ツネと冊緒:My precious Jasmine! My imperial Cheshire cat!
雨合羽が大嫌いな歴史さんなのだが、優将が、黄色い雨合羽姿を褒めちぎると、凄く得意そうに、雨の中、一緒にスーパーに行ってくれた。
俺の黒い傘と、優将が絆の家の経営するコンビニで買ったビニール傘が、風に煽られて、ババババ、と、変な音を立てた。
トイレを済ませた歴史さんが、途中、嫌そうに立ち止まってしまったので、俺は、傘を諦めて、黄色い雨合羽姿の歴史さんを抱いた。
優将が、自分の透明の傘を差しかけてくれた。
傘が意味が無いくらい濡れたが、一つの傘で、二人で、ずっと笑って、店まで歩いた。
眼鏡だったら、濡れて、見え難かったかもしれないから、使い捨てのコンタクトレンズを買って良かったと思った。
スーパーの外で歴史さんと待っていると、優将が、本当にカシェのチョコレートを買ってきた。
二枚しか置いてなかったのに、「買い占めた」と言って、笑う優将の顔が、本当に、小さい子みたいで、何か、笑えた。
優将に、歴史さんと家に入ってもらい、黒い傘を差して、庭の、歴史さん専用のゴミ箱に、糞の入った袋を捨て、待ち合わせをしていた、最寄り駅の北口に行向かった。
そこに、透明のビニール傘を差しているというのに、哀れなくらいびしょ濡れの、待ち合わせ相手を見つけた。
「高良」
いろんな感情が胸に去来したが、「行こうか」とだけ言って、俺は、何とか微笑んだ。
「…優将から、聞いたんだ。台風で、親御さんが帰って来られないって。一人でいるくらいだったら、翻訳作業、手伝ってくれたらいいなと思って」
嘘だった。でも、『一人でいるくらいだったら』って思ったのだけは、本当だった。
ごめん、本当は知ってる。
台風じゃなくても、親御さんが帰って来ないことも、君が、台風の風の音が嫌いなことも。全部知ってて、知らない振りをしてる。
…君のお父さんが、他人に何をして、何をされたのか、知ってる。
さっきまで君の彼氏と一緒だったし、彼氏に、君を俺の家に泊めることも、言ってない。
「一駅だけど、まだJR、止まらなくて、良かった。うちの親も、帰って来られるかなー。…レインコート、持ってなかったんだね。雨の中、来させて、ごめん」
茉莉花は、ギュッと目を閉じると、ぶんぶん、首を振った。
濡れた髪が、頬に、少し貼り付いていた。白いカットソーに、珍しく、ネイビーのチュール地の、ロングスカートと、あの、白いサンダルを履いていた。
何故か、長いこと会っていなかったような気分になって、胸が苦しいような気がした。
「来てくれて良かった」
暴風の中、「俺、台風が怖いんだ」と、嘘を言うと、相手が泣いたので、困った。取り敢えず行こうか、と、掛ける、俺の声が、風に混ざっていく。
「有難う、高良。…うん、私も、台風、怖い」
自分も泣きそうになりながら、「そっか」と言って、自分の頭より低い位置にある傘の隣を歩いた。
「風が、窓から迫ってくる感じがするんだ」
俺が、「台風の時?」と言うと、茉莉花は「うん」と言った。相手は透明の傘だから、俺の位置からでも泣き顔が見えて、何だか、苦しい。
「窓の隙間で、ピーッて、台風の風が、音を立てるのを、一人で聞いてると。…『お前のことなんか誰も好きじゃない』って、誰かに言われてる気になるんだ」
「え?」
「こんなに外が怖いのに、お前が一人にされるのは、こんなに部屋が暗いのに、一人にされるのは、お前が、皆から嫌われてるからなんだ、って、言われてる気になるんだ。…そしたら、部屋の電気、点けられなくなるんだ」
「何で…?」
「こんなに部屋が暗いのに、一人にされるのは、何か、悪いことをしたのかもしれないって、思っちゃって。じゃあ、ずっと、暗い場所にいて、怖い音を聞いて、じっとしてた方が良いのかもしれないって思っちゃって。…いっつも、優将が、電気、点けてくれてたんだけどね。停電の時も…何か、懐中電灯とか…」
涙声が、「雷の方が好き」と言うのを、聞いた。
「暗いより、好き」
自分も泣かないようにしながら、「そっか」と言うしかない、俺の目に、相手が、凄く小さい子のように映った。
「わ、JR止まった」
俺より先にシャワーを浴びて、昨日のとは別の、青い甚平に着替えた優将が、ニュースを見ながら、嫌そうに言った。
優将の携帯は、俺が無理矢理、リビングで充電させている。幸い、父親の充電器と型が合ったのだ。
シャワーの前にコンタクトレンズを外した俺は、眼鏡を掛け直し、風呂上がりの髪をタオルで拭きながら、携帯を確認した。
「うちの親からも帰らないって連絡来たわ…。お友達と一緒だから大丈夫でしょ、だって」
「…女子泊めるって、言った?」
「親が帰って来られない友達二人、としか伝えてないから、昨日と面子が同じだと思ってる可能性あるな…。いや、もう、しゃーない。非常時だから。電車が止まるような天候なのに、今更帰せないだろ」
父親も、午前休だった母親も、通勤したのだが、想定より、台風の進路が早かったのである。
台風だけど仕事は行く日本人の気質って、こういう時、ホント、良くないよなって思う。
塾に行った奴等は、どうしたかな。
昼まで、雨も降ってなかったから、油断したってのはあるよな。
両親は、職場で足止めになる前にサッサと個別にビジネスホテルを取って、一泊の構えだそうだ。決定したのは母である。
…今、雨に濡れて家に来た女子に風呂場を貸してると知れたら、目玉が飛び出るかもしれんな。
「かーちゃん、判断早ない?ビジホ取ったん?タクシーで帰るとかは?」
「あー、母親は、仕事先のキャンパスがさ、駅ビルに入ってんだ。凄い近いんだよ、ホテルが。逆に、帰宅困難時って、ホテルもタクシーも、早い者勝ちだから。帰るのに苦労するくらいなら、ビジネスホテルで優雅に一泊する気なんだよ。俺も、もう高校生だし、偶にあるんだ、こういうこと」
「えー…合理ぃ。やらんかもだけど、ゲームとかさせたら、効率厨になりそ」
「うん、我が親ながら感心する…。隙も可愛げもないくらいの合理主義だから…」
怒られそうだから言わないけど、『可愛げがない』とか。
「ツネ、今日はリビングな」
優将が、皆より先にお風呂に入ってピカピカになった歴史さんを抱き上げながら、微笑んで、そう言った。歴史さんは、大人しく抱かれている。
「そう。夜はお客さんと一緒にいてもらおう。女子はリビング、優将は俺の部屋」
「そっか、ツネ、女の子だったな」
「よし、優将が、歴史さんを見ててくれるなら、夕飯作るか。停電になる前に」
「…マジで和食、作ってくれるん?」
「茄子と鶏肉の甘酢煮と、味噌汁と、オクラの煮浸し。昨日、手羽元が安くて、一キロ買っちゃったよ。朝は、停電にならなくて、冷蔵庫の中の食材が無事だったら、柳葉魚な」
「旨そうだけども…。何で、クラスメイトに、昨日の昼から、ズーッと、飯作ってもらってんだろ。朝もエミちゃんが作ってくれたしな…。冗談抜きで、意味分からんくなってきた…」
大丈夫、俺にも分かってないから。
優将は、歴史さんを抱いて、歩いて、優しく揺らしながら、「上手くいかんな」と言った。
「離れようとしてるのに…」
そうなんだよな。
この、高知能の人間が、いろいろ画策してるのに、何故か、茉莉花さんと離れることは、成功してないんだよなぁ。台風まで来ちゃって…。
夕飯の支度をしていると、湯上りで、髪を乾かし終えた茉莉花が、白い、着てきたものとは別のカットソーとジーンズ姿で、リビングに来た。
「有難う、高良。あ、眼鏡に戻ってる。何か手伝う?」
「ああ、これは、夕飯の分なんだ。あと二十分弱火で煮ておけば、出来上がるから。こっちは、十八時くらいに食べようか、停電になっても嫌だし。お昼、食べた?」
「うん、食べた。え?高良、食べてないの?もう、おやつみたいな時間だけど」
「朝が多めだったところに、雨が降っちゃって、バタバタしてさ。あー、おやつ食べちゃうか、優将」
「え?優将も食べてないの?」
優将は、歴史さんを抱いて、歩いて、優しく揺らしながら、こちらを見ずに、「んー」と言った。
俺が、「コーヒー飲む?優将」と聞くと、また、そのまま、「んー」と言った。
…茉莉花さんの顔、見ようともしない。
「茉莉花が台風の日に一人だ」って、死にそうな顔してた癖に。
「あ、じゃあ…コーヒー、淹れてくれる?そこに、道具、揃ってるから。俺、オクラ茹でた時の笊とか、洗っちゃう」
茉莉花は、微笑んで「分かった」と言った。
俺が「実はコンビニで、シナモン買ったんだ」と言うと、優将が、目を見開いて、こっちを見たので、思わず、ニヤッと笑ってしまった。
そう、お前がビニ傘買ってる時にね。絆んちのコンビニは、謎の品揃えなんだよ。
…いやー、チャツネ、まだあったよ、棚に。
どういう客層向けの商品なんだろうな…?
俺が、甘酢煮の鍋の火を止める頃、コーヒーも入った。
俺は、藍色のマグカップを三つ出した。
「あ、優将、郵便物、台風で濡れそうだったから、朝、ポストの奥に押し込んどいたよ」
コーヒーをカップに注いでくれながら、茉莉花が、穏やかに、そう言った。優将が、また、振り返りもせず「んー」と言った。
あ、自然。
やっぱり、この組み合わせが自然だな、って、俺も、思ってしまっていて。
…この二人が、離れなきゃなんない理由の方が、分かんなくて。
黙って、冷蔵庫から、牛乳を出した。
蜂蜜入りのホットミルクにするかと言ったら、茉莉花は喜んで、自分で作ると言った。俺は、更に、藍色のカップを、三つ出した。
「私、三人分作るね」
その声は、明るくて。
一人で、暗い場所で、風の音に責められている気分で置いておくんだったら、全部のことを脇に置いておいて、これでいいんだ、と思えた。
現実の辛いことは、何も解決してないけど。
白い無地の琺瑯の鍋が、少し重いけど可愛いね、とか、焦げやすいから気を付けてね、とか、こういう、つまんない話で構わないから。
誰も自分のことを好きじゃない、って気持ちになってほしくなくて、このまま、ずっと話していたい、と思った。
乾燥モードに設定した食洗器に、食器類を入れながら、俺は、「何食べようか」と言った。
「あ、チョコレート食べる?優将のカードで買ったものだから遠慮は要らないよ」
俺の言葉に、また優将が、目を見開いて、こっちを見た。
微笑み掛けると、優将は、そっぽを向いて「喰えば」と言った。
優将が優しく抱いている歴史さんは、うとうとしていて、優将が、どんなに素っ気無い言い方をしても、全然、効果が無くて、俺は、クスクス笑った。
「降ろしなよ。おやつ、食べらんないじゃん、優将」
「…いーの」
俺が、食洗器のスイッチを入れて、手を拭いてから、「ほら」と言って、歴史さんを抱き取ると、優将は、少し膨れた。
その顔が可笑しかったから、また微笑んだ。
「コーヒーもホットミルクもあんの。水っ腹になりそ」
…こらこらこら。思っても無いこと言うなよ。悲しい顔してるじゃないか、幼なじみが。
茉莉花が、少し赤くなりながら、「チョコレートには合うもん」と言うと、優将は無表情で、「あっそ」と言って、ダイニングテーブルの席に着いた。
茉莉花が、優将の前に、ホットのブラックコーヒーと、ホットミルクを置いた。
優将のコーヒーにだけ、シナモンが入っているのを見て。
何故か一瞬、胸が痛かった。
抱いている歴史さんが、規則的な呼吸を出し始めたので、背中を撫でた。
暖かいな、と思った。
「えー。…胡椒?なの?」
茉莉花が、優将の正面の椅子に座って、チョコレートを一欠けら食べながら、不思議な顔をした。
「美味しいけど、初めての味。…へー、これ、チョコなんだ」
白い頬が、ほんのり紅潮していく。
フルーツを、優将の家の冷蔵庫で見つけた時と同じ顔してるから、美味しい時の顔なんだ、って、今なら分かる。
買って良かったね、と、心の中で呟いていると、優将が、俺の口の中に、チョコレートを一欠けら、突っ込んできた。
「…ちょっと、優将さん」
「ツネ降ろさないと、おやつ、食べらんないんだろ」
優将が、そう言って、ニヤッと笑った。その顔を見て、茉莉花が、驚いた様子で「仲良いんだね」と言った。優将は無表情に戻って「いーから喰え」と言った。
「旨いだろ、高良」
「…んー」
甘いけど、ちょっと、ほろ苦くて、ちょっとだけピリッとしてて。噛むと、胡椒の粒がザラっと潰れて、フワッと、胡椒とレモンの香りがして。
自分は一生、この味を忘れないんだろうな、と、直感した。
「あ、旨いけど。モリモリ食べる感じの味じゃないな。高級感があって。うん、美味い。コーヒー、合うよ、ありがと」
歴史さんを抱いたまま、片手でコーヒーを飲んで、礼を言うと、茉莉花は、ほんのり染まった頬のまま、微笑んだ。
出された物を全て飲み終えた優将は、無表情で、「電話してくる」と言って椅子から立ち上がり、充電が出来てきたらしい携帯電話を、充電器から取ると、リビングから出て、玄関の方に向かった。
茉莉花が目を見開いて、「玲那かも」と、小声で言った。
俺は「そうだね」と言うしかなかった。玄関から、低い声が、ボソボソと聞こえた。歴史さんは、起きない。
テレビのニュースは、不安な台風情報を垂れ流し続けて、窓からは風の音がして。…やっぱり、問題は、何一つ、解決してないんだ、ってことを、再認識させられる。
「翻訳、有難う。進んだね。昨日の分は確認できてないんだけど、凄く助かってる。若しかして、担当部分の前半は、ほぼ終わってる?」
結局、歴史さんを抱いて立ったまま、コーヒーもホットミルクも飲み終えた俺が、カップをダイニングテーブルに置き、抱いている歴史さんを優しく揺らしながら、そう言うと、茉莉花は、顔を曇らせた。
「…変なの」
「え?」
「何か…読める、って言うか。読め、ちゃう?…変なの」
茉莉花が、少し震えているのが、分かった。
「何か…分かっちゃう」
「古典…得意なんだっけ」
「いや、でも、何か。変、なの。隙間時間に、ずっと読んじゃって」
「…そう、なの?」
「あ、ほら。それこそ、この子の名前で思い出したけど。ツネっていう女の子と、冊緒っていう男の子がいて」
「え?…男の子と女の子、名前、出てきたの?」
その名前。
動悸が激しくなる。
「…何か、感情が流れ込んでくる、って言うか」
「大丈夫?…震えてるよ?」
茉莉花が、両手で顔を覆った。
俺は、思わず、左手で歴史さんを抱いたまま、右手で、その、華奢な肩に触れた。
目の前に広がるのは、緑の豊かな場所だった。
黒っぽい着物に、襷掛け姿の野良着の男性が、こっちに微笑み掛けてくれた。
燃えるような赤い夕暮れだった。
会ったことがある、その人は、「淳緒さん」と、声を掛けてくれた。
俺が「甲蔵さん」と呼び掛けると、相手は、もう一度、微笑み返してくれた。