どうしたの?」
優将は、自分の右掌で、両目を覆っていた。
「神様…。一晩で、こんな面白いコンテンツに育つなんて。…俺も、長野に一緒に行って、このコンテンツの行く末を見守れないのは、何でなんですか…。見逃し配信も無いのに…」
「こ、コンテンツ?な、何?神に祈る程のことが…?もっと無いの?他に…」
優将は、右掌を自分の顔から退けると、穏やかに「何言ってんの」と言った。
「今更祈ったって、どの親から生まれるかとか、どの家に生まれるか、とか、何にも選べるもんかね。でも、無料コンテンツなら、どのコンテンツを視聴するかは、俺の自由でしょうがよ」
「…正論なのか、達観なのかは分からないけど。…女の子にキスされたことを揶揄わないでいてくれるのは、有難いかな…」
優将は再び「何言ってんの」と、諭すように言ってきた。
何で諭されてるの、俺は。
「早いうちから揶揄って、コンテンツが育つ芽を摘むなんて愚を、俺が犯すはずがないでしょうよ…。お前がフィールドワーク先で泊る家の壁紙になりたい程度には、お前のこと、見守りたいんだからね…?」
「キッモ。…ごめん、初めて、優将の言うこと、キモいと思ったかも」
「そう…?意外にキモがられてなかったのね、って、逆に思ったけど。お前には色々知られてるのに」
「いやいや…ごめん、何か、今考えてたこと、全部吹っ飛んだ」
おや。
久し振りに、御揃いで。
着物姿の男の子と、女の子が、並んで、ジッと、俺の方を見てる。
「ああ、やっぱり、似てる。可愛いよな、怖くない、ってのは、本当に、そうだよな…」
しかし、優将は、真っ青になって「ここを動くなよ」と言って、走って、玄関に行った。
「…優将」
俺は、思わず立ち上がったが、優将は、素早く、階下に姿を消していた。
男の子と女の子は、ゆっくり、消えて行って、入れ違いに、青い顔の優将が、部屋に戻ってきた。
「やっぱりだ」
「…優将?」
「今、家の前に、不審者がいた」
…え?
「座敷童は霊障、少なくとも、災いじゃない。お前を守ってくれてんだ」
全身の血の気が引く。
「待ってよ」
「ハッキリ、怖くない姿で座敷童が出てくれば、そっちに集中して、外に出よう、なんて、思わないだろ。お前を、危ない場所に行かせない為に、近くに不審者がいたら、その場に留めようとして、出て来てたんだ」
それじゃ。
あの時も。
あの時も。
家の前や、俺の近くには、不審者がいて。
「待って」
震えが止まらない。
「それじゃ、意味が、変わってくるんだけど」
あの時も、あの時も。
「…台風の、夜も?」
優将は「考えたくはないけどな」と言った。
「今日、倒れなかったら、どうなってたと思う?」
「倒れなかったら?…サッサと、あの子に書類を渡して、帰ってたかな」
目の前で手紙を読まれたくなかったし。
「そう、駅に向かってただろ?」
―高良が倒れてた時間だわ。
「小松さんと鉢合わせてたぞ、多分」
心臓が、ギュッとなるのを感じた。
「それの…何が、不味いの。変な人だけど、俺、関係無いじゃん。茉莉花さんのお父さんでしょ?」
他所の郵便受けに盗聴器しかけるくらいには、変だけど。
「…相当ヤバい人ではある。お前が会って、どうなるかは、俺にも分からんけど。危ない人だから予め会わないように守ってくれてるって考えたら、どう?」
優将は「推測だけど」と言った。
「一回、あの子の母親を、脅してんだろ?小松さん。それで、刺されたんだろ?…もう一回、やらない、って、言えるか?あの子に『お前の親は兄妹だったって知ってるぞ』って脅さないって、確証あるか?何で、自分名義の家の最寄り駅から、ちょっと外れたところに、あの時間帯にウロついてんだ、普通の仕事上がりにしては早いんだよ。苧干原親子が帰国してきたのを、何処かで知って、調べて、家の最寄り駅に現れたんだとしたら?あのな、分からない情報では無いんだよ、大企業の社宅の場所なんてのは。況してや、広告代理店の人だぞ。多分、個人的な伝手もある」
―…うちの母が生きている時には、もしも、起きていなかった現象なのだとすると。うちの母の死後、そして、私が日本に戻ってきてからの現象、ということになるのかしら?
「それじゃ…」
「あの和綴じの本がお前の父親経由で手元に来なかったら、そして、もし、お前に内容が読めなかったら、今年の盆、長野にフィールドワークに行く気になってたか?」
「あっ」
字を教えてくれたのは、父方の祖父。
本を渡してくれたのは、あの子の母親、そして、俺の父。
「しかも、盆までに読み終わったな。何でだ?」
「母さんに…怒られて。納期を作れって。翻訳を待ってる子が気の毒だろう、って。そして、茉莉花さん達が、手伝ってくれて…」
妹。
そして、弟。
俺を補完してくれる、守ってくれる存在。
「お前、守られてんだよ。愛犬にまで。だから、怖いだろ?」
ゾクッとした。
「よく分からん存在が連れて行こうとしてるのは、お前だ。多分、お前のこと、探してる。俺が、あの存在を怖くないのは、多分、微妙にスルーされてるからだ。いても、いなくても、そんなに関係無い扱いなんだ、多分。その感覚は覚えがある。お前は長野に行くべきなんだ、いや、長野に逃げるべきなんだ、苧干原瑞月と、盆の間だけでも。その間に、どうにかしてやるから」
「…待ってよ、待って、優将。『霊障より怖いこと』って、何?何を『御盆明けまでにどうにかして』くれようとしてるの?うちに業者が入ったのに、父親が優将に電話代われって言ったのは、何で?うちに今夜、何の業者が来てて、俺は、ここに泊るように言われたの…?」
今思うと、『俺が夕飯を優将と一緒にとっているか』確認する為の電話だったんだってことが、分かる。
うちの父親が、業者がいる時間に俺を家にいさせたくもなければ、一人にもさせたくないことを。
「言ったらお前、長野に行くのやめるじゃないか」
ハッとした。
「皆知ってるんだ、お前が優しいから、気にして、自分だけ長野に逃げないって。だから言わないんだよ」
「そんな…」
「長野に行け。苧干原瑞月と一緒に、二泊三日。それが多分、あの子を守ることにもなるから」
優将は「頼む」と言った。
「俺が付けなきゃいけない落とし前にもなっちまったんだ。帰ってくる前に全て終わらせて、終わったら、全部話してやるから」
涙が止まらなくなった。
「何で…皆…そんな、一方的なんだよぉ。俺が狙われてて、俺は、守られる為に逃げて、それで、納得しろって言うの…?皆が危ないかもしれないのに?」
「そう言い出すから、周りが教えないんだ。もっと自分本位になって、身の安全を守れ。セルフィッシュになって、やりたいフィールドワークをやるんだ。何なら『急にフィールドワークがやりたくなったこと』にすら、意味が有るかもしれん」
…そうだ。
…獣医、目指してたのに。
…急に俺、フィールドワーク、フィールドワーク、って…。
そりゃ、色々、考えさせられること、あったけど。
この夏は、長野に行く気満々だった。
「あ」
…獣医になることを考えさせられるようになったのって。
『苧干原瑞月の帰国後』?
優将は「長野に行ってくれ」、と、見たことが無いくらい真剣な顔で言った。
「『預かり物』にも、何かヒントが有るかもしれん。告発者」
ハッとした。
涙も止まった。
あの本は『降籏淳緒の書いた告発文』。
『俺』は『父親』の悪事の証人にして、告発者。
跡継ぎにして、多分、一番の敵。
'Herald, read the accusation!' said the King.
告知官は白ウサギ。
…アリスの父親そっくりだが、ウサギの穴にアリスを落として、下働きや蜥蜴のビルと暮らしている時とは、明らかに役割が違う。
帽子屋は、不思議の国のアリスにも、鏡の国のアリスにも出てくるが、証言らしい証言はしない。
アリスの父親そっくりの白ウサギ。
『俺』は弟に、「なぁ、チェシャ猫」と声を掛けた。
「今日、何に気づいたんだよ、あの子の家で。珍しく、結論を急いでたじゃないか、座敷童が見えるのは『良いこと』だって。らしくないじゃないか、明言を避けなかったのは、どうしてなんだ」
チェシャ猫は一瞬、怯んだ。肯定の意味だろう。
「長野には行くから、教えてくれないか?」
「…分かった。顔だ」
「顔?」
「何かを思い出す時、顔が分かる人と、分からん人がいるだろ?品さんなんか、ハッキリ分かるのに」
「…それは確かに、不思議に思ってた」
「苧干原瑞月には、座敷童の声しか聞こえん。苧干原瑞月には、座敷童の顔が見えん。…その違いは」
「違いは?」
「血縁かどうか、だ、多分」
「…え?」
待ってくれ。
「品さん、そりゃ、糸目の、色気ダダ洩れのイケメンで、ハッキリ顔、見えるけど、石工の次男坊で。…あ」
―石工の次男坊、他所で、西洋の遠近法を習ったそうである。明るい人柄、碌山の知り合いだなどと嘯くが、真偽は分からない。渡仏したいなどと、よく冗談を言う。…ま、絵は描くんでしょうけども。…品さん、女の子を素描する。度々、素描するが、女の子は、それほど喜んでいない。像を作る時の見本にしたいのだと言う。確かに美しい妹だが、あまり喜んでいないので、満七歳の頃には、遠慮させてもらおうかと考えている。品さん、男の子の方は、目に入っていない。単に、身分低い、下働きの子だと思っているのだろう。素描の時には、一緒に遊べないので、男の子も、女の子も、あまり喜んでいない。…これ、変じゃない?。
―うん、未就学児の女児を、ずっと素描って、何か…。
―まー、それが一番変っちゃ変だけど。考えてみ?そもそも何で、名士の娘を長時間拘束することを許されてんのよ、『品さん』。そんな、偉いわけなくない?石工って、ただの職人でしょ?女の子の方は、サトさんっていう教育係まで付けて、振袖着せられてるような家柄で、そんなことある?閼伽の他人でしょ?
「閼伽の他人じゃなかったってこと…?」
「冊緒は品さんを『かなちょろ』って呼んでたんよ、思い出したんだけど」
「蜥蜴?あっちの方言だね…」
「うん、うちのお母さん、タヅって、覚えてる?」
「ああ、…下働きの。それこそ顔は分かんないけど…」
「今考えると、品さん、お母さんとデキてたんよ」
「え?」
「正確には違うな、タヅに、品さんを宛がってたのよ、不満を押さえさせて、下働き兼、自分の愛人として囲う為に、事情を知ってる男前を宛がってたんだわ、『俺』等の父親が。それで、夜、壁を這うみたいにして、女中小屋に来るから、蜥蜴。一回、『俺のお父さんか?』って聞いたら、無視され始めてさ。でも、それ以外は、案外、良い奴だったよ。淳緒にも、冊緒にも、ツネにも。相手も、自分の弟妹だとは思ってたんじゃないか?で、『俺』等の父親のこと、全部知ってるし、加担してることもあるから、『俺』等の父親も、頭が上がらん部分があって、ある程度自由にさせてたんだろ」
罪を全て知っている蜥蜴のビル。
判決や事実認定を行う存在。
「…待て待て。…もう一人いたろ」
「うん、お香さんの弟な。そういうことなんじゃね?」
「…はー、そういうことか」
「実際は、お香さんの母親に弱味を握られて、危険な『預かり物』を預けられちまったんじゃね?お香さんの父親は、そんなこと知らんから、『預かり物』の人質みたいに、ツネを息子と結婚させようなんて思ったかもしれんし、『俺』等の父親は、厄介払い出来れば、血の繋がりなんて気にせんかったかもしれんけど、お香さんの母親は分かってんだから、そんな嫁取り、承知するわけねぇわ」
鬼畜。
「…クソ親父…。でも、俺、お父さんの顔、見えないけど…」
「言い難いけど」
同じ顔よ、と、小さい声で、言われた。
気を取り直す為に、と、入浴を勧められ、優将もシャワーを浴びるから、と、浴室に向かったのを、優将に借りたTシャツとハーフパンツ姿で、リビングで見送りながら、俺は、今日起きた出来事を、反芻した。
女の子を親に内緒で家に泊めたり、泊めたのは別の女の子とキスした自分と、『俺』が、乖離しそうになる。
Which Dreamed it?
赤の王の夢?赤の女王の夢?アリスの夢?…『俺』の夢?
「高良」
名前を呼ばれて、ホッとした。
Tシャツとハーフパンツ姿の、風呂上がりらしい優将が、「髪乾かせって」と言ってくれた。
「あ、うん。…そうだ、Émileがいると、座敷童が出ない気がしてたんだけど。…あんまり関係無いのかな、ほら、凄いタイミングで会った気がして」
「ああ、お前のところの愛犬が懐かなかったり」
優将は「俺が考えるに」と言った。
「関係性は分からんけど、『座敷童と同時に』現れないことは大事かも、と思ってる。『避けるべきこと』認定の不審者だったら、お前の『家』に入る前に、弾かれてんじゃないか、って」
「…そ、そうか…」
「そういう意味じゃ信用して良い気がしたから、茉莉花にも、盆明けまで、なるべく彼氏のとこいろって言った。不審者の来るとこより、良いだろ」
「なっ…。思い切ったこと、言ったな。…一人暮らしの彼氏の家に、って、違う意味で大丈夫なのか?」
「今付き合ってんのは、あの二人なんだから。それは、二人の問題だろ?不審者の来るとこにいるより、ボディーガード的なのと一緒にいるのがマシだ。怪我したり、死んだりするよか、いいだろ」
「…そんな、危険なことが起きるの?」
「例えだよ。な?…茉莉花が、怪我したり、死んだりするよか、いいだろ?」
目が真剣だ。
…何か、こいつは、相当の覚悟をしてるんだってことだけは、分かる。
「優将」
「せっかく生まれたんだから。前と同じこと、しなくていい。前みたいに、早死にしなくてもいいし、前好きだった人間と結ばれる必要も無いんだ」
「優将…?」
「やっぱり、情で目が曇るからって、ロジックを立てるのに、切り捨てちゃいけなかったんだ、若い女の子が、わざわざ、遠い木曽路を通って『淳緒』に会いに来てた意味を」
「…何?」
「そこには、やっぱり『情』があって、…その…。もし、『淳緒』に、仮に、前好きだった人がいたとしても、もしも、違う人間として、今生まれたんだったら、前好きだった人を、もう一度好きになる必要はないんよ」
「優将」
「明日死ぬんだったら、誰に会いたい?」
「…優将だよ」
泣いてる俺を、呆然として、相手は見返してきた。
「あと、家族、犬とか、茉莉花さんとか、…皆だよ。一人だけなんて決まり、無いだろ?俺は、お前なんかより、ずっと、見栄っ張りで、欲張りだし、…ここにいない時だって、長野にいる時だって、…絶対思い出すんだから。皆今頃、どうしてるんだろう、って。俺のいない時…」
秋の深まる信州の山で、『俺』のいない時、二ヶ月も、どうしていたんだろう、って。
どうして、こんなに心配なのに、離れないといけないんだ。
俺の大事なもの、全部から。
「帰ってきて、死んでたら、ただじゃ置かないからな。あっち側に、簡単に行くなよ?」
俺は涙を拭った。
「次の台詞は分かってる。『寝ろ』って言うんだろ?」
天使みたいな笑顔が、こっちを見詰める。
何ら不思議なことは無い。魔王は、天使だったのだから。
天界の操縦者だ。
でも自分の境遇だけは操れない。
微笑みだけを残して、消えていくチェシャ猫。
「ハズレ。何か飲めって、言う」
「…What are you grin like a Cheshire cat?」
お互い、クスクス笑い合って。
…結局、時間は、止められないんだって、実感して。
夜は、残酷に時計を進めていった。
「王侯貴族の部屋かな…?」
「大袈裟な…」
「家具全部作り付け、勉強机もベッドも作り付け、って、流石に見たことないんだけど…。わー、白木?わー…アーチ材が、天蓋みたい…」
「簀子材の下に収納ついてて、上にベッド用マットレスと腰パネルついてるから、…あー、要はね、ここが一番、家の中で、地震に強いんよ」
「ほ?」
意外な回答…。
「梁が斜交いで、建材が入ってて、ここが、耐震構造的に、一番安全な部屋なんよ。家具が全部作り付けなのも、寝てる時地震で倒れないように、って。…『家』を建てる時にはね、一応、『子ども』の安全を、一番に考えてくれたのよ。…ま、だから、今日は、ここに泊りな」
物の入れ物になってしまった『家』だけど。
…それでも、愛情の残滓みたいなものは、残っていて。
それが、『座敷童』を、雁字搦めにしているようにも、思えた。
「最後は、親のこと、考えるなよ?」
俺の言葉に、優将は、目を見開いた。
「せっかく生まれたんだから、最後は、セルフィッシュになってくれよ?」
どうか、神様。
普通の、在り来たりな、日常に、戻してください。
御盆が終わったら、ここで、こいつと、普通に学校に通って、普通に、卒業させてください。
十月には体育祭があって、十一月には、受験準備のために他校より一年繰り上げの修学旅行で、北海道に行って。
その、思い出の中に、こいつもいられるように、してください。
…こいつに、自分の幸せを考えるように、仕向けてください。
―子どもを助けてください。
でも、優将も、その他の存在も、返事はしてくれなかった。
「…何年住んでて、こんなに綺麗なわけ?この部屋は。そして、この、グレーに、黒と白の糸で、びっしり刺繍がしてある、御洒落過ぎるベッドカバーは、汕頭刺繍じゃないよね…?」
「いや、何か、ババァが刺繍の着物に凝ってた時に見付けたアンティークの着物が元らしいわ。単に、木綿じゃん?ザブザブ洗ってアイロン掛けてっけど?部屋が綺麗に見えるのは、中学に上がる時、俺が、ペンギン柄の壁紙を無地に変えたからじゃね?」
「うーん、ほぼ、シルバーみたいな、綺麗な淡いグレー…。ボコボコなのにパール感のある光り方する壁紙…もう、隙の無いお洒落さ…」
ベッドに並んで横になってても、意味分からんくらい御洒落…。
「寝床が良過ぎて眠れないなんて…」
「…プログラミングの本でも読む?C言語とか。あ、VB使える?」
「齧った程度だけど…。何、ここ、そんな本、置いてあるの?」
「アプリでも作ろうかなーと思ってた時期があって。ま、趣味なんだけど」
「…俺の知ってる趣味とは何かが違うな、一般常識としての趣味って、もっと…」
「…それなら言うけど、多分、お前の思ってる一般教養の『一般』、大学教授だぞ…」
俺は、ハッとした。
「嘘…」
…否定しきれないかも。
「いやー、女子の前で、『印象派だと』ルドンが好き、っていう、百点満点の回答するやん…。何で俺は先月、美術館で、この展開を見られなかったの、ってくらいの。で、『印象派だと』って言い方だと、他にも好きな画家がある程度には詳しいわけで」
び、美術館で?
「でも…俺、本当に、一般常識程度の知識しか無くて、絵なんて、好き嫌いでしか語れないし、芸術の何かが分かるわけじゃないから」
「…因みに、印象派の画家以外だと?」
「…日本画だと、鏑木清方とか?」
普通の美人画ばかりと思いきや、『妖魚』とか、結構凄いですよ。
優将は、慈愛に満ちた笑顔で、「寝なさい」と言った。
暗に『それは一般知識ではない』と言われたらしかったので、素直に眠ることにした。
目が覚めると、やっぱり、腰に、優将の両腕が巻き付いていたので、三日連続だなぁ、と思って、何だか笑えた。
朝が、来てしまった。