降籏乙哉: The Rabbit Sends in a Little Bill.
…午後は翻訳作業に戻ろうと思ってたのに、家を追い出される様な形になってしまった。
暑いから気の毒だが、歴史さんも連れてきた。
日が沈んでから散歩に連れて行ってやろうと思っていたが、優将と散歩、ということもあってか、歴史さんは、大乗り気だった。
日影を選びながら、駅前まで出てきた。
家を出たからと言って、何をするでもないし、歴史さんが一緒だと、店にも入り難いから、ちょっと失敗だったかもしれない。
「…何か、騒がしくて、ごめんな、優将」
「賑やかで、ちょっとオモロかった。お客さん多い家」
「そんなに頻度は無いんだけど、来る時は千客万来状態なんだよな」
「寂しくはなさそう」
「…そう…ね?」
寂しくは…ないか。小さい頃から、フィールドワークに引っ張り出されたり、親の職場に連れていかれたり、人が家に大勢来たり。
来客の中に、悪人もいないと思ってるし。嫌いじゃないよ、…ただ、社会人とかに、あんまり向いてない人達なだけで。
絆も来るし、愛犬もいるし、確かに、寂しい思いをして育った、という意識とは逆だと言える。
…何だろ、この言い方。
…羨ましがられているんだろうか。
俺は…。気持ちを向けてもらえる方が、羨ましい気が…、って。いや、そんなこと、ないけど。
多分、女の子よりフィールドワークを選んじゃって、せっかく、気持ちを向けてもらっても…粗末にしちゃうんだろう。
相手が、例えば、クリスマスとか誕生日に、どういう過ごし方を、自分としたいと思ってるか、とか、考えられなくなって…。
花の香りも何も、気に留めなくなるんだろう。
ともあれ、目の前の美形を羨んでも、何も始まらない。
この美形も、欲しくても手に入らないものが沢山あるのだから。
陽光が当たると、青みがかった灰色に光る髪が、白いシャツに映える美形は、いつもの無表情で、呟いた。
「…また、やっちゃった。他人の秘密なんか…気づかなきゃいいのに、俺」
「…気にしてんだ?俺は、気づくの、凄いな、って思ったけど」
「…俺しか気づいてないこと、みたいなのが、意外とあって。説明しても、分かってもらえなかったりする。何か、ムズカシーこと言ってるって、聞いてもらえなくて。蓋を開けたら、『やっぱりそうじゃん、分かってたのに』ってなる。…分かる頃には、俺が指摘したことなんか忘れられてたり、…指摘しなくていいことを指摘しちゃってて、傷付けたり。…他人のかーちゃんの秘密なんて、気づかなきゃ良かったのに。誰も、気づかなかったのに、俺、…知っちゃって」
「それは違うぞ」
若しかしたら、優将さんの悩みは、高知能故に起きているかもしれない事柄だけれども。
「優将が気づかなかったら、誰も、手紙の存在に気づかなかった。翻訳だけして返して、『結局、何で、この本だったんだろう』って、揃って首を傾げて終わりだったかも。そりゃ、内容はアレだったけど、瑞月って子に、お母さんの手紙は渡せるじゃん。必要だから与えられてる能力だと思おう。誰しもが持ってる力じゃないかもしれないけど」
優将が、驚いた顔で、俺を見詰めている。
明るいところで見ると、本当に、小さい子の様な目だと思った。
「変、高良って。…高良だけ、一回も、ムズカシーこと言ってるって、言わない。俺のこと」
「…あー。言わないけど。…誰かがムズカシーこと言ってるからって、何だ?『ムズカシーこと言ってる』って切り捨てて、何になる?自分が『ムズカシーこと』言われて、その内容を考えないことの、何が良いんだ?『ムズカシー』から自分には分からん、と思って、それ以上考えないで、『ムズカシー』から分からん、って本当に言っちゃうって。『ムズカシー』から分からん、って口に出すことに意味あるか?そりゃ、考えても分からんことの方が多いかもだが。そもそも、森羅万象のことが分かるはずもないだろう。『ムズカシーこと』考えてる奴が、何で、そう思ったのか、聞くだけでもいいじゃないか」
…両親とも、ムズカシーこと言う人達だからな。育った環境のせいもあるかもしれんが。
優将は「…矛盾が見える」と言った。
「…ん?」
「偶然条件のはずなのに、相手が、それを前提条件として動いている時は、何かある。その時点で、それは、偶然じゃなくて、そいつがやったこと、若しくは、そいつが、偶然条件じゃないと知っていたこと、になる。だから、多分、そういうことを言う奴を、最初から疑っちゃう。…矛盾が最初に見えるから、相当気づかない振りをしないと、仲良くなれない」
…それで、無表情のことが多いのかな。思ってることが全部相手に伝わっちゃうと、仲良くなれない、って。
高知能故の、『優将にしか見えないこと』か。俺が、座敷童が見えること、と、同じに考えてはいけないのかもしれないが。『理解されない』という点では同じだし。…生き難いだろうと思う。
優将は「今回のことも」と言った。
「引き受けた時は分からなかったけど。『和綴じの本の翻訳』と『母親の遺品』。そもそも、本と、母親の年齢の時代が合わない。本を見た瞬間、分かった」
「分かった?」
「どっちかが嘘、なんだよ。多分、そもそも母親の物ではない物が遺品として残されてる。『和綴じの本』自体には、母親を思い出せる、とか、母親の代わりに使用する、とかの、母親の形見の品としての『機能』が無い。じゃあ、あの和綴じの本でなきゃならない理由があるはずなんだ。そうなると、それは、『和綴じの本』の『本体』か『内容』なんだ。で、内容は『フツーは誰にも読めない』もんだった、となると。『内容』が重要じゃないんだ、多分。…あの女、帰国子女だって?日本で育った俺が読めんのに、分かるか?母親なら分かってるだろ、英語の方が得意って。何で、他人の手を借りないといけない様な無理難題を吹っ掛ける?『和綴じの本自体の構造』を俺が知らなかったから分からなかったけど、見たら分かった。『本体』が大事なんだって。…でも、結局、こんなの…。俺しか、分かってなくて。…説明しても、ムズカシーこと言ってるって…」
「言わない」
「え?」
「その説明で、俺には分かったし、凄いと思う。有難う、また教えてくれ」
あ、『いる』。
小さい、着物姿の男の子。と?
おや、襷掛けの着物の男の人。
ちょと素浪人風に見えないこともないけど、野良着と着流しの中間って感じの、結構若い男の人。
…何か、親近感のある顔だな。
鼻根のしっかりした、高い鼻。
そうそう、俺も、そうだけど、年取ったら、鷲鼻になりそうで。ちょっと、母方の伯父をハンサムにしたような感じの。
しかし今時、こんな、真夏に、しっかり着流しを着た人と、道端で会うなんてなー。
優将が、ハッとした顔をした。
「おんちゃん」
「おー、優将かぁ」
「おんちゃん、友達」
優将さんの知り合いかぁ。
「どうも、降籏高良です」
おんちゃん、と優将に呼ばれた人は、「え?」と言った。
「あらー、うちも降籏です。旗が降る、って書くけど、旗は竹冠で」
「えっ?うちもです…」
「へー、偶然。降籏乙哉と言います。こっちで缶詰工場を経営しとりましたが、息子に譲って、今じゃあ七十過ぎの隠居です。だから、こんな、作業着で」
え…?作業着?…隠居?
三十前で、着流しに、襷掛けだろ?この人。
俺の困惑を他所に、優将は「そんな名前だったん?」と、驚いた様に言った。
「うん。『乙哉』だから、『おんちゃん』よ。小学校の時から、友達は、そう呼ぶわ」
優将は唖然としながら、「『おじちゃん』って意味だと思ってた」と言った。
「あらー、こっちで、初めて、同じ名字の人に会ったー」
「ああ、俺、両親が、長野出身のA市出身で」
「へー、うちも、長野市の栗田の出身です」
…寒気がしてきた。
偶然、長野出身の…同じ名字の人に会って。しかも…若しかして。俺にだけ、この人が、着物姿の若い男の人に見えてる?
「あの…A市に親戚はいらっしゃいますか?」
「さー、もう分かりません。祖先は、どっかの土地持ちの分家だったと聞きましたが、身を持ち崩して、水飲み百姓だったとか。うちも貧乏で、長男以外は実家を叩き出されて、長野を出てからも随分になりますし、会社興してからも、付き合いはありません。日雇いの仕事で金を貯めて、そりゃーあちこちで働きましたけども」
優将が、「俺の親父も長野」と言った。
襷掛けの男性は、優しい笑みを浮かべて、言った。
「はー、そう、あんたたちゃ、お父さん達が長野の人だったの。随分、偶然ねぇ。そういや『柴野医院』ってあったなぁ。うちより、もっと千曲川寄りの所に」
…偶然の一致が多過ぎて。
…更に、寒気がしてきたな。
真夏なのに。
「あの、A市の、O地区って、分かります?」
「…あー、知り合いは居りましたかね。…ああ、今思うと、ありゃ、親父の…知り合いだったんかな…。もう、分からんですが」
グワン、と、空間が歪む。
優将と、小さい男の子の姿が交錯する。
この二人は、この『おんちゃん』が、大好きで。
『おんちゃん』も、この二人を、ずっと心配していて。
そういう、雰囲気とか、感情みたいなものが、流れ込んできて。
優将の声と。変声前の男の子の声が、混ざって聞こえてきて。
駅前じゃなくて。…どこか、緑が多いところにいるみたいで。
ああ、分からない、と思ったところで、歴史さんが、珍しく吠えた。
戻った、と思った。
いつもの駅前。
『おんちゃん』という人は、いなくなっていた。
でも。
辺りは夕暮れだった。
嘘だろ?
昼に、焼き蕎麦喰って、片付けもせずに、家から駅前に出てきただけだぞ?
『おんちゃん』と立ち話しただけじゃないか。
どうなってるんだ、と思うと、恐ろしくなってきた。
優将も、携帯電話を見て、不思議そうな顔をした。
「え?高良。今、十八時、だって…」
俺は、その場に、ヘタヘタと座り込むと、歴史さんを抱きながら、震えた。
戻ってきた。
俺、多分『歴史さんが吠えてくれた』から、戻って来られたんだ。
いや、優将も、か?
何が起きてるんだ。
そう、結局、瑞月の『母親の本来の意図』を汲んだところで。
霊障が解決していない。
…不味い気がする。
自分の姿どころか、初対面の他人まで、着物姿の人間に見えて。
しかも、今のは、なんだ。
何で、時間が、こんなに進んでるんだ?
優将が、「あれ?」と言った。
「水戸っち?」