魔王: I'll tell you what it is, your majesty
「考えもしなかったな…。稚菜さんは、何か気付いて、対策しようとしてる可能性はあるけど…。頭の良い人ですから」
「多分、貴方はやらないことだから、思い付きもしないんでしょう。対策…。そうですね、お話を伺っていると、両親のどちらも、娘さんに、GPS付きの携帯を持たせられるような関係性でも無さそうですけど」
気持ちが悪いな、と思った。
確証の無い『優将君の話』も、伝聞でしかない季湖さんの十二歳の頃の話も、会ったことすらない、小松稚菜という人の懊悩の話も、小松瑞穂という人の奇妙な話の数々も、善悪をジャッジせず受け止めて、記憶の端には留めながらも、なるべく俯瞰して、フラットに考えなければ、先に進めない。
『話を聞く』ことの難しさを痛感する。
これが無力感なんだ、と思う。
出来ることは、結局、頭の中で、起きていることと、出来ることを、整理して、行動に繋げるだけ。
―昔は、頭しか、使えるものが無かったのに。力が無かったら、頭しか、武器が無かったのに。寝ないで、頭が働かない状態じゃ、何にも、太刀打ち出来なかったから。そりゃ、体が大きくなったって、頭が回る方が良いじゃん。寝なきゃ、それが出来ないんよ。
ああ、そうだね、優将。
―情に厚かったら、こんな、温度の無いブロック遊びは出来ませんからね。要素で考えて、要素をブロックにして、ロジックを組んでいくんです。まだまだ、温度が高い。
ずっと前から、一人で、こういう世界を見てたの?
…『不思議の国のアリス』みたいだね。
ジャンルは、ナンセンス文学。
知性を含んだ無秩序さが特徴。
無秩序の中にも社会風刺が含まれる。
ドードー達がやってる『a Caucus-race』なんて、完全に議会風刺だし。
他にも、新しい数学理論に対するルイス・キャロルなりの皮肉や、言語は通じるのに話は通じない不気味なキャラクターの言い分に寄る、理解出来ない自分が間違っているのだろうかと思える程の、奇妙な認知バイアス。
正論は正解ではなくて、正解は正論では無くて、まるで、命題の逆の証明の、『命題の逆』が、初めから間違っているかのよう。
虚数という数字が存在しないように、敵も味方も善悪も曖昧模糊としていて、善人も、罪人でない者も存在しない。
代数のように"Drink Me"と書かれた瓶の飲み物を飲んで、自分の体の中に、飲み物を代入してみても、体のサイズが変わってしまって、移項も約分も嘘っぱちで、不可能。体のサイズも、誰が誰かも、曖昧で。
受け止めるのが、時々、苦しい。
「…もう、御暇します。他の約束も有りますから。有難うございました。監視云々の件は、それこそ、俺の出した結論に過ぎませんから、決定付ける行動に出られるか否かは、判断に御任せします」
色を失くしていた中澤氏は、幾らか気を取り直した様子で、弱々しく、微笑んでくれた。
「そう。…時間を気にするのは、お父さん似じゃないね」
「ああ、よく言われます」
「白ウサギみたい。ほら、アリスの。時計を持って、遅刻だ、遅刻だーって」
「は?」
またウサギですか。やめてくださいよ、ウサギみたいだって言うの。何か気に障るな。
「…『不思議の国のアリス』に於ける、ルイス・キャロルを投影させたキャラクターは白ウサギで、その続編の『鏡の国のアリス』に於ける、ルイス・キャロルを投影させたキャラクターは、白の騎士、でしたっけ?」
「え?そうなの?ああ、諸説有るんだね。アリスの挿絵にも、アリス・リデルではない挿絵モデルがいたという説も有るからね」
「と、申しますと?」
「自分が昔聞いたのは、白ウサギのモデルは、アリス・リデルの父の、ヘンリー・リデルだとか。ルイス・キャロルは、ドードーでしょ?」
「…え?」
白ウサギはアリスの父。
―白ウサギの家族、って?
―女中のメアリー・アンと、蜥蜴のビルと、モルモット二匹?だよ。パットだっけ?モルモットの数は、はっきりしないけど、もっといるのかな。
白ウサギの家族の中に、娘は含まれていない?
何だか怖くなってきた俺は、「それでは」と言って、中澤家を辞した。中澤家の門から、小松家の門が、少しだけ見えた。ここからは柴野家が見えない。
携帯を確認する。
未だ、何処からも連絡が無い。
…今だろうか。
俺は、そっと、小松家の郵便受けに歩み寄った。
俺の予想なら。
「あ」
俺が郵便受けを覗き込んだところで、背後で、聞き覚えの有る声がした。
「…え、高良?…どした?」
「え?優将?いつの間に?」
「あー、高良っぽい奴が見えたから、迎えに来てくれたんかと思って出てきた。駅前で集合って言ったかなと思ってたんだけど。用事終わったん?」
「何処から見てたの?」
そう言って、まじまじと優将を見た俺の頭の中に、うちの父親の声で『魔王』の替え歌が流れた。
"Siehst, Vater, du den Bakuike nicht?
Den Bakuike mit Kron und schwarzem Haar?"
ば、爆イケェー。
えー、髪が黒くなっただけでなく、短めの、爽やかな感じの優等生風になってる上に、夏の制服着用。
見たことないくらい似合ってる。
さっきまで中澤家で聞いてきたこととかが雲散霧消、爆散しそうなイケメン。
「え、優将、用事って、若しかして、美容室…?」
「あ、そーそー。結構切った。前髪目の上くらいにして、顔周り長目のラウンドマッシュにして、サイドとバック短めにするか迷ったけど。すんごい久々に、ショートレイヤーベースにしたわ。耳出すの、久しぶり、マジで」
…呪文?
魔王が呪文を?
「ん…?」
「前髪軽くして、耳周りスッキリさせて、サイドとトップ短め」
「…あー。襟足も、普段は、やや残ってるか?耳出したのは、結構印象変わるな」
「そーそー。髪色変えても、サイドは結構、耳の真ん中から前下がりのオーダーにしがちなんだけど」
「…似合う」
「な?やっぱ、似合う髪型はいかんわ。声掛けられ過ぎる。ツレと一緒に家出られてラッキー」
「『似合う髪型はいかん』っていう、聞いたことのない日本語が聞こえる…」
モテ過ぎちゃうから『いかん』ってことね?
…異次元だな、こりゃ。
「どした?高良?」
「あ、ごめん。今、頭の中で、ずっと、シューベルトの『魔王』の替え歌が聞こえるんだ…うちの父親の声で」
"Siehst, Vater, du den Bakuike nicht?"
優将は、「聞いたことない症状なんだけど!」と、驚いたように言った。
そうだね、俺も初めての症状だよ。
「ちょっとちょっと、そんなメンタルで、あそこんち行くん?」
「いや、ホント、それな…」
この後に、女子の家、って。
そんな精神力を使いそうなイベントが待ってるとは考えたくない程の消耗っぷり。
「わー、立て直そ?何か、駅前で飲み物とか、買お?不味いって、その状態」
「あ…。サンキュ。そうしよ…。頭煮えそうだわ。てか、制服で行くんだ?俺も、交渉事に、流石にジーンズは無いかと思ったんだけど」
「制服はオールマイティよ。冠婚葬祭交渉事、万事解決。スーツ持ってないなら覚えておきなさい」
「はい、魔王」
「ん?」
「はい陛下」
「かつてないほどの敬語を使われているということは、具合が悪いな…?も、行こ。駅、行こ」
「あ、待って、優将」
俺は、小松家の郵便受けの中を指差した。
優将は、ハッとした顔をして、小松家の郵便受けの中に手を入れて、目を瞬かせた。そして、自分の家の郵便受けの前まで走り寄り、手を突っ込んで、何かを引っ張り出した。
黒い、小さな機械。
埃を被ってないし、新しいとは思うけど…。盗聴器かな。
優将は、そっと、機械を元に戻した。
「さ、駅に行く。悩むより行動。どうでも良い話でもしながらね」
平静を保つの上手過ぎ。
そうね、どうでも良い話じゃないと、相手方に聞こえちゃうし。
「うん。えっと、優将、美容室、何処?」
…我ながら、本当に、どーぉでも良い話ぃ。
優将は、足早に自分の家と小松家の前を通り過ぎながら「美容室難民でさー」と言った。
…そんな難民、あるんだぁ。
これまた呪文だー。
「三つくらい、その時予約取れた方に行ってるんだけど。今日は、お前んちの最寄り駅の、偶々予約取れたとこ。当日切れるってラッキーだったわ。キャンセル枠が有って。駅前から、ちょっと外れるけど」
「…あ」
俺が、思い付いた美容室名を告げると、何と、今日優将が行った美容室は、俺が普段行くのと同じ美容室だという事が判明した。
優将は「そっか」と言った。
「…偶に、店長に切ってもらってる?高良」
「よく分かったね。担当決めてないから、手が空いた人に、御任せで切ってもらってるんだけど。昔母親が連れてってくれてた美容室の、担当だった人が、あそこの店に職場が変わったから、あそこの店に行くようになったら、その人が辞めちゃって、そのまま、担当決めず、何となく」
店長、下手じゃないんだけど、あんまり短くしてくれないんだよな。
「…道理で、時々、朝の男性ニュースキャスター並みに爽やかな髪型してると思ったら、あそこの店にカット御任せか…。そうか、お前の『美』は、あそこの美容室が担ってたのね…」
「…そんな風に思ってたの?」
俺の『美』がどうとか、他人に言われたことないけど。
「どういうオーダーしてんのかな、とは思ってた。前髪分けてるか、分けてないか、くらいの違いで、無難と爽やかの間の、上手い所を、毎回突いてくるから…。やや保守的で、やり過ぎ感が無いのにイケてるという。それがまさか、オーダー『してなかった』とは…」
「あー、オーダー面倒で」
俺にとっては呪文だから。
「面倒で、あの形に収まるのは凄いよね…?」
優将さんが困った顔をなさってる。
どうしたの陛下。
「毛量が多めなのがちょっと気になるかな?くらいだから。無難に、短く、って、頼んでる。誰が切っても、大体、どうにかなるような髪だし…」
「…持たざる者の気持ちが分からない髪質の人なのね。そうか…後のオーダーの不具合は、顔の良さで捻じ伏せてるのね?うん、俺以外に、髪の悩みを言うのはやめような?」
「どうしたの?優将」
「『毛量が多めなのがちょっと気になるかな?くらい』ってことは、薄毛でも癖毛でもないってことだからな?剛毛でもない、柔らか過ぎもしない、となると。そりゃー、髪の悩みが無いのとニアイコールよ?他所で言ったら駄目よ?」
「ええええ。まぁ、美容室の話題なんて、ほぼしないけど。優将、髪の悩み、有るの?」
「…無いかな、あんま。強いらしいし。色抜いても、そんなにダメージ感じないし。色入れると、思ってた色より赤めに出るのが、気に入らんっちゃぁ気に入らんけど」
「髪の悩みが無い人に、髪の悩みが無いことを他所の人に言ったら駄目よ、と言われても…」
「駄目なもんは駄目よ。まー、痛ませたくないから、美容室で色変えてんのよね。俺も、自分の頭皮が可愛いから。地肌数ミリ残しで脱色の技術は、やっぱりプロでないと、って」
「頭皮が可愛い…」
頭皮を大事にしたい、みたいな意味だろうというのは分かるんだけど、長い呪文の詠唱の間の、ヒヤリング出来た部分、って感じで、頭の中で、あんまり意味が繋がらないな…。
そういう事柄に疎いのは認めるが、頭が回ってないのも確かかも。
駅に着いた。
自販機で買ったスポーツドリンクを飲みながら、電車を待つ間、俺が、先程、郵便受けで見た機械について「あれってさ」と口にすると、優将は、穏やかな顔をして、「大丈夫よ」と言った。
「長野から帰ってくるまでには、何とかしておいてあげる」
「…え?…ねぇ、『霊障より怖いこと』って、何なの?結局」
だが、優将は、微笑んで「大丈夫よ」としか、言ってくれなかった。
何を言おうか逡巡していると、電車が来てしまった。
家から盗聴器出てくる、って、通報案件じゃん。
しかも、小松家だけじゃなくて、柴野家にも、って。
…でも、通報するのは、住人じゃないとな…。優将、どうする気なんだろう。
「さ、女子の家に行くんだから。微笑んで」
本当に微笑んでる。美しい微笑みぃ。
「あっ、はい…。御機嫌ですね、陛下」
「尊称がめっちゃ気になるけど。ええ、御機嫌ですよ。アリーナ席で、そんなイベント、無料で拝めるなんて」
「アリーナ席?…コンサートか何かあるの?」
「ふふふ、こんな無料のコンサートなんか、チケットでも実在したら額装してまうわ。あー、楽しー」
「…そんな楽しいイベントが?俺は、これから女子に、棘のある言葉を吐かれる予定なんですけど?」
俺の言葉に、優将は、堪えきれない、という感じで「ふふふふ」と笑った。
「妖怪・ツンデレを見に行くんですよー。こんな楽しいことがありますか」
「そ、そんな、名も知らぬ、未知の妖怪が、まだ?」
「まだ、って何よ」
俺が、茉莉花から聞いた、妖怪・恋乙女の話をすると、不思議そうに聞いていた優将の目が、次第に見開かれていった。
「…はー、妖怪ね。上手いこと言う。あいつ、流石、本質を抉るじゃん」
妹の話が本質を抉ってるのなんて、いつものことですけどね。
俺には、それが抽象的過ぎて、大体しか読み解けないんですが。
弟には、何が分かっちゃったんでしょうか。