小松茉莉花の秘密: 'Herald, read the accusation!'
南欧風の、テラコッタタイルが多用された外観。
そうそう、前も思ったが、カフェ風の外観で、『可愛らしい』んだよな、モロに。
将に、絵本に出てきそうな『家』のフォルム。
以前はあった、赤い、小さな軽自動車が、今日は停められておらず、シルバーのセダンだけが、駐車スペースに停められている。
中に通されてみても、玄関も廊下もウィリアム・モリス風のファブリック類で揃えられた、『可愛らしい』様子だった。
そんな廊下を通って、リビングに入ると、意外と生活感があった。
ソファーと共にコーヒーテーブルとして使用されている、テレビの前のテーブルは、恐らく、冬には炬燵になるものと思われた。うちの家具調炬燵は、歴史さんに噛まれて脚がボロボロになってから、合理主義の母が廃棄してしまったので、懐かしい気がした。だから今は、来客時には、その家具調炬燵を使わず、折り畳み式の机や椅子が使用されるようになったのである。とことん合理的である。
中澤家は、ソファーも、古そうな、淡いグレーの革張りの物に、手作りらしい、『苺泥棒』の柄のクッション二つと、鹿のクッションが一つ置かれていて、使い込んで傷んできた物を、手を掛けて修繕し、住人が気に入るようにカスタムしていく、という、生活感と、生活に対する愛着が感じられた。
あー、貴子さん、これが可愛げ、ですね、きっと。
南欧風の家で一見カフェ風、でも内装は、普通の、拘りなく買った家具と、ドイツやニューヨークの装飾品が混在してる、『ざっくり洋風』。海外の人の『アジアひとまとめ』みたいな、日本人の、『欧米ひとまとめ』、『何となく洋風』。そう、この、統一感が有るか無いかのビミョーな線を『可愛い』とか『好き』というコンセプトで纏める、隙のある愛らしさこそが『可愛げ』。
貴子さん、この、不合理な『隙』が、真似出来ないんですね、きっと。
…そっか、だから、母さんの書斎、バンカーズ・ランプくらいしかインテリア関連の目立つものが無いんだ…。そう、『欧米ひとまとめ』にしないで、バンカーズ・ランプだけを目立たせるなら、ああするしかないんだよな。不合理を排除し過ぎて、逆に、不合理になってそう…。気の毒な性格。こういう風に、『可愛いらしい』をコンセプトとして打ち出せないんだろうな、インテリアとか好きなくせに…。
そういう目線で見ると、父親の言ってた通り、『一周回って可愛い』のかも。
おー、あの鹿、結構前に、ブルックリンのAREAWAREで売られてた、アニマルクッションシリーズのファウナコレクションだ。
そーだ、動物が、ちょっとリアルな感じがして欲しかったんだ、昔。十九世紀のヴィクトリアン・ピロウにインスピレーションを受けたって話だったから、『鏡の国のアリス』に出てくる小鹿っぽいイメージあるな、今見ると。
良いよね、鹿…。こう、鹿と氈鹿の違い、とか、考え始めると、ずっと楽しい。あと、日本氈鹿って羚羊とも書くけど、混称されてるだけで、羚羊はアンテロープで、ウシ科じゃん、鹿なの羊なの牛なの、みたいな感じで、考え始めると、ずっと楽しい。良いよね、鹿…。
ソファーの上のクッションに注視していると、中澤敏氏は、「どうぞ」と言って、そのソファーに座るように促してくれた。
わー、鹿と座れる。でも、それが嬉しいということは黙っとこう。
…鹿、か。
苧干原瑞月って、ちょっと、子鹿に似てる。小顔で首が長めで、細身で。
…性格は、子鹿じゃないけどさー。
うう、また、棘のあることを言われるんだろうか。
おまけに、母親の手紙も渡さなきゃいけないし。この後に会うの、気が重いなー。
まー、初対面では一緒に繁華街を爆走、次は墓で暴れてるところに出くわし、この前は高校乱入を庇ったんだから、お互い、もう、取り繕うところが残ってないんだし。却って、適当に接して良いんじゃないか、とは思うが。
慧が玉砕してたんだっけな、そう言えば、告白したとかで、英語で振られて?
…エピソードが一個一個、強烈過ぎて、外見の儚げな感じと、全然、マッチしないんだよなー、苧干原瑞月。最早、美人なのに勿体無い、というレベルまで来てる。
慧、人間ってなー、外見で判断しちゃいけないらしいぞー。遊んでる風でも遊んでなかったり、美人でも、癖が強かったりするみたいだぞー。俺も、実感を伴って理解したのは最近だが。
あと、慧、『苺泥棒』の鳥と、目が似てるね。そう思うと愛せそうな気がしてきたから、お前のこと、『苺泥棒』って脳内変換するわ。
中澤さんは「妻が不在でして」と言って、手作りらしいパウンドケーキと、これまた手作りらしい、ココア生地とバニラ生地の、チェック柄の、アイスボックスクッキーと、ペットボトル入りのブラックのアイスコーヒーを持って、キッチンからリビングに来た。
しかし父は、ニヤッと笑って「違うでしょ」と言った。
「外出してもらったんでしょ?家族に。俺が、どういう話を聞きに来たかは、言ったよね?」
中澤さんは、人の好さそうな丸い顔を曇らせ、小さな声で、「息子は塾だよ」と言った。
…そんなに苛めなさんなよ、久しぶりの再会でしょうに。
中澤さんは、俺に、グラスに入れたアイスコーヒーを出してくれながら、「明良ちゃんは、氷を入れるの、好きじゃないんだよね?味が薄まる、とか言って」と言った。
父は、苦笑いしながら「よく覚えてたね」と言った。
これで、もう、仲直りしたらしかった。
「パウンドケーキ、ドライフルーツとチョコレートを入れて、作ってもらったんだよ」
中澤さんが「好きでしょ」と言うと、父は、珍しく、静かに微笑んだ。
父が弱みを握っている関係性らしいが、仲自体は、相当良いらしいことが、その表情で知れた。
…あれ。疎遠になった時期、って。
年賀状が来なくなった時期だよな。
中澤さんは、自分は、ソファーには座らず、布団の無い炬燵を挟んで正座しながら「その」と言った。
近所の育児放棄の話から切り出すのは気不味いだろうな。
「高良君?に、翻訳を、してもらった、って、話だったかな。えっと…」
俺は「その話なんですが」と言った。
父と中澤さんが、驚いたように、俺を見た。
「そもそも、この、翻訳の依頼主なんですが。…俺が、幼稚園くらいの頃に、この近所で起きた事件と、関係している人ではないかと思うんです。だとしたら、何故、翻訳をうちの父に頼む、仲介役になってくださったんでしょうか。それが、実は、長いこと、気になっていたんです」
中澤さんは、顔色を変えた。
父は「どういうこと?」と言った。
「…仲、良かったんですよね、うちと。でも、年賀状、それこそ、俺が四歳くらいで、やり取りが無くなってる。何か、長野の知り合いと関わりたくなくなったことが起きたのが、切っ掛けではないですか?俺の憶測に過ぎませんが」
中澤さんは、真っ青になった。
俺は続けた。
「父は、実際は、そんなに、面倒見の良い性格じゃないんです。でも、宿題や何やらの面倒を見たって聞きました。と、いうことは、中澤さんって、父が、かなり可愛がっていた従弟なんだと思うんです。それが、お互い、一駅しか違わない場所に住んでいて、行き来も無い、息子同士が同じ学校に入学しても、気づきもしない、というのは、いきなり疎遠になり過ぎた気がします。何かあったんですか?」
父と中澤さんは「え?」と言った。
「俺、中澤慧君と、クラスメイトなんですよ。最近まで、父親同士が従兄弟だとは知りませんでしたが、入学式でも、擦れ違ってるかもしれません。うちは、母親が仕事の日だったから、父が入学式に出席しておりましたので」
それを言ったら、派手に目立ったたはずの季湖さんにも俺は気づかなかったんだから、人の出入りの多い日の印象なんて、当てにはならないけどね。
「ああ、うちは、入学式は、家内が出席したので、気づかなかったのかもしれないけど…。そうか、同い年で、同じクラス…」
中澤さんは、瞬きをした。
俺は、更に言った。
「はい。だから、…柴野優将君も、同じクラスなんです。それで、仲良くなって…。幼稚園の頃の事件の話も、聞きました。少なくとも、これから御話ししていただく予定の、育児放棄の件について、一件は、その事件が切っ掛けになってはいませんか?」
中澤さんは、ふーっと、長い溜息をついてから、観念したように、言った。
「そうか、同い年で、同じクラス…よくそんなに集まったもんだね」
集まった。
そうだ、それが、怖い気がしたんだ、翻訳するのに、本も開きたくないと思うくらい。
…どういうことなんだろう。
父が何か言う前に、中澤さんが、「最初から御話しします」と言った。
「長い話になるけど、うちの奥さんに聞かせたくないのは、本当だから。なるべく、短く話せるようにするね…」
「確かに、その頃です。息子の慧が幼稚園の頃、ここに、念願のマイホームを建てました。駅は比較的近くて、お向かいの家二軒には、それぞれ、同い年の男の子と女の子がいて、良い環境だと思いました。お向かいの二件は、聞けば、旦那さんが長野出身で。特に、小松さん、という家は、出身地が近くて、すぐ、意気投合しました。小松さんの家の奥さん、稚菜さんと、柴野さんの奥さんの季湖さんは、北海道出身とかで、これまた、話が合ったようでして、うちの妻も交えて、仲が良かったです」
中澤さんが、「妻とは高校の同級生でして」と、懐かしそうに言った。俺に対しても、つい敬語を使ってしまうところに、彼の気の弱さと人の好さを感じる。
「妻は、高校卒業後、長野の短大に通っていて、こっちの大学に入った自分とは、暫く遠距離恋愛でしたが、結婚して、こっちに来てもらう形になって。だから、知り合いも、友達も居らず、稚菜さんと季湖さんという存在が出来て、救われたのだと思います。何しろ、子どもが同い年で、幼稚園も同じで、育児の相談が出来る。嬉しかっただろうと思います。こちらでも、妻は教会には通っていましたから、知り合いが出来るのは、割合早かったですが、人を持て成すことも好きで、子どもも好きですから。特に、茉莉花ちゃんのことは、可愛かったみたいで」
俺が「え?」と言うと、中澤さんは、言い難そうに「妻は体が弱くて」と言った。
「心臓が、それほど強くないんです。薬を飲む程では無いですが、念の為持ち歩いているし、運動には向きません。向こうの御両親と、親元の長野から出す代わりに、勤めにも出さないという約束で、結婚を許してもらいました。だから、体の負担を考慮して、子どもも、持つなら一人、と、最初から、夫婦で約束していました。ですが妻は、気持ちとしては、女の子も欲しかったんでしょう、可愛い服を着せて、髪を結んであげたら、どんななんだろう、と、偶に言っていました。一緒に御料理をして、御裁縫をしてみたい、と。そりゃ、一人息子は可愛いですが、娘は別物でしょうからね。気持ちは、分からないでもないです」
ああ、この部屋。
そうだろうな、こういう趣味の奥さんが、娘を持つなら、とか考えたら、そりゃ、そういう発想になったんだろう、というのは、何となく察せられた。
「でも、本当に、そんな平穏な時期は、長く続きませんでした」
中澤さんは、そう言って、言葉を詰まらせた。
俺は「傷害事件があったんですね」と言った。
父は、目を剥いて、俺と中澤さんの顔を、交互に見た。
中澤さんは返事をしない。
「外で、優将が遊んでいる時、刃物を持った女の人が乱入して来たと聞きました。それを、大人が揉み消したんだって。…そして、その女の人が、小松茉莉花さんの父の小松瑞穂さんを刺したのでは?その女の人の名前は、多分、苧干原弥朝。そして、本を依頼してきたのは、その娘の苧干原瑞月。…変ですよね?近所の人間が刺されたことを、貴方が揉み消す必要性が有ったのも変ですが、今度は、その時の加害者の娘からの依頼を、うちの父に仲介してるんです。話が繋がるようで、繋がらない。俺も、…翻訳の件に関しては、多少の苦労もありましたので、聞きたいと思いまして」
多少じゃないから、本当は『聞く権利くらいあるだろう』とか言いたいところだけど、そうも言えないしな。
霊障のことも、話さないといけなくなるし、俺が負ってる苦労、大体が、中澤さんのせいではないし…。
珍しく、黙って話を聞いていた父が、困惑したように「敏」と言った。
「近所の育児放棄だけじゃなくて、傷害事件も、通報しなかったどころか…揉み消したって言うの?黙ってないで、説明して?」
中澤さんは、俯きながら、言った。
「苧干原弥朝さんという女性が、小松瑞穂をいう人を刺したのは本当です」
父は、呆けたような顔をした。
「敏…」
「ごめん、明良ちゃん。高良君の言った通りなんだ。あれから、年賀状、出さなくなった。…その年は、出すどころじゃなかった、っていうのもあったんだけど。そうなんだ、小松さんが、O地区出身で、明良ちゃんの奥さんも、O地区出身の人だったでしょ?もし、このことが、知れたら、って。で、俺から出さなくなったら、明良ちゃんは筆まめじゃないから、簡単に、付き合いが減っちゃったんだよね…。正直、好都合だったって言うか」
従弟の『筆不精』という指摘に、父は「うっ」と言った。
そう、今、俺が指摘するまで、年賀状が来なくなったなー、電話が来なくなったなー、なんて、気にも留めてなかったろ。
…流石、親戚の人。よく分かっていらっしゃる。
中澤さんは、居住まいを正して、言った。
「育児放棄の話の前に、…大学時代の友人の、苧干原ゴウの話をしなきゃなりません」
―ゴウくんだったのね。
苧干原瑞月の、本当の父親。
確かに、母親は、苧干原ゴウや小松瑞穂と知り合いだ。小松瑞穂の怪我のことまで知っていた。傷害事件を隠すのであれば、うちの母親と連絡を取っていると、いずれ、その件に辿り着いてしまうのでは、という勘は、当たっていたと言えるだろう。
「それこそ、苧干原…ゴウは、O地区出身で。ちょっと年上だったけど、こっちで出来た、最初の友達でした。もう、懐かしくて。そりゃ、明良ちゃんとだって、あの頃、連絡は取り合ってたけど。割かし良い大学に入っちゃったもんだから、大学編入組と、エスカレーター組って、話が合わないこともあって。そんな感じで、急な独り暮らしで寂しいところに、ヤショウマの話なんかしても、誰にも通じない。あっちじゃ、スーパーで売ってたのに。それで、そんなに好きじゃなかったコオリモチですら懐かしくなってたところに、出身地が凄く近い友達が出来て、自分は、本当に嬉しかったです」
父は、悲しそうに「ヤショウマ引いたね、一緒に」と言った。
中澤さんは「うん」と言った。
涅槃会の頃、向こうで作られる、米粉と片栗粉に、砂糖や塩を混ぜて御湯で練って、蒸して作る、餅や団子のような物で、黒豆や青海苔、胡麻が入れられる場合もある。地域によっては、もっと華やかな形の物もあるようだが、ヤショウマを子どもが貰い歩く行事があり、それを『ヤショウマを引く』と言うらしい。ヤショウマを『ネジ』と呼ぶ場所もあるらしいが、ネジは道祖神行事と関係する食べ物でもある。
そしてコオリモチは、餅を外に干して、外気温で凍らせるのと乾燥させるのを繰り返して作る、保存食である。
確かに、そんなの、同郷じゃないと、分かりっこないよな。
…寂しかった気持ちは、分かる気がする。
「ゴウは、石油関係の会社に就職しました。出張でも、サウジアラビアとか、行ってたと思います。俺より年上で、先に就職して、バリバリ働いてるんだなー、と思ってたのに、何か…。就職して、割とすぐ、電話口で、『責任取らないと』って言うんですよ。家族寮を申し込まないと、って。あー、誰か妊娠させちゃったのかな、と。結婚するのかなぁ、くらいに思ってました。うちは、その時、まだ、新婚で。妻を長野から呼び寄せたばっかりで、バタバタしてて。ゴウは、結婚式に出られないからって、結婚祝いに長野パープルと、長野パープルのジャムの詰め合わせを送ってくれて、その御礼の電話をしたところに、そんな感じだったんで。かなり、動揺した感じでした。だから、結婚したら、教えてくれるんだろうな、と思って、そこで、電話を切って。…や、その時は、そう思ってたんですけど」
父は「まさか」と言った。
そう、…『ゴウ』くんは多分、『責任取らないと』いけないようなことを、実の妹にしちゃってたんだよな。
「敏。ごめん。…多分、その理由、分かっちゃったかも。…あの…、高良も、うっかり知っちゃってるから、言うんだけど。…他言は、しないから」
「明良ちゃん?」
「…その、家族寮を申し込む理由っていうのは、結婚じゃなかったんだね?『妊娠させた責任』からの行動ではあったかもしれないけど」
中澤さんは、衝撃を受けた顔をして、俺と、父の顔を見た。
「翻訳するように依頼された本に、手紙が挟まってたんだよ。母親が、娘に『本当のこと』を伝えるために」
中澤さんは「まさか」と言った。
「もしかして、母親の形見、って、その、挟まってた、手紙の方?本じゃなくて…」
父は「そうだったんだろうね」と言った。
「翻訳作業中に、俺達、偶然発見しちゃったんだよ。だから、翻訳は翻訳で、依頼としては全うしたんだけど、今日、高良が、その手紙と、本を、苧干原家に届けに行くことになって。その報告でもあったんだ、今日の来訪は」
中澤さんは、「そうか」と、悲しそうに言いつつも、少し、ホッとした顔をした。
「…気は、楽になったかな。妻にも、聞かせられなくて。内緒で、明良ちゃんに依頼したんだけど。そっか、…一人で抱えなくて済むようになったんだな、図らずも。頼って良かった。古文書解読出来そうな知り合いを、明良ちゃんしか思いつかなかったからだけど、結局、また、助けてもらっちゃったんだ…」
父は、悲しそうな顔をして、黙っている。
中澤さんは、続けた。
「暫くして、ゴウがイギリスに行くって聞いたんで、空港まで、見送りに行ったんです。奥さんの顔も見てみたかったんで、…そしたら」
中澤さんは、一度、唾を、ゴクリと飲み込んだ。
「若い、女の子なんですよ、高校生?中学生?今の、茉莉花ちゃんか、もっと幼いか、くらいの。髪が長くて。その子が、ゴウの傍に、立ってるんです。お腹が目立ってたかは、覚えてません、動揺してたもんで。…で、異母妹なんだ、って、言うんです。この子の母親が死んだから、自分の父親から引き取るんだって。正直、説明になんか、なっちゃあいなかったんですが、女の子が、不安そうな顔をしてたので、自分は、その時は、聞けませんでした。だから、後で、落ち着いた頃、イギリスにいるゴウに、電話を掛けました」
中澤さんの緊張感が、ビリビリと伝わってくる。
そう、妹は、伴侶だったのである。
自分だったらどうしただろう、と思うくらい、確かに、誰にも知られない方が良いことだった。
「実は、異母妹が妊娠してたから、引き取って、海外出産させたんだって、言われました。ゴウの父が、若年出産に反対してたけど、妹が産みたいと言ったから、妹を引き取って、生まれた子も、自分の養子にするって」
…ああ。
「女の子が生まれたよ、って言われました、電話越しに」
…うわぁ。
「姪だね?って、念を押すように言ったんだけど、返事をしない。…どうしよう、と、思いました。自分が黙ってたら、『戸籍の上では自分の子になる』と、ゴウが言うので…。ああ、やっぱり、そうなんだ、と」
中澤さんは、深く、長い溜息をついた。
「日本から、ベビー服だけ、送りました。妻は、女の子の物が選べるって、そりゃ、喜んでいて。…それから、連絡は取ってなかったんですけど。ある日、小松瑞穂さんが、女の人に刺されて。自分と妻と、優将君は、それを、目の前で見てしまった。茉莉花ちゃんは、うちの妻が、咄嗟に抱き締めて、全部は見なかったけど、気を失ってしまいました。小松家から、騒ぎを聞きつけた稚菜さんが、血相を変えて走り出てきて、気を失った茉莉花ちゃんを、妻から抱き取りました。自分は、慌てて、瑞穂さんを刺している女の人を取り押さえました。柴野家から、将基さん…優将君のお父さんの、柴野将基さんが出て来てくれて、瑞穂さんの止血をしてくれました。季湖さんも柴野家から出てきて、優将君を家の中に入れてくれたところ。…来たんです、苧干原ゴウが、その場に。息せき切って」
中澤さんは「ごめんね」と言って、両手で顔を覆った。
「優将君、覚えてたんだね…。ごめんね…あんなものを見せて。咄嗟に、動けなくて。当時、病院なんかに連れて行って、セラピーを受けさせたとか聞きましたが。…そうだね、口にしないからって、覚えてないわけでも、傷付いていないわけでも、なかったんだね…」
部屋を、沈黙が満たした。
知ってはいたが、事件当時の様子を、当時の、成人していた目撃者から聞くのは、情報の生々しさに違いがあった。
『聞き取り』とは、こうである。取り調べであれ、フィールドワークの為であれ。誰かの人生の一旦を、誰かの人生の時間の一片を、聞き出すのである。何にせよ、相応の覚悟は必要なのだ、ということが、身に染みる。
涙を拭ってから、中澤さんは「一先ず」と言った。
「瑞穂さんを病院に、という話になりましたが、会社に知られたくない、と言って、瑞穂さんが拒否しました。取り敢えずの応急処置を将基さんがしてくれたので、関係者を、うちのリビングに入れました。…ちょうど、ここです」
…うう。
「妻には、稚菜さんと、茉莉花ちゃんを見ていてもらうように言って、小松家に行かせましたが、妻も、相当動揺していました。茉莉花ちゃんも、暫く眠り込んでいて。起きてからも、あの時の記憶を失っているようで、優将君同様、何回か、病院にも連れて行きましたが…」
ああ、それで、茉莉花さんは、今も、覚えていない、と。
「全員の話を総合すると、こうです。瑞穂さん、他所の女性とトラブルがあって、お金が必要になっていたらしいんですね。ですが、家を建ててしまったばかりで、自分で、奥さんの稚菜さんに知られずに動かせるお金が無かった。実家も、親を怒らせる出方をしてしまっていて、頼めるような状態じゃない。でも、どうしようもなくなって、出張と偽って、実家に出向き、妹の部屋を漁ったらしいんです」
父が「瑞穂さん最初から飛ばし過ぎ」と、困惑したように言った。
確かに、小松瑞穂さん、登場して、のっけから飛ばしてる。刺されて、その前に浮気して、その前に親を怒らせてて、今、妹の物に手を付けようとしてる。
良い話が一個も出て来ない…。
「妹さんというのは、中学生くらいで亡くなったそうなんですが、御両親が自分より可愛がっていた、と、瑞穂さんは主張しました。だから、その頃は、まだ、親御さんも手放せない、妹さんのピアノやヴァイオリンといったものが、残されていたらしいんですね。瑞穂さんは、親切を装って、父親が死んでから一人暮らしになって、体力も気力も充実していない母親に、妹の遺品整理代行を買って出て、何だかんだ、ピアノなんかを売ったお金を貰って、十万くらいは手に入ったらしいんですが。そこで、妹さんの日記、というのを見つけてしまうんです」
…うわぁ。
「そこで、瑞穂さんは、遠縁で、しかも妹さんの親友だった、苧干原弥朝さんの『秘密』を知って、弥朝さんを恐喝して、お金を巻き上げることにしたみたいです。お前のせいで、ショックを受けた妹が自殺したんだと言って」
父は「鬼の所業じゃないの」と、驚いたように言った。
中澤さんは「実際」と言った。
「次から次に、よく、そんなことを思い付いたものだと…。割合、優男風、と言うか、小心な感じのある人だったんですが、弥朝さん、という人には、かなり、大きく出たみたいで。妹さんの鍵付き日記は、鍵も無くなっていて、親御さん達も、妹さんのプライバシーとして、開けるのが忍びず、部屋と同様、妹さんが生きていた時の形で、綺麗に残されていたようなんです。そこを、遺品を売り払って小金を手に入れるだけでは飽き足らず、鍵の無い日記を見つけて、抉じ開けて読んだ、と言うのですから…。で、脅されて、困った弥朝さんは、瑞穂さんとの心中を選んでしまった、という。失敗しましたが。結果、瑞穂さんは大怪我をし、浮気も恐喝も、全てが稚菜さんに知られてしまいました。結局、話には一度も出てきませんでしたが、…弥朝さんにも、お金だけではなく、体を要求、くらいのことは、していたでしょう。まぁ…、他人から刺されるようなことはしたんだと思います。少なくとも稚菜さんは、そう疑っていました」
父が「うーん」と言った。
…唸るしかないよな、うん。
そこまで聞いて、それからの小松家の夫婦仲が良くなりそうな流れが、一つも無いもんな。
「ともあれ、そこで、話を大きくするわけにはいきませんでした。瑞穂さんも、瑞穂さんと社内結婚の稚菜さんも、そんなことを会社に知られるわけにはいきません。女性とのトラブルまでは、それも、会社に知られるわけにはいかなくとも、未だしも、お金で解決出来た事案だったようで、稚菜さんが対処したみたいです。瑞穂さんの妹さんの日記というのも、弥朝さんにお渡ししたそうです。しかし、瑞穂さんが、そんな日記なんかをネタに恐喝をしていて、それが原因で刺された、とは、絶対に会社には言えない。夫婦で職を失いかねない。マイホームを建てたばかりで、一人娘の茉莉花ちゃんは幼稚園生、ともなれば、余計、失職するようなことは、伏せておかねばなりません。しかも、二人には、離婚出来ない事情がありました」
うわ、核心。
父は「事情って?」と言った。
「流石に、離婚されても文句言えないと思うけど…」
「原因は、稚菜さんが、北海道の実家と縁を切っている、ということにあります。稚菜さんは、幼少期から教育虐待を受けていたそうでして、家族と折り合いが悪く、大学進学後、両親と縁を切って、大企業に就職し、瑞穂さんと出会いました。瑞穂さんも、農家を継がず、割と、両親を裏切って、というか、少なくとも、父親には半分勘当された状態でいて、結婚も反対されていたらしいんですが、お父さんも亡くなって、茉莉花ちゃんという孫が生まれたので、やっと何とか、実家に顔を出せるくらいの関係には戻れた、という状態で。そんな状態でしたから、結婚式も、両方の御両親が出席なさらない、というので、ハネムーン先で挙式する、と偽ったようです。大きな会社ですからね、上司を呼んで盛大にやらないわけにもいかなかったから、海外ウェディングなので身内しか呼ばない、という嘘をついて、結局、証拠にブライダルフォトを撮ったぐらいで、挙式もしてないらしいです。両親が結婚式に出ないくらい反対している、というのを、会社に知られるわけにはいかなかったらしいんです。弱みを握られたり、派閥から外れたりすることは、命取りになるそうでして。ま、それで茉莉花ちゃんはハネムーンベイビーになったらしいんですが…。そこまでにしておけば良かったものを、結婚の保証人を、上司に頼んだそうでして。それも、派閥への御機嫌取りですね、結婚式に招いてはいないけど、御蔭様で入籍出来ました、という。ですが、結婚の保証人を、会社の上司にする、という形で、機嫌を取ったのに…」
父が「ああー」と言った。
「離婚すると、上司の顔が潰れるんだ…」
「そうなんです。夫婦して、派閥で、居場所を失くします。少なくとも、上司が定年退職するまでは、仮面夫婦を貫かないと。離婚して、扶養が変わってしまったら、すぐ、会社にバレますから…。そうでなくても、結構、難しいもんですよ、離婚を隠し通すって」
…うわー。
「結局、瑞穂さんは交通事故に遭ったことになりました。実際、入院した方が良いくらいの怪我でした。診断書は、柴野さん…将基さんが出してくれて、会社には、傷病休暇を取ったことになりましたね。それで、会社へ、もう交通事故をしない、というアクションの為に、瑞穂さんは、マイカーも手放した。妹さんのピアノに手を付ける前に、本当は売りたかったみたいですが。売ると、稚菜さんにバレますから。結局、嘘の積み重ねなんです…。あちらを隠す為についた嘘で、こちらが怪しくなると、また嘘をつく。結局、夫婦で、最初に、それをしてしまったから、離婚も簡単には出来ない」
父は「診断書も偽造…」と、困惑したように言った。
刺し傷でしょうしね…。交通事故の怪我にする、ってのは…。まぁ、医者だからつけた嘘なのかな。
「言い訳だけど。茉莉花ちゃんの為にも、大事にしたくなかった。恐喝して刺されたお父さんのせいで、両親、失職、なんて。…マイホームも買ったばっかりで。…そんな、あの子は、何も悪くないのに。せっかく、忘れているんだから、犯罪者のお父さん、まして、そのせいで無職になるお父さんなんて、無かったことにしてあげられないか、って…」
父は再び「うーん…」と言った。
俺も、隠蔽する方に加担しちゃったかもな、その場にいたら…。
概ね、小松瑞穂という人のせいだけど。
偶然医者が居合わせて、診断書を書きますよって言ってくれたら、それでいいか、ってなってしまいそう…。
「日記に書かれていたのだという、苧干原ゴウと妹さんの『秘密』にも、見当がつきましたし。で、ゴウと瑞穂さんも、親戚だと言うので…。黙っているのが、一番、良いんだろう、と思いました。娘さんも生まれたって、聞いていたので。…そういう生まれ方をしたんだ、と、知れ渡るようなことは、避けてあげたかった。おまけに、その子のお母さんが、人を刺して、心中しようとしたなんて…」
中澤さんは「良いことをしたつもりはないよ」と言った。
「俺が、やりたかったんだ。近所の小さな女の子を、犯罪者のお父さんの子にさせたくなかったし、そんな生まれ方をした女の子がいる、って、周りに知れないようにしてあげたかった。だから、嘘をついたよ。知らない振りをした。でも、高良君の言う通り、その件は、育児放棄に発展した」
中澤さんは泣いた。
「インドネシアから帰ってきた、って、ゴウから、今年、連絡があって。頼めた義理じゃないけど、もう、妹という人も亡くなってしまったから、って。母親の形見の本を読んでみたいって、残された娘さんが言うから、と言うので。確かに、研究職に就いた従兄がいる、と、言ったことはあったから。…ああ、あの時の女の子は、そんなに大きくなって、…お母さんが死んじゃったんだ、と思って」
俺は「それで、仲介役を引き受けたんですね」と言った。
中澤さんは、涙を拭って、言った。
「そう、理由は、それだけです。そうしてあげたかったから、です。結果、あの子のお母さんの『秘密』は、明良ちゃんと高良君に、分かってしまったけど…」
父は、溜息をついて、温くなったアイスコーヒーを一口飲んだ。
「そっか。…それで、育児放棄に発展して、っていうのは?」
「結局、夫婦仲が完全に破綻したのが原因ではあるんですが。…実際は、育児放棄、というのも…。瑞穂さんが、稚菜さんに、『茉莉花ちゃんに必要以上に接触しないように』約束させてるんです。稚菜さんは、だから、何とか、郵便物を取りに、洗濯物を置きに、みたいな、小さな理由を作ろうとして、茉莉花ちゃんの様子を見ようとしていて」
父と俺は、揃って「は?」と言った。
「…待って、酷過ぎない?どういうことなの?敏」
父は、瞠目して、従弟の顔を見た。
「その、傷害事件の一件で、将基さんが当時勤めていた病院に入院する瑞穂さんの世話をしながら、仕事と育児をしていた稚菜さんは…。眠っている茉莉花ちゃんの首を、絞めてしまったそうなんです。稚菜さんは、夜中に、泣いて、慌てて、うちに、飛び込んで来ました。うちの妻が慰めて…。暫く、茉莉花ちゃん、首が、少し赤かったですよ」
俺は「そんな」と言った。
中澤さんは、首を振った。
「相当、追い詰められてたんだと…。『このままじゃ殺してしまう』と言っていました。自分も、勉強が不出来だと、親に、首を絞められることがあったんだ、と。自分が育ったように、きっと接してしまう、と言って。…実家は遠方で、しかも縁を切っている。身内は誰も頼れない。近所で、出来る時は茉莉花ちゃんの世話を助けていたとしても、幼稚園の、十八時までの延長保育の後の御迎え以降は、稚菜さんが一人で世話をしていました。夫が傷病休暇中なら、手取りも下がる。でも、茉莉花ちゃん出産後は仕事量もセーブせざるを得ない。会社に、本当は交通事故ではない、とも言えない。そして、ある程度は看病に行かないとなると、夫婦の不仲もバレます。仕事や看病で疲れて、寝かし付けた後、気づいたら、茉莉花ちゃんの首に手を掛けていたと言うんです。…責めることも、通報することも、出来ませんでした。そして、私達は稚菜さんに、茉莉花ちゃんと距離を取ることを勧めました。結局、稚菜さんは、瑞穂さんの実家を頼りました。事情を話して、義理のお母さんに、茉莉花ちゃんを預かってもらうことになったんです。…田舎ですと、義母に娘が似ているから、可愛くなくて預けたんだろう、なんて、酷い噂が立ったらしいですが。預けた理由なんて言えませんから、言われるがままですよ。実際、似てたんでしょう。弥朝さんという人も…今思えば、茉莉花ちゃんと、顔の系統が同じでした。遠縁というのも、本当なんでしょうし。無意識にでも、夫を刺した女の人と、娘の顔が似ていたら…嬉しくはなかったんではないか、とか」
それが、幼稚園の時、茉莉花さんがO地区にいた理由か。
「御姑さんは、小松みどりさん、という方だったらしいですが。みどりさんは、瑞穂さんに大変腹を立てて、茉莉花ちゃんが遺産を受け取れるように遺言書作成して、受取人を茉莉花ちゃんにして、後見人を稚菜さんにしてしまって、瑞穂さんを、相続人から排除しました。遺留分も取れなくしたんです。家庭裁判所の審査が入りましたが、多淫を理由にされて、瑞穂さんが負けたみたいです。職場にも、家庭裁判所での内容は、隠蔽したみたいですね、弁護士さんを上手く使って。で、その時、茉莉花ちゃん、みどりさんの養子になってるんですよ。孫は法定相続人になれないので。変な話ですが、今、茉莉花ちゃんって、瑞穂さんの妹なんです。相続を理由に娘の扶養だけが変わるのくらいは、会社にも言い訳が立ちますし、みどりさんが決定した遺産の分与方法なんて、会社が口を出すことではないですからね。しかも、それを養育費に当てる、という名目でいれば、褒められさえする。そして、みどりさんは、自分の遺産を、教育資金として、一括贈与したんですね。そうして、みどりさんは、家を更地にして土地を売り、生前に、譲れる物は全部、茉莉花ちゃんにあげてしまいました。畑も売ったようです。相続税も、未成年控除されましたし。みどりさんは、そうして、晩年の一年間は、松本市のアパートに移って、そのまま、老人性肺炎で亡くなりました。今、茉莉花ちゃんが、親のカードだと思って使ってるお金の内訳は…ほぼ茉莉花ちゃんの為の教育資金なんです。みどりさんの遺産が全部、茉莉花ちゃんに行くと知った時、瑞穂さんは、勝手に親に告げ口されたこと、自分が一銭も受け取れなかったことに腹を立てて、上司が定年しても離婚しないと言い出しました。自分のやったことは棚上げです。結局、話し合いが拗れて。夫婦の内、どちらかが裏切って、会社に本当のことを言えば、今の生活は、簡単に破綻しますから…。そこで、みどりさんが仲裁に入って、瑞穂さんは、マイホームの固定資産税だけ支払うことで、上司定年後の離婚の条件を飲みました。あとは、家のローンも養育費生活費も、一切合切、稚菜さんの稼ぎと、茉莉花ちゃんの相続したお金で賄われてるはずです。みどりさんの死後は、弁護士さんが間に入って…」
父が「うわー」と言って、両目を瞑った。
酷い…。
「そして、離婚してもいいけど、その場合、茉莉花ちゃんを、今の家から追い出す、と言ったようです。稚菜さんは、茉莉花ちゃんに、今の家を相続させたい。名義は瑞穂さんの家でも、二人のお金で買ったマイホーム、しかも、今の家のローンの払いは稚菜さんですし。…結局、『夫婦の何方もあの家に住まない』ということで、決着がついたようです。夫婦の何方も、用事が無ければ、茉莉花ちゃんと接触してはいけない、このことを茉莉花ちゃんに教えてもいけない、と。あの子が知れば、母親に味方すると思います、自分が考えても。瑞穂さんに不利になるので。そして、稚菜さんにしてみれば、眠っている無抵抗の娘の首を絞めたということがトラウマになっていて、距離を取れる、と考えると、自分と一緒にいない、という条件は、娘の為になるのではないかとも考えたようで。もう、その頃には、茉莉花ちゃんも、小学校高学年で、近所の助けがあれば、その条件でも、何とか生活は出来るようになっていたので…」
父は「ええー?」と言った。
「…親は、何処に住むのよ」
「瑞穂さんは、…顔が良いから。あちこち、別宅を持って暮らしていて、不自由していないでしょう。年四回の固定資産税しか払わなくて良いなら、どこかに物件を借りることもできる収入でしょうから、独身時代と、そんなに変わらない生活のはずです。稚菜さんも何処かにアパートを借りているはずですが、夫婦の住民票は移していないので、時々、郵便物を取りに来たりして…。あとは、フルタイムで働きつつ、セラピーとして、フラワーアレンジメントセラピーなんかに通って、いつか、茉莉花ちゃんと暮らせたら、と考えているようです。ですが、瑞穂さんの方は、約束を破って、茉莉花ちゃんに取り入って、食事に行こうと言ったり、携帯電話を買ってあげたりしたみたいです。携帯電話の件は、稚菜さんが、すぐ気づいて。当時はまだ、紙の請求書で、宛先が小松家だったのが幸いしたみたいです。茉莉花ちゃんを手懐けて、カードを取り上げたかったんでしょう。実質、茉莉花ちゃんが、今、小松家の中で一番、お金持ちですからね、本人は、そんなことは知りませんが。瑞穂さん自体は、本来は自分が受け取れるはずだった遺産だと思っていますから、娘と言うより、遺産受取の競争相手なんでしょう。何処か、亡くなった妹さんと茉莉花ちゃんを重ねている節がある、と言うか」
…さっきから、育児放棄より酷い話を聞いてる気がする。
父親が、母親と娘を会わせないようにしてる…?
父は「はぁー?」と言った。
「何それ…」
「手懐けるのも、成功はしなかったみたいだけど。稚菜さんにバレてから、二度と来てないみたいだし。また、弁護士さんが仲裁してくれたみたいだし。…その、一度、来た時も、茉莉花ちゃんと、全く話が噛み合わなくて、食事に連れ出せなかったみたいで。携帯電話を買ってあげる、って言って、やっと連れ出したら、稚菜さんに気づかれて、大事には至らず、茉莉花ちゃんと、連絡先も繋がってないって」
中澤さんは「こんなこと言っちゃいけないけど」と言った。
「茉莉花ちゃんは、優将君と違って、父親が刺されたことも忘れてるし。上手いこと連れ出されず、携帯電話だけ入手して、カードも取り上げられてない。上手く、危険を回避してくれてるんです。守られてるみたいに。そろそろ、例の上司が定年退職だと聞きました。…離婚が成立すれば、きっと、茉莉花ちゃんが大学に行くくらいまでには、父親とは無理でも、母子は、和解出来る、と、うちの夫婦は思っていて」
…茉莉花さん、霊障だけじゃなくて、そういう危険も、回避してるんだ、本人は知らないけど。
…凄いぞ?
偶然かもしれないけど…。
「柴野さんの家も、近いうちに、将基さんが、優将君を引き取るらしいから、時間が解決してくれると思って。だから、…通報は。明良ちゃん、稚菜さんに、やり直すチャンスを与えてほしいんだ。一人娘に、お金と家を残してやりたくて、相当の我慢をしてる。そりゃ、一度、首は絞めてしまった、それは、取り消せないけど。自分は、通報は出来なかった」
父は、深い溜息をついた。
「…小松さんちの件は、了解。で、その、柴野さんのところが、ゆーま君を引き取るって話は何?どういうこと?」
「柴野さんの所も、仮面夫婦なんだけど。あの、長野の、柴野医院って分かる?」
「あー、千曲川の方の?結構大きい病院じゃない?」
「あそこ、将基さんの親戚の経営してるところで、跡取りがいないから、将基さんが継いじゃって。もう、将基さん、住民票も、あそこなんだよ」
「…は?家族を、こっちに置いて、長野に行っちゃったの?単身赴任とかでなく?」
父は、そう言って、目を瞬かせた。
中澤さんは、言い難そうに「そうなんだ」と言った。
「その…奥さんの季湖さんが、御店のオーナーをしてて、ここを離れられない、っていうのもあるんだけど」
…中澤さん、『お店』の内容を暈すあたり、心遣いを感じる。
「将基さん、ちょと、変わったところがあって。いつだったか、一緒に本の話をしてたら、頼んでないのに、次の日に、その本を買って来てしまったことがあって。本代を請求するんだよ。仰天しちゃって。面白そうだとは思ったけど、買う気はなかったもんだから。買う、とも、欲しい、とも、一言も言わなかったんだけど。まぁ、そんな、高い本じゃないから、払ったんだけど、季湖さんに平謝りされて」
ええ…?季湖さんって、尻拭い側だったの?
「他所でも、コンサートのチケットなんかで、同じようなことをしたらしくて。その度に、季湖さんが謝りに行って。その都度、喧嘩になるんです、欲しいって言ってないのに、相手に、物を勝手に購入して、その代金を請求するな、って。プレゼントするなら未だしも、と。将基さんにしてみれば親切心だから、何故、奥さんにそんなことを言われるのかが分からなくて。どんどん、噛み合わなくなってくる、といった感じで。ただ、そういう人だったから、診断書の偽造なんて買って出てくれたんでしょうけど。誰かに頼まれてやった、というわけではなくて、将基さんが自発的にしてくださったことなので」
うーん…。
優将も言ってたけど、お父さんの方も、ちょっと。
「で、季湖さんが、そうやって、将基さんをサポートしていた関係だったのに、結局、お母さんに言われたら、将基さんは、あっさり、自分で建てた家を出て行って、長野市民に戻ってしまったので。もう、こりゃ駄目だ、ということになって。優将君が成人して、高校卒業したら、離婚しましょう、と。季湖さんは、経営している御店の関係もあって、ほとんど、家に寄り付かなくなりました。あの家の家事代行サービスなんかは、依頼しているみたいですが」
中澤さんは「ところが」と、一呼吸置いてから、言った。
「よく知らないんですが、何か、事情があって、離婚を早めるとかで」
…季湖さんが妊娠したとは、流石に教えてないのかなぁ。
「将基さんも、最近、漸く、世間体が悪い、ということに気づいたようで。優将君を引き取る、と」
父は「はぁー?」と言った。
「今更、世間体も何も無いでしょうよ。どんだけ身勝手なの?」
「それが、長野で、柴野さんの親戚が、市議会議員選挙に出馬することになりまして。将基さんも連絡所などで、ちょっと手伝ったらしいんですが。それで、将基さん、周りに独身だと思われていて、縁談が来てしまったらしいんです、独身の開業医、外科医として。で、蓋を開けたら、家族を置いて、自分の建てた家を出て、長野で大きい病院を継いだ、という、よく分からない感じの人、ということが、周りにバレてしまって。漸く、ああ、それは、家族を捨てて出てきた、と、周りからは思われることなのか、というのが、将基さん、理解出来たみたいで」
「…」
凄い、父さんが絶句してる。
うーん、小松瑞穂とは別の方向性のヤバさ。
「その、自分のお母さんの言うことを鵜吞みにするところがあったんで。それで、変な噂が立ってしまったところに、季湖さんから、離婚を早めたいという申し出があったので、将基さんのお母さんも、それなら、世間体も考えて、息子を引き取って、跡継ぎにすれば?と。医者になってくれても、経営をやってくれてもいいから、と。実際、優将君、どっちも向いてる気はします。でも、自分も、それは、流石に身勝手とは思うんですけど。それこそ、育児放棄をされている状態よりは、父親に引き取られた方が…いい、はずなんですけど。言ったら駄目なんですが、将基さんに子育てが出来るとも思えなくて…。将基さんのお母さんという人も、何か…」
父は「それは決定なの?」と言った。
「そんなところに、ゆーま君自体は行きたがってるわけ?そろそろ成人だよ?」
中澤さんは「分からないんだよね」と言った。
「確かに、父親が引き取るなら、育児放棄っていう状態は解決するかもしれないんだ、状態は。心理的に解決するかは未知数だけど。ただ、長野に行かないなら、優将君、こっちで一人暮らしだから、いきなり自活、くらいのことにはなると思うんだよね。将基さんって、こうと決めたら、融通が利かないというか。優将君を引き取る、と決めたら、かなり無茶な条件でも、突き付けて、飲ませてしまって、引き取ってしまう気がするんだ」
はーい、当たってまーす…。
「十代で自活、って、言うは易しだけど…。させるのは忍びないよね。将基さん、悪気が無い分、瑞穂さんよりはマシ、と思うべきなのか、瑞穂さんより質が悪い、と思うべきなのか…」
結論、どっちの父親もヤバい。
…んー、何かなぁ。シューベルトの『魔王』も、怖がってる男の子の話を、全然父親が聞かないで、気づいたら死んでる、みたいな内容だけど、重ねちゃうなぁ。
我が子の話は、出来る範囲でもいいから、聞いてみませんかぁ?噛み合わなくなる前に。
…いや、聞いてるだけの俺でも、現時点で話が噛み合う自信が無くなってきたから、無駄な費えというやつなんでしょうかね…。
俺、その人達よりはコミュニケーション能力あるかもぉ。
父は「気に入らないね、養育費を盾に取るのは」と言った。
「どんな子どもでも、父親と同じレベルの生活をする権利があるはずなんだ。それを支払わないのは、それが何円だろうと、その子が餓死しても構わないと言ってるのと同義だと思うけどね。何円でも、…仮に、滞納してしまっても、払う意思があること自体が大事だと思うんだ。養育費を途中から払わなくなる、なんていうのも、言語道断だよ。生まれたからには、その子には、受け取る権利があるお金なんだから。理想論に過ぎないかもしれないけど、少なくとも、良い会社に勤めてる父親と、開業医の父親は、…ちゃんと、してあげてほしいよね」
中澤さんは「そうだね」と言った。
「まぁ、結局、うちは保護者じゃないから。…残された、茉莉花ちゃんと、優将君の、サポートをすることしか出来なかったんだけど。それにも、限界が来てて」
父は、悲しそうに、「そうなんだ」と言った。
「難しいよね、結局、自分の子と同じように育ててあげられるわけじゃないから。…妻は、茉莉花ちゃんに肩入れし過ぎてしまって。茉莉花ちゃんの方は、大人のしてほしいことを察知して、言うことを聞き過ぎる子になってしまって。妻が、冗談で言った女子高を、第一志望校にして、受験してしまったんです…」
中澤さんの言葉に、父は、目を剥いて「それって…常緑学院?」と言った。
「そう。割合有名かな?校名は。プロテスタントの学校なのも珍しいし、制服が可愛いから、妻にしてみれば、うちに娘がいたら、中学から入れてやりたい学校だったらしいんです。そして、冗談で『あそこの制服、似合うと思うわ』って、茉莉花ちゃんに勧めてしまったらしいんです」
…いや、似合ってました、似合ってたことは、はい。俺からの感想は以上になりますけど、似合ってはいました、ホント。大事なことだから、三回、念押ししますけど、ええ。
「はっきり言って、文系科目だったら、うちの慧より出来が良かったと思います、中三の時点で。だから、塾無しで常緑学院に合格しちゃったんですが、勿体無い話で、茉莉花ちゃん、常緑学院しか受けなかったんですよ…。担任の先生も、本人の意志が固いのに驚いてたみたいで。お嬢さん学校で、育ちのいい御子さんが通うと考えると、環境は良いかもしれませんが、偏差値を考えると…」
えええええ。慧より?じゃあ…。もっと、別の高校にも入れたってこと?
いや、そうだよ、頭が良い子だって、俺は、最初に話した時から、いや、話だけ聞いてた頃から、思ってるし…。
「後から散々、もっと良い所も受かったはずだって噂されたみたいです。それを本人が知ってるかは分かりませんが。今でも、大して勉強しなくても、成績は悪くないはずですけど、でも、本人の自己肯定感の向上には繋がらなかったみたいで」
―高校だって、第一志望落ちて、私立の滑り止めだし…。ただでさえ、お嬢さん学校で、金食い虫って言われて。お姉ちゃんは公立だったのに…。
…ああ。俺は別に気にしないけど、通ってる子の中には、気にしてる子も、いるのかも。
「その、学校の偏差値で、どうのこうの、っていうのは、好きじゃないです、自分が苦労したから余計に。従兄に手伝ってもらって、やっと、って感じで。でも、入れてくれた学校の方が良いじゃないですか、落として、君は要らない、って、入れてくれない学校より。校風も、その子に合う可能性だってあるし、良い友達が出来るかもしれないから。…でも、茉莉花ちゃんが、常緑学院しか受けなかったのは。可能性や選択肢を潰した感じがして。妻も、それは、酷く気にしていました。大人の言うことを聞き過ぎる良い子なのに、自分が、進路に口出ししてしまった結果になった、と」
んー、特に、エンパスの可能性を考慮すると、多分、それ、当たってるんだろうな。周りの大人に言われたから、そうしただけだったんだろう。
…喜んでほしくて。
「あれ以来、妻は、茉莉花ちゃんや優将君に、なるべく干渉しないようにしたみたいです。高校生ですしね、もう。彼氏でも出来れば、家に来なくなるのが当たり前だと言って。だから、優将君が髪の色を変えてても、うちは、何も言いません。…今思えば、迂闊でしたよね。最近気づいたんですけど、『うちに御嫁に来てくれたらなぁ』なんて、冗談を言ってたから、俺。俺なりに、茉莉花ちゃんを娘みたいに可愛いと思って、可愛がってるつもりだし。でも、本人の意思と関係なく、鵜呑みにさせてたかも、なんて」
…あー!そういうことか!…そうだったのかも…。だから、ほぼ無意識に『慧と結婚する』気でいたってのは、ゼロじゃないかも…。
父は「オッサンみたいな冗談言うじゃん…」と言った。
中澤さんは「オッサンだし…」と、弱々しく言った。
「だって…うちの慧と、釣り合うとも思えないから。冗談だったんだよ、本当に。優将君ならともかく…」
それはそう。
父親の意見だと思うと辛辣だけど…。
「実際、仲が良過ぎたんで、一時期は、二人の仲を心配しましたよ。でも、優将君には別に彼女がいたり、茉莉花ちゃんと仲の良い男の子と、優将君が友達になったりしてたんで、ほのぼのと見守ってたんですけど」
ホントにほのぼのしてそう、この人。
…まー、やっぱり、そうだよね?幼馴染にしては、距離感が近すぎるから、傍から見てても、そう思ったのかもな、親じゃないから完全に口は出せないにしても。
「優将君にしても…。凄く、慧に遠慮する子になっちゃって。わざと、慧より低い点数を取ったり、慧と同じ学校を受験したり。凄く、何て言うんでしょう、存在感を消すのが上手い子になってしまいました。慧の方は、そんなの、全く分かってないでしょうけど…。結果、慧って…。自分の見た目も成績も、優将君のいるグループくらいある、という自己認識になってしまい…」
…うーん、本当にねぇ…。あー、その遠慮と手加減が、『座敷童』の与えてくれる幸福だったのかもしれないですね…。
中澤さんは「難しいですね」と言った。
「正直、何て言うんでしょう、我が子ながら、塾に行かせても、木を見て森を見ず、あんまり、効果的な勉強はしてないんだろうな、というか。そんなだから、中学校受験をさせるのも諦めて…。しかも、周りは、親が真面に帰って来ない家なのに、あの子は、専業主婦の母親が作る手作りケーキやクッキーが当たり前の暮らしをしているから…。自己評価と、実際の周囲からの評価が、どんどん、ズレて来てるんじゃなかろうかな、と。うちだって、子育てに成功してるか、と言われると…。本当に、人の気持ちを考えられる子になっているか否かは分からなくて。…妻が、茉莉花ちゃんの方に肩入れしがちなのも、分かるんです。思春期で、どんどん親の言うことを聞かなくなる息子より、一緒にキッチンに立ってくれた、お人形みたいな女の子の方に、感情移入してしまうのは…。人間ですからね、愛情とは別で、反抗する人間より、話を聞いてくれる人間と話す方が楽しい、というのは、どうしてもあると思います。慧の方も、無意識にですが、それを感じ取っているのか…。ちょっと、昔は、茉莉花ちゃんに対して、敵愾心があったみたいなんです。今は、どうだか知りませんけど」
…あー、だから、茉莉花さんが自分の世話をして当然、みたいな感じで、敵愾心を消化したのかもな?親を取られてる気分というのが無意識にあって、こいつは母親と同じ、自分の世話役なんだ、という形で変換して、上手く付き合ってたというか。それが露呈しただけ、というか。
中澤さんは「子育ては難しいです」と言った。
「特に、あの二人の場合は、親にはなってあげられませんから。高校生ともなると、やっぱり、友達や彼氏との時間が大事でしょうから、サポートしようにも、うちにも来なくなりましたし。知らないけど、部活くらいしてるかもしれませんしね。だから、時期的にも、限界です。やっぱり、十八歳は、成人、なのかもしれません…」
父は「そうかもね」と言った。
「まぁ、事情は分かった。時間が解決する、って、敏は思ってるってことだね。…俺も、聞かなかったことにする」
中澤さんは「ありがとう」と言った。
「…いつも、一応は、全部話を聞いてくれて」
父は笑って「一応ね」と言った。
「さ、勿体無いから、食べよ、高良、手作りおやつ」
中澤さんは「持って帰る?」と言って、笑ってくれた。
「さ、苧干原さんち、頑張ってね」
中澤家を辞し、連れ立って駅まで歩いていると、父は「いい時間じゃないの」と言った。
「うん、夕方。奥さんも息子さんも帰ってくる前。ケーキもクッキーも貰ったし、上出来、上出来。蟹缶も貰っちゃったし、友達も増えて、俺ってば超ラッキーな人」
俺は「父さん」と言った。
「通報するの、考えてくれて、ありがとう」
父は、ニヤッと笑った。
「安心した」
「え?」
「もっと、良い子ちゃんで、聞き訳が良くて、親の言いなりの子だと思ってたけど。ちゃんと、親に秘密があって、反抗もして、自分の意見があって、…年相応の子なんだね。話してて、何処か、俺より大人に感じる時があるもんだから、安心した」
「父さん…」
「勉強ばっかりしてると、親みたいになっちゃうから。良いんだよ、高校生なんだから、親に秘密があるのが当たり前なんだよ」
父は、「ゆーま君に宜しくね」と言った。
「フィールドワークの交渉も、出来るかな?さぁ、ゴールの裏側には、いつだってスタートって書いてあるんだからね。あの本を翻訳して、依頼完遂するは、ゴールじゃない。そこからがスタートだよ?」
「はい…」
「…友達のこと、分かった?ちょっと、すっきりした?」
「え?…俺の為だったの?」
「友達が困ってて、楽しい性格じゃなかっただろ?だから、珍しく介入したんだ」
ああ、それは、そうだな、と思って。
やっぱり、泣いてしまった。
顔を両手で覆うと、「じゃーねー、夕飯食べておいでね」という声が、遠ざかって行った。