財布:Which way I ought to go from here?
はめられたなぁ…。
疲れた。
優将のせいだ。
今日は金曜日。
今日まで頑張ったら、明日は休み。
土曜は特に予定無いけど、日曜は瑠珠と買い物に行く約束してるから、何着ようかな、とか、ちょっと考えながら登校して、学校に着いた。
校門の隅には、紫陽花の黄緑色の蕾が、うっすら、水色の花びらの色を付け始めてて、濃い緑の葉の瑞々しさが、これからの季節の雨を予感させた。
晴れてるのに、何となく空気に湿り気を感じる。
中間服代わりに、今日から半袖のシャツとベストで登校したから、いつもより、むき出しの腕が、纏わりついてくる湿度を敏感に感じ取ってるのかも。
下駄箱の前で、クラスメイトの伊原瑠珠と、千伏玲那に会った。
「おはよー」
「あ、茉莉花も中間服」
そう言う瑠珠は、まだ長袖シャツにベスト無しの格好だった。玲那は私と同じ、中間服。
「起きた時は寒くてさー。まだ良いかと思ったけど、学校来るまでは結構暑かったなぁー」
瑠珠は毎朝六時起きでメイクだからね。そら寒かろう。
そこまでの根性は、まだ私には無いから、絶対真似出来ない。
大学生のお姉さんの学生証を使うことがあるから、外見をお姉さんに寄せてる、って、前言ってたけど、学生証使う時だけじゃなくても、毎朝六時起きでメイク出来るなんて尊敬する。
御団子にして隠してあるけど、瑠珠の、地毛でナチュラルブラウンの髪は、緩く波打ってて、長い。
刺か鱗みたいにビッシリ、黒くて上を向いた長いまつ毛が、どことなく色っぽい。
私、瑠珠と同じマスカラ買ったら、落としにくくてイマイチだったんだけど、瑠珠見てると、あのマスカラ、カールキープ力が凄いってのは嘘じゃないよね、と思う。スタイル良いし、この身長。モデルみたいで、かなり羨ましい。
まぁ、あのマスカラは、リムーバーを今度買おう、今度買おう、と思って放置してるから、それは良いとして。
「今日はねー、大体、中間服の子が半分くらいかな?明日には多分、皆中間服になっちゃってると思うけど」
クスクス笑いながら、そう言う玲那は、いつも、女の子らしくて可愛い。
女子力が高過ぎて、腹に一物あるんじゃないか、っていう一面も、あるにはあるけど、そこは見て見ぬ振りするのが、女子校での処世術だ。
三人揃って、喋りながら教室に入ると、同じくクラスメイトの大町日出と苧干原瑞月が既に来てて、「おはよー」と、明るく手を振ってくれてた。
「あ、中間服組ぃー」
ちょっと背が低くて、透けるように白い両腕を、私達と同じく、半袖からむき出しにした日出が、私と玲那に両手を差し出した。瑞月は、今日は珍しくポニーテールだ。
私は、笑いながら、玲那と、それぞれ片方ずつ、その手を握った。
「本当に、私も中間服着てくれば良かったかなぁ。でもまぁ、個人的にはまだちょっと、朝は肌寒いんだよね」
「お、同士同士」
今度は瑠珠が瑞月に握手を求めた。
瑞月は、にこっと笑って握手した。
瑞月は、長袖シャツを腕まくりしてる。
袖が皺になるから、皆あんまりやらないんだけど、何故か瑞月がやると、格好良く見える。
気になって、ふと見渡すと、教室にいる長袖組の半分以上が、腕まくりしてる。
…真似?
瑠珠程じゃないけど、ちょっと背の高い瑞月は、大人っぽい。
知的美人ってやつか。
私に縁がない単語だから、使い方が合ってるのか分かんないけど。
纏め髪が上手くて、うなじが綺麗で、『お姉さん』って感じ。
今年の四月に編入してきた、インドネシアからの帰国子女で、皆より一つ年上だ。インドネシアの前は、イギリスやオーストラリアにいたらしくて、英語の宿題なんかは、皆、瑞月に聞きに行く。
初対面から、かなり印象強かったけど、今は仲良くしている。
初めて会った時、瑞月は私を見て固まった。
「…苧干原さん?」
「あ、ごめんなさい。知ってる人に似てたもんだから」
そう言って、瑞月は、真新しい学生手帳から、ちょっと古い写真を出して、私に手渡した。
びっくり。
一瞬私かと思った。
よく見ると、顔立ちなんかは、そんなに似てないんだけど、パッと見の雰囲気なんかは、自分でも、びっくりするくらい似ていた。
「姉なの」
瑠珠や日出が、私の横から写真を覗き込んだ。
「わー。似てるー」
「ホントだー」
瑞月は微笑んで、「ね?」と言った。
それから私達は、それぞれ自己紹介をし合った。
「私、元旦生まれだから、日の出って書いて、ひづる。鶴とも掛けてあるんだって」
「私は、瑠璃の珠って書いて瑠珠」
「皆、綺麗な名前」
「瑞月も、綺麗な漢字」
クラスメイトには、立音とか夢とか、最近、名前の最後に『子』とか付く方が少なくなってきてるから、逆にクラスに華子ちゃんとか桃子ちゃんとかいると、人気者になったりする。
和風も良いよね。綺麗な漢字って羨ましい。
その点、私の名前の由来は悲しいくらい安直だ。
「私は、ジャスミンの中国名。親が新婚旅行で中国に行った時のハネムーンベイビーで、向こうでジャスミン茶の工芸茶を飲んだからみたい」
ホント、そのまま。この名前、好きでも嫌いでもない。
今は不仲の両親のハネムーンベイビーとかいうのも、口にしながら、自分で毎回、『知らんがな』と思ってしまう。
名前の由来がスッカスカだから、そう思うだけなんだろうけど。毒にも薬にもならない、と思ったら、御茶でしたー、ってね。
「あー、Jasmine!」
スッカスカの名前を聞いた瑞月の方は、何だか、凄く嬉しそうだった。
「…発音、良。そうそう、ジャスミン」
「よろしくね!」
嬉しそうに握手を求めてくる瑞月に、私も笑い返して握手をした。
別にグループでもないんだけど、こうして、私と瑠珠と日出と玲那と瑞月の五人は、一緒に行動するようになった。
玲那は、あちこちのグループをウロウロしてるし、いつも一緒ってわけじゃないけど、私を含めた他の四人の共通点って、結局『別にグループ組まなくても一人でいられるところ』だと思う。
グループに入らなかった者同士が、何となく気が合った、みたいな。
全員帰宅部だし。
だから、玲那みたいな、あちこちのグループに出入りしてる子が仲間に入れる余地もあるってことなんだけど。
トイレも、それぞれ一人でいけるし、必要以上に干渉し合わない。比較的成績も良い五人だし、結構居心地の良い環境だ。
今朝も、いつもの四人と、他愛もない話をしながら、鞄から教科書を出してると、私は、その中に、カーキ色の、皮を編み込んだ某ブランドの財布を見付けた。
…見覚えが?…ある。
優将の財布だー!何で?!
私は、鞄を引っ繰り返して自分の財布を探した。
無い。
全身から血の気が引くのが分かった。
だってだって、親のクレジットカードも入ってるのに。
あれを失くしたら、生活費が。
焦りながらも、昨日の行動を反芻する。
優将は、確かに昨日家に来てた。
私の家で、ご飯を食べた。
そして、私が課題をしてる間に、珍しく帰った。
私は、そのまま、時間割りもしないで寝ちゃって、今朝は中間服の準備に手間取って、適当に用意して、登校しちゃった。
電車は定期だし、気付かなかったんだ、財布がないことに。
…間違えた?財布。
まさか。
私のノーブランドの、お気に入りの真っ黒い花柄の刺繍が入った財布と、これを?
…すり替えた?優将が、自分の財布と?
でも、何で?
呆然としてたら、先生が来た。ホームルームが始まっちゃう。
私は取り敢えず、席に着いて、机の上を片付けた。
挨拶も、朝の祈りの言葉も、上の空だった。
信じられない。
今日に限って、移動教室やら何やらで、全然、優将と連絡を取る暇が無かった。
うちの学校は、本当は携帯電話所有禁止だから、先生に見つかると物凄く面倒臭くて、大っぴらに使えない。おまけに、電波が良くない。わざと学校側が、そういう設定にしてるのかと、皆が疑うくらい悪い。
やっと昼休みになった。
私は、一人で女子トイレに向かった。
実は、校内で、女子トイレが、一番電波が良い。
そして、先生は入ってこないし、皆、電話をかける時は、ここでかけてる。
ここで誰かが携帯で話してても、暗黙の了解が出来てるから、皆、邪魔しない。でも、通話以外の使用も、暗黙の了解で不可だ。個室で操作してても、トイレを個人で占領する時間がメチャクチャ長くなって迷惑で、すぐバレるし、バレたら三年生にシメられる。
先輩って怖いよね。
あんまり携帯とは関係無い話だけど、うちの学校って何故か、下級生は上級生の教室の前を通るのを禁止されてる。
玄関から教室の並びの問題で、一年生は三年生の教室の前を通らなくても学校生活が送れるからなんだろうけど、どうしても三年生の教室に行く時は、一年生は二年生の今日室の前を通ったら、二年生にシメられるから、一階に行って、職員室の前を通って、階段を登って、三年生の教室に直接行かないといけない。
何年前から続いているのか分からないけど、慣例なんだって。
変なの。
先生達の方が、職員室の前を通っても気にしないでいてくれるって点では優しいし、一年生が職員室の前を平気で通るって、実は先生より三年生の方が尊敬されてるのかもって思うと、ちょっと面白いけどね。
私は、女子トイレの窓を開けて、電話をかけた。
少しでも電波を良くしよう、みたいな、おまじないみたいなものらしくて、これも、何年前から続いているのか分からないけど、皆、携帯を使う時は窓を開けるのが慣例だ。
だから、窓を開けると電波が良くなるのかどうかは不明だ。
皆がそうするから、そうしてるだけ。
電話の呼び出し音を聞きながら、窓から、空を見上げた。
良い天気。
日曜に、これだけ晴れてくれたらいいのに。
十回コール目くらいで、優将が出た。
「おー、茉莉花か」
茉莉花か、じゃないだろ!茉莉花か、じゃ!
「…財布」
「あー。持ってきて」
え?!そんな面倒臭いこと頼むのに、何でそんな、あっさり言うの?!
「…優将、今どこ?」
電話の向こうは、やたら騒がしくて、時々ベース音や歓声が聞こえる。
「学校。今日、学祭」
「はぁ?!」
男子校の学園祭?!尚更行きたくないよ!目立つに決まってるのに!
場所が女子トイレなのにも関わらず大声を出してしまって、我に返り、ちょっと辺りを見回す。
良かった、誰もいないっぽい。
「んじゃ、茉莉花の財布使っていい?」
「ちゃんと、いくら使ったか覚えててくれる?そんで、返してくれる?お金」
「…ん?んー」
何で、そんな、曖昧な返事するの?
…えー、何か嫌だ…。
だって、クレジットカード入ってるのに。
…私の財布…。
…仕方ない。
「…学校終わってからで良い?」
「んー。多分五時くらいまであるし」
「二時過ぎくらいになるけど、ちゃんと学校で待っててよ?」
「オッケー」
電話を切ってから、どっと疲れた。
何考えてんの?優将!
取り敢えず、優将の財布で、昼食に、パンとジュースを買った。
携帯に、代金をメモする。
現金支払いだからなー、学校の購買って。
こういうところも、サッサと、ICカード乗車券とかクレジットカードで支払い出来るようになってくれればいいのにな。
今朝は、慌ててたから、お弁当も作らなかったし。定期入れは財布と別だし。もっと早く気付いてたら、放課後、司音楽院の高等部になんて、行かなくて良かったのかなぁ。
あ、昨夜、お弁当のおかず用に多めに作った夕食のハンバーグは、優将が食べたんだった。
…もー。
どのみち、お弁当なんか作れなかったことに気づいて、頭がゴチャゴチャしてきたけど、そのまま教室まで戻って、パンをほうばっていたら、瑞月が声を掛けてきた。
「どうしたの?顔色悪いよ?」
「ん、大丈夫大丈夫」
「そう?」
瑞月は、綺麗に整えられた眉を八の字にして、唇を少し尖らせた。
見るからに『心配してる』って感じ。
感情を表現することの上手さは、さすが、外国を知ってるなって思う。そういうコミュニケーションが上手というか。
優しいなぁ、瑞月は。綺麗だし。友達の中で一番『美人』なのは瑠珠だと思うけど、『綺麗』なのは瑞月だと思う。
まぁ大体、うちの学校は、可愛い子多いと思うんだけど。同世代の女の子を集めてるから、確率として、可愛い子の率も上がるかな?
私は、この学校の女の子って、大まかに、三つに分けられると思ってる。
思いっきり派手で、校則違反しまくりのタイプと、そこそこ整えてて、校則をスレスレで守ってるタイプと、校則ぎっちりで、地味にも程があるタイプ。
瑠珠だって派手だけど、ちゃんと校則をスレスレで守ってるタイプに入る方。あれでもスクールメイクの範疇なんだよね。先生にバレてないのか?っていうのだけは不思議。多分、地毛も茶色いし、顔立ちと合い過ぎてて、化粧に疎い先生とかだと、メイクなのか顔が濃いだけなのか分かんないのかも、と思ってる。
あと、単純に、メイクが、めっちゃ上手い。
ナチュラルに見せる為のメイクに全然ナチュラルじゃない努力してて、六時起き出来るの凄過ぎ。そして実は私、瑠珠のスッピンを知らない。
で、違反しまくりのタイプは、遊びも激しいという噂で、もう見たまんま、友達どころか、もう会話が合わない、って子もいる。ミッション系で厳しめの学校だから、そういう子は先生に追っ掛け回されてるけど、隙あらば元通りになってて、逆に尊敬する。形状記憶みたいな何かなのかもしれない。
とは言え、女の目って観察者の目だからね。お互いの姿を見合って、皆、そこそこ身綺麗にはしてる。
逆に、共学の方が、身繕いが適当な子が多くて、時々ビックリする。
瑠珠に言わせると、あれは『共学をサボってる』んだとか何とか。
確かに瑠珠なら、男子の目があったら、今以上の出来栄えを見せてくれるんだろうな、とは思ってる。五時起きとかしそう。もうアートじゃん、そのメイク。
ちょっと見たい。
パンを食べ終わったら、いつものように歯磨きに行った。
水道のところで瑠珠が、歯ブラシをくわえながら、手を振っていた。
…嫌だなぁ、一人で行くの…誰かについてきてもらおうかな?…男子高の学祭に、常緑生二人…?…目立ちたくないって話だったら、逆効果か…。
まとまらない思考のまま歯磨きを終えて、リップクリームを塗り直した。
ぱっ、と行って、さっ、と帰ってくる。ぱっ、と行って、さっ、と帰ってくる…。
私は、放課後の予定を頭の中でシュミレーションしながら、教室に戻った。