台風:Lemon and Pepper.
時間を潰すと言っても、どの店も大体、眼科と同じくらいの時間からに開くから、居場所がないんだよな。
モーニングやってる店に入ろうにも、腹いっぱいで。
結局俺は、優将と、駅ビルの中を歩き回って、Émileを待つことにした。
時々買い物する駅ビルの地下の食品店も、開店前の品出しの真っ最中で、ああ、朝なんだなぁ、と思った。
知ってる場所の、普段見てない時間帯の顔を見て、これも非日常だな、と思う。
そもそも友達と眼科に行く、っていうのがレアケース過ぎるからな。
「あ、カシェ入ってる。おー、食べたかったやつだ」
優将が、店の前で首を伸ばして、菓子コーナーの方を見た。
目が良いなぁ、羨ましい。
「美味いよね、あれ」
ベルギーのオーガニックチョコの会社が出している商品なのだが、外装の高級感の割に安価で、偶に、うちの母親が買ってくるのだ。
いつだったか、母親の客が、タンザニアで学校プロジェクトとかして、カカオ生産国に貢献してるチョコレート会社なんだって言ってたな。
偶然にもCachet、フランス語なんですが、良品の名に恥じない振舞いですね。
ただ、パッケージ裏の片仮名表記が『カシェット』になってるのが、個人的に、凄い気になる。英語読みなのだ。ネットで検索しても、『カシェット』では出てこない。間違いなのではなく、ベルギーから日本に輸入する際に経由する販売元が英語圏の会社なのだと思うのだが、それなら『カシェット』でも検索出来てもいいのではないか、と思う次第である。
それにしても、うちの両親って、チョコレートの買い方も真逆なんだよな。大量に喰いたい父親と、少しだけ食べたい母親。
どこまでも対照的。
優将は、「やった」と言った。
「近所に売ってないから、偶にネットで買うんだけど。ここに来れば買えるんか、良いこと知った」
「え、うちの近所のスーパー、普通に売ってるよ。そんな好きだったんだ」
「いいなー、マジか。売ってても、俺が食べたい、レモンアンドペッパー味は置いてなかったりするから」
「あるある。売ってるよ、レモンアンドペッパー味。うちの近所に」
アメリカのスーパーマーケットチェーンの傘下だからか、海外の菓子が強いんだよな、あのスーパー。おー、意外。ネットで買うほど好き?優将、フルーツ、そんなに好きじゃないって聞いたような。
「え、優将、レモン味、好き?」
「レモンっつーか、ペッパー入りチョコって珍しくない?そんな、沢山食べたいわけじゃないんだけど、偶に、無性に食べたくなる。スパイシーなダークチョコに、レモンの香りが乗ってて、中に入ってるペッパーの粒とは、風味が合ってる気がする」
「言われてみれば確かに、ペッパー、珍しいかも。レモンアンドペッパー味買ったことなかったけど、今度買ってみるわ。オレンジとチョコレート、みたいな、柑橘系とチョコレートの組み合わせって、別に嫌いじゃないんだけど、そんなにピンと来なくて、試したこと無かったんだよな。でも、そう聞くと爽やかそう」
「んー、あれは癖になると思う。ペッパー平気だったら、だけど」
ふと、会話が途切れた。
何とはなしに、やることもないし、やっぱり眼科に向かって、並んでおこうか、ということになった。
Émileに、眼科に向かうというメッセージを入れて、エスカレーターで駅ビルの中の眼科に移動しながら、俺は、母親から昨日聞いた話をした。
優将は、青い顔をして、でも、黙って、全部聞いてくれた。
「…じゃあ、俺が幼稚園の時見たのは。あの女のかーちゃんか?」
「知ってる話を総合すると、…そうなるな」
手紙には、苧干原弥朝が小松瑞穂と心中しようとした、とは書かれていなかったが。
「あー…昨夜聞いたら、眠れんくなってたかも。朝も喰えんかったと思うわ。今聞いて正解」
「こんなこと…。他の人には言えないよな」
優将は「言わんでいい、言わんでいい」と言った。
「忘れさせといてやりたいのに、わざわざ、言うことない、茉莉花にも、あの女にも。知っても、良いこと、何にもない。そんな…クラスメイトの親同士が、刃傷沙汰なんて」
「うん…。でも、聞いてくれるんだよな。優将は」
知っても、良いこと、何にもないのに。
「俺からの提案だったからな、小松瑞月のことを聞いてみろ、ってのは。…一人で抱え込まんでもいい、あんな…。夜、知って、一人で泣く必要もない」
「…ありがと」
優しいと思うんだけどな。俺、良い人ぶらない優将の方が、『自分を良い奴だと思ってる奴』より、良いと思うんだけど。
眼科の前に着いた。もう、列が出来ていて、やっぱりな、と思った。
並んでいると手持ち無沙汰になったので、俺は、お節介を言う気になった。
「あのさ、優将」
「んー?」
「お節介だけど」
「…その切り込み方、絶対、良い話が続かないやつじゃん」
言えてる。
「あのさ、他人を鎮痛剤にするなよ。根本的解決にならないぞ。胃痛の時には胃薬を飲まないと、鎮痛剤で痛みを散らしても、更に胃が悪くなるだけだ。胃痛の自覚は無いんだと思うけど」
「え…?何の話?」
「幼なじみと距離を置くために付き合ってる彼女のことだよ。…好きで付き合ってないなら、お互いのためにならないと思う」
「お節介って知ってて、…何で、そんな、悲しそうに言うん?」
「携帯の充電切れて、一晩連絡取れなくても平気な関係って…。そういう関係性で『彼女だから』って義理立てして…。相手も怒らせて。…何か、似合ってない」
「似合ってない?」
「俺、優将、優しいと思ってるんだけど。…彼女に対して、っていうか、恋愛に関しては、すっごく…冷淡に感じる。『こいつでいいや』って。何か…そういうことをするのが、優将に、似合ってない、って。自分にも、相手にも、良くないんじゃないか?そんな、間に合わせの代替品みたいな妥協」
優将は、俺を見つめたまま、返事をしない。
「お節介なんだけど。…悲しくなる。自分を大事にしてない感じがして。『これじゃなきゃ』って、わざわざ買うチョコレートと、『これでいいや』って、お腹空いたから適当に食べる食べ物って、…違うじゃん。『享年二十五歳』とかで、事故で死んじゃう人もいるのに。なんか…人生って、長いとは限らないのに、『これでいいや』を積み重ねてほしくないな、って思ったんだよ。…本当に食べたいチョコレートが、なかなか手に入らないのは、承知で言うから、ホント、お節介なんだけどさ。『これでいいや』って食べてる食べ物にも、原料生産者や加工者がいて…。やっぱり、それって、態度として失礼なんじゃないか、って」
眼科の順番待ち、という、公衆の面前なので、大分オブラートに包んでいるが。
伝わらなくても、なんか…。
言いたいんだよ。
俺にしては、珍しいんだけどさ。
そこに、「あー、ごめんごめん」と言って、Émileが来て、一緒に列に並んだ。
「連絡有難う、高良。そうそう、ここの眼科」
「え、早かったね、Émile」
Émileは「それがさー」と言って、真っ赤になった。
「家の近くの側溝の蓋の穴に、鍵、挟まってたんだ。落とした時、薄暗くて分からなかったみたいで。管理会社にも連絡し直してさー。あー、恥ずかし。自転車と、ライダースだけアパートに置いて、すぐ来た。鍵作り直しにならなくて良かったけど、んもー、こういうの、彼女には言えないよなー」
「え?…そういうもん?」
「や…、せめて格好付けたいじゃん、一応年上だと思って付き合ってくれてるんだろうしさー。こんなドジで、高良の家にまで御世話になるなんて、言い難いよ。頼られないまでも、頼りにならないとは思われたくないというか」
「そうかな…?」
あー、…そういう格好付け方、しちゃうんだ。
「あ、じゃあ、鍵落として、俺の家に泊った、とかは全然、Émileからも、彼女さんには連絡してないんだ」
「そーそー。…ま、相手からも、やっぱり、連絡来てないんだけど。言う必要もないし」
そう言う、Émileの頬から赤味が消えた。…気不味い。
「…あー、そうだ、自転車の写真、ありがと、Émile」
「お、どういたしまして。いや、実は、こっちこそ、ちょっと見てほしかったりしてー。自転車の話とか久しぶりに出来た、ありがと、優将、高良」
優将は、いつもの無表情で「んー」と言った。
「自転車の話、彼女としないの?Émile」
「やー、全然最近乗れてないんだもん。絶対、技術落ちてる。女の子に言うほどのもんじゃないよ、恥ずかしい」
え。…あー、何か、そういうプライド?あるんだ、自転車に対して。
…言わないんだ。
「言っても良いと思うけどな?写真、格好良かったし。ドジったって、人間味あるっていうか…」
「有難ういろいろと。やー、でも、なんか。嫌われたくないんだよね…。こんなことで嫌われないだろう、とは思うんだけど。何か、ちょっとでも、格好悪いな、って思うと、言いたくなくなっちゃって」
うっ。
…それを言われると、なぁ。
俺だって、茉莉花さんの記憶に、『頼りになる俺』と『情けない俺』のどっちを残したいかと言われたら、もう、愚問ですしね。
なんか、そういう、慎重と言うか、臆病になっちゃう気持ちは、ちょっと分かっちゃうし。
…あー、『好き』なんだ、『彼女』。
じゃー…口は出せないですね、やっぱり。
「あー、雨降る前に買えて、良かったー。ありがと、Émile。午後になっちゃったなー」
「ホント、天気もって良かったー。傘持ってくるか迷ったけど、降んなかったね。じゃ、帰るね、俺」
「一人暮らしで、もし、台風、困ったら、連絡くれよな」
Émileは、「有難う」と言って、大きく手を振ってくれた。
「俺、自転車取りに行く前に、ちょっと買いだめしといたんだよ、食べ物。ホント、台風多い国だよねー。二人共、気を付けて。またね」
「うん、またな」
長身の男が、去っていくのを見やりながら、俺は、駅前で、空を見上げた。
「あー、これで、降る前に、歴史さんを散歩に連れて行ってやれるかなー。優将も、ありがと。ちょっと慣れないけど、コンタクトしたまま帰って、徐々に慣らすかー。…あれ?優将?」
優将が、真っ青な顔で、俺を見ている。
「優将?」
「え、台風、って、何?」
「あー、夕方から雨で。ほら、今夜から大荒れって」
「…嘘」
「携帯に台風情報入ってたじゃん、って、…あ。…充電切れてんのか。優将?どうした?」
優将が、少し震えているのが、分かった。その、見たことがないほどの動揺に、俺は驚いた。
「…茉莉花」
「え?」
「台風なのに、…茉莉花が一人になる」
「優将…?」
「俺、覚えてる限りで、台風の日に一緒にいなかったことがないんだ、茉莉花と。あの…雷とかは、平気なくせに、窓に風が当たる音、嫌がるんだ。…怖がって」
突然、頭上で水風船に針で穴を開けられたのかと思うくらいの雨が、降り始めた。
あちこちで、急に雨に降られた人の、わー、とか、きゃー、みたいな声が聞こえる。
「うわ。嘘だろ。急に?…えー?予報より、大分早いじゃん。うちの親、職場から帰って来られるか?」
優将は、雨も気になっていない様子で、震えながら俯いている。
「離れなきゃいけないのに。…でも、そんな、こんな日に、一人にさせるなんて。高良、今、今からでも、エミちゃん、呼び戻して」
「…なんて説明するんだ?あの子の親が、育児放棄してて、台風の中、一人ぼっちのはずだから、家に行ってやってくれって、Émileに言うか?まだ、そんな、深い話をし合う仲になってる感じは、しなかったけど。俺ですら、本人からは聞いてないんだぞ?」
「…あ…」
「優将」
俺の言葉に、優将が、顔を上げた。
「行こう」
「どこに…?」
「一緒に、あの子のとこに、行こう」
「でも」
「明日死ぬんだったら、誰に会いたい?」
優将は、目を見開いて、俺の顔を見た。
「後悔しないか?本当に。二十五とかで死ぬんだとして、一回でも、あの子に、台風の日、一人でいさせたんだって思って死にたいか?」
雨が強くて、俺の顔を見ている優将が、泣いているのか、泣いていないのか、判別がつかない。
「よし、いいや、返事しなくていい。俺の家に来てくれ」
「え?」
「業務用連絡アプリで、あの子を、うちに呼ぶ。カレーの時と同じだ。これで、今日は、三人一緒だ。さ、JR止まる前に、急ぐぞ」
「なんで…」
「いいじゃん、俺が、あの子を呼ぶんだから。優将は、うちの犬の相手、しててくれよ」
「でも」
「うちの犬はな、殺処分寸前の保護犬だったんだ」
昨日まで、知らなかったけどな。
優将は、ショックを受けた様子で「嘘だ」と言った。
「あんな、かわいーのに、殺すの?」
「そうだよ。人気が無かったんだって、雑種だから。殺されるところだったんだ」
「そんな…」
「誰かにとっては、価値が無いんだ、ミックス過ぎて。誰かにとっては、置いて行っても、放っておいても、構わない存在なんだ。でも、俺は、手放さないぞ。うちの大事な犬で、俺にとっては、一番可愛い犬なんだ。うちが、貰ってきたんじゃなくて、うちに、来てくれたんだ、あの子は」
そして昨日、俺を、こっちに引き戻してくれたんだ。
滅多に吠えない、大して大きくもない、臆病な愛犬が、俺を、向こうから、連れて帰って来てくれたんだ。
「俺は、うちの大事な犬が台風の中、退屈しないためだったら、うちの犬のお気に入りのお前を家に泊めて、もう一晩、強制的に遊ばせるからな。精々、うちのお犬様を手厚く世話してくれ。俺の共同作業者は、俺が、個人的に、翻訳作業のために呼び寄せるんだ。お前には関係無いから、いいだろ」
「…ずり。ツネのせいにすんの」
「うるせ。死にそーな顔しやがって。…向こうになんか、帰さないからな」
「え?」
「いいから!急ぐぞ」
「何で…泣いてんの」
俺は、携帯を弄りながら、「お前も泣いてんじゃん」と言った。
優将は、珍しく、ムッとした顔をして、「泣いてねーし」と言った。
「はい、メッセージ送った」
「え?」
「返信、早っ。…ほら、あの子も、怖いんだよ、台風。お前も一緒だって言ったら二つ返事だ。よし、親にも、…送った、よし。ほら、行くぞ」
「え?」
「うちの犬と遊んでくれたら、うちの犬と、カシェのチョコ売ってるスーパー、連れってってやる、台風酷くなる前に」
「…それ、犬の散歩じゃん」
優将が、そう言って、ぷっ、と吹き出した。
「そうだよ、犬の散歩のついでだよ。愛犬がメインだ。うちの犬のためにお前を泊めるって、言ったろ。…何でもいいから、一緒に行こう。俺も、台風が怖いから、一緒にいよう」
「…嘘つき。台風なんか、平気だろ?」
「犬のせいにするのはずるい、って言ったの、お前じゃん」
涙を拭いながら、「台風だって変わんねーじゃん」と言って笑う、優将の腕を、俺は、引っ張って、走った。
「三日連続で、一緒に夕飯だよ、これで。今夜は和食にしてやるから」
一緒に走りながら、優将が、「意味分からん」と言って笑う声が聞こえた。
(旧約聖書 続編 シラ書[集会の書]6.14―16 誠実な友)
誠実な友は、堅固な避難所。
その友を見いだせば、宝を見つけたも同然だ。
誠実な友は、何ものにも代え難く、
そのすばらしい値打ちは計り難い。
誠実な友は、生命を保つ妙薬。