ホログラフィック原理:Which do YOU think it was?
『A』 boat beneath a sunny sky,
『L』ingering onward dreamily
『I』n an evening of July--
『C』hildren three that nestle near,
『E』ager eye and willing ear,
『P』leased a simple tale to hear--
『L』ong has paled that sunny sky:
『E』choes fade and memories die.
『A』utumn frosts have slain July.
『S』till she haunts me, phantomwise,
『A』lice moving under skies
Never seen by waking eyes.
『C』hildren yet, the tale to hear,
『E』ager eye and willing ear,
『L』ovingly shall nestle near.
『I』n a Wonderland they lie,
『D』reaming as the days go by,
『D』reaming as the summers die:
『E』ver drifting down the stream--
『L』ingering in the golden gleam--
『L』ife, what is it but a dream?
眠ることを勧めてはみたものの、相手の顔色があまりにも悪いので、心配になった俺は、気分転換を提案した。
「茉莉花さん、何か、ちょっと、気分が変わる物でも見てから寝る?…とは言え、女の子が面白い物って、あんまり思い付かないけど。…あ、そうだ」
俺は、両親の寝室に入り、白いベッドに備え付けられている棚を漁った。睡眠時の地震等で使う為の、非常脱出用の両親の靴と救助笛の他に、合理主義の母親が珍しく処分しない、数冊の絵本が入っているのだ。
「あったあった。アリスの絵本なんて、どう?」
「え、可愛い。英語なんだ?わー、仕掛け絵本もある」
茉莉花の紙のように白い頬に、薄っすら血の気が戻ったので、気分転換としては成功かもしれない、と思い、俺は、微笑んだ。
「そう、母親の研究仲間からのお土産なんだよ。古いけど」
…幼少の砌に、その、母親の研究仲間イギリス人男性に、幼女と誤認されていたから、女児用の絵本が贈られたとは言えないんですが。…及木さんちの貴子さんと同じ顔だもので。ええ、俺の本ですよ。
…カビたからって、動物の縫い包みは容赦なく廃棄した癖に、こういうのは取ってあるんだからなぁ。
御蔭様で、英語の原文でAlice's Adventures in Wonderlandも、Through the Looking-Glass, and What Alice Found Thereも読了しましたよ。
…英語の原文で『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』を読了する幼少期を過ごしたなんて、引かれそうだから、言えやしないけど…。
そう、嘗て母親がリビングに置いてた海外のインテリア雑誌も、アートとしてではなく、日本語の活字や英文の方を読んでいたから、俺の情操に使いたかったのであろう母親の当てが外れたと見えて、近頃は置かれていない。
あれ等も、廃棄されたのか、見当たらないし、何時しか、俺の玩具も散らばらない、スッキリしたリビングになった。
合理的で清潔だが、こういう時、客の目を楽しませるものが極端に少ない。
しかし茉莉花は、「わー」と、愛らしい声で言ってくれた。
「中学校の時、読んだよー。家にもある、ディズニーのも、文庫本も。日本語のだけど」
俺が微笑んで、「そうなんだ」と言うと、茉莉花は微笑み返してくれた。
「亡くなった父方のお祖母ちゃんちにあったんだ。大事にしてたけど、私にくれるって言って、古いの、くれたの。もう誰も読まないから、って。懐かしい」
え?
―「そうね、顔が完全に似てる、って感じじゃなかったんだけど、ほら、アイドルグループの子達の見分けが付かない時とか、無い?あんな感じで…。お人形みたいに可愛い、雰囲気の似た子が二人でいる、って感じだったの。周りも面白がって、御揃いや色違いの服を着せて、髪型も同じで。よく姉妹に間違われてたわ。アリスが好きで、夏生まれで、ヴァイオリン習ってた方が小松瑞月ちゃんで、アラジンが好きで、早生まれで、ピアノ習ってた方が苧干原弥朝ちゃん、だったかしらね。だから、家も近くて、学校も同じの、ベッタリの、幼なじみの親友だったのね。…その隙間に、年の近い男の子が入る隙があったってことが、まず、想像が出来なかったのよ。あの年代の女の子同士の仲の良さって、また、特別なものだから。田舎だと、本当に知り合いも限定されてるし。でも、そうか…。それこそゴウ君、大学進学で、高校卒業から家を出ていて、弥朝ちゃんにとって、家族というより、『偶に会う都会から来た人』という存在になっていたのだとすると。憧れになってしまっていた可能性は、無いとも言い切れないわね。実際、ゴウ君、頭も良かったし、傍目には優しい、良いお兄さんだったと思うしね。…ビートルズとか聴いてて、趣味も渋かったわね、アコギ弾いてて」
それって。『小松瑞月』の本?
その時、俺の携帯に、母親からの電話が掛かってきたので、俺は「ちょっとごめん」と言って、自室に移動した。
電話越しの母親の声は、何処か訝しげだった。
「明良さんから聞いたわ。フィールドワークに行くって。…随分、長いこと、電話してたのね?掛けても掛けても、話し中で。親と、そんなに長い時間電話出来るなんて、思春期なのに、偉いわね」
また、優将さんと同じこと言ってる…。
俺が答えかねていると、電話越しに、小さなため息が聞こえた。
「行くのね、長野。明良さんから聞いたけど…伯父さんちに泊ろう、とか、しないのね」
「…嫌でしょ?だって。借り、作るの。伯父さん伯母さんと、そこまで折り合いが良くないのは、流石に気付いてるからさ、俺も。乗り気なら、フィールドワークの算段だって、母さんが付けてくれたと思うもん。寧ろ、乗り気じゃないのに、口出しせずに、O地区のフィールドワークに行かせてくれるのは、感謝してるから」
母は一瞬黙って、「電話くらいはしておいてあげるわ、親戚に」と言ってくれた。
有難いよな、『行くな』とは言わないでいてくれるのは。
「良い調査が出来ると良いわね。将来に繋がるとか、繋がらないとか考えないで、やってみなさい。何事も、経験よ」
珍しく、「言い難いけど」、と、母は言った。
「『ホログラフィック原理』って言ってね。…その、受け入れ難い人もいるかとは思うんだけど、数式で証明されてしまったから、仕方なく、今、言うけど」
こんな歯切れ悪い母さん、珍しいな。
「数式で証明『されてしまった』って言い方、何?」
「んー、なるべく短く言うと、この宇宙は、全てホログラムで出来ていて、自分の思考、意識が投影されて出て来ている、というものね」
そんな。
量子力学の徒よ、いきなり、何を仰るのですか?
「…そんなのが、数式で?じゃあ、考えて、言った言葉も現実に投影されてしまって?嫌な出来事も、自分の意識が投影されたホログラフィ、ってこと?」
「大体、そんなことかしら、受け入れ難いでしょうけど。この世界は、本当は二次元で、それが投影されて三次元に…って、止めましょ、今言っても、分かり難いわよね」
「そんな…」
じゃ、見たいから座敷童が見えてる、みたいな話に?
それは確かに、今となっては、解決したい、という意味でも、見えて良かった、とは思っているが。
…えー、人間は、自分がやりたいことしか出来ない、っていう、優将さんの話を、最近やっと、そうかな、って思えてきたのに。
それならなんで、花の香りのする、ポニーテールの女の子に好きになってもらえなかったのか、理解不能ですけどね?高二の夏に、浴衣美人と過ごす、とか、良さげだなと思ったこと、何にも実現化してませんけど?って、あんまり考えると、己の嗜好が漏れ出てしまいそうだが。
野郎三人で、ロフトに寝泊まりして、フランス語で口説かれたとか、も、全然納得してないんだけど、高二の夏。
そうね、ギリ、ホットサンドとアボカドジュースは良かったかな?…あー、まー、性格上、恋愛に振り回されないことが分かってたけど、花の香りのする子と、何かを一緒に食べて、みたいなのは、良かった…か。恋愛向いてないけど、恋愛はしてみたかった、みたいな話?
…うーん?
「まぁ、そういうことで、言い難いけど。貴方が望んだ分だけの成果が、出るでしょうから。自分を信じて、やるだけやってみなさい」
「あ…有難う、『ホログラフィック原理』を用いての餞の言葉…」
母は、言い難そうに、「餞だって伝わって良かったわ」と言った。
独特ぅ。…考えようによっては、父親より独特だな、母親。
でも、そっか、この世は、自分の思考、意識が投影されて出て来ている、って…。
…。
なんだろ。納得いかなくて、何か…。
「うう…」
「高良…?」
『好き』な子に、『好き』になってもらえなかった。
そんな高二の夏が、自分の思考、意識が投影されて出て来ている、って、納得出来るか?
謎のバイトしてみりゃー霊障に遭い。怖くて、やっと誰かに手伝ってもらえるかと思えば、巻き込んだかもしれず。
何なの『浴衣の子と花火』って、そんなんが高二の夏に用意されてる人とか実在するんですかぁ?こちとら、頼まれもしないのに、『好き』な子に自分から『一生お友達宣言』したんですよ。始まらないから終わらない、失恋以下、小数点以下切り捨て。もー、そもそも恋愛なんて向いてないから、恋愛どころか失恋も上手く出来ないし。
そりゃー、浴衣デートよりフィールドワークを取る人間だけど。自分のことにしか、時間を使わない人間だけど。
…若しも、少しでも『好き』になってもらえたら、若しかしたら、やっぱり、やりたいこととか、全部、投げ出しちゃうくらい、好きになったのかな、って。
少しでも、相手のことを『好き』になったら、やっぱり、相手にも、自分を『好き』になってほしかった、って。
自分から『一生お友達宣言』なんかしたから、それが、可能性含めて、全部ゼロになったんだって、分かってるけど。
相手がボロボロだったから。相手に負担を掛けない重さで差し出せる、純粋な気持ちが、『友情』しか、残ってなくて。
こんなことしても、相手の気持ちが軽くなったか、分からないのに。
でも、裏切らない。大事な、友達。
あの子も。
優将も。
裏切らないって決めた自分のことも、裏切らない。
友達は一生友達。決めたことは、やり遂げる。
俺は、グッと涙を拭って、深呼吸した。
「ごめん、母さん、大丈夫。…ちょっと、不安だったのかな、台風だし」
ま、台風怖い、とか、嘘なんですけど。
彼氏いる女の子に『一生お友達宣言』した上に、その子を今、リビングに泊めてます、とか、複雑過ぎることを白状するくらいなら、台風が怖い息子と認識してほしい次第です、はい。
そんな悲しい嘘だったが、母親には信じてもらえたらしい。
電話越しの声は、穏やかで、気遣わしげだった。
…父親とは豪い違いだな。
「手のかからない子なのに、珍しく、そう泣かれると…。台風の日に、息子を置いて、ネイルサロンに駆け込んで、コンビニで白ワイン買って、イタリアンの店でバーニャカウダをテイクアウトして、ホテルで優雅に過ごしていることについて、罪悪感が有るわね」
「…優雅過ぎやしない?」
自分で、罪悪感がある、って、はっきり口にできるのは凄いと思うけど。さりとて、優雅過ぎやしなぁい?俺が霊障とかで悩んでるのに。もう、『優雅』って言葉、嫌いになりそうなくらい。
いや、霊障の相談なんて、してない俺も悪いのかな。
…え、親に、霊障の相談…?
え、待って待って、母親に、恋愛相談と霊障相談、どっちがどれだけアレな感じ?
…。
や、えっ?
…でも、現状、突破口が無いんだよな。…試しに、『友達の話なんだけど』形式で、聞いてみるか?『俺より頭の良い人間』に…。
「あのさ、母さん、友達の話なんだけど、相談していい?」
「相談…?良いけど。…本当に、思春期にしては、よく親と話す子だこと…。甘えてくれていると捉えて、良いのかしらね?」
「あ、そういう捉え方、するの?」
甘え下手な自覚はあるんだけども。まぁ、いいや。親を信頼して話す、という点では、そう捉えられても。
「…えっと。霊障に悩んでる子がいて」
「………………………。続けて頂戴?」
…一応聞いてくれるんだ、こんな内容でも。それは有難いな。すんごい間があったけど。
「あの…。見えないはずのものが見えるんだって、その子」
「あら、それが怖いの?その子は」
「それは怖くないらしいんだけど」
「じゃあ、それは霊障じゃないわね」
「え?」
「困ってないなら解消する必要も無いもの。障害ではありません」
ホゲー。
すっげー斬り込み方で来た。
心療内科の医師みたいな。
「…や、まー、そりゃ、無いはずものが見えるだけだから怖くないし、生活に支障がない、って言われたら、そうですね、と納得しかけるんですが、『見えないはずのものが見える』のが生活の支障であり、困り事なのでは、と…。…。あとですねー、…抽象的な表現ですが、何か、異界に引っ張られる感じ?がするとかで、それは怖いらしいんです、その子も」
「ああ、困ってるなら、それは霊障ね」
「…と、申されますと」
敬語になっちゃうよね、もう。
「そもそも、その二つは、本当に『同じ』『霊障』なの?」
「…はい?」
「要素に分解して考えて御覧なさい」
…また優将さんみたいなこと言ってるぅ。
「んー、霊障の原因を、要素で考えたら、『霊障の要素って?』ってなって、多少、アホらしくなったけども。…『見えないはずのものが見える』ことは霊障ではなく、『異界に引っ張られる』のは霊障、とすると?」
「そうです。同時期に起きているからといって、その二つは本当に原因が同じなのですか?」
「は?」
…えっ?考えたこともなかった、そんなの。
「怖いなら理由があるはずです。怖くないことにも。無意識のことであるにしろ、理由も無しに怖い、というのは、実際は無いでしょうし、可変しなことなのに怖くない、というのにも、理由が無いのは変です。その二つの事象の共通点は、精々、『不思議であること』くらいのはずなのに、同時期に起きている『不思議であること』なせいで、一緒くたにされてしまっているのではありませんか?本当に、それ等の原因は同じなのですか?」
「…はー。何故怖いのか、と、何故怖くないか、か。…考えたことも無かった。どうすれば霊障が無くなるか、ということばっかり」
母親は、言い難そうに、「高良」と言った。
「…今、凄く、不合理なことを言っているのに、気づいてる?」
「ん?」
「霊障に合理性を求める発言なのよ、それ、分かってる?」
「…ん?」
「まぁ、仮に、霊障の原因が幽霊、だとしましょうか。霊の障り、ですものね?」
「…はい」
「合理性、が分かり難かったら、論理性とか、法則性って言いましょうか。こうしたら祟られる、こうしたら祟られない、っていうのは、幽霊に話が通じるとか、こっちの理屈が通じるってことでしょう?物理的な法則性とか、あるの?幽霊って。…あの…。突然の理不尽な事故に対して、とかだったら『ああすれば起きなかったかも』とかは言えるかもしれないけど、それだって、『かも』であって、100%ではないでしょう?理不尽に祟られるから霊障なのであって、祠を壊したから祟られる、とか、こうしたから治る、みたいな法則性があるのは、治療とか、御祓いでしょう?宗教って言っても良いわね。本当は、それこそ、台風とかの、急に起こる理不尽なことだけれど、御祈りとかの御作法を守れば祟られなくて、被害が最小限になる、みたいな話でしょ?本来は法則性が無い、避けられないものを、何か、安心する為に、これをやったら大丈夫、みたいな御作法とか手順とかを作ってるんであって」
「そう言われると…無いだろ、そんなん、ってなるけど」
「ええ。だから、何かをしたから霊障に遭っているのかも分からないけれども。そうでないかもしれないのよ、こっちの理屈が通じる事象かは分からないのだから。何もしていないのに霊障に遭う、ということも考えられるのよ。理屈が通じない存在というのは、理不尽なのだから。誰のせいでもない、と考えるのも手よ。解決はしなくても」
そうすると。本が手元にあるから、とか、翻訳するとかしないとか、そういうことが原因じゃない、ってことにもなるのか。
「…遠大に慰めてくれてるのかな?それは…。スケールが違いますね。…いや、幽霊に物理的法則性が通用するか否か、か。…しなさそー。触れる、とかじゃないしね。あー、法則性が無いから怖い、とも言えるのか」
母は「そうねぇ」と言った。
「よく分からないけど、慰めになったなら良かったわ。…そうなの。『合理的に』霊障を捉えたかったら、御祓いよ。『こうしたら霊障が治まる』みたいな手順が、一応、あるわけだから」
「…御祓いかー。逆に、アリかもだけど…。頼って、解決しなかった時の虚しさ、ヤバいよな…。幽霊に、こっちの理屈が通じると思って、祈祷料とか払って、御祓いしてもらって、解決しなかったら。いや、こういう、理不尽に怖い思いする時に、逆に、神頼みするのはアリかな、って気はするけど」
「そうねぇ、何しろ、理不尽なことですもの。回避できる方法でもあれば良いけど」
…回避?
回避してる人。…いる。
翻訳しても、本に触れても、大丈夫な人。
茉莉花さんってなんで平気なんだ?
「高良?」
「あ、ごめん、黙っちゃった。あ、母さん、友達に、絵本、貸してる」
「あら、アリス?良いわよ、高良のだもの」
「あれだけ、綺麗に取ってあるよね」
「ええ、アリスって、特別だもの。何か、好きなの。赤の女王理論とかの元にもなってるし。不思議の国のアリス症候群、なんて、病気の名前の元にもなってるしね。ハンプティダンプティだって、熱力学第二法則を説明する際の比喩に使われたりするし。英語圏の、と言っても良いけど、理系とは切り離せない物語なのよ」
「…あー、そういう風に考えたこと、無かったな」
「ああ、作者のルイス・キャロル自体がイギリス人牧師で、大学の数学教師だったんだもの。そうなるのでしょうね、どうしても。イギリスのマザーグースの中に言葉遊びや、数学的な遊びが含まれているの。当時のイギリス文化や、宗教から来る民俗も垣間見えるでしょう?白い薔薇を赤く塗る、みたいなシーンもあるけど、あれだって、そうでしょ?白薔薇はキリスト教に於いて、処女性や純真無垢を表し、赤薔薇は、愛や殉教、キリストの受難を表すでしょ?意外に、モチーフが、宗教的だったり、数学的だったりするのよ。鏡の国のアリスのチェスなんて、完全に数学よね。赤の女王と白の女王、だし。チェスなのに、白黒じゃないのよね、『赤』なの」
…え、当時のイギリス文化や、宗教から来る民俗?
牧師、ってことは、…プロテスタント?
縦軸が宗教で、横軸が民俗?
そして、数学。
十字架と垂直ベクトル。
…最初に、ベクトルの話を優将経由で俺に持って来たのは。
茉莉花さんだ。
茉莉花さんって、何なんだ?
「高良?」
「あ…。えっと。アリスって、面白いんだな、って」
…面白いどころか。…符号が、多過ぎる?
「それでも 彼女は 亡霊の ように 私に付き纏い離れないだっけ…」
座敷童みたいだな。
「…ああ、最後の詩?頭文字が『アリス・プレザンス・リデル』になってるやつね。結構、怖い詩よね」
「怖い?」
「『不思議の国のアリス』で、アリスは七歳。『鏡の国のアリス』で、アリスは七歳半。『鏡の国のアリス』の頃には、物語のアリスのモデルになった実際のアリス・リデルは、二十歳になっていたらしいの。そして、ルイス・キャロル自身も言っていたけど、わざと、実際のアリス・リデルと物語のアリスを乖離させるために、挿絵を実際のアリス・リデルと似せなかったそうなの。普遍性のある『子ども』という観念として、物語の中に、アリス・リデルを留め置くためだそうよ」
「か、観念?」
…観念。
ベクトルの観念。
…座敷童の、観念。
「そう、あの詩で分かる通り、実際に物語を聞いていた三人の子ども達は大人になってしまったけど、ルイス・キャロルは『アリス』の幻影から抜け出せず、三人の子ども達は不思議の国で夢を見続けている、とね。ルイス・キャロルは、本の中に、『永遠の子ども』の観念を閉じ込めたのね」
「…本の中に、『永遠の子ども』の観念を閉じ込めた?」
…和綴じの本の中の、ツネと冊緒みたいに?
母は「そうね」と言った。
「あの詩も、『鏡の国のアリス』も、この世は夢に過ぎないのか、とか、この世界は誰かが見ている夢なのだろうか、って、終わるでしょう?なんだか、『ホログラフィック原理』を想起させられてね。壮大な気がして、ちょっと、怖いわね」
「…この宇宙は、全てホログラムで出来ていて、自分の思考、意識が投影されて出て来ている、って。…そっか、『鏡の国のアリス』って」
「そう、あれって赤の王の夢なのよ」
「…そうだったね。そうだ、あの物語って、そもそも、視点がメタ的なんだよな?」
「そうね、『あとでアリスが話したことには』とか『分かり難いと思うから挿絵を見てくださいね』、とかっていう文が入るのよね。誰かが、外側から物語を眺めている感じ。『不思議の国のアリス』に至っては、『不思議の国』の解説を、アリスの姉がするところで締め括られるし、これが長年親しまれてきた子ども向けの話なのか?と思うくらいの構成よね」
アリスの姉。…イギリス人の女の子。『絵も会話も無い本』を読んでいる。
…イギリス国籍の、少し年上の女の子が持ち込んだ、和綴じの『絵も会話も無い本』。
「母さん、霊障の話に戻るんだけど…。そもそも、幽霊って、信じる?」
「信じてはいないけど。と、言うより、そういう要素では捉えてません」
また要素…。
「魂と魄、という様子で捉えています。魂魄ね。古代エジプトの宗教観で言うところの魂と精神に近いかしら?」
「魂魄?!」
幽霊は信じてないけど魂魄という要素として捉えてる、ってこと?幽霊の原因を、要素で考えたら、『幽霊の要素って?』ってなって、アホらしくなったりしないで、『考える』ってことを放棄しないんだな…。母親の知らない一面を知ってしまった気がする。
「ええ。魂は魂。魂は輪廻転生するんでしょう?仏教だと」
あ。
生まれ変わり?
そんなの、俺も、完全に信じてるわけじゃないけど。
仮にツネの生まれ変わりが茉莉花さんだとして。
ツネの魂の生まれ変わりが茉莉花さんだとすると。
ツネは?
「えっと、仏教だと?」
「そう、仏教的には、幽霊って、存在できないはずなの。魂は、ずっと輪廻転生を繰り返すからね、あの理論だと」
「…理論」
「ええ、宗教は理論よ。で、私は、一般的に『幽霊』って思われているのって、魄だと思うの」
ツネは魄?
「魄って?」
「残留思念ね。観念に捕らわれているもので、魂とは別」
「観念?!」
驚く俺に、母は「そんなに驚く?」と言った。
「ほら、『もう貴方は死んでいるんですよ』って教えてあげると成仏する、とかって聞くじゃない?死んだ時の『観念』に捕らわれている存在、ってことね。『観念』を書き換えてあげれば成仏する、ってこと。だから、幽霊が存在するのではなくて、残留思念が存在していて、成仏しても、同じ場所に、違う、似たような霊が集まる、みたいな話も、そういうことなんだろうな、って。違う残留思念が、ザックリ同じ観念に捕らわれてしまう、と。共通点は『交通事故死』の観念を持つ残留思念、みたいな、ね」
「観念の書き換えが成仏に繋がる…」
「と、私は思ってるけど。だから、その御友達?には、まず、霊障なのかそうでないのか、という問題の切り分けを提案してあげると良いと思うわ。原因が有るか無いかは、さっきも言った通り、未知数だけれど。それで…。出来るはずもないけれど、霊障?を起こしている存在、残留思念の観念を書き換えて上げられれば、というところかしら。…最後は神頼みね。御祓いとかすると良いと思うわ」
観念の書き換え。
爆発的な、イメージ喚起力。
「有難う、母さん」
「…解決するとかしないとかって話じゃないから、御礼を言ってもらえるようなことが出来たとも思えないんだけど…。気が済んだなら、良かったわ」
Down,down,down.
落ちていく。
観念の穴に。
茉莉花さん。
若しかしたら、何か、糸口が見つかるかもしれない。
君に怖くない形で、観念を、書き換えられたなら。