ベクトル:The dog's temper would remain.
ワン、と、キャン、の中間みたいな、スピッツみたいな高い鳴き声が、響き渡っている。
滅多に吠えない愛犬が、リビングをウロウロしながら、虚空に向かって吠え続けている。
俺は、さっきまで歴史さんを抱いていたと思ったのだが。
俺も茉莉花も、いつの間にか、床に座り込んでいて、動けない。
暫く、二人で、向かい合って見詰め合い、呆然としていたが、急に、茉莉花が、滂沱の涙を流し始めた。
「死んじゃった」
そう、そうなのだろう。
今、俺が知覚していたものを、この二人で共有したのだろう。
いま、俺達は、全文、翻訳した。
傍らに、小さい、着物姿の二人を見つけ、おれは、思わず、両手を伸ばした。
ああ、せっかく生まれたのに、また親に可愛がられなかったね。自慢の妹。十歳近く離れていたから、可愛がっていて、それはそれは懐いてくれていたのに。あんな、暗い場所で、一人で死なせてしまった、小さい異母妹。
賢い子だ、小さいのに、一人で二ヶ月も生きて、片割れを探していたのか。お前は頑張ったのに、俺は見つけてやれなくて。信州の秋の山の寒さは、大人だって耐えられなかったろう。嗚呼、皆、お前が寒い時、炬燵に入ってたんだよ。何の咎も無いのに火付けの罪を着せられた、賢い異母弟、お前の母親も、どうなったか、俺には分からない。
『いる』のに、『いない』ものとして扱われて、女の子、男の子、と呼ばれて。立派な名前があるのに、呼ばれず。
誰も家に入れてやらず、御供養に、と、像を作って、本人達に何の自覚も無いまま、勝手に祝言をあげさせて、『子ども』でなくしてしまった。
ああ、これは、やっぱり『発見されなかった子ども』の話なんだ。
男の子も女の子も、お互いが目に入っていない。近くにいるのに、目線が合わず、キョロキョロしている。
そうだったのか。
別々の場所で、死んだから。
お互いが死んだことも知らずに。
お互いが、お互いを、ずっと探しているのだ。
別々の『観念』の場所に、閉じ込められている。
『お互いがいない』という観念の場所で、ずっと、明治三十四年から、お互いを探して、彷徨っている。お互いが、『お互いのいる場所』という、ありもしない場所の観念を探して、彷徨っている。
全文、翻訳したが。
座敷童が消えない。
ただただ、動けもせず、涙だけが止まらない。どうしていいか、本当に分からない。
玄関からリビングに戻ってきた優将が、困惑しきった顔で、俺の顔を見た。
愛犬は虚空に向かって吠え狂っているし、俺も茉莉花も泣いているし、何が起きたのだ、と思われても仕方なかった。
「どういうこと?え、電話して戻ってきただけで、何があったん?」
そんな短い間だったのか。
優将は、吠え狂う愛犬に「ツネ」と声を掛けてから、ビクリと震えた。
見れば、振袖姿の女の子が、不思議そうに、優将の顔を見ている。
…若しかして、優将。見えてるのか?
どうしよう。
理由は何も分からないが。
優将が引っ張られることは分かる。
向こうに。
茉莉花が、「怖くて、もう解読できない」と言って、顔を覆った。
「ごめん、ごめん、高良。私、手伝うって、言ったのに」
「そんな、充分手伝ってもらったよ、ごめん、俺こそ。こんなことに巻き込んで、ごめん」
俺の言葉に、顔を上げないまま、茉莉花は首を振る。
着物姿の男の子が、ジッと茉莉花を見ている。
泣いている茉莉花に、優将が、苦しそうに、背を向けた。
慰めたい、と、背中に書いてある。
…『一緒にいる』って何だろう。
何で慰めたら駄目なんだ?せっかく、触れられる場所にいるのに。触れ合って、存在を確かめ合える、同じ『観念』の場所にいるのに。せっかく、会えたのに。泣いている人間を抱き締めて、慰めるのは、いけないことで。血縁でも何でもないなら、年頃になったら、離れなくちゃいけないのか?
他人の彼女だからか?泣いている人間がいて、それを慰めたいと思っていて。…好きで、大事にしたい人間を、好きになっちゃいけないのは、どうしてなんだ?
そうだ、俺だって、『茉莉花を好きでいてもいい』。そして。
俺は、立ち上がって、優将を、背中側から抱き締めた。
嫌だよ。また、何にも出来ないで、見失って、向こうにやってしまうのか、俺は。
優将が、硬直したのが分かった。
「有難う、優将。全文、翻訳できたよ、御蔭で」
そして、多分、巻き込んだんだ。本当に、ごめん。賢いお前を。
優が、俺に、後ろから抱き締められたまま、首を俺の方に向かせて、言った。
「今?!あと、まだ、共同作業始めて、三日くらいじゃ?…そんで、二人共、なんで泣いてんの?…何が、どうなってんの?」
茉莉花が泣きながら、「駄目だ」と言った。
「私、駄目だ。手伝うって言ったのに。凄い頭、悪い。中途半端に手を出して、何も出来なくて。一人で、怖い思い、させちゃう。役に立てない」
あ。
『…誰かの役に立たなくても、その場所にいていい、っていうのが、分からないんだと思う。何かの役に立ってないと、自分のこと、必要とされてる、って、思えないのかも』
「違うよ、俺は、何かしてほしかったわけじゃない。困ってるって気付いてくれて、一緒に、何かしようとしてくれただけで、嬉しかったし、俺は」
俺は、君の存在に『甘え』させてもらえたよ。
俺は、優将から離れて、茉莉花の傍に行って、座った。
「…俺は、君がいてくれて良かった」
茉莉花が、涙で濡れた顔を上げた。
好きだよ。
いつだったか、君は、若しかしたら、俺の大事な妹だったのかもしれないけど。
俺の、大事な存在だったのかもしれないけど。
そんなことは検証の仕様も無いし。
そんなのは関係なくて、俺は、君が好きだよ。
君が、俺のこと、どう思ってても、関係無く、俺は君のこと、凄いと思ってる。
君は、別に、完璧で強くて、何でも出来るってわけじゃないのに、大して得も無いのに、俺を助けようとしてくれたんだ。
困ってるって、気づいてくれたんだ。
「でも、俺の問題なのに、『怖い』ことも一緒に引き受けさせてしまった。それはやっぱり、良いことじゃないかも」
多分、君が前にどんな死に方をしたかが書いてある本を、翻訳させてしまった。そんなつもりはなかったけど。怖くて当然だ、そんなの。
「ね、茉莉花さん」
多分、今、生まれて初めて、女の子の名前を、ちゃんと呼んだ。
「この前の、茄子の味噌炒めも、キャロットラペも、美味しかったよ。有難う。俺、茉莉花さんが、駄目で、頭が悪いとか思ったことないよ。そんなことを思わせる為に、手伝ってもらった訳でも無いし」
そうだ。俺は、この子が『好き』だ。認めよう。
でも、良いんだ。『好き』の形には、もう拘らない。君のこと、好きでいいんだ。俺は、俺の考えた形で、君を『好き』でいる。完璧な人間も、完璧な人間関係も存在しないんだから、完璧な『好き』の形に、拘る必要はないんだ。完璧で正しいことより、グレーでも、君を助けたいし、楽になってほしい。
君の全てを引き受けられないけど。
俺には、やりたいことがあって、全部の台風の夜を、きっと、一緒に過ごせないけど。全部の誕生日を、クリスマスを、一緒にいられる保証は無いけど。
人生の『一番』を君にすることが、きっと、出来なくて。
『恋愛より楽しいことがある人間』だけど。
別に、君に『好き』になってもらえるわけでもないけど。
だからって、君が大事だと思う気持ちを、君に優しく接したい、という気持ちを、ゼロにも百にもしなくて、良いんだ、って。
「茉莉花さん。改めて、ちゃんと友達になろう。俺は一生、君の悪口を言わない。それだけは約束する。君が自分のこと、褒めてあげられないなら、俺は、一生、君を悪く言わない。俺は、一生、君を駄目だと思わない。そういう存在が一人くらい、いてもいいだろ?俺が他人に対して誠実になれる、ギリギリのラインは、ここだ。俺は、自分のことにばっかり時間を使いたいし、そういう時に、他人の気持ちを考えられるか分からない人間だ。でも、俺は一生、君を悪く言わない。俺が担保できる誠実さの最上級だ、これが。頼まれたら結婚式のスピーチだって、君の子どもの出産祝いだって贈る。君が俺を友達だと思ってくれている限り、一生友達だ。それは裏切らない」
そうだね、『同じ』人間なんかいないんだから、君と俺が『同じ』にはなりえないことは、本当は分かってる。でも、置換可能だったら、君が苦しいことを、少しだけでも引き受けたい。
「ベクトルのこと、ああいう風に考える人がいて、凄いんだなって思った。あと、俺が困ってるのに気づいてくれた。そして、得意なことじゃないのに、助けようとしてくれた。俺は君を凄いと思ってるし、感謝してる。有難う、茉莉花さん」
本気で言ってる『有難う』だって、君は、分かってくれるよね。
この子の辛さを、問題を、少しだけでも引き受けられますように。
そして、この子の問題を引き受けたら、自分から、その問題を切り離そう。この場合、感情は雑音だ。
やりたいことは、何だ?
『この子の気持ちを、少しでも軽くしたい』
それなら、やりたいことを達成するための答えは何だ?
『俺は絶対に、君を裏切らない』
俺は、君の全部を、引き受けられないけど。
全部引き受けられないからって、全然助けないのは違うって思った。
君が、自分が助けられないことでも、俺を助けようとしてくれたみたいに。
「ねぇ、茉莉花さん、これはね、民俗が横軸で、宗教が縦軸の話なんだ。もう、忘れ去られて、人はそれを『見ない』けど、確かに、あったことなんだよ。俺は、もう大丈夫。これは、『怖い』ことであるのと同時に、『解き明かしたい謎』になったから」
そう、結局、翻訳しても、霊障としての座敷童も消えなかった。
そして、どうやら、霊障に、他人を巻き込んだ。
それを、どうして良いのかは分からないが、行動は起こさなければならない。
そして、霊障は解決しなかったが、『やりたいこと』は、残っている。
おい。『出るはずのない文化財』。
垂直に掛けられた蔵の梁の上から、『俺』の『妹』の上に、落ちてきやがったんだってな。
そこで待ってろ。もう一度、梁から降ろして、白日の下に晒してやる。
ここからは大丈夫、置換しよう、スイッチングだ。
大丈夫、俺達は置換可能だ、茉莉花さん。ここからは、俺だけでやる。君は頑張らなくていい。
気づけば、着物姿の二人は消えていて、歴史さんも吠えなくなっていた。
優将が、黙って、また、俺を引き戻してくれたらしい愛犬を抱き上げた。
俺は、茉莉花の傍らに座ったまま、続けた。
「茉莉花さんの御蔭だ。あと、一緒に解読出来たり、御飯食べたりして、俺は楽しかったよ。うちの父親が言ってたんだ、そういうのを一緒にやったら、後からでも一緒に遊べるくらい、仲良くなれるかも、って。一生の友達になろう」
「…有難う。私も楽しかった。友達になってくれて…私の『御蔭』とか、そういう風に言ってくれて、有難う。なる、一生、友達に」
茉莉花は、そう言って、涙を拭った。
「優将は、もう、友達だよな?」
俺も、涙を拭ってから立ち上がり、優将の方を見て、微笑んだ。
困ったような、泣きそうな顔をして、俺達二人を見ていた優将は、俺に背を向けて、言った。
「…ん。でも俺、お前の悪口、言うからな。そんな、…優しくないし、俺」
「そうかな、悪口言われたの、全然覚えてないな」
「…やっぱ、変、高良って。俺の話、聞くし。俺よりムズカシーこととか、変なこと、言うし。…俺の言うことに、操作…左右されないし。…全然左右されねーよな。『烏滸がましい』とか『美形度の近似値』とか平気で言うし。変な単位作って…変な本の翻訳に没頭して」
「そうだよ、俺って、そうなんだ」
あ、…分かった。だから『友達』になろうとしてくれたんだな。
『思いつく中で、一番頭が良さそうな奴に聞いてみた』
全部は、最初から、あの言葉の中にあったんだ。『分かって』もらえるかも、って思ったから、俺を選んで、ベクトルの話なんか、してくれたんだよな。考えてみると、十字架と垂直ベクトルの話だって。
一緒に話が出来て、一緒にいても、操作しなくて済む人間を、探してくれていたんだね。
「台風が怖いから一緒にいよう。ね、夕飯、食べよう、皆で。冷蔵庫に入れた煮浸しも、そろそろ冷えてるし」
俺が、「ね、優将」と言うと、優将は、歴史さんを抱いたまま、こちらを向いた。
「俺、他人の意見に、ビックリするくらい左右されないみたいなんだ。他人の作る状況には振り回されても、結局自分のやりたいことが大事で、そういうののためだったら、他が、そっちのけに出来ちゃって、ブレられないみたいなんだ」
『皆俺から逃げてほしいな』
「俺のことは遠ざけなくて良いだろ?」
優将は、返事をしない。
「優しくなくてもいいんだ。『完璧な友達』なんて、別に要らない。俺は、優将って、寂しがり屋で優しいんだって、思うことにしたから」
「…お前に、何の得があんの?俺といて」
「人間は、自分がしたいことしかできないはず、って、言ってたじゃん」
お前と一緒にいたいんだよ、って言う前に、優将が、目を見開いた。
ああ、交わった。垂直に。何を考えているか分からない、UMAだった存在と。俺達は、全然、違う存在のはずなのに。
「『分かってくれるかも』と思って、俺を選んで、信用して、「ムズカシー」話をしてくれたんだな?俺は、それを、友達になろうとしてくれたんだって、解釈する」
育児放棄の話も、大事な『おんちゃん』と一緒に話をさせてくれたことも、他の話も、きっと、『分かってくれるかも』って、信用して、話してくれたんだね。
「あの本を一緒に読んでくれようとした二人は、一生『友達』だよ」
腹立つけど、それは、父さんの言ってた通りになった。
「俺は一生、優将の話を、難しいって言わない。ちゃんと聞く。分からなかったら、分からないから説明して、って言う。それでも分からなかったら」
「分からなかったら?」
「一回忘れて、散歩して、何か、一緒に食べよ?そういう友達だっていいじゃん。友達とは、こうでなきゃ、みたいな方向性、無いだろ?」
完全に理解できなくたって、友達でいて、いいじゃん。
茉莉花が、ヨロヨロと立ち上がって、言った。
「高良って、本当に、私に何も、こうしてほしい、って、押し付けないね。…だから、助けてあげたい、って、思ったのかな」
「そんなことないよ」
「え?」
「献立に困ったら、心の中で、『茉莉花さん助けてー』って、思う。そしたら、あー、茉莉花さんは、茄子の味噌炒め作ってたな、挽肉か夏野菜で、何か作ろうかな、とか、あー、レーズンって、ああやって使うのか、とか、アボカドって美味しいよな、とか、思うから。俺は、そうやって、頭の中の茉莉花さんに、一生助けてもらうんだ。『助けてー』って思って、頼ってるよ」
「…そう…なんだ」
「そうだよ。茉莉花さんは、料理が得意で、フルーツも、ちゃんと盛り付けて、出してくれる人なんだ。献立って、毎日のことだから、俺は、一生、友達の茉莉花さんに、助けてもらうんだ」
だから絶対、駄目じゃない、君は。伝わるかは、分からないけど、君は、駄目じゃない。
「ね、俺達、ずっと友達だよね?」
「うん。…有難う、高良」
泣かないでほしいな、って思うけど、何も出来ない。
だから、言う。
「今度、また、カレーでも食べよ?次は作ってよ」
じゃがいもと牛肉が、ゴロゴロしてて、半熟卵がのってるって、聞いたよ。何にも出来ないけど、俺は、それを食べたら「美味しい」って、言う。そして、君のこと、褒めるから。ちょっとでも、自分のこと、駄目じゃないって思ってほしい。
泣いてるけど、笑って、「うん」って言ってくれたから、良かったな、と思った。
好きだよ。
一生、君を悪く言わない。
俺の出せるだけの誠実さを込めて、それだけは、約束する。
大好きな、友達。