話者:A Consanguine marriage and a Long Tale.
「母さんは…知ってたの?あの、和綴じの本に、依頼者の子の、お母さんの手紙が挟まってたって」
母は「ええ」と言った。
そして、「話をするならお茶を煎れてあげるわね」と言って、白い琺瑯の笛付きケトルに水を入れて、火にかけた。
「本を見た瞬間、気づいたわ。きっと、内容の翻訳は、関係無いんだろう、って。誰も気づかないようなら、いつか、依頼者の女の子に、何らかの手段で教えよう、って。高良が金庫に入れる前に確認してみたら、やっぱり、娘さんへの手紙が出て来て。内容が内容だったから、大っぴらに公表される感じで発覚させたくなくて、元の位置に戻したのよ」
…優将さんと同じこと、したんだ、母さん。
「…俺、全然、気づかなかった。単に内容を翻訳するもんだとばっかり…」
「あら、依頼は『翻訳』なんだから。翻訳はしてあげなさい。それが仕事よ」
また、優将さんと同じこと言ってる…。
母は、腕組みをして、言った。
「…気づく、気づかない、と言うより、違和感よね」
「…違和感?」
いやいや、結局『違和感を持つ』とか『疑問を持つ』ところから優将さんも母さんもスタートしてるんだよね。
『何かを感じられる』って、きっと、『能力』なんだと思う。
「そりゃ、弥朝ちゃんって、年の割には頭の良い子だったけど…。そういうイメージじゃなかったのよ。最後にした会話だってね、覚えてる限りだと、『貴子姉は、どのディズニープリンセスが好き?』だったし…」
「え?」
「何か、大事にしてたキャラクター物のメモ帳、一枚破って、くれたわよ?『アラジン』だったかしら?私の中では、まだ、そういうイメージだったのよね」
そうか、『弥朝ちゃんって聞いて思い出すのは、まだランドセル姿なんだけどね』って言ってたな。『帰省の度に見掛けたりはしてたんだけどね。大きくなったね、なんて言いながら』と。
…そんな、幼い感じだったんだ。
「ああ、…和綴じの本の内容に、何か意味を込める、若しくは、込められるような感じの子ではなかった、ってこと?」
そうか、墓石に刻まれた享年のせいで、俺の頭の中では苧干原弥朝は成人しているが。
Émileの言うように、周囲には苧干原瑞月の姉で通していたんだし、傍目にも、母親らしい感じには見えていなかった可能性を考慮すると。
…確かに。
そう見ると、キャラクター物のメモ帳の方が比較的似合ってて、『和綴じの本』の存在の重厚さが浮くな、逆に。
これも、バイアスか。
そう、手紙が書かれた時と亡くなった時の年齢も、同じでは無い可能性がある。
少なくとも、手紙に書かれていた『人を刺してしまった』時期と、墓石の『享年二十五歳』は、同時ではないだろう。
『享年二十五歳』より若い時期の発想でなされた事柄だったとしたら、いたずらっ子の思い付きに近い行動の方が相応しく、和綴じの本の翻訳にまで思い至る方が深読み、ということだったのかもしれない。
ただ、苧干原瑞月にとっては、母親であり、大人だったのだから、そんな幼いことを親はやらないだろう、という、違う意味でのバイアスがかかっていたのかもしれない。
「そうね、本当に…普通の子、だったわよ?私の中では小学生で止まっちゃってる、ってだけかもしれないんだけど。それが、中学生で妊娠して、高校も…向こうで行ったのかどうかまでは知らないけど、日本の高校には行かずに、海外出産と子育てをしたんだったら…。英語は上達したかもしれないけど、ああいう本は、読めないんじゃないか、って、失礼ながら、思ったの。私だって読めないし、何らかの意味を内容に込めるなんて、出来ないもの。暗号文を作るにしても、せめて、文字のパターンとか、分かってなきゃ。頁数すら打ってない、あんな、和綴じの本…」
…優将さんも言ってたな、『日本で育った俺が読めんのに、分かるか』って。
…あー、そうだったのか…。
俺、本当に、『自分が読めるから』気づかなかったのか…。
「それに、弥朝ちゃんって、可愛くて良い子だったけど、頑固で、直情的なところがあって。だから、変な話だけど、若くて妊娠して海外出産した、とか、困って人を刺した、って手紙で読んでも、そんなに驚かなかったと言うか」
…あー、苧干原瑞月も、そのイメージあるな。
美人ではあっても、完全に俺の中で、墓で暴れてたり、他校に乱入してきて、Émileの腹を殴った人、で固定されてるもんな。
そう聞くと確かに…『直情的』ね。
好き、とか、腹が立った、で、行動できちゃうのか。
…俺とは方向性が逆だなー。
「それより…相手よね、驚いたのは。…ゴウ君だったのね、って」
「ゴウ君?」
「弥朝ちゃんの腹違いのお兄さんなんだけど、私の二つ上で。当時は疑いもしなかったんだけど。状況的には逆に、ゴウ君しかいないかも、って気にもなってね…」
「腹違いの、十歳上のお兄さんと?」
「…それが、この前、お義姉さんから電話があって」
母が、そこまで言ったとこで、ケトルの笛が鳴り、お湯が沸いたことを示したので、母は、お茶を煎れてくれた。
ノンカフェインの健康茶、『大阿蘇万能茶』である。
旨いんだが、お茶が出るまでに少し時間が掛かるので、俺は、自分では煎れないで、専ら麦茶を飲んでいるから、家の茶なのに、久しぶり、という感じがした。
母は、大きなガラスポットで作った健康茶を、丸い銀色の金属製の鍋敷きと一緒にダイニングテーブルに持って行って、自信も椅子に座った。
俺も、何となく、母と自分の分の、藍色のマグカップを持って、斜向かいの、いつもの自分の席に座った。
この藍色のマグカップは、ネットで購入した、IKEAの物だが、茶渋が目立たない、という、合理的な理由で、母の御気に入りであり、十個買い揃えてあるのだ。
値段も含めて、優将さんちの食器とは豪い違いですよ。食洗器OKで、割っても買い替えが利くと思うと、気軽で、俺には合っているけれども。
「ほら、お墓掃除に、長野に帰った時、弥朝ちゃんの法事だった、って。覚えてる?あそこで、一揉めあったらしくてね…」
母は、げんなりした様子で、そう言った。
千代子伯母さん、本当に、御喋りだなー。
母は、敢えては、そういう話を俺に聞かせないので、対照的だ。
「何でも、今月、弥朝ちゃんの娘さんの、瑞月ちゃん?が、十八になるから、勝手に、イギリス国籍になったらしいのね、親戚に何の相談もなく。それで、法事の席で報告したら、あの子の大叔父が怒って、大騒ぎになったらしいのよ。で、あー、成る程、と思って」
「おおー…。勝手に?国籍を…」
思い切ったことを…。あー、それで、腹を立てて、墓で暴れて、御萩喰ってたのか…。
…繋がったけども。
ビミョーに知りたくもなかったような…。
「イギリスで生まれた女の子だったから、日本とイギリスの二重国籍で、十八歳を機に、イギリスの方の国籍を選択した、ってことなんでしょうね。…それで、手紙の内容と、私が知っていることを総合すると…」
母が、綺麗に色が出た御茶をマグカップに注いでくれながら、整理して話すのを聞いた内容は、と言うと。
苧干原弥朝の母親が、彼女が中二の冬休みに、肺炎で急逝する。
そこに、異母兄が帰省。
そして、春休み、彼女の親友の小松瑞月が、松本市の繁華街のビルから投身自殺をしたらしい。
それから、苧干原弥朝妊娠発覚が、中三の五月。
石油関係の会社に就職していた兄が彼女を引き取り、海外赴任先のイギリスで出産させ、生まれた苧干原瑞月を養子として引き取る。
出産に大反対していた、苧干原弥朝の父が、三年後に肝硬変で死去。
O地区の土地屋敷の管理は、苧干原弥朝の父の弟、つまり、苧干原瑞月の大叔父が代理で行っており、苧干原瑞月とゴウという人物は、今は、法事くらいでしかO地区に戻って来ない。
「言い難いけど、あんな田舎でね。中学生が、妊娠するようなことがあれば、相手の目星くらい、つくはずなの。それが、全然、誰も噂に上がらないし。女の子の親友とベッタリ、って感じの子だったから。…で、八月にイギリスで生まれた子、ってことは、前の年の十一月くらいに妊娠してるはずなんだけど。手紙に早産だった、ってある、ってことは…。『冬休みに帰省してきたお異母兄さん』が相手で、妊娠発覚が二月か三月、それを知って小松瑞月ちゃんが自殺。本当は、九月か十月に生まれるはずだった子が、八月に早産で生まれた、となると」
「計算が合っちゃうのか…」
「そうね、早産だったことを知らないと、『十一月くらいの妊娠』という思い込みで、『冬休みに帰省してきたお異母兄さん』なんて、疑われもしなかったでしょうね。小松瑞月ちゃんが自殺したことも、結び付けて考えてる人なんて、地元にいないもの。寧ろ、親友が自殺しちゃったから非行に走ったのか、なんて言う人は居たけど、それだと、時系列が逆なのよね。そもそも、まさか兄妹で、と思うし。…だって本当に…十歳は離れてたんだから。…ゴウ君、私より年上で。…弥朝ちゃん、三月生まれだから。中二だったけど…冬休みならまだ、十三だったと思うの。確かに、母親が死んで、葬儀だ何だってバタバタして、目が届かなくなったタイミングで、そういうことが見逃されていたんだとしたら。いえ、それより前からの仲だったんだとしても…。近親者による性的虐待よ。恋愛関係だった、という主張は、残念ながら通らない。ゴウ君は、とっくに成人してたんですからね…。だからこそ、隠蔽して、引き取って、海外出産させて、ということが、保護者名目で出来たわけで、子どもを引き取って育てたんだと考えると、事実婚と考えることも出来るけど…。あってはならないことよ。事実婚にしても、成人を待つべきだったでしょうし。…今となっては、本当に、何を言っても…。だから、本当に、『秘密』だったのね、この話は。娘さんが大きくなるまで、いえ、自分が死んだら知ってもらおう、くらいの、大きな秘密だったんでしょう。手紙を見つけてしまった以上は…。当事者ではない私達には、手紙をなかったことにする権利もないから。…翻訳の内容を伝える時に、手紙も渡してあげましょう、封筒に入れて、依頼者の女の子にしか、読めないようにして。ゴウ君にも分からないようにして渡してあげましょう。もう、仕方が無いことだわ。十八歳で、自分で国籍も選ぶような年になったのであれば、知る時期が、今、ということなんでしょう」
そんな…。
『…でも、お母さんが三月の朝生まれ、っていうのを当てたのは、褒めてあげる』
『人に人は救えない。救われたとしても、それは結果論でしかない』
本当だ。…『救えない』。
知って誰かが幸せになる話ではない。
実際、小松瑞月という子は、抱えきれなくて、自死を選んでいる。
でも、こんな話を。
手紙を見つけたからには、教えなければならない、のか…。
「小松瑞月って子が、その、ベッタリだったっていう、女の子の親友?」
「そう。遠縁なのに、そっくりでね、あの子達」
「…え?苧干原弥朝と小松瑞月は、そっくりだったの?遠縁で?」
「ああ、よくあるのよ、あんな狭いとこだと、どこかとどこかは遠縁だって。偶に、他所の子なのに、妙に似てたりするの。あそこは、親同士が従兄妹で。私も遠縁だから。高良も、ちょっとは血が繋がってると思って良いわよ、O地区関係者の人とだったら」
え?
「ええええ?」
「そうね、顔が完全に似てる、って感じじゃなかったんだけど、ほら、アイドルグループの子達の見分けが付かない時とか、無い?あんな感じで…。お人形みたいに可愛い、雰囲気の似た子が二人でいる、って感じだったの。周りも面白がって、御揃いや色違いの服を着せて、髪型も同じで。よく姉妹に間違われてたわ。アリスが好きで、夏生まれで、ヴァイオリン習ってた方が小松瑞月ちゃんで、アラジンが好きで、早生まれで、ピアノ習ってた方が苧干原弥朝ちゃん、だったかしらね。だから、家も近くて、学校も同じの、ベッタリの、幼なじみの親友だったのね。…その隙間に、年の近い男の子が入る隙があったってことが、まず、想像が出来なかったのよ。あの年代の女の子同士の仲の良さって、また、特別なものだから。田舎だと、本当に知り合いも限定されてるし。でも、そうか…。それこそゴウ君、大学進学で、高校卒業から家を出ていて、弥朝ちゃんにとって、家族というより、『偶に会う都会から来た人』という存在になっていたのだとすると。憧れになってしまっていた可能性は、無いとも言い切れないわね。実際、ゴウ君、頭も良かったし、傍目には優しい、良いお兄さんだったと思うしね。…ビートルズとか聴いてて、趣味も渋かったわね、アコギ弾いてて」
『我が背子をみやこにやりて』
「小松瑞月ちゃんにしてみれば…。ベッタリだった親友を取られた気分になっていた可能性だってあるし。高校受験前の多感な時期に、親友の妊娠、しかも、相手が実の兄、と聞かされたら…。でも、弥朝ちゃんにしたって、そんな若さでで妊娠したのなら、誰かには相談したかったでしょうし。成人済みのゴウ君が、分別を持つべきだった、としか、言えないわね、私からは」
「…そっか…。そういう家と、俺も、血が繋がってるのか…」
慧とも又従兄弟だったしな…。俺が十月生まれで、慧が早生まれらしいから、ギリギリ俺が上、か?
「で、あの…小松瑞月ちゃんのお兄さんっていうのが、私と同い年の、小松瑞穂だと思うわ」
「こ、小松瑞穂?」
それって。
『なんて言ってたかな、お祖母ちゃん。瑞穂が…って』
『ミズホ?』
『お父さん。小松瑞穂。お祖母ちゃんにしたら、息子ね』
『…どうも、あいつのお父さんの不倫?かなんか、分かんないんだけど。相手が家に乗り込んできて、あいつのお父さんと心中しようとしたらしいんだよ。それを、近所の大人で取り押さえて。うちと、あいつんちと、慧んちの親で、もみ消したんだ』
『ごめんね。小松瑞月ちゃんのお兄さんが、瑞月ちゃんの残した日記を見つけて読んで、脅してきたので、お金を取られたくなくて、私は、刺してしまいました。揉み消してはもらえたけど、私は、許されないことをしました』
待ってくれ、嘘だろ?
…ここで繋がるとか、言わないでくれよ、頼むから…。
「まー、死んだ妹の日記を見つけて、それを読んで、内容から、妹の親友を脅迫して、金を脅し取ろうとしたなんて。小心者だったけど、妙に思い切りは良かったから、…お金に困ったら、やるかもね、って感じはあったわね」
「え、その、瑞穂、って人?」
「んー、広告代理店に勤めたとか?割合、軽薄なイケメンっていうか。…世渡りは上手かったんだけど。長男だから農家を継げって言われてたんだけど、サッサと逃げちゃって。大学行ってる間に、妹も亡くなっちゃったもんだから、その辺りも有耶無耶にしちゃって。親が諦めて、離農してね。長野トマトの契約栽培とかしてたと思うんだけど。結構お金持ちだったわよ。娘の瑞月ちゃんに強請られれば、ヴァイオリンを習わせてやるくらいにはね。なんか、アリスのグッズなんかも、沢山持ってたわね、あの子。…でも、お父さんが瑞穂に腹立てて、死ぬ前に、全部売り払って。瑞穂には、ほとんど遺産も行かなかったらしいけど。家だけは残ってたけど、お母さんが亡くなった時、それも取り壊したんじゃなかった?御墓くらいじゃない?こっちに残ってるのは」
うーん。娘の茉莉花さんを育児放棄できる人柄、と考えると、分からんでもないな。
「そうそう、高良が幼稚園くらいの時に、瑞穂、大怪我したとかで。小さい娘さんが、実家に預けられてたことがあったわ。明良さんの実家に行ったついでに、高良は御義父様に預けて、こっちに寄った時、チラッと見たけど、可愛い子だったわね。お人形みたいで。…瑞穂の妹に、ちょっと似てたわね。悲しくなっちゃった。…若しかして、その時、瑞穂、弥朝ちゃんに刺されてたのかしら?」
「…え?」
『あ、でも、何でだったかな。幼稚園くらいの時、一時期、お祖母ちゃんの家にいなさい、って。…それで、菫が咲いてて…』
「え、その…瑞穂って人の奥さんは?」
「どうなのかしら?大怪我で入院とかしてたら、そっちに付いてたのかもだけど。…なんかねー、あんまり、母親に可愛がられてない、って話を聞いて。ちょっと、気の毒で、ああ、関わって噂にすると傷付けそう、と思って、距離を取ったのよね。だから、あの女の子の名前も聞かなかったんだったわ」
「可愛がられてない…?」
「そう、瑞穂のお母さん、みどりさんね、要は、お姑さんに、その子が似てたもんで。こう…折り合いが悪かったみたいで、あんまり、ね。瑞穂、結婚も反対されてたみたいだし。自分より、お姑さんに似てる娘さんが、今ひとつ…という話だったわ」
「そうなんだ…」
若しかして、茉莉花さんと苧干原弥朝が似てるのって。…そっか、遠縁だけど、血縁だから?そんなことまでは、手紙に書かれてないけど。
…茉莉花さんのお父さんが、苧干原弥朝を脅して。苧干原弥朝は、茉莉花さんのお父さんを、刺した?
嘘だって言ってくれよ…。
「農家継げって言ってるのに、広告代理店の同僚と、上司を仲人にして結婚して、自分で家まで建てちゃったらしくて。こりゃー、長野には帰らないんだろうってことになって、離農したらしいから。両親、カンカンよね。その後、割合すぐ、お父さんは亡くなって、お母さんのみどりさんは、孫は可愛かったからか、預かってたわね。高良が小学校に上がるくらいに、みどりさんも亡くなったけど」
「えーっと、小松瑞月と、苧干原弥朝の親は、従兄妹だって?」
「そう、みどりさん、旧姓、降籏みどり。みどりさんのお母さんが、弥朝ちゃんのお父さんの、苧干原兟さんのお母さんの妹で。母方の従兄弟同士だったのよね。だからあの子達は、又従姉妹かしら。まぁ、あの辺じゃ、よくあることよ」
はぁ?!
「ふ、降籏?…え、何?うちの親戚…?」
『私、父親が、長野出身でさー、結構いない?この字の『降籏』さん』
『うっそ、もしかして、すっごい遠い親戚だったりしてー』
『え、でも、父方のお祖母ちゃんの遠縁にいるもん。結構いるでしょ?苧干原さん』
嘘だろ、本当に?
「それがねー…。もう、分からないのよ、名字くらいじゃ。長野も結構、降籏って名字の人、いるし…。血も、私となら繋がってるかもねー、O地区なら、って感じなんだけど。明良さんの家と繋がってるか、までは…。でも、同じA市だし、ね…くらいの…。ああ、でも、あれだわ、私、あの本を書いた人、ちょっと分かるかもしれない」
「…あの、和綴じの本の?」
…何じゃそりゃ。流石に凄いぞ。
「ほら、花押、入ってたでしょ?」
「え?」
「あの…グチャッとしたやつ。漢字が潰れたような」
「…あー。読めなかった、アレ。…何個かは花押だったのか?」
「あれ、見覚えが有るのよ。降籏さんのだと思うわ。書いた人が、降籏さんの家の誰かなんだと思うの。兟さんのお母さんの御嫁入り先に、蔵があるから、管理しきれなくなった古文書を、降籏さんの家の蔵から、いくつか移したって聞いて。小松の本家の蔵で、段ボール箱に入ってるのを見た気がするのよ」
思ってた以上に『話者』だった、及木貴子。
…でも、思ってた以上の内容だな。
…お茶、煎れてもらって良かった。
ちょっとだけでも落ち着く…。
「だから多分、降籏さんの家から小松本家に嫁入りした縁で蔵にあったもので、元は、降籏本家の蔵の物だと思うわ。あそこの本家は、つねちゃんふみちゃんがあるから、邪魔でしょうしね」
「な、何それ」
うちの犬の名前?
「お地蔵さん?みたいな感じなんだけど。石で出来てて、抱き合ってる、小さい、男の子と女の子の像なんだけど。可愛いの。特に、女の子の方がね。ちょっとだけ、写実的っていうか。降籏本家の蔵の前に出てるんだけど」
『思い出したんだけど。…おばあちゃんがね』
『O地区の?』
『うん、もう亡くなったんだけど、幼稚園の時聞いたんだった。あのね、蔵の前に、男の子と女の子が抱き合ってる像が立ってる場所があって。その像が変だったから、覚えてたんだ』
『なんで、って聞いたら、御供養なのよ、って。姉弟で心中した子達がいたのよ、って。だから、子どもが触ったらけない、って言ってて。引っ張られる?とか…そんだけなんだけど。なんか、気になって。ほら、男の子と女の子じゃん、見えるの』
―子どもが心中した話?
「え、何、母さん。それ、双体道祖神じゃないの?」
「ああ、似てるけど…。だって、道じゃなくて、蔵の前にあるのよ?多分、別の物よ」
「え?」
『…つまり、これは道の神様で、O地区には三体しかないないはずで。蔵の前にあるのは、変なんだ。記憶違いかな』
茉莉花さんの記憶違いじゃないんだとしたら。
「双体道祖神に似た、蔵の前に置かれている石像が、O地区の、降籏本家にはある、ってこと?」
「そうね。外からお客さんが来る時なんかには、蔵の中にしまっちゃうから、あんまり、知られてないと思うわ。道祖神のお祭りも、やってた記憶が無いし…」
「しまっちゃう?」
…どういうことだ?
「なんか、あれなの?誰かの供養のために作った物なの?どうして、『外からのお客さん』には見せないの?」
「御供養?そういうのは、分からないけど…。『見せるもんじゃない』って言って、なんか、O地区以外から人が来る時期なんかは、しまわれてたわ。出しっぱなしにしておけばいいのに、邪魔だろうなぁ、と思ってたの。まだあるんじゃない?降籏本家には」
「つねちゃんふみちゃん、って名前なの?」
「ツネちゃん、フミちゃん、って石像に話し掛ける年寄がいるのよ。だから、そんな名前なんだと思うわ。…御供養って言われると…。そんな感じもするけど。でも、なんか、小さい物?猫とか犬とかにも、ツネちゃん、フミちゃん、って話掛ける人達が、一定数いたの、私が小さい頃は。明治生まれくらいの人に」
「聞いたこと無いぞ、そんなの…」
凄い話を聞いてる気がする。
双体道祖神に似た、蔵の前に置かれている石像が、『つねちゃんふみちゃん』と呼ばれていて、地域住民以外には基本、秘匿されてる、だって?
「ああ、でもほら、猫ちゃんに『ちびちゃん』って呼び掛けるようなものじゃない?だから、私、家で何か飼ったら、『つね』ちゃんか『ふみ』ちゃんにしよう、って」
「…だから、うちの犬の名前、『歴史』なの?」
「明良さんが猫を連れて来るっていうから、名前を『つねちゃん』にしようと思ってたんだけど。殺処分前の保護犬の方が気になって、連れて来ちゃったって言うから」
「え?歴史さんって、そうだったの?」
「ペットショップに行く日に、偶々、チラシを見掛けたんですって。…ミックス過ぎて、毛並みも揃わないし、血統書も無いし、どのくらいの大きさに育つ子犬かも分からないから、人気が無かったみたいなの。うちにとっては可愛い家族だけど、確かに、成長しきってみても、大きさも、家飼いにも外飼いにも半端だしね」
「柴犬とスピッツのハーフだって…」
「わかってる分だけでは、ってことね。毛の色は完全にシェパードだものね、フカフカだけど、ゴワゴワだし。でも、目は柴犬だし…。可愛いけどね」
やっぱり、クォーターか、それ以上いってたか。
「…そういうの、全然、言わないよな、父さん」
「そういう人なのよ。本当は猫を飼いたいって、ずっと言ってたんだもの。でも、犬を連れて来てから、明良さん、一言も、猫のこと、言わないでしょう?うちの犬が動物の中で一番可愛い、みたいに、接してるでしょ。ああいうのを見てると…責任と愛情を持つ、ってね、こういうことかもしれないな、と思ったり、するわね」
…また、見方が変わったかも。
また父さんが、変なことやってるな、って思って、興味も持たなかったけど。
…聞いたら、教えてくれたのかな、本当は。
「それで、猫につけるつもりだった名前を付けるのが可哀想になって。でも、今後、他のペットを育てる予定は無いから、くっつけて『歴史』さんにしちゃったのよ。せめても、敬称をつけてあげようと思って。何となく付けた字だけど、字も良い字でしょ?…可愛いから、けっきょく、つねちゃん、とか、呼んじゃうんだけどね」
愛犬の名前が、O地区の双体道祖神に似た、降籏本家の蔵の前に置かれている石像由来だったとは…。変わった名前だと思ってたら、由来も変わってたなんて。
…つくづく、盲点だったな…。
「花押とか、石造の名前とか、全然、教えてくれなかったね、今まで」
「だって、何の関係があるのか、聞かれるまで分からなかったんだもの。私にとっては花押も、地元の石像も当たり前の物で、違和感も疑問もないんだから。第一、そんなの、本の翻訳、況してや、弥朝ちゃんの手紙の何に関係があるって思うと言うの?」
はっ、とした。
そう、『違和感』や『疑問』を持つことから始めるんだ。
『この廢墟にはもう祈祷も呪咀もない、感激も怨嗟もない、雰圍氣を失つた死滅世界にどうして生命の草が生え得よう、若し敗壁斷礎の間、奇しくも何等かの發見があるとしたならば、それは固より發見者の創造であつて、廢滅そのものゝ再生ではない』
失われていく文化や伝承。
でも、何故失われていくかとすれば、日常に『必要無い』と文化保持者が考えていることが原因なのがほとんどだ。
郷土料理だが、好きじゃないから作らない、材料が手に入り難いから作らない。時代に合わないから面倒になってやめる、建物を壊すから、石碑も、壊したり、退かせたりしてしまう。
『話者』にとってはあることが当た有り前で、文化的重要性など感じていないから、簡単に、伝承されずに失われていくのだ。
そこから価値を『発見』『創造』して、学術的な名前をつけていかなけれなならないのだ。
…多分、これからやろうとしていることは、それなのだ。
聞き方も、工夫しなけれなばならないんだ。
『なんで、空気なんか読まなきゃいけないの?なんで、誰かが喜ぶことを考えないといけないの?俺がやりたいことやってるだけなのに、なんで、研究で、誰かに貢献しないといけないの?なんで、評価されないといけないの?評価されなくてもやるよ、やりたいことだから。欠けてて、何が悪いの?冷たいって、何と比較して?家族も犬も愛してるけど?『恋愛』って必要?俺が今記録しないと無くなる文化があるんだから、『恋愛』は、『恋愛』をやれる人が、きちんとやったらいいじゃん。何か欠けた恋愛でも、家庭だって、曲りなりにも築けたよ。相手の度量によるところが大きかったけど。…別に、研究が一番で、恋愛が二番、とかじゃないじゃん。ちゃんと、貴子さんのこと、好きだったもん』
そうなのか。『俺が今記録しないと無くなる文化がある』って思ってるから…。
『何を発見しても、俺が、発見したものに何かを見出した創造であって、発見したからって、文化が再生できるわけじゃない』。
それでも。
記録しないと、確実に失われることだけは、事実なんだ。
図らずも、父さんの仕事観を知ってしまった気がする。
「じゃあその…。昔、心中した子どもがいた、みたいな言い伝えは、知らない?その子達が家に入れてほしがってる、とか。子供が像に触っちゃいけない、とか。その、蔵の前の石像のことでも、何でもいいんだけど」
「んー、全然、分からないけど。…確かに、あの石像に触らせてもらったことは、ないわね。他所の家の物だから、と思うと、当然だと思って、気にも留めてなかったけど。それこそ、私、地元のことに、それほど興味がなかったから…。牛タン食べてる時も、座敷童がどうの、なんて話、全然分からなかったから、実地で聞いた方が良いだろうと思って、黙ってたのよ。でも、つねちゃんふみちゃんを作ったのは、O地区の石碑とか石像を作った人と同じ家の人だと思うわ。そのくらいかしら」
「…え?」
まさか、石像製作者まで、分かっちゃうの?
…凄い。もっと早く聞けば良かった…。
「柳澤さん、っていうおうちが、代々、石工で、地元の石造物は大体、そこが作ってるの。まだ、O地区の近くにお店を構えてるはずよ。墓碑銘とかも彫ってくれるの」
「…有難う!母さん」
郷土資料を見れば、何か繋げられるかも!
そこに、リビングのドアがガチャッと開いて、赤Tが入ってきた。
「暑…。すいません、また、玄関で寝ちゃったみたいで…」
あ、すまん、赤T。
ドアを閉めて話してたから、玄関にエアコンの冷気が行かなかったんだな。
母が「閼伽井さん」と言った。
「ついでだから、シャワーを浴びて、甚平に着替えて。エアコンが効いてるリビングで休んでください。体が休まりませんよ」
少し、叱られている様な口調だったのに、赤Tは、少し嬉しそうに、「はい」と言って、穏やかに微笑んで、風呂場の方に向かっていった。
やっぱりちょっと、キモ…とか、お客さんに思ったらいけないんだろうな。
人生の先輩ではあるわけで…。