素因数分解:He grins like a Cheshire cat.
「…こんな時間に。苧干原瑞月から電話?」
確かに、連絡はしたけど、今?…これも果たして、霊障と関係があるのか無いのか、何なのか。
着信表示を目視確認する俺に対して、優将は…。
He grins like a Cheshire cat.
「…急に何で、そんな、御機嫌?」
「いいやぁー?早く出ればぁ?俺、部屋から出てるからぁ」
「…いや、ここにいてくんない?何話していいか分かんないし」
「…何で、あんた達、電話の時、俺にいてほしがるんよ…」
「達、って何?電話、出るぞ?」
優将は小声で「またスピーカー…」と言った。
だから、また、って何だよ。
「もしもし…」
スピーカーから、細い、綺麗な声がした。
…墓で暴れてた奴の声、とか知らなかったら、うっかり胸が躍ったかもしれんな。女の子と電話なんか、ほとんどしないし。
「…どうも。降籏ですけれども…」
随分と夜分で御座いますね。
ビジネス的な口調になってしまいます。
相手は、綺麗な声で「その、連絡…」と言った。
「ああ、あの。ちょっと、個人的に話したいことがあって、丁度いいタイミングだったから、連絡取らせてもらったんだけど」
相手は電話越しに「え?」と言った。
黙って会話を聞いていた優将が、目を剥いて、俺の顔を見た。
どうしたの?優将さん。
しかし、事情を説明すると、相手の綺麗な声には、徐々に、棘が含まれていった。
優将は、笑いを堪えるような顔をして、俯いている。
だから、どうしたんだよ、優将。
綺麗な声が、最初とは打って変わった冷たい口調で、「それで?」と言った。
「…私が依頼した翻訳を?大学教授の息子のあんたが代わりに翻訳して?…翻訳内容を書いた紙と、私が預けた本を渡したい、っていう、…それだけの話?」
「ええ、まぁ…」
いやいや、『それだけ』って。それがメインの話ですよぉ。貴女、こちらに五万円支払ってる依頼主なんですよ?
その御蔭でなのか、何なのか、よく分かんないけど、こちらは霊障にまで遭ってましてぇ。貴女は平気なんですかぁ?
でも、『霊障とかに遭ってません?』とか、聞けねー…。
優将が、グッ、と、笑いを堪えるのが分かった。
何、どうしたの。
「…あー、その。それで…明日…昼以降で、会えないかと思って…」
電話越しの声は、不機嫌そうに「それだけの為に?」と言った。
…依頼完遂の為に、御時間取らせてしまうのって、そんなに御不快ですか?俺、こんな夜分に、電話対応する羽目になっているんですが。この時間に俺が寝てたらどうしてくれてたつもりで、そんな、急に、対応が刺々しいわけ?
沈黙が訪れた。
俺の隣で胡坐を掻いていた優将が、腹を両手で押さえて、前傾姿勢になった。
顔は見えないが、絶対笑ってる。
何で?
「…あー、その。郵送でもいいですが…」
俺に会うのが、そんなに嫌なら…。
苧干原弥朝という人の『手紙』も渡さなければならないわけだし、直接顔を見ないで渡せるなら、気分的には楽だな。その場合、フィールドワーク協力依頼は、直接交渉出来ないが、この様子だと、どの道、引き受けてはくれないだろうし。
しかし、稍あって、電話越しの声は、「分かったわ」と言った。
「…良いわよ、明日の夕方だったら。学校に、書類を届けないといけないから、その後だったら、自宅に取りに来て」
そっか、国籍をイギリスにしたから、手続きとかあるのかもな。
「…分かった」
言われた住所は、意外にも、紫苑高校の最寄り駅と同じだった。
あー、あの辺か。
あそこの小学校の近くの建物のどれかが、社宅なんだな。
俺は、机の上の、手近な紙に、ザッとメモした。
俺が電話を切るや、優将は、クックッ、と笑った。
「…どうしたのよ…優将さん…」
「やっば、今日一楽しかったぁ。でも、無しよ、女子との電話、スピーカーにして、俺にも聞かせるのは。次からは無し。相手に悪いから。うっ…クックックッ」
そんな、サイレントで、泣くほど笑ってんじゃないよ。珍し過ぎる。それに、俺が、夜中の電話対応で、相手から掛かってきた電話なのに冷たい態度を取られてたってのに、何がそんなに、今日一番の楽しさだったわけよ。
「え、マジで、何?優将」
「…夜中に、『ええ声』の人と電話して、内容が、超事務的だったと判明した時の、相手の気持ちを、要素に分解して考えてただけー」
「…そんな素因数分解みたいなことが?2×3×7、みたいな…」
優将は「やめて」と言って、更に笑った。
「謎の単位の次は、謎の素因数分解。もー、お前、面白過ぎ。しないだろ、素因数分解とか。やっべ、ツボる。深夜テンションだわ」
「見たことないくらい笑うじゃん…。あ、そうだ」
「何?」
「…明日、…昼は、父さんと約束があるんだけど。夕方、一緒に、行ってくれない?」
「…女子の家に?」
「うん…。女の子の家とか、行ったことないし…」
優将は「マジかよ」と言って、更に笑った。
「あー、楽しー。絶対行く。携帯に連絡くれたら、高校の最寄り駅まで行くからぁ。あはは、やっば、あははは。耐えろ、俺。夜、夜に、他所の家で、こんな笑ったら、いかん」
すんごい楽しそう。…何で?
「あー、悪ぃ、悪ぃ。『品さん』の話、しないとな」
「あ、そうだった」
俺は、ハッとして、机に置いた郷土資料を、手に取り直した。
「…いやー、これねぇ。…何なんだろね」
優将は、そう言って、俺の机の上に置いていた、翻訳した文章の紙の束を手に取ると、パラパラ捲った。
「石工の次男坊、他所で、西洋の遠近法を習ったそうである。明るい人柄、碌山の知り合いだなどと嘯くが、真偽は分からない。渡仏したいなどと、よく冗談を言う。…ま、絵は描くんでしょうけども。…品さん、女の子を素描する。度々、素描するが、女の子は、それほど喜んでいない。像を作る時の見本にしたいのだと言う。確かに美しい妹だが、あまり喜んでいないので、満七歳の頃には、遠慮させてもらおうかと考えている。品さん、男の子の方は、目に入っていない。単に、身分低い、下働きの子だと思っているのだろう。素描の時には、一緒に遊べないので、男の子も、女の子も、あまり喜んでいない。…これ、変じゃない?」
「うん、未就学児の女児を、ずっと素描って、何か…」
「まー、それが一番変っちゃ変だけど。考えてみ?そもそも何で、名士の娘を長時間拘束することを許されてんのよ、『品さん』。そんな、偉いわけなくない?石工って、ただの職人でしょ?女の子の方は、サトさんっていう教育係まで付けて、振袖着せられてるような家柄で、そんなことある?閼伽の他人でしょ?」
「…そうだな、確かに。何でだったんだ?」
「しかも、男の子と女の子の供養の方法を決めたの、『品さん』なんだよ。供養になるのだろうが、良い気持ちはしなかったようで、父は、妹が死んだ蔵の前に、それを置いているのを、余所者に見られるのを嫌がった、とまで書いてるってことは、『父』は嫌がってるのに、『品さん』の言うこと聞いて、金出して、彫刻まで作らせてるんだよな」
「『あの世で結婚させてやったらいい』とか、確かに、『父』の発想じゃないんだよな?…何なんだ?確かに」
俺は、郷土資料を開いた。
「筆塚。柳澤品緒作。明治24年(1891)建立。明治31年(1898)、南の民家の火災の火焔を受け、損傷している。…えーっと。降籏伊緒。号を松濤といい、筆札、囲碁、謡曲、俳諧等趣味豊かな人で、村童の教育に意を注ぎM村の戸長、村長を歴任し、村の信望が厚く、伊緒、四十六歳の年に四十人の門弟と世話人によって建てられた」
何か、…裏の顔も知ってるからか、読んでて、腹立つな。
いかん、資料に感情移入したら。要素に分けられなくなるんだったな、優将さん。
優将は、「あれ?」と言った。
「『淳緒』と『冊緒』の『父』の名前は『伊緒』。で、…品さんは…『品緒』か」
「え?何?優将」
「…や、何か、思い出しそうになったんだけど。分からん」
そう言えば、優将って、どの程度、分かってるのかな。
「そういや、『預かり物』って、結局、何なんかね?」
優将の言葉に、俺は、考え込んでしまった。
まー、そうね、マリア観音ってのは、予想でしかないし。
…あれ?
「…お香さんが」
「うん」
「お香さんの名前って…『預かり物』に因んだ、って、言ってたような…ないような」
「…ん?」
駄目だ、思い出せない。…やっぱり、生まれ変わりなんて、単なる思い込みで、何か、何らかの偶然が重なった事象で、分かるものもある、って感じなのかな。お香さんの顔も思い出せないし。
…『品さん』の顔は、分かったんだけどな。
お香さんの弟の顔も。
「ね、そもそもなんだけど、道祖神って何?」
「あー…。えっと、この写真のやつ」
俺が見せた郷土資料の写真を見て、優将は「オジゾーサン?」と言った。
「石造物だから、そう思う人もいるかもなぁ。形は、ただの石だったりとか、地域差はあるけど、平たく言うと、道を守る神様、かな。疫病退散、五穀豊穣、縁結び、家内安全、子孫繁栄、旅の安全の御利益があったりする」
「道?」
「岐の神、塞の神とも言うんだけど。道の辻とか、村境とかに建てられて、悪いものの侵入を防いでくれる。長野だと、双体、えーっと、男女一対の姿で作られたりする」
因みにですが、サトさん御出身の山梨県にも、双体道祖神の事例が、数点御座います。
「ふーん、夫婦?」
「そうとも限らなくて」
あ。
「限らなくて?」
「いや、夫婦なんだけど…伝承によっては、血の繋がった男女のことがあるんだ」
「へー?」
「まぁ、そういう伝承自体は、別に、…創世記神話とかでも、兄妹とかっていうのは、珍しくないパターンで…」
…あれ?何か、思い出しそうなんだけど。
考え込み掛けた俺を他所に、優将は「ま、最初は、キャラ少ないからな…」と言った。
「キャラって…神話に、そんな言い方…」
「単純に、創世したての世界って、組み合わせようにも、人口少な過ぎて、あんまり男女、いないだろうし…。イヴだって、アダムの肋骨から作ってるけど、それ、イブのとーちゃんにならんの?って思わん?」
「…そういう風に考えたこともなかったけど…。ま、確かに」
「そーそー、多分、キャラ少ないから、カップル作るのにも、血縁にするしかないんだって」
解釈、明るっ。
そうね、近親婚っていう解釈から比べると、ステンドグラスから差し込む光並みに明るいけど。
…兄妹。…なんだっけなぁ。
優将が、「さて」と言った。
「…寝よっか。今日は、これ以上考えても、分かんないかもだし」
「うん…。考えるポイントは、出揃ったかな?何かが怖いか、怖くないか、なんて判断、個人個人でするしか無いし…」
ロフトに上がって電気を消すと、エアコンの音と、外の音が重なって、そう言えば台風だった、と思い出して、少し、不安になった。
布団を並べて敷いて、薄掛けを被ってから、俺は「長野、行くの?」と、もう一度、聞いた。
優将は、俺に背を向けたまま、「あのさ」と言った。
「明日死ぬんだったら」
「…うん」
「誰にも会いたくない」
「…明日、死ぬんだったら、誰にも、会いたくない?」
そんな。
「誰も悲しまないように、そっと、いなくなるから。誰にも会いたくない。俺のこと、忘れて、皆、普通に、暮らしてほしい。俺の記憶になんか、縛られずに」
…それって、そういう形の優しさなのかもしれないけど。
俺は「馬鹿」と言った。
泣けてきた。
「俺は…。俺は、明日死ぬんだったら、御前の目の前で、死んでやるからな。絶対、忘れさせないからな、俺のこと。…何で、そういうこと、言うんだ」
優将も、茉莉花も、自分の価値を過小評価し過ぎていて。
俺が、どんなに、二人を凄いと思っていても、本人達は、自分の価値に、重きを置いてくれない。
顔を見せてくれない背中から、「寝よ」という声がした。
「シシャモなんだろ、朝飯。…起きるから」
今夜は「分かった」と言って引き下がるしかない俺は、素直に、布団に潜り込んだが。
朝目覚めたら、やっぱり、右の腰に巻き付いてる、甚平を着た、天使の寝顔の奴がいて。
悲しいけど、ちょっとだけ笑えた。
外は明るくて、台風は去ったみたいだった。