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座敷童の恋  作者: 櫨山黎
第一章
6/93

学園祭:Womanizer Insects.

 紫苑学院(しおんがくいん)の近くまで来た。


 常緑(じょうりょく)学院と同じ沿線の一駅違いだけど、駅からが徒歩十五分だから、十五時くらいになっちゃった…。


 優将に電話をかけた。


 二回目のコールで、優将が出た。


「もしもし」


「紫苑高校まで来たよ。校門の前まで出てきて」


「わかった」


「すぐ出てきてよ?」


 電話を切ってから、紫苑高校に向かって歩き始めると、結構同じ方向に行く学生がいた。

 ジロジロ見られる。

 擦れ違った女子高生二人組にまで「あ、常緑(じょうりょく)ー」とか言われて、余計行きたくなくなってくる。


 見せ物じゃないんだよ!あの制服、東高(ひがしこう)か。あー、もー!面倒臭(めんどくさ)っ!


 …まぁ事実、この制服が珍しいんだよね。


 十年くらい前に、制服を目当てに入学して来る生徒を増やそうとして、伝統あるセーラー服から、この制服にしたらしいから。私立って経営難なのかなー、って思う。そこまで思い切った策を取れるのも、私立ならではだと思うけど。今日この制服で男子校に来たら、余計目立つってことは分かりきってたし。普通、土曜日に私服で行くもんだよね。


 あ、千円までは使っていいから、とか言えば良かった。


 何で、あの時に思い付かなかったんだろ。私も千円借りて交換すれば、代金を控えておかなくても良かったはずだし。あんな軽く、「持ってきて」じゃないってば。


 んー。でも、何か、嫌なんだよね、クレカの入った財布を落とされたら、とか思うと。親にも連絡しないといけないし、カードも止めないといけないし、とか思うと、モヤモヤする…。


 それに…ここまで来て今更、引き返せないか。電話もしちゃったもんね。


 失敗した、と思って、軽く落ち込みながら校門の前まで行くと、さっきの東高(ひがしこう)生二人組が、楽しげに誰かに話し掛けていた。


 逆ナン?頑張るなー。


 私は多分一生、そんな気力、出ないけど、放課後に逆ナン出来る体力と気力は純粋に尊敬する。


 数学の後とかって、一日分の気力使い果たさない?

 違う意味で、朝の電車の痴漢も凄いな、と思ってる。

 朝の低血圧状態の時に、多分一生、他人の体を触ろうと努力する気持ちに、自分は、なれないんだろうな、って。

 朝から何で、痴漢は、そう思えるのかなって。純粋に不思議。下着(したぎ)(どろ)も不思議。他人の使用済み下着なんか、多分一生欲しいと思わないし、自分のだったらサッサと洗いたい。


 あー、学祭が嫌過ぎて脱線した。

 とにかく、逆ナンは勇者だな、今日の私には特に。




 勇者二人に話し掛けられてるのは、…優将と慧だった。


 慣れない事態に、困ったようにオロオロしていた慧が、私を見付けて手を振った。


「あ、おーい!まりかー!」


 慧!声がデカい!


 校門の周りの通行人の視線が、私に降り注いだ。


 私は、出来るだけ明るく微笑んで、慧の呼び掛けに応じて、恨めしそうに、こちらを見ながら通り過ぎる東高生二人組と、なるべく目を合わさないようにした。


 …ごめん。『獲物』を横取りするつもりとかは、全然なかったんだけど。


 帰りたい…。


「あ、財布」


 優将の手には、私の財布が握られてる。

 お気に入りの、瑠珠(ルージュ)からの京都土産の赤い蝶々の根付けが見えた。


 …やっぱり、優将が持ってたのかー…。


 財布を交換しようとして、校門の方に近付き、ふと見ると、高校の前に、見物人の(ひと)(だか)りが出来てた。


「わ、常緑(じょうりょく)!」「マジだマジ!」とかいう声が聞こえる。


 何これー?!

 猿山?!

 もう、絶対帰る!帰る!


 財布を優将から受け取ろうとした瞬間、慧が、ぽわっと笑って、「ね、せっかく来たんだから、ちょっと見てかない?」と言った。


 何の冗談?!

 この(ひと)(だか)りが見えてないわけ?! 

 早く帰りたいんだってば!


 でも、私の焦る気持ちは全く慧には伝わらなかった。


 慧は、「ポテト食べる?」と言って、私に微笑みかけた。


 (ひと)(だか)りが見えてるとしても、原因が私だとは思ってないってことかな。


 …まぁ、慧らしいというか。

 鈍いというか。


 眩暈(めまい)がしそう。


 疲れて判断力が低下してきた私に、「おいでよー」と、もう一度慧が言うと、優将が(ひと)(だか)りの前に立った。


 何だか、少し静かになる。


 そして、優将は、私の右手を掴んで、(ひと)(だか)りの方に進んでった。


 人集(ひとだか)りがザザッ と後退した。


 優将が、私の手を離した。


 …気づいたら、私の体は、校門を通り抜けて、学校の敷地内に入ってた。


 …仕方ない。行く…。


「うん、見てく」


「そう?あ、そうだ」


 優将は、何かを思い付いたように、そう言った。


「何?」


「取り敢えず、こっちこっち」


 優将が進むと、(ひと)(だか)りがぱっくりと二つに割れた。


 モーゼか。


 私と慧は、その(あと)に続いた。

 私達がイスラエルの民でなくても…続くしかなかった。


 男子校の学園祭の会場入り口に、一人で取り残される方が(つら)いかも、という判断で。


「あ、タカラ。ちょうど良かった」


 (ひと)(だか)りの割れた先には、いかにも賢そうな男子生徒が、呆気に取られた顔で、こっちを見て立っていた。


 …そりゃそうでしょうねー。こりゃどうも、お恥ずかしい。何か今、自分の高校の偏差値すら恥ずかしい。普段は気にしないことにしてるけど。


「高良、これが、前言ってた幼なじみ。小松(こまつ)()()()


「…どうも、フルハタタカラです」


「…どうも」


 …『前言ってた』って(なに)


 近寄って見たその人は、意外にも、なかなか好みの人だった。


 顔だけなら慧より好みかも。


 このくらいの特典が無いと、今日という日が悲し過ぎるってもんかもね、と思ってたら、乾いた木材が崩れ落ちるような、大きな音がした。


 音のした方を見ると、私を見て固まってる、背の高い人がいた。


 うわ、格好良い。


 この人の方が、もっと好み。

 表情が気になるけど。


 ん?


 あれ?


 私、どこかで、初対面の人に、こういう反応されなかったっけ?






 水戸。水戸タカヒロ。水戸さんかぁ。


 校内の模擬の喫茶店で、慧達の友達に混ぜてもらって、適当に喋っていたら、別段校内を見て回るでもなく、学園祭が終わる時間になって、私達は、揃って校舎から出た。

 あんまり歩き回らなくて済んで、ちょっとホッとした。


 校舎を出てすぐの所にある、保護者会の出してる模擬店のテントが、早くに唐揚げが完売したと見えて、余所(よそ)より相当早く片付けを終わらせてた。

 まちまちの年齢のお母様方(かあさまがた)が、談笑しながら、エプロンや三角巾を外してる。


 傍を通りかかると、中の一人が、走って、こっちにきた。


「茉莉花ちゃん!来てたのね。」


 里歌さんだった。


「あら、ちょうど三人とも揃ってるのね。うちの車に乗って帰らない?」






「結構好評でね、唐揚げ」


 嬉しそうに、そう言いながら、赤い軽自動車のキーを回して、里歌さんは、私達に、車に乗るように促した。


 助手席に慧が乗って、後ろの席に、私と優将が座った。


「お母さん、食券、こっちにもくれたら良かったのに」


「身内に売るんじゃ、儲けた気がしないもの」


 同じ調子でものを言う親子に、思わず笑ってしまいそうになる。


「里歌さん、保護者会の模擬店に出てたんですね」


「そうなのよー。今日だけなんだけどね。だから、慧とゆーま君と、一緒に帰ろうか、って、朝話してたの。」


「へー」


 …あれ?そんなの、(ひと)(こと)も聞いてないんだけど。


 優将の方を見ると、鞄を抱き締めて、俯いていた。


 んんっ?


「あら、ゆーま君、寝ちゃった?」


「あ、ホントだー。今日、模擬店で、売る係頑張ってたもん」


「あらー。疲れたのねー」


 …狸寝入りのように見えるのは、私だけですか?


 いや、突っ込むな、私。

 この親子の間で、優将は眠ってることになっちゃったんだから。


「ね、茉莉花ちゃん。カッコイイ男の子いた?」


「え?」


「一緒にいた、眼鏡の男の子とか、ちょっと良いじゃない?」


「あ、タカラ?」


 慧が口を挟んできた。


「あら、タカラ君っていうの?」


「うん。フルハタタカラ」


「まぁー。茉莉花ちゃん、ああいうインテリっぽい子どぉーお?」


「え?そ、そうですねー…」


「お父さんの若い頃に、ちょっと似てるわー」


 私と慧は、声を揃えて、え?と言った。


 一生懸命考えてみたけど、眼鏡以外に共通項は無かった。


 …中澤さん、若い時は痩せてたんだ…?


「あ、でも、気に入った奴いたら、紹介するけど?」


 気を取り直したように、慧は、笑顔で、そう言った。


 紹介するけど、じゃなくて。


 そこは、私に来る男を防いでほしいところなんですが。

 鈍いなぁ。

 いや、今、勘付(かんづ)かれても困るけど。

 里歌さんがいない場所で気付いてほしいけど。


「…いや、別に…」


「そう?照れなくてもいいのにー」


 照れてない。マジで放っといて。


「あら、そういうのは遠慮しちゃダメよ、茉莉花ちゃん。せっかく可愛いのに。女子高なんて行ってたら、彼氏の一人も出来ないうちに、三年間が終わっちゃうなんて、ザラなんだから」


 …その高校を薦めたのは、里歌さんじゃないですか…。


 え、嘘。

 『女子高()()()』って言った?今。


 …勧められたから、第一志望にしたのに。

 そりゃ、塾無しで楽勝だったけど、もっと偏差値の高いところだって…。


 …いいや、今更。

 友達だっているし、別に学校、居心地悪くないし。


 それよりも里歌さん、助手席に座ってる息子さんに、『可愛い』って箇所を、もうちょっと強調してやっていただけませんかね?


「高良じゃなかったら、いっこ年上だけど、水戸っちとか格好良くない?」


「え?」


「あら、カッコイイの?見たかったわー」


 いやいや、確かに。


 その二人は、見た目だけだったら、慧より好みでした。


 ピンポイントで私の好みを言い当てる辺りは褒めてあげたい。


 でも、私、一応、慧が好きなんで。


 …もう、シャキっとしてよ!


 勝手に好きになっておいて、身勝手な発想ではあるけど、そんな複雑な気持ちに包まれながら、私は、後部座席で、尚も続く中澤親子の男薦め二重唱を聞いていた。


「ね、ご飯、食べていくでしょ?」


「あ、はい」


 ふと、優将の方を見ると、…起きて、窓の外を見てる。


 …やっぱり起きてんじゃん。




「じゃあ、御馳走様でした」


「はーい、またねー」


 美味しい肉じゃがだったなぁ。


 満腹感に、ちょっと嬉しい気持ちになって、私は、鼻歌を歌いながら、中澤家を後にした。


 中間服じゃ、夕方はまだ、流石に、ちょっと涼しいな。


「作り置きだけど」とかいって、冷蔵庫から出された、付け合せのひじきとか、金平(きんぴら)とかも、大満足。ホント、『良いお母さん』だよね、里歌さんって。

 和食派としては、大歓迎の献立だった。

 金平良いなぁ。明日蓮根買って作ろうかな。


 そんな、取り留めの無いことを考えながら家の前まで来ると、優将が、何かを投げてよこした。


「きゃっ?!」


 慌てて受け取ると、


 それは、私の財布だった。


 …忘れてた。これのお蔭で…。


「…優将ー!」


 優将は、悪戯が見付かった小さい子みたいに笑いながら、走って、自分の家の門の中に入って、閉めてしまった。


「おやすみ」


 あの、いつもは無表情の優将が、珍しく笑ってる。


「…おやすみ」


 優将が家に入るところまで見届けて、私も家に入った。






 相変わらず、真っ暗な部屋。


 照明用のリモコンで、リビングのルームライトを全灯にすると、人気(ひとけ)の無い空間の、家具の輪郭がパッと浮き上がった。


 マナーモードにしてた携帯の画面を見てみると、瑠珠(ルージュ)からのメッセージが入ってて、短く、日曜日の待ち合わせ場所のことが書いてあった。


 財布を開けてみる。中身が使われた形跡は無かった。


 そう言えば、私、使った分、返してない。…今度で良いかな。




 取り敢えず、お風呂に入ろう。


 いつものようにバスタブにお湯を張って、いつものように服を脱いで、いつものように体を洗った。


 お湯に浸かりながら、私は、今日の出来事を反芻(はんすう)してみた。


 今日って、なんだったんだろ?


 優将は、私の財布を、どうしたんだろ。


 優将は何も言わなかったけど、多分、自分の財布と摩り替えたんじゃないかな。

 そんな気がする。


 でも、何で?


 自分の黒い、御気に入りの黒い財布が、もしあったら、私は、多分、優将に頼まれても、あそこの学園祭には行かなかっただろうな。




 じゃあ、私に学園祭に来てほしかったってこと?




 私が行かなかったら、今日、優将は、どうなってた?


 多分、普通に学園祭が終わった後、里歌さんの車で、中澤親子の二重唱を聞きながら帰っていたはずだ。


 何か、それが嫌だった?


 …まさか、慧が、『お母さん』が来るから?寂しくて?それで、私に来てほしかったとか?


 …まさかね。小学生じゃあるまいし。


 でも、単に女の子を呼びたいんだったら、私じゃない(ほう)が、都合が良いよね、普通。

 適当に、付き合ってる女の子とか誘えば。


 でも、まさかね。


 第一、財布を本当に間違えて持っていったんだとしたら、それ自体、偶然以外の何ものでもないんだから。


 いや、でも、あの財布を間違ったりはしないよね、やっぱり。

 色も全然違うし。




 まとまらない考えのまま、私は、小学生の頃のことを思い出した。


 小学五年生くらいだったかな。


 もうその頃は、うちも優将の家も、ほとんど親が帰って来なくなってて、授業参観とか三者面談くらいには出てくるけど、遠足のお弁当はコンビニ弁当とかだったりしてて。

 義務教育を過ごした場所が、給食出る所で良かったな、ホント。


 見かねて里歌さんが三人分作ってくれたりしたこともあるけど、その時期から、中学卒業まで、行事とかで必要な優将のお弁当は、私が作っていた。




 明日は遠足だな、と思って、準備をしていた夜だった。




 もう、お弁当は自分で作る用意をしてたし、おやつなんかは、夕方、慧と優将と一緒に買いにいっといたから、リュックやらシートやらを、納戸(なんど)にしまっておいたのを出したりして、お風呂に入って、今日は早めに寝ようか、なんて思ってたところだった。


 突然、窓ガラスを叩く音がして。


 泥棒か、それとも勘違いか、と思ってビックリしてると、やっぱり、前庭の側のアルミサッシの方から、コツコツ、音がした。


 カーテンを開けると、仏頂面で、リュックを背負って俯いた、優将が立ってた。


 取り敢えず、優将を中に入れた。


 今でこそ背が高い優将も、当時は、ちょっとチビで、私よりも少し目線が低いくらいだった。


 半ズボンに、靴下。水筒に、リュック。完璧に明日の準備が出来た格好だった。


 どうしたのか聞いても、一言も喋らない。

 ただ俯いて、怒ったような顔をしてた。


 取り敢えず、居間のソファーに座らせて、リュックをおろさせた。


 私がリュックの中を探っても、優将は、やっぱり、黙って俯いたまんまだった。


 探ると、ガサガサと沢山入っているお菓子の中から、お弁当箱が出てきた。


 下手くそな結び目でハンカチが結ばれてて、結び目の隙間に、箸箱が挿してあった。


 振ってみる。カチャカチャと、箸箱の中の箸だけが、プラスチックのぶつかり合う音を出してて。


 (から)だった。


 私は、優将の方を見た。


 俯いたまま、膝の上で、握り(こぶし)を作って、じっとしてた。




 その時、「分かった」と思った。

 優将は、お弁当が欲しいんだ、って。




 もう、里歌さんに頼むのは、恥ずかしいと思うような年だった。だから私も、自分で作ることにしたんだし。


 でも、優将は多分それが出来なかった。


 作れるとか作れないとか、そういうことじゃなかった。料理なら、優将だって、全く出来ないわけじゃないし、コンビニ弁当って手段もある。


 優将は、『作ってほしい』んだ。多分、『お母さん』に。


 でも、『お母さん』は、作ってくれないんだ。


 それなら。


 私が作るしかない、と思った。

 それくらいしか、してあげられることも無かった。


 私は、優将のお弁当箱を持って立ち上がって、台所に行った。

 髪をゴムで(まと)めて、パジャマの上からエプロンをして、ついでに私のお弁当箱を出した。


 早起きして作るつもりだったけど、今作って冷蔵庫に入れておけば、朝慌てることもないだろうし。


 材料を出して、コンロでフライパンを温めてると、背後に人の気配を感じた。


 その気配は、私の背中に顔を(うず)めて、お腹の辺りに、手だけは私よりも少し大きい、短い腕を回して抱きついてきた。


 優将だった。


 優将の顔のある背中の辺りが、湿って熱くなるのを感じて、私は、お構いなしに作業を続けながらも、優将が泣いているのが分かってしまった。


 私がお弁当を作っている間中、優将は、そうしてた。


 私が歩けば、一緒に歩いた。


 とにかく、ずっと私にくっついたまま、優将は泣いてた。


 タコさんウィンナーにミートボール。型抜きおにぎりに、海苔を切って作った模様。解凍したミックスベジタブル。卵焼き。別容器に、皮を剥いて切ったオレンジと、大奮発した苺。苺は、ヘタは取らなかったけど、オレンジの横に、ラップで二個くらい包んで入れた。


 小学生の好きそうな物ばっかり詰め込んだ、今考えても、小五が作ったにしては、まぁまぁの出来のお弁当が、二つ出来上がった。


 優将が、私の背中から離れて、じっと、お弁当を見てたのを、よく覚えてる。


 口が半開きだった。


 私は、少しだけ優将の顔を自分の方に向かせて、切り分けて余ったオレンジを、優将の口にくわえさせた。


 優将は、それを食べた。

 咀嚼(そしゃく)しながら、涙をポロポロこぼした。


 そして、私のパジャマの(すそ)を掴んだ。


 蓋を閉めて、お弁当箱を冷蔵庫に入れた。

 今考えると、少しは冷ましてから蓋をした(ほう)が良かった。

 でも、そんなことを知ってるような年じゃなかったし、作り終わったら、それなりに遅い時間になってたから、もう寝ないといけなくて、知ってても、そういうことに気を遣う時間も、多分無かった。


 手を洗って、エプロンを取って、髪の毛のゴムを取っても、ずっと優将は、私のパジャマの(すそ)を掴んだままだった。


 電気を消して二階に上がって、私の部屋のベッドに、二人で入った。


 私の部屋の電気を消すと、優将は、声を殺した嗚咽(おえつ)をもらしながら、ベッドの壁側で丸まった。

 眠さが、悲しみの感情に拍車をかけていたのかもしれない。


 赤ちゃんみたいだな、と、その時は思った。


 その背中を軽く叩いて、布団を掛けた。


 嗚咽(おえつ)が寝息に変わる頃、私も眠りの世界に引き込まれていった。




 次の朝、目覚まし時計の音に、何事(なにごと)も無かったかのように起きて、顔を洗ったりして準備をして、優将と二人で朝ご飯を食べた。


 それから、私は、二人分のお弁当箱を冷蔵庫から出して、ハンカチで包んで、ビニール袋に入れてから、お弁当箱用の巾着に入れた。

 優将の巾着は、丁度、私のお父さん用のがあったから、それを使った。

 黒地に、青の裏地の巾着は、新しくはなかったけど、それなりに見栄えはした。


 巾着の紐を蝶々結びにして、既にリュックを背負(しょ)ってた優将に後ろを向かせて、リュックのチャックを開けて、底の方にお弁当箱が来るように入れて、きちんとチャックを閉めた。


 私の水筒と優将の水筒に麦茶を入れて、優将に水筒を渡して、優将にティッシュとお絞りを持たせて、二人で、私の家を出た。


 学校に向かう途中、慧に会った。


 いつものように、三人で学校まで歩いた。


 これでやっと、いつも通りだと思った。


 それっきり、私は、優将が泣いたのを見てない。


 あれからだったな。優将のお弁当を私が作るようになったのって。


 お父さんのお弁当箱用の巾着は、結果的に優将の物になっちゃったし、お弁当箱自体も、優将が沢山食べるようになったら、お父さんのを借りるようになっちゃった。


 でも、高校に入ってからは、さすがに作っていない。


 他に作ってくれる彼女くらいいるだろうし。

 今更そんなに手作り弁当に拘ったりもしないだろうし。


 でも、もし。


 有り得ないことだけど、例えば、あの時みたいに、泣いて、寂しいから学園祭に来てくれとか言われてたら。


 学校をサボってでも、行ってやってたんじゃないか、と思う。


 多分、そうされたら、私は、優将の言うことを聞くんだと思う。


 変な関係だな、とは、自分でも思うけど。






 結局、考えがまとまらないまま、お風呂から上がった。


 財布が、どうして入れ替わっていたのかは、追求しないでおこう。

 それが、きっと一番良い。

 優将が言い出すまで、お金も返さない方が良いのかな。


 取り敢えず、私は、携帯のメモ内容を確認して、茶封筒に、使った金額分だけ入れて、机の中の引き出しに仕舞い込んだ。





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