発明:`It's my own Invention'
俺の自室で二人きりになったので、自分の机に向かって座った俺は、「で?」と切り出した。
「どうしたの?優将、変じゃん。いつもと違う」
椅子に座る俺の足元に胡坐を掻いた優将が、「え?」と言った。
「少し、気が浮ついてる感じ」?と、俺は指摘した。
「俺程度の話術に引っ掛かるし」
確かに、茉莉花さんがいるところでは、白状も否定もしないと踏んで、奇怪なものが見えているかどうかの確認の為に、ああいう、狡い聞き方をさせてもらったけど、まさか優将が引っ掛かるとは思わなかった。だからこそ、ああいう聞き方をした、とも言えるけど。
話し方も、急に、ネットスラングみたいなのが増えて、ちょっと、普段と違う気がする。
「何かあった?」
そう、座敷童っぽいものが見えるようになってからというもの、本当に、以前より、共感力が増している気がする。だから、何だか優将が変、ということは、察せる。
それは、確かに、霊障、障害、とは思えないので、変な話だが、御加護みたいな感じもする。
…ん?御加護?
―われ微笑みにたへやらず。肩を叩いて童形の、神に翼を疑ひし、それもゆめとやいふべけん。
…童形の、神様?
七歳までは神の内。
そういう風に考えると。…霊障、じゃない?
実際、怖くないんだよな、何か。
じゃあ、本当に、怖いのって…。
優将の返事を待つ間に、ふと、考え込んでしまった俺に向かって、優将は「分かるんだな、高良には」と言った。
「なんつーの?あの、和綴じの本の翻訳?が終わる前に、電話してたじゃん?俺。その電話の前、ババァから、珍しく長文の連絡来てたのに気づいて。…ま、原因っちゃ、原因?それが」
「言いたくないなら…、言わなくていいからな?」
「んー?いや…。もう、今更、たいした話じゃないし?ほぼ、終わったこと、っつーか」
俺は、椅子から降りて、優将と向かい合って、胡坐を掻いた。
天井に貼り付いているような形の、円形のLEDライトが照らし出す自室は、明るいが、その光の強さは、目には良いのだろうが、外の暗さと、風雨の音の不穏さを拭い去るまでの効力はない。
所詮、太陽の光には敵わない、夜を照らす、嘘の明るさ、という気がする。
本来は寝ないといけない暗さを、誤魔化して、炎の温かみすらない光で、煌々と照らして、それでも、闇も影も、完全には消し去れない。
どんな光に照らされても、この友人の顔の造形は変わらない、とは思うのだが、今は、その人工的な白っぽい光が、幾分、その顔色を、青っぽく見せている気がする。
「高良、軽い話と重い話、どっちから聞きたい?」
「二個あんの?」
二個も…。
何か、その内容を受け止めるとなると、これから聞く決意が揺らぐよ…。
「まー、軽い方は、ホント、軽い。重い方は、まぁまぁ、人生単位で重いかな」
「…あの短時間で、そんな事案、二個も発生すんの?」
人生単位で重い話が、今から始まるの?それから比べると、気分的には、今のところ、台風なんか、マジで、全然怖くないわ。
「いや、そんで、電話終わって、リビング戻ったら、普段吠えないツネは吠え狂ってるわ、茉莉花は泣いてるわで、そりゃー、こっちの台詞でもあんだけどな?」
「…言えてる」
で、その流れで、座敷童の女の子の姿も見えちゃったんだろうしね。何が何だか、って、優将さん側も思ってるわけね。受け止めるも何も、御互い様か。
「じゃ、その…重い方から…お願いします」
「親、離婚するって」
…。
「…え?」
「ババァ、ガキ出来たんだってさ、客と」
…。え?
「…うん、それで?」
やべ、相槌、めっちゃくちゃ下手くそになってきてる。動揺を隠すので精一杯。
「昨日手続き始めたらしいんだわ。で、俺が成人するまでの約束だった仮面夫婦も、早々と卒業して、九月には離婚成立してるだろうってさ。慰謝料とか、どうなってるのか知らんけど。ババァは、その客と住んで、ガキ産むんだって。店も、どーすんのか知らんけど。だから、台風止んだら、明日、家に置いてるババァの荷物、業者入れて引き取るんだってさ。道理で最近、出没したと思ったわ、ババァ。多分俺に、その話をしようと思ったら、高良が来てたんで、一応、見栄はったんだか、あん時は、その話はしないで帰ったんだな」
「…優将は、どうなんの?」
聞くのが、本当に怖い。
優将は「どうすっかな」と、無表情で言った。
「結局さ、親父んとこ、跡取りがいねーの。親父の方に行くなら、今の家は売っ払って、長野に行く。向こうの家から高校、大学、通わせてやるってさ、生活費も学費も、その場合は、親父持ち。ババァは、親父と違って、一緒に来いとも言わんから、親父んとこ行かんなら、今の家、俺が貰えることになるんだけど」
「…だけど?」
…あの豪邸に、一人暮らし?これ以降、ずっと?
「俺が成人したら、あの家の名義を俺にするから、長野に来ねーなら、固定資産税は俺持ち、だと」
「…マジで?十八歳から、あの家の固定資産税、払うの?」
「ま、親父の後を継がないなら、あの家はくれてやるから、親子の縁は切るし、生活費も、何もかんも一切面倒見ないってことだろ、成人してまで。高校卒業したら、親のカードも取り上げられる。高校卒業と同時に、生活費と固定資産税を自分で稼げってこったな。大学行くなら、学費も。盆明けに、一応、両親と俺で話し合いして決めるから、それまでに、身の振り方を決めとけってよ」
「な…。そんなのって」
身勝手過ぎないか?両親とも。何しろ、急だ。
「ゆ…優将は、どうしたいの?」
優将は、俯いて、無表情で、「んー」と言った。
「ま、親に振り回されんのなんか、慣れっこだし。…何処行ったって、たいして可愛いがられねーだろうけど。…跡取りだったら、要るんだろ」
不味い。
『父親よりはマシな大人』だった母親が、優将の周りから減ってしまった。『必要とされている方』に、優将の気持ちが傾きかけているのが、手に取るように分かる。
優将は、顔を上げずに「それに」と言った。
「ここまでやれば離れられる」
「…茉莉花さんと?」
「そー。これで、やっと、フツーの、…ただの幼なじみ」
なんで。
「…そこまでして、離れなきゃなんないもんなの?」
操作したくないのは分かるよ。でもさ。
人間は、自分の、したいようにしか動けないなら。
茉莉花さんだって、本心では、優将に、何か、してあげたくて、してくれてるんじゃないのかな。
そんなに無理して、離れないと、駄目なのか?
―俺から逃げてほしーなー、皆。
…結局、そうなのかな。…誰のことも縛りたくないなら、そうしないと、駄目なのかな。優将の存在に縛られてるなんて、茉莉花さんは思ってないかもしれないのに。
暫く逡巡したが、結局、そんな、茉莉花さんの気持ちを代弁するようなことは、言えなかった。
そんなのは、他人の気持ちの推測でしかないし、優将の人生は、優将が決めなきゃならないことだから。
俺だって、今後、親はスポンサーだ。
…結局、遅かれ早かれ、いつか『子ども』の時間は終わってしまって、でも、まだ『未成年』だから、親の都合で振り回される。
それを理不尽だと思うなら、義務教育は終わっているのだから、それこそ、自活しなければならないのだろう。
長野に行っちゃうの、と、小さい声で言うと、分からん、という、小さい声が聞こえた。俺は、深呼吸して、言った。
「俺は、行ってほしくない、けど。高校卒業したら…生活費も何もかも、自分で稼ぐようになる生活を、友達に勧める勇気も、無い。俺が、優将に、生活費、出してやれるわけじゃないのに、そういう、無責任なことは、言えない」
「うん」
「それでも、こっちに残るって決めてくれたら、出来る限り応援したいけど。…どうするかは、優将が、自分で、決めないと」
「うん」
「…長野行きじゃなくて、こっちに残ることを、選んでほしいけど」
「うん」
「長野行きを選んだら…学校は?」
「二学期から俺はいない。盆明けから、あっちの高校に編入手続きだと」
「そっか」
俺の言葉じゃ、駄目なんだと思う。…長野行きを、俺じゃ、多分、止められない。
茉莉花さんじゃないと。
…でも、優将は、頑張って、茉莉花さんから、離れようとしてる。
結局、俺には、口が挟めない。
俺は、もう一度、深呼吸をしてから、言った。
「重い方、めちゃくちゃ重いな…。ガチで人生単位だとは…。これで重い方か…。じゃ、軽い方は?」
わざわざ『軽い』と言うからには、内容的に、親の離婚以上の威力は無いだろうけど。
「彼女と別れた」
「はぁ?!」
あ、そうだ、彼女いたんじゃん、こいつ。
「え?え、何?長野行く気だから、別れたの?千伏さんと」
「や、ちょっとミスって。キレられて、振られたわ、電話で。だから、長野行きはカンケーナイ」
「え?ミス?」
「…やー、普段しないミスだから、やっぱ、らしくなかったんかもね。親の離婚くらい、覚悟してたつもりだったけど。こんな急と思ってなかったし、住む場所まで変わるかも、みたいのは、流石に、想定外っつーか」
…そりゃ、まぁ、動揺もするよな。当事者でない俺だって、動揺してるのに。
「そっか。…えっと。『高校生らしい』ことする相手が、いなくなっちゃったってことかな」
すぐ『次』が見つかりそうな容姿だから、迂闊なことは言えないが。それに、慰めていいのか何なのか、彼女と別れたこと自体にはノーダメージなのかすら、よく分からんしな。
「…『高校生らしいこと』って、結局、俺には、よく分かんないけど。どういう感じだったの?話せる範囲で良いけど、聞いていい?」
ちょっとだけでも、空気を変えたいから、話題も変えよう。
性的同意云々の話は別に、聞かせてくれなくていいので。
それでも、長野行きの話に比べたら、台風と微風くらいのもんだろうが。
「んー。バーキン行って」
「あー、バーガーキング」
ファーストフードか。確かに、高校生らしいか。うちから二駅先、優将の家からの最寄り駅だと、一駅先にあったか。繁華街とか、モールに偶に入ってるかな。店舗数の多いマックと違って、ちょっと工夫しないと寄れない感じだよな、美味いけど。
「バーキン行って」
「…うん」
「バーキン行って」
「…コピペ?」
「いや?ウェンディーズ行って、モス、マック、バーキン、バーキン、モス、バーキン」
「少々、御待ち頂いても宜しいでしょうか…」
「何?」
「デートの話してる?今」
「してるしてる」
「えっ。…あの、柴野さん、俺、気づいちゃったんですけど」
「待って、かつて無い距離感を感じる呼ばれ方されてんだけど」
「いやいやいや、あのさ。…まさかとは思うんだけど。…デートの目的、…ハンバーガーが主体?しかも…バーガーキングの?」
優将は、目を見開いて「何でバレた?」と言った。
「いやいやいや、いやいやいやいや。え、ハンバーガー?マジで?」
優将は、驚く俺に「マジかー」と言った。
「間にモスとか挟んだから、バレんと思ってた」
「…え、マジで、ハンバーガー?」
彼女に会うのが目的だよね?そんで、高校生らしく、ファーストフード店を選んだだけだよね?頼む、否定してくれ。
しかし、そんな願いも空しく、美形は「ワッパーが美味過ぎて…」と言った。
「油物が苦手だから、三日続けてジャンクフードだと、絶対腹壊すんよ。でも、偶には喰いたい時があるから、デートの時だけは、自分に、ハンバーガーを食べることを許してて」
美味いけども。
「え、マジで、デートは、ハンバーガー喰う理由にしてるだけなの?」
嘘だと言ってくれよ。
しかし、目の前の美形の友人は、困ったような顔で言った。
「…俺は、ワッパーが好きなのに、喰うのには、全然向いてなくて。和食の方が、そりゃ、好きだけど、偶に、めちゃくちゃワッパー喰いたくなって。そんで、そんなのに、友達付き合わせるのもアレだし、デートくらいの頻度ならいいか、と思って、ハンバーガー喰うのに、デートを理由にしちまえ、と」
「え…。友達をバーガーキングに付き合わせるのは悪いけど、彼女なら良いや、ってこと?」
酷くない?
あと、それ、彼女が簡単に出来るのが前提の行動では?彼女出来なかったら、一生ワッパー喰えない方式じゃん?
…えー?
「その…茉莉花さんとは行かないの?ファーストフード店」
「茉莉花には、『茉莉花の食べたいもの』を食べさせないと。だから、あいつの方から言い出さない限りは、茉莉花とは行かない」
俺は、思わず、ガクリと肩を落とした。
「…そんなんアリかよぉ。もうそれ、ハンバーガーの方が、彼女より好きじゃーん」
そしてやっぱり、彼女より、茉莉花さんの方が大事じゃーん、それ。何で、それで、自覚無いの、もぉー。
「え、何で高良が、そんな、ショック受けてんの?」
「…浮気されるのと、ハンバーガー喰う理由にされるのと、どっちが人間の尊厳に関わるか、考えてた…」
「そんな引く?!」
だって、優将のデート相手にされた時点で、優将の中で、ハンバーガーより、存在価値が劣るんだろ?その文脈だと。
茉莉花さん>友達>ワッパー>彼女、じゃん。
その不等号、おれが彼女だったら、耐えられない。
せめて、千伏さんが気付いてないといいな、ハンバーガーを喰う口実に使われていたことについて…。
俺は、ゆっくり顔を上げて「これだけは言うまいと思っていたが…」と言って、優将の顔を見詰めた。
「何?怖いんだけど、高良」
「もし仮に…茉莉花さんの彼氏が、茉莉花さんとのデートを、ハンバーガーを喰う理由にしているとしたら、柴野さん、どうですか…?」
優将は、目を見開いて、右手の平で、自分の口を覆って、「…無いわー」と言った。
「…え、別れて正解じゃん?そんな彼氏」
「そうでしょうとも…。それをやったんですよ、柴野さんは。…うーん、何?茉莉花さんの手足を使った鶴亀算とかを問題にしないと、実感を伴った理解をしてくれない感じ?」
「例え、キモ過ぎん?!」
…冷静に考えると我ながらキモいが、もう、知らん。
「どぉーでもいいよー、例えとか、何でも。ハンバーガーとか、一人で喰えよ、もぉー」
「いや、これは、おんちゃんの発明だから…」
「へっ?発明?」
Eureka?いや、そりゃ発見か?
いやいやいや、何回風呂入っても思いつかないけどね、そんなの。
体を流体に浸すことで体験される浮力についても、全ての自然数は三個の三角数の和であることについても、俺には発見出来ないし、そんな謎の発明も出来ないですよ。
俺が思わず、キョトン、としてしまったところで、優将は、説明を始めた。
「女連れなら絡まれ難いから、なるべく女子と歩けって。髪も、出来たら、黒は止めとけ、って。優等生風より、ちょっと悪くしておけって、おんちゃんが」
「乙哉さんが、そんなことを?」
「うん、俺が、痴漢とか遭って困ってたから。おんちゃんと一緒にいない時は、自分で身を守れるように、って。おんちゃんも若い時苦労したから、そん時、発明したんだって。弱そうだと、被害に遭うぞ、って」
「痴漢?」
「そう。満員電車に乗る前は、触りそうな奴の足を、わざと踏んで、踏みながら、顔を見ておけ、って。そうするとそれが、先制攻撃になって、痴漢に遭い難くなるから、って」
「…痴漢、って」
「小学生の時とか、俺、チビでさー。相手に反抗できんのよ。こんな、背が伸びるとか、思ってなかったから、助かったけど。筋トレも、意味あるよね、相手より弱くなさそうに見えるなら」
そんな。
ああ、先入観だな。…男の子は、痴漢になんか遭わない、なんて。況してや、優将を守ってくれる親が傍にいなかった小学生時代、…そういう方法でしか、目の前の相手が、自分の身を守れなかったんだとしたら。
「か、髪色とかって、ファッションでやってるもんだと…。も、モテ、とか。そんな、護身術的な話だったの?」
「あー、あのね、モテようと思ったら、髪色は黒のが良いんよ、実は。結構保守的ですわ、学生さんは。遊んでそー、くらいの方が、俺のこと、見た目だけで、ブランドのバッグくらいにしか思ってない、程々の人数が寄ってくるから、捌けるし」
「え…モテなくする為に、髪色変えてたの?」
「うん、おんちゃんの発明。まー、長野行くなら黒に戻さんとなー。何にせよ、親父に会うなら、何か言われても面倒だし、盆前に、美容室行くか。明るい髪色と暗い髪色繰り返すのが、一番髪が傷むから、アッシュ系にしてから、もうちょい、間開けたかったけど、しゃーない」
…モテなくする為、って、次元が違ぇなぁ、この美形。
いや、そうして、身を守ってきたんだ、ずっと。…俺の、想像もつかないところで、保護者の存在も無く。
「や、そんな顔しないで高良。流石に、この身長になってからは、痴漢とか、遭ってないから」
あ、それで、性的同意を取る、とか言うのか…。自分がされて、嫌なことは、しない、ってことか…。
優将は、軽く、俺の肩を、ポン、と叩いた。
「ねー、沢山寝たら、脳にも良いし、寝なきゃ。ネルコハソダツ。徹夜コースっつったけど、寝れたら、喋った後、七時くらいまでは、寝よ?そしたら、六時に茉莉花が起きて、洗面所使い始めるのと被んないし」
「…そういや、優将って、よく、睡眠を取ることを勧めてくるよな?」
優将は、キョトン、として、「だって」と言った。
「昔は、頭しか、使えるものが無かったのに。力が無かったら、頭しか、武器が無かったのに。寝ないで、頭が働かない状態じゃ、何にも、太刀打ち出来なかったから。そりゃ、体が大きくなったって、頭が回る方が良いじゃん。寝なきゃ、それが出来ないんよ」
あまりにも軽く、優将が「それって怖くない?」と言うので。俺は、泣きそうになった。
相手が、そんなに小さい時から、大人から守ってもらえていなかったのだ、ということが、俺の方こそ、実感を持って理解出来ていなかったのだ。
「じゃあ…、別に、彼女を作りたい訳でも、髪色を変えたい訳でも無いのに、必要に迫られて、やってるの?」
「んー、一定の効果はあったからな…。でも、高良にも言われたけど、良くないことだったんだな。他人を鎮痛剤にするな、って、言ってたろ?」
「…言ったけど」
「俺をブランドのバッグと同じくらいに思ってる女だったら気が合うな、俺も、相手を護身用にしてるし、バレないなら、ハンバーガー喰う理由にしてもいいや、とか思ってたけど。確かに、鎮痛剤みたいに…。『こいつでいいや』とか、『ハンバーガー喰う理由にしてもいいや』って、もし…」
…そうだよな。もし、茉莉花さんが、そんな扱いを彼氏から受けてたら、耐えられないだろ?御前。
そして、そんな理由で『気が合う』って思われてた千伏さんの立場とは…。
「言ったら悪いけど、別れて良かったと思うよ、そんな感じだったんなら。…護身用の相手がいなくなるのは、良くないかもしれないけど」
「…ま、それも含めて、長野に引っ込むのは、こっちにいるより目立たんで済むかもだし。丁度良かったんかもね。…そういう意味じゃ、俺を狙ってるんだと思ってたんだけどな」
「狙う?」
「いーや、こっちの話。大漁旗の降籏さん。俺も、長野に行くにしても、行かないにしても、気になることがあるから、出来るだけ、盆が明ける前に片付けたげるわ」
「た、大漁旗?何?…あ、そうだ、優将」
「何?」
「父さんが、優将に、俺がいない間の、歴史さんの散歩のバイト、してくれないかって言ってたんだけど。八月十三日の朝から、十六日の昼までの間で」
「お。丁度いいわ。やるやる。高良のとーちゃんの連絡先、後で教えて」
「…え?何かあるの?」
「いーのいーの。気にせず、行ってこい。片付けといてやる」
「え、本当に、何?」
「…多分、霊障なんかより、怖いこと?」
「何それ。あ…」
俺は、母親から聞いた、霊障か、そうでないかの切り分けの話を、優将にした。
優将は、「ほー」と、感心したように言った。
「流石だねぇ。要素に分けて考えんのは、大賛成よ」
うん、優将さんと、うちの母親、考え方が近い気がする。思考法、というか。
「で、何?それでいくと、俺、霊障になんか、遭ってないけど?」
「…それって?」
「怖くねーもん。小さい女の子が見えようが、変なとこ行きそうになろうが。それに、高良に巻き込まれた、とも思ってねーし。かーちゃんの言葉を借りるなら、それこそ、霊障に合理性を求める発言になるんだろ、それ」
―何か…帰ってきたな、って、感じ。懐かしくて。可愛がられてた頃、みたいな。
「ああ…。優将は怖くないんだ」
「んー、何か、女の子?しか見えんし」
気づくと、優将の傍らに、振袖の女の子が、不思議そうな顔をして、立っていた。優将は、驚くでも無く、微笑んで、女の子に手招きした。
「よう。…お前も、俺と、長野、来る?」
女の子は、不思議そうな顔をして、優将の顔を見詰めている。優将は、歴史さんを撫でる時のように、優しい顔で、言った。
「いいよ、憑りつかれようが、何だろうが。俺、困ってないから。怖くないし」
…いや。
何か、良くない気がする。…こういう状態でいい、って思うのは。
茉莉花さんと離れて、本心で望んでいる訳でも無い、ただ跡取りが欲しいだけの、可愛がられもしない場所に、…茉莉花さんそっくりの、振袖姿の、成長しない、小さな女の子と。…閉じ籠るように、引っ込んでしまうなんて。
じゃあ、やっぱり、怖くなくても、それは、障害、であるならば。
どうしたら、その霊障から、こいつを救い出せるのか、分からなくて。
「うう…」
「高良…。泣いてんの?」
「皆、高二の夏って、何してるの?これ、絶対、『高校生らしい』ことじゃないじゃん…。高校生って、多分、古文書解読して霊障に遭って、御盆にフィールドワ―クに行かないじゃん」
「…何も言えねー…」
俺は、グッと涙を拭って、深呼吸した。
「ごめん、郷土資料、開く」
「…切り替えスゲー」
もうこれしか残ってないんだよ。高二の夏は、これしかないんだ。これをやるしかないんだ。
ふと見ると、女の子の姿は無かった。
…ごめん。怖いわけじゃない。君のせいじゃない。でも、やっぱり、君が見えている状態が、優将にとって良いこととは限らないと、俺は思うから。出来るだけのことは、やる。
「良いんだよ。勉強は楽しいもの。新しい知識が増えるのは喜び。…一つのことしか出来ないことは、喜び。余計なことを考えないで済むから。没頭こそが喜び、知的好奇心への耽溺こそが喜び。これがやりたいんだよ。俺は一生、これでいい、って言わないぞ。これがいい、って言う。絶対曲げねぇ。極力闘いは避けたい性格だけど、闘うと決めたら、後ろは向かないし、単騎でも斬り込んでやる」
浴衣デートなんつー、冥加に尽きる持て成しは、人生に起こり得ない、と割り切れば、やりたいことがやれる、素晴らしい夏ですよ。
優将が「お前、鎮痛剤、使わなさそうだな」と言ったので、俺は、ニヤッと笑って、言ってやった。
「そんなもん、寿命で死ぬまで、存在も知らないでおいてやる。痛いとか、寂しいとか、知るか。やりたいことがあるんだ」
伊達に、頼まれもしないのに『一生お友達宣言』なんてしてないんだよ。今更、何かの痛みを誤魔化すのに、他人の存在なんか使うもんかい。
優将は、一瞬、体を震わせてから「こういう一面を見せた方がモテそう」と言ったが、何のことか分からなかった。
次の刹那、俺の携帯が震えた。