錯誤相関: You may tell us what's happened in the town.
「良かった、目が覚めて。私の部屋に寝かせるか、救急車かって、話をしていたところよ」
…女子の部屋、若しくは病院搬送か…。
目が覚めて良かった…。
どっちも御迷惑だろうから…。
優将は、玄関に一番近いドアを指差して「あそこが寝室だってよ」と言った。
思わず「…二部屋貰えてんの?」と言うと、瑞月は、「ここ、3LDKなんだけど、私、一人っ子だから。母もいないし。あっちが、衣裳部屋兼、ベッドルームね」と答えた。
…社宅でも、衣裳部屋と勉強部屋が貰えてるんなら、使い方も豪邸並みだな。
見るのが怖い、三枚目のペルシャ絨毯が敷かれてたら、どうしようかと思うと。
確認するまでは、俺の中には三枚目のペルシャ絨毯は、この家に存在しないんだから、見たくない。
「どう、立てそう?高良。顔色悪いけど」
「あー、大丈夫。シュレディンガーのペルシャ絨毯のことを考えてただけだから」
瑞月が、それを聞いて目を瞬かせた。
しまった。奇矯さを晒してしまった。
優将は「…何か補給しようか」と言った。
うん、ごめん、優将。
具合は良くないみたい。
三人で、やおら立ち上がり、結局、何か口にしよう、という事になり、先程のダイニングテーブルまで移動した。確かに、消耗が凄い。
廊下を歩きながら、優将が「ラナ・デル・レイ好きなんだ?」と言うと、珍しく、瑞月は微笑んだ。
あ。
自然に笑ったの、初めて見たかも。
…何か、複雑な気分。
棘のある言葉を吐かれたり、泣かしそうになったり、くらいしかなくて、こういう、穏やかになってもらう話題なんか、思い付かないし。
…あの、手紙、渡さなきゃいけないし。
俺が「何の話?」と言うと、優将は「寝室にポスター貼ってあったんだよ。ポスターをラミネートは、ガチでしょ」と言った。
…寝室、見たんだ。
何か、これまた、ちょっと、複雑な気持ち。
そこにペルシャ絨毯が敷いてあったかどうかも聞きたくないし、あんまり話題も広げられないし。
短い廊下を抜けてキッチンに戻ると、瑞月は、先程のお茶と、切った林檎にピーナッツバターを添えた物を出してくれた。
…スナック菓子、なさそうだもんね、この家。
アメリカの高校のチアガールになった気分だけど、美味しく頂きましょう。
瑞月は、そこに更に、Cachetのダークチョコレートを出してくれた。
あ、ブラックベリー・ジンジャー味。
一番、よく買う味だ。
偶然だけど、いつもの味、って、何か、助かる気がする。
ちょっと、ホッとした、と言うか。
この子と、味覚は合いそう。
果物にピーナッツバターを添えて出してくる辺り、隠しても隠し切れない程の欧米の香りがするけど、今のとこ、食べ物に関しての文化的差異は、そのくらいかな。
俺の隣の席に座った優将が、Cachetの黒いパッケージを手に取り、「これも美味いよなー」と素直に言うと、コミュ強達は、自然にCachetの話を始めた。
「レモンアンドペッパー味が好きなの?美味しいけど、廃盤の噂、無い?今のうちに買っておいたら?」
優将の向かいの席に座った瑞月からの情報に、優将は、何らかのスイッチが入った顔をした。
今日はネットショッピングだね、お互い…。俺も、このお茶、買おうかな、と思ってるし。
食料品は賞味期限もあるし、個人的には、買い占めは避けたいところだけども、優将さんは、自分の気が済むまでCachetを買うと良いと思う…。
優将が、「有益な情報を、どうも…」と、割と深刻な様子で言うと、瑞月は、困った顔をして、「…I am happy to be of service.」と言った。
『お役に立てて良かったわ』みたいな感じかな。
サッと『You're welcome.』以外の表現が出てくる辺りが、流石、語彙が豊富な印象。
そして、音声変化が少なくて、聞き取り易いんだよなー、上品な発音と言うか。Émileとはまた、違った英語で。
優将は、大きなガラス皿に盛られた皮付き林檎に、添えられたピーナッツバターを塗って口にしてから、「ピーナッツバターも美味いね」と言った。
うん、美味いし、塊なのも助かるな。香ばしい。普段なら、絶対、林檎だけで食べるけど。
俺が「意外と甘過ぎないんだよね、このメーカーのピーナッツバター」と言うと、優将が、「そういや」と言った。
「高良って、甘いもん、あんま、沢山食べないよね。ケーキとか、何が一番好き?」
…Halleluiahを思い出すから、あんまり、嬉しい話題じゃないけど。
「実は、…キャロットケーキ」
イギリスに御住まいだった人の家に来たから白状するけども。
優将は、林檎を食べながら「IKEAとかであるやつ?」と言った。
「逆に、IKEAかディーンアンドデルーカ以外で、ほぼ見ないやつ。別に、他のケーキも、嫌いなわけじゃないから。甘い物も、嫌いなわけじゃないし、食べるのを、ほぼ諦めてるケーキなだけで」
クリームチーズのフロスティングの甘さと、ブラウンシュガーの甘さくらいで、生地には沢山スパイスが入ってて、人参も甘く感じないし、ローストナッツとか入ってても、香ばしくて好きなんだけど。
それこそ、イギリスのホームメイドケーキだからか、ニューヨークチーズケ―キみたいには知名度が無くて、物産展かオシャレカフェに行かないと、大体置いてないんだよな…。
あとは自分で焼くくらいしか、食べる道が残されていないという。
クリスマスケーキも誕生日ケーキも、俺が、それ程積極的ではないので、父親が、自分の食べたい物を買って来て、父親が賑やかに食べる、という、言わば、自分の誕生日でも、父親のついでに食べる、という、『父親のついでケーキ』であって、『自分用に用意されたケーキ』ではない、という状態を、結構長い間、続けている。
それこそ、慧の家みたいに、母親がケーキを焼くような家ではないもので、ええ。
父は逆に、生クリームのケーキが無いとションボリするので、小学生の時、一度、父親の誕生日にストライプケーキを作って出したら、それこそ、狂喜乱舞して写真を撮られて、聖伯父に『高良君の手作りケーキ』の画像データを送った挙句、写真を現像して額装されそうになったので、恥ずかしいから二度と作らないことを心に誓った、という逸話がある。
味自体は、普通のスポンジケーキよりストライプケーキの方が、実は好きなんだが、それこそホームメイドでなければ食べられないケーキなので、俺が作らなければ、多分二度と口に出来ない。
「優将は?」
「昔はシャインマスカットのショートケーキが美味かったんだけど」
高そっ。
「何か…成長するごとに、生クリームが、そこまで…って感じになってきて。結論、それはシャインマスカットが美味かったんじゃないかってことになってきてて。今、ケーキ難民なんよね。だから、高良の好きなのを参考にしようと思ってたんだけど。…売ってる店が少ないのか…。推してたチョコレートも廃盤になろうってのに…」
「そう…」
チョコレートも美容室もケーキも大変だね…。
何で優将、自宅の郵便受けから盗聴器が出て来た時より深刻そうに言うんだろう…。
黙って俺達の話を聞いていた瑞月は、中座して、白い、小さなホワイトボードと青いペンを持って戻ってきた。
「話は大体聞いたけど、…私の依頼した、本の翻訳が、原因、ということなのかしら?」
「…何とも言えない、ので。こちらとしては、依頼完遂として、実物の返却と、翻訳文を纏めたレポートと」
「ああ、手紙、ね」
俺が倒れている間に、結構要領良く優将が説明をしてくれていたらしく、瑞月は、戸惑った様子だったが、比較的スムーズに、俺が提示した書類を受け取ってくれた。
「本自体より、本に手紙が仕込まれていて、その手紙の方が重要だったなんて、盲点だったわ。…あの…、手紙の内容は?」
「申し訳ないけど、発見者の俺だけは、うっかり読んでしまったけど、守秘義務は守るので。誰もいない所で読んで、内容については、自己判断で処理して頂けると…」
『俺しか読んでない』ってことにさせてください。
流石に、ここは嘘をつかせてください。
俺の両親も優将も、うっかり知ってるとか、言えないから。
瑞月は、困った顔をした。
「…あまり、良くないことが、書いてあったの?」
「その点についても、自己判断で。ただ、形見には違いないから、自分で読んでみることは大事だと思う」
瑞月は「そうね」と言って、ビニール袋に入った本を手に取ると、見詰めた。
「そして、座敷童、が、見える人と、見えない人が出ている、と」
「んー…そうだね。霊障…。Spiritual illness?Spirits disturbance?…curse of…」
訳せねぇ…。
瑞月は、「うーん」と言った。
「霊障、は、分かるわ、言葉自体は。有難う。…illnessやdisturbanceやcurseって感じ、した?怖い感じはしなかったけど」
…うちの母親とかと同じこと言ってる。
瑞月は「要素を抜き出してみましょうか」と言って、ホワイトボードに、何事かを書き始めた。
…おお、三人目だよ、この論理的思考の方法を取る人間。
「えっと、そうね、仮に、起きている現象を、全て霊障と呼ぶとして。見える、若しくは聞こえる人、見えも聞こえもしない人の、二つで、先ずは考えてみましょう。異界がどうの、というのは、私は見てないし、よく分からないから、一度、脇に置いておくとして」
シンプル。
…なーんだろうね、直情的でも、頭に血がのぼってない時は、抽象性が低いことを言う人だな。
助かる。
俺と優将は、作業者の茉莉花さんは抜きで、翻訳する際の関係者を、瑞月に報告した。
翻訳作業に茉莉花さんが関わってたことは、伏せておこう、という判断を、優将と話し合ってたわけでもないのに、意見が一致していて、助かった。
…父親と、さっき中澤家に伺って、色々聞いた、とかも、優将には言えてないんだけど。
事情が色々複雑過ぎて、優将にも瑞月にも、話していないことが多いのは、何となく、申し訳ない。
でも、優将も、俺に話していないことがあるみたいだし。
瑞月が、起きている出来事を整理してくれようとしているのは、素直に有難いし。
…今は、黙って、流れに任せて、話をしていくしかないか。
「大まかに、本に関係した人は、そちらの御両親と、お父様の生徒さんである大学院生の方々と、この場にいる、私を含めた三人ということね。…あら」
読み易い字で、ホワイトボードに書かれる字を、感心しながら見ていると、瑞月は「分かったかも」と言った。
俺と優将は声を揃えて、「え?」と言った。
も、もう?
…何で?凄くない?
「年齢じゃない?」
優将が「あ」と言った。
「俺等だけ未成年ってこと?」
「ええ、大学院生って、何歳か分からないけど、飛び級なんて日本には無いんだから、絶対二十二歳以上よね?社会人入学の人もいるでしょうし」
…言えないけど、多分アラサーですよ、全員。
新井さん改め田村さんも、自分で『古株』って言ってたし。
優将が「スゲ」と言うと、瑞月は、不思議そうに、「逆に、これだと年齢以外の情報が分からなくない?」と言った。
…言われてみれば、そうだ。
俺は、ハッとした。
「…享年二十五歳?」
瑞月は、「えっ?」と言った。
「何?うちの母は、享年二十五歳だけど…」
あっ。
「…まさかな。翻訳する、この和綴じの本の実物に触った、二十四歳以下の人間に、座敷童が見えたり、座敷童の声が聞こえたりしてる、ってこと…は」
優将も、ハッとした。
―私、見てない。
そう、茉莉花は、コピーにしか触れていないのだ。
瑞月は、目を瞬かせたが「そうね」と言った。
「私には根拠が分からないから、二十四歳以下の人間、というのには、論理の飛躍を感じるけど、和綴じの本の実物に触った、未成年の人間、というのは言えると思うわ。そうだとすると、うちの母や他の家族にも、何か見えていたことになるけど。…とてもじゃないけど、母の生前、そんな話を聞いたことは無かったし、そんなことになると知っていて、私に本を残すとも思えないし」
瑞月は、そう言ってから、ハッとした顔をした。
「…うちの母が生きている時には、もしも、起きていなかった現象なのだとすると。うちの母の死後、そして、私が日本に戻ってきてからの現象、ということになるのかしら?」
俺も、優将も、ハッとした。
「何で、こんな、俺の周りに集められてるような感じに…」
怖い。
「集められている?…それが怖いの?」
瑞月の言葉に、俺は、周辺に、長野出身、特にO地区関係の人間が多い、という話をした。だが、瑞月は、首を傾げた。
「…んー?それは…。Illusory correlation…いえ、錯誤相関ではなくて?」
「えっと、Illusory…現実ではなく、幻想に基づく相関関係、みたいな話…?」
「そう、あの…何と言う…?あー、晴れ男とか雨女、ね。認知バイアスの一種。相関が無いデータに、相関があると思い込んでしまう現象、ではない?座敷童が見えることと、起きている『怖いこと』の原因は、本当に、同じものなの?」
「あ」
―そうです。同時期に起きているからといって、その二つは本当に原因が同じなのですか?
そっか、母さんは、あの時、かなり噛み砕いて説明してくれてたんだ。
「同時期に起きているからといって、その二つが本当に原因が同じとは限らない、ということか?」
そう言うと、瑞月は、俺に対して初めて、優しく微笑んで「Well done.」と言った。
…『よくできました』って?
…何、その、英語の先生が生徒にするみたいな子ども扱い。
地味にイラっとしちゃうな…。
…いや、別に、悪いことを言われたわけじゃないんだから。
ニッコリ笑って褒められたのに。
何にイラついてんだ?俺。
…棘のある言葉を吐かれた時も、別に、イラつきはしなかったのにな…。
…実際、年上だしな。
この子が、本当なら一学年上の八月生まれで?俺が十月生まれだから…、えっと…。
…いや、いいじゃん、そんなの。
話を続けよう。
でも、分かったことがある。
この子、英語で思考して、頭の中で日本語にしてから話してくれてるんだ、多分。
だから、抽象性が低い話をするように感じるんだな。
茉莉花さんとは方向性が真逆だ。
うちの母親や優将さんと系統が同じ話し方をする理由の一つが、一回、頭の中で和訳する時に、無駄を削いでくれてるから、なんだろう。
そういう意味じゃ、やっぱり、海外で育った子、なんだよなぁ…。
本人が、海外の国籍になりたいって言ってるんだったら、ならせてあげたら良かったのに…。
突然、優将が、青い顔をして「分かったかも」と言った。
俺と瑞月は、その、あまりの不安そうな様子に、思わず、顔を見合わせてしまった。
優将は「えっと」と言った。
「あー、その、座敷童自体は、悪いもんじゃない、って結論で、良い?」
…珍しく、結論を急ぐじゃん。
明言は避けないわけ?
…何か、思い付いたこと、隠してる?
瑞月は「結論には早いけど」と言った。
「個人の感情としての雑感だけど、自分の母親が残してくれた物が、自分に害がある、とは考えられないし、考えたくないの、座敷童が見えてしまって。そちらが、怖い思いをしている、と言うのであれば、話は変わってくるけど」
あ。
そうだ。
…俺も、お祖父ちゃんが教えてくれた、崩し字の読み方で、不幸なことになるわけない、って思って…。
…そんなん、いつ思ったんだっけ…?
優将は、気を取り直したように「逆に考えてみるか」と言った。
「座敷童が見える、若しくは、座敷童の声が聞こえるのは『良いこと』、ってのは、どう?」
俺と瑞月は、声を揃えて「あ」と言った。
「あの…実際は知らんけど。普通、家にいると、金持ちになる妖怪なんじゃん?」
「そうだ、幸福の守り神、みたいな捉えられ方をしてる地域も、あるよ…」
「そう、えっと。あの、座敷童に、守ってもらってるって、ない?『怖いこと』から。それが、具体的に、何なのかは、分からんけど」
「そっか…」
―…一人にだけ、懐かねぇのは、何でなんだ?いじめられたわけでもねぇのに。
―あの時、いや、あの後、誰に会った?
…Émileがいる時って…座敷童が出て来ない?
…いや、偶然か?
瑞月も「怖くないものねぇ」と、少し嬉しそうに言った。
「お姉ちゃん、…えっと、母、が、私に、怖いこと、するはずないもの…。きっと、守ってくれてるんだわ、『怖いこと』から」
優将は、ほんの少しだけ悲しそうに、しかし、優しい顔で微笑んで「良いお母さんだね」と言った。
その言葉を聞いた瑞月は微笑んだが、俺は、何も言えなかった。
優将は「そうだ」と言って、フィールドワークの交渉を始めた。
い、今?
案の定、瑞月は、優将の説明を聞きながら、ポカーン、とした顔をしたが、優将は、構わず説得を続けた。
「一人で帰省して、墓参りすんの、不安なんでしょ?何か、彼氏だ、とかいって、嘘ついて、こいつを、二泊三日、連れ回してさ。そんで、親戚とかの知り合いに、こいつの、聞きたい話を、聞かせてもらう橋渡し、してくんない?悪い話じゃないと思うんだけど。どうせ、変な噂、立ってんじゃん?国籍がどうとか。この…目立つ『彼氏』を連れてって、噂を相殺すれば?」
…なんっつー提案すんのよ、魔王、俺の意見も聞かずに。
瑞月は、口を開けたまま、真っ赤になった。
優将は、椅子から立ち上がって、瑞月の傍に行くと、何かを耳打ちした。
瑞月は、更に赤くなって、俺の方を見た。
な、何事…?
「え、えっと、その…。翻訳してくれた内容?を、読んでからでないと、何も言えないし、流石に、そういう話だったら、うちの父の許可も、取らないといけないけど…まだ帰って来なくて、ごめんなさい、早く戻るように言ったんだけど。…えっと、じゃあ…。条件があるわ」
「何でしょうか…」
敬語になっちゃうよね、もう。
「彼氏の振りをするんだったら、私を『Jasmine』って呼んで」
…マジっすか…。
Émile以来のハードルですね…。
「しょ、承知しました…Jasmine…」
瑞月は「私も名前で呼ぶから」と言って、更に赤くなった。
…優将さん、そのガッツポーズは何?
「あとは」
「あとは…?」
お手柔らかにお願いします…。
「八月十四日の、地元の花火大会に、一緒に行ってよ。『彼氏』と帰省したのに、私だけ行ったら、不自然だから」
「…あー、そんだけでいいんだったら」
…ホッとしたー。
稍、気を取り直した様子の瑞月は「帰省したら絶対行ってるの」と言った。
「誕生日の前日だから、前祝だって、お姉ちゃんと…」
そこまで瑞月が言ったところで、急に、玄関から、ガチャガチャと、社宅のドアを開ける音がした。
それから、「ただいまー」という声が聞こえてきて、この暑いのに、グレーのスーツ姿のイケオジが登場した。
…うおー、渋い。
あと、娘?に、顔が、そっくりだ。
この人が多分、苧干原ゴウ氏だろう。
…えっ?うちの母親より二歳年上ってことは…四十二歳?!
2×3×7=42?!
…うちの父親より、相当年下に見えますけどぉ?!
いや、他人の年齢を素因数分解してる場合じゃない、挨拶しよう。
俺達三人は、全員、椅子から立ち上がった。
しかし、俺の顔を見た瞬間、相手は「えっ」と言って、真っ赤になった。
「た、貴ちゃ…」
「…旧姓、及木貴子でしたら、俺の母ですけれども」
人生で初めてされる反応ではないですが…。
おお、この人、若しかして、うちの母親に、昔、気があったとかかな…。
母親と顔が同じなもんでね、ええ…。
複雑な気持ちだな、毎度。
「あ、えっ、そ、そうですか」
相手は、持ってる荷物をぶちまけてしまった。
凄い動揺。
優将が「親のエピ追加とか最早ファンサ」と、聞こえるか聞こえないくらいかの声で、嬉しそうに呟いた。
ファ、ファンサ?何?
瑞月は、唖然としていたが、何かを察したらしく、ムッ、と、怒りの表情を見せた。
…ですよねー。
この反応、この人、絶対、うちの母親に気があったよねー、やっぱり。
見てて気分のいいもんではないでしょうね。
相手は、荷物を拾い集めながら、しどろもどろ、言った。
「あー、聞いてますよ。えっと、中澤が紹介してくれた人達、かな?どうも、苧干原昊です」
「降籏高良です」
「こちら、名刺です」
「どうも…」
昊か。
夏生まれの人なのかな。
「こっちは、作業協力者の友人、柴野優将です」
相手から名刺を受け取った優将が、「どうも」と言う言葉に、被せる様にして、瑞月が言った。
「お父さん 遅 かったわね」
「悪かった、トラブルがあってさ」
「連絡くらい出来たはずでしょう」
「…それがさー、携帯も、キーボード機能がイカれちゃって、文字入力が出来ないし、変な奴と会うし…」
「言い訳なんか聞きたく ないわよ、意味分かんない!」
…怒ってるなー。
まぁ、この子が腹を立てているところを見るのなんか、最早慣れたもんだが。
あと、この人達、自分が話したい言語で話しても通じるもんだから、こういうやり取りが常態なんだろうな。
瑞月は「もう知らない」と言って、「見せてあげないんだから」と言って、俺が透明のクリアファイルに入れて手渡していた、母親からの手紙を目読し始めた。
優将と俺は「あっ」と言ったが、遅かった。
嗚呼、それは、一人の時に読まないと…。
俺は、慌てて、瑞月に駆け寄ったが、読み終えたらしい瑞月は、わなわなと震えていた。
いかん。
まるで、急に、膝が無くなったかのように、瑞月が、その場に崩れ落ちるのを、俺は、両腕で、慌てて支えた。花の香りがした。クリアファイルは、遠くの方へ滑っていってしまった。それを、優将が、素早く回収した。
昊氏は「どうした?!」と言ったが、瑞月は、相手を、化け物を見るような目をして見てから、座ったまま、俺に抱き付いて、おいおい泣き始めた。
…終わった。
この子の、これまでの日常と信頼が、崩れてしまった。
居た堪れない気持ちでいると、昊氏は、「何がどうなってるんだ」と言った。
瑞月は、相手の方を見もせずに、震える声で宣言した。
「わ、私、御盆から、この人と、Oに帰省して、御墓参りして来るから、二泊三日で。大叔父の、…銑二叔父さんの家に、この人と泊るから!」
「瑞月?!」
瑞月は「彼氏なの!」と言って、俺の唇にキスをした。
…工エエェェェェエエ工エエェェェェエエ工エエェェェェエエ工?
瑞月は、それから、俺の首に抱き付き直すと、再び泣き始めた。
昊氏は「はぁーーーー!?」と言った。
…混沌。
…状況としては、この子に同情するんだけど、頭がフリーズしちゃって、俺、もう、何も考えられない。
「そんな。…ど、どうなってんだ?いや、帰省も、彼氏も、構わないんだけど。…携帯も可変しいし、会いたくない奴には会うし。もう、どぉーすりゃ良いんだぁ」
そんな混乱の最中、優将が「そろそろ助けるかぁ」と呟いたのが聞こえた。
え、助けてくれるのは嬉しいけど、どうやって?魔王。
透明のファイルを脇に挟んだ優将は、聞いたことも無い、落ち着いた声で「携帯電話が、どうかなさいましたか?」と言った。
…急なイケボ。
あんまりイケボ過ぎたせいか、瑞月が泣き止んで、俺に抱き付いたまま、呆然と、優将の方を見た。
昊氏も、雰囲気に押されたのか、「はぁ」と言った。
「アイフォンですか?アンドロイドですか?」
「あ、えっと、二台持ちで。仕事用がアイフォンで、プライベート用がアンドロイドなんですけど、変になったのは、アンドロイドの方で」
…昊さんって人も、コミュ強なんだろうな、って、何となく思った。
そんなこと考えてる場合じゃないけど。
この状況で、聞かれたら、そう答えられるのは凄いと思う。
俺、もう、受け答えとか、無理。
「畏まりました。アンドロイドで、キーボード機能に異常、と。文字入力が出来ないんですね?」
そう言って、優将は、何事かを、自分の携帯電話で検索し始めた。
…コールセンターのイケボのベテランテレオペかな?
「はい、恐らく、Gboardというアプリが邪魔してますね。そちらをアンインストールして、インストールし直せば、正常に動作すると思われます」
昊氏は「えっ?」と言った。
優将は「最近、携帯をアップデートしませんでしたか?」と言った。
「ああ、昨夜、しました」
…魔王、何で、そんなこと分かんの?
「あれって、実は、パソコンのパッチと同じなんですよ」
昊氏は「そういうことか!」と言って、携帯を操作し始めた。
…どういうことよ…。
パッチは分かるけど。
要は、修正用のファイルでしょ?
瑞月は、俺から離れて、ゆっくりと立ち上がると、気を取り直したように、涙を拭いながら、「絆創膏?」と言った。
優将は、優しく、「そうだよ」と言った。
「リリース後にアプリとかの不具合修正の為に流すファイル、絆創膏ね。で、携帯電話のアプリの開発ってねー、いろんな会社に頼んで、継ぎ接ぎ継ぎ接ぎして作ってるから、実際は、一度も、処理がちゃんと走るかどうか、…えっと、一度にちゃんと、プログラムした命令が動くかどうか、動作確認の為に流したことが無い状態で配信されることがあるわけよ。作ってる会社が一つじゃないから。だから、作ったパッチをアップデートすると、処理がぶつかって、動かなくなるのが出てくることがあるわけ。だから、原因になってるアプリを、一度削除して、インストールし直すと、不具合が解消する場合があるの。どのアプリかは、検索すると、大体出てくるから」
…凄い。
昊氏も「わー、治った!有難う!」と言った。
…凄い。
優将は、イケボで「どういたしまして」と言った。
「とは言え、応急処置ですから、一度携帯ショップで見てもらう事をお勧めします。同様の事例が携帯ショップに届いている場合があるのと、携帯ショップに事案を報告しておくことで、他のユーザーの携帯電話で同じ不具合が起きた時の、解決の手助けになりますから」
ホゲー。
すっげ。
ポカーンとしちゃう。
優将は「帰省の件云々は、親子で話し合ってください」と言って、スタスタと、俺の近くまで寄ってきて、まだ座り込んでいた俺を立たせてくれた。
「で?『会いたくない奴』というのは?」
優将が、イケボのままで質問すると、昊氏は「あの」と言った。
「同郷で…、その。最寄り駅で、見掛けて。気味が悪いから、追っ掛けたんです。気づかれて、見失ったんですけど、それで、遅くなって」
「若しかして、小松さんという男性ですか?」
昊氏は「どうしてそれを」と言った。
…何?
優将は「何時くらいですか」と言った。
その時間を聞いた瑞月は、「高良が倒れてた頃だわ」と呟いた。
…え?
言うだけ言うと、優将は「帰ります」と言った。
俺も、慌てて、「失礼します」と言った。
優将は「高良に連絡してね、二泊三日のこと、決まったら」と、瑞月に、手紙の入った透明のファイルを、裏返しのまま手渡しながら、優しい声で言った。
瑞月は、目をパチクリさせながらも、頷いた。
「いきなり年上の彼女かー、やるなー」
訳も分からず、ほぼ、俺を苧干原家から連れ出してくれた形の優将の後に続きながら、俺は「振りだろ」と言ったが、優将は、夕闇の中、天使の笑みを向けてくれただけだった。
…あの状況を、本当に治めてくれるとは思わなかったけどさ。
…あれも操作か。
こんなに成功しちゃうんなら、逆に悩んじゃう時もあるんだろうな…。
「いやいや、明らかに、お父さんへの当てつけで使われたんでしょ、俺。ハグやキスが挨拶の人達の感覚を考慮しないで本気にしたら、マリアナ海溝くらいの文化的価値観の溝から這い上がれないよ?」
本当は凄く動揺したけど。
抱き付かれたことも、キスされたことも無いから。
…別に、夢を持ってたわけでも、されて嫌だったとかっていう話でも無いんだけど、『初めて』が、ああいう形で消費されたのは、流石に、思うところがあるので、性的同意って大事ですね。
…あれ?
嫌じゃなかった?
…美人だったからかね?
そうだとしたら、ゲンキンだね、俺も。
優将は、俺を揶揄うでもなく、天使の笑みのまま、言った。
「えー、挨拶なら、俺がキスしてもらえない理由は何なわけ?」
冗談で言ってるって、表情で分かるけど。
『自分は挨拶で女の子にキスしてもらえるはず』って言える、自己肯定感のベクトル、どうなってるの。
優将は、俺の答えを待たず「さて」と言った。
「そろそろ、業者が荷物取りに来ちゃうからねー。戻るわ」
「あ、ねぇ、小松さん、って、…茉莉花さんのお父さん?何で?あとさ、…何か、気づいた?さっき」
優将は、返事をせずに、天使の笑みのまま、手を振ってきた。
思わず手を振り返してから、気づいた。
…バーガーキングに誘いそびれた。
いやいや、そんな場合じゃないんだけど。
…夕飯、どーすっかな。