煉獄:Humpty Dumpty
I should like to buy an egg, please.
当然のことながら、優将が、食欲を無くしたと言うので、俺も、さっきは飲み物を出すと言ったものの、そのまま部屋で談笑するような気分でも無いし、とっとと焼き蕎麦を作りに、階下に降りることにした。
優将には、気分転換に、焼き蕎麦が出来るまで、歴史さんと遊んでいてもらうことにした。
最早セラピーである。
こういう時、家に、フカフカの生き物がいてくれて良かった、と思うし、動物が好きだな、と思う次第である。
リビングに入って一礼すると、父の、シルバーのノートパソコンの前で眉を顰めていた女性三人が、会釈をしてくれた。
一人は、先日も会った新井さんだが、入籍して、田村姓になったとの報告を受けた。いつの間に、という感じだが、ともあれ、目出度い。新妻になった和風美人は、今日は、髪を纏めてアップにして、ベージュの半袖トップスと、キャメルのタイトスカートを穿いて、赤い縁の眼鏡を掛けていたので、一瞬、誰だか分からなかった。昼食後、午後から職場に直行する、とのことで、お忙しいところに、うちの父が御迷惑をお掛けしております、と、頭を下げたい気分である。
もう一人は、諏訪山さんという、痩せた、黒縁眼鏡の、スポーティな感じの女性だった。美人の部類に入るのだが、フワッと巻かれた明るい色の、少し海外の人っぽいセミロングの髪が、もしショートだったら、男性と認識しそうである。意志の強そうな顔立ちが、理知的過ぎて、中性的に感じるのかもしれない。老舗の茶屋の娘さんだとかで、実家を手伝いつつ、研究を続けているとのことである。こちらは、夕方くらいまでは作業を手伝ってくれるらしい。
後の一人は、青木さん、という、キャリアウーマンっぽい感じの、パンツスーツ姿の女性で、これまた、午後には、出版社の仕事に戻ってしまわれるとのことである。丸眼鏡に、黒髪のショートヘアだが、他の二人より肉感的な体型をしているせいか、男性っぽい感じはしない。例に漏れず美人だが、祖父が高名な植物学者で、その伝手で出版社の事務に就職したとかで、聞いていると、院生の女性は、実家が太い美人が多い印象を受ける。
偶々、会った人がそうだった、という可能性もあるが、お嬢さん育ちの人が多い、ということなのかもしれない。
残りの院生は、赤Tと荒井さんである。
男性陣の紹介が適当になってしまったが、他意は無い。
華が無いから、とかでは決してない。
だが、年頃を考えると、美人の女性側に注視する方が健全だと思う。…というか、赤Tは、本当に、絵が強過ぎて…。会った後、しばらく、本当に、思考にカットインしてくる回数が増えるから、他の絵で薄めておきたい、というか…。
そうは言えないけど。
一つ言い添えるなら、赤T以外、俺と父を含めて、この場の眼鏡着用率が異常なほど高い。七分の六、実に、87.6%である。
まぁ…眼鏡、っていうか…。真夏の自宅リビングを占める、赤Tの割合を薄めたいような…気が、しなくもないから、早く、優将さんをリビングに来させるために、焼き蕎麦を作ろうかな、と思う。
眼鏡着用率も75%まで下がるし。
…下がっても75%か…。参議院議席の与党議席より多いじゃないか。与党だ、与党。
ああ、こういうこと考える時の俺は疲れてるんだって、優将さんが言ってたな。
…。
あんな手紙読んじゃったら、そりゃ疲れるよ。優将さんだって食欲を無くすだろうさ。
十玉分の焼き蕎麦を作る日に発覚して、逆に良かったかもな。非日常に非日常をぶつけるというか、作業中は、要らぬことを考えないで済みそうだし。
対面式のキッチンだから、調理しながらでも、リビングにいる来客が見えて、更に非日常、という感じがして、丁度いい。
「あー、ソースの良い匂いしてきた…。あ、そう言えば、新井ちゃ…いや、田村さん、クリスマス越え、おめでとう」
「えー、ありがと、荒井ちん。でも、今まで通り、新井ちゃんで良いのにー。そりゃ、名字は、お互い、ややこしかったけど」
「いや…。クリスマス越えを成し遂げし勇者に、心からの敬意を込めて、『田村さん』と呼ばせてくれ…」
「…荒井ちんはヤバかったもんね。うん、そう言ってくれるなら…。うちは、相手がイベント事に興味無いから、逆に良かったんだよね…」
うちの父が地図のデータを飛ばしたせいで、プリントアウトしたエクセルの表を見ながら拡大コピーした白地図に、調査場所をドットで落とす、という、アナログな作業を、赤Tと分担しながらやらざるをえなくなった荒井さんに向かって、諏訪山さんが、「何スか、クリスマス越えって」と、女性にしては低い声で言った。
青木さんが、「ほら」と言った。
「十二月上旬が修論提出締め切りで、十二月中旬が卒論提出締め切りじゃん。博論締め切りが一月でしょ?カップルが、クリスマス前に別れるんだよね、忙し過ぎて。…特に、修論。お正月を挟めないから…」
納得した様に、諏訪山さんが「あー、卒論はね、学部生全員だから、お互い様感あるけど」と言うと、青木さんは、「そうそう」と言った。
「修論は、博士課程前期の二年生だけだから…。クリスマス前に忙し過ぎて、クリスマスまでカップルでいられないことが多いから、『クリスマス越えられない』とか『クリスマス越えが出来ない』とか言うの」
「マァジッスか。初聞きですわ。あたしが、院からの入学だからスかね。あー、でも、ありそうな話スね」
「…いやー、ホント…。やらかしたよ、俺は。あれから彼女、いないからね…。皆、気を付けた方が良い」
暗い声で、そう言う荒井さんに、諏訪山さんは、ボソリと、「夏だからって怪談やめてくださいよ」と言った。
荒井さんは「え、恋バナのつもりだったんだけど、俺」と言ったが、諏訪山さんは、膠も無く、「でも怖かったッスよ」と言った。
青木さんが、紙出しの資料を揃えながら、「怖いよねー」と言った。
「荒井君、ホント、ヤバかったんでしょ?石田さんから聞いたけど。降籏研の伝説になってるよね、最早…。典型的な『クリスマス越え』失敗すぎて。学部生の女の子と付き合ってたんだって?その時」
新井さん改め田村さんが、「そーそー」と言った。
「授業の面倒見てたゼミ生と、いつの間にか付き合ってたから、ビビったー。可愛かった。…ドトールでバイトしてたんだったっけ?あの子。で、もう、結婚して、子供いるって?」
青木さんが「うわー」と言って、諏訪山さんが「怖っ」と言った。荒井さんは、暗い顔で、「うう」と呻いた。
あんまり、昼食前に食欲を無くす人を増やさないでほしいので、過去の傷を穿り返さないであげて頂きたいものである。
食べ物を残さないことに関しては、安心と信頼の実績のある赤Tがいる日だから良いが。
父が、他人事の様に、明るく、「大変だねー」と言う声が聞こえた。
明るいと言えば聞こえはいいんだが、息子の俺からしても、『この教授、多分話聞いてねーな』という感じの声音である。
実際、他人事なんだろうが、元々ゼロだったキャンパスライフへの憧れがマイナスになりそうだから、慰める時は、嘘でも優しい声で言ってほしいものである。
父は案の定、「修論の時、何だっけ」と言った。ほら、『降籏研の伝説』なのに、ろくすっぽ覚えてないじゃないか。その時、主担当教授だろ、多分。
気の毒にも荒井さんは「や…。何か、ホント…、俺が悪かったんですけど…」と、解説を始めた。
いいんですよ、スルーしても…。真面目ですね。
「…修論八十枚書いたところで、インフルエンザAに罹患しまして」
ヒェッ。こっっっわ。
リビングのあちこちで「ヒェッ」とか「うわっ」という声が上がった。…やっぱり怪談だと思いますよ、荒井さん。
「タミフル処方してもらって、三日で無理矢理、インフル治して書いてたら、プリンターがいかれて」
怖い怖い怖い怖い。
「騙し騙し使ってたんですけど。一章書くごとに印刷する、とか、工夫してたんですけど、ほら、主担当教授用と副担当教授用に一部ずつ印刷して、製本しなきゃじゃないですか。全然、何か、…色々、足りなくて…。余裕とか、プリンターのスペックとか。そのうち、プリンターが、黒一色プリント設定なのに、何故かカラーで黒を発色して印刷するようになって。全部書き終わったのに、突然、全インクが切れて。プリンター買いに行く時間も余裕も無くて。テンパりすぎて、コンビニのネット印刷すら思い付かなくて。…携帯見たら…」
田村さんが、小さい声で「彼女から連絡来てたんだよね?」と言った。
荒井さんが「そう」と答えた。
もう聞くのが怖いな…。
「修論でバタバタで、ただでさえ、連絡取らなかったのに、インフルの高熱で、完全に忘れてて、ほぼ放ったらかしてた携帯の着信履歴に、彼女の名前が一番上にあって。…半狂乱で電話して、メールで修論のデータ送って、彼女の家でプリントさせて、持って来させて。そのまま気が抜けたら仮眠取っちゃって。目が冷めて、慌てて、風呂も入らずに大学で待ち合わせて、学生ホールで二部、製本手伝わせて、学生課に提出したところから、何日か記憶が無いんですよ。多分、寝たんだと思うんですけど。相手も卒論時期で、俺…一月に口頭試問でしたし、準備で、その後もバタバタして。…で、相手の卒論提出が終わったくらいに、ちょっと、俺の意識が戻ったんですよ」
何か…『意識が戻った』って台詞が、一番怪談な気がする…。
病院での出来事じゃなくて、日常の、恋愛の話のはずなんだよな?これ。
諏訪山さんが「…あー、クリスマス前ッスね」と、低い声で言った。
「…その女の子も卒論時期なのに、卒論前に、そんなことさせたんスか?控え目に言って、地獄に落ちるがいいですよ」
辛辣。
…言いたいことは分かるけども。
…卒論前の子にインフルエンザをうつさなかっただけ、まだマシかな…。
赤Tが「やめてあげてください」と言った。
…良い奴なんだけどなー。
…今日のTシャツはマゼンタ寄りの赤だね。この前はカーマインレッド寄りの赤だったな。
「もう、俺等院生は、充分、地獄は見てきたじゃないスか。研究会準備が終わらなくて、何度、就職した方がマシだった、と思ったことか。研究発表準備の前に、何人、保健室に担ぎ込まれたか。修論提出する寸前に、何故か、出したくなくなった、って突然言い出して、学生課に行かずに、車に乗って何処かに逃げようとした先輩も見たッス。俺達、相応の罰は受けたッスよ。就職決まる友達、結婚する友達、昇進する友達。そういうのを延々見続けて、それが『元カノ』ッスよ?しかも、もう出産終えてるんすよ?煉獄で許してあげてください。さぁ、この後に続くクライマックスからのグランドフィナーレこそが『降籏研の伝説』の真骨頂ッスよ。御清聴ください」
地獄の手前。ビミョーにフォローになってねぇ。
しかし青木さんは、御清聴などせずに「彼女に携帯変えられてたんでしょ」と言った。
諏訪山さんは無感動に「ネタバレッスね」と言った。
話を盛り上げた赤Tは、また、すべった。
そろそろ焼き蕎麦が出来上がる。
荒井さんは、苦笑いしながら、言った。
「うん。気付いたら、一切の連絡が取れなくなってて。年明けに、彼女のアパートに行ったら、引っ越されてて。ま、四年生だし、卒論後は、ほぼ授業もないし、実際は、引っ越しって言うか、実家に帰ったらしいんだけど。…実家、知らなかったし。…卒業後、地元で就職したって、噂で聞いて。…そういや、就活の話も聞かなかったし。…この前、同窓会で、ゼミにいた子達の、その後の話になって。…今、二人の女の子のお母さんだってさ。…別れ話すらさせてもらえなかった。フラれたというより、夜逃げされたに近いフィナーレ…」
諏訪山さんは、気の毒そうな顔をして「それは確かに、伝説に相応しいグランドフィナーレッスね…」と言った。
田村さんは「同窓会なんて行くからだよ…」と言った。
夏なのに、寒気がしてきたな。
…そろそろ、天使の笑顔の人を煉獄に呼ぶか。
もしルシファーだったら、更なる地獄を創造してしまうだろうが。
クリスマスか…。
El Niño…いや、Hostia nobis missa.
研究にも何にも、犠牲は必要なのかもな…。
陽気に¡Feliz Navidad!とはならないものなのかも。
…いやー、思ってたより業が深いな、キャンパスライフ。憧れが遂にマイナスになった。いやいや、ホント…絶対研究職になんか就かない。
いや…アレだな、結局、何が『業』だと言って、『恋愛より楽しいこと』が研究だから、そういうことがあっても、研究をやめないって話なんだろうから…。
荒井さんも『恋愛の方を優先できなかった』ってわけで。
そういう人間には、恋愛より向いてるんだろうけども。
…ホント、何で、両親とも研究者なんだろう。
…怖くなってきた。
さて、優将さんを呼んだんですよ、玄関からリビングに。
そしたら、珍しく、困った顔をして、言うんですよ、「どうしよう、高良」って。
煉獄に、「この子、ついてきちゃう」って言いながら、白シャツ着た困り顔した美形が、うちのフカフカの愛犬を抱いて、入って来たんですよね。
場が静まり返りましたよね。煉獄が静かに。
あんまりイケメン過ぎると『イケメン』って言われないんですよね、偶に。賞賛じゃなくて感想だから。単なる事実なんです、美は。マネキンみたいなもんで。マネキンが美しいのは当たり前だから褒めないでしょ、マネキンのこと。あるいは、自然現象と言っても良い。『何か桜咲いてない?綺麗』みたいな、『感想』になっちゃって、背景としてスルーされちゃう。
いやー、勉強になります。
努々、『イケメン』と言われただけで喜ぶなかれ、という好例ですよね。
ほら、荒井さん、「そうか、パーツ位置と骨格か…。整形で弄れないやつ…」とか、呟かないんですよ。
そんな、この世の残酷な真理を煉獄で発見してたって、食欲無くすだけですから。焼き蕎麦あげますからね。二杯目からはオム蕎麦にしてあげますから、全てを忘れて食べましょう。
「そっか。歴史さん、ついて来ちゃうか。歴史さんも、おやつ、玄関で食べような。さ、優将、今のうちに、手、洗って。キッチンの方の水道で洗ってもいいから」
「分かった…。え、旨そ。マジで高良が作ったん?」
俺達のやり取りを聞いていた青木さんが、頭を抱えた。
「…綺麗な子が、…高校生が二人、ランチを作ってくれて…。何か、友達の作ったランチを褒めてて…。何、この会話、天国でされてる?犬も可愛い…」
お疲れですね、青木さん、ここは煉獄ですよ。
諏訪山さんが「気を確かに」と言った。
「青木さん、ほら、閼伽井さんがいるじゃないスか。ここは現実スよ」
赤Tを気付け薬みたいな使い方、しないであげて。優将さんとは違う意味で背景になっているけれども。
父が明るく、「皆ごめんねー」と言った。
そうだね、降籏教授のせいで皆、煉獄に集まってくれてるんだから、もっと心を込めて謝った方が良いよ。
…ん?
「…父さん、地図データ飛ばしたって言ってたのに、何で、皆でパソコン見てたの?」
それで諦めて、データ飛ばさない様に、アナログで作ってスキャンすることになったんだよな。何時代のミスなんだ、それは…。もっとあるだろ、データの保存先増やす、とか…。…あー、複数箇所に保存すると、保存自体を複数回やるのを忘れるのか…?
父は、「それがさー」と、明るく言った。
院生全員の顔が曇った。
ねぇ、降籏教授のせいで皆、煉獄に集まってくれてるんだから、もっと深刻な顔で言った方が良いよ。
「亡くなった恩師から預かったデータが出てきたんだよねー、パソコンから。論文に使うように言われてたんだったー。でももう、Excelのパスワード忘れてて、開けなくてー。あははー」
「なっ。…あははー、じゃないだろ。いつのデータだよ…」
「一九九四年って書いてあったー。あははー。Excelのバージョンだけは上がってたから、誰かが何とかしてくれたんだと思うんだけど、それも思い出せないし」
「こっ、ばっ…かやろう、罰当たり!俺が生まれてすらいねー年のデータじゃねーか!何考えてんだ!恩師、気の毒過ぎだろ!」
「だってー。忘れてたんだもん…」
「…嘘でも、もっと申し訳なさそうに言えないんだったら、二杯目からオム蕎麦にして、ケチャップで絵を描かせてあげようかと思ったが、無しだな?」
父は、ショックを受けた顔をして、言った。
「聞いた?荒井くーん。思春期になると、親に、こんな酷いこと言うんだよー?」
あのなー、『馬鹿野郎罰当たり』と言ったことの方にショック受けてくれよ。なんでオム蕎麦ケチャップにしてあげないと言った方に『酷い』と言うんだ。
荒井さんは、困惑しきった顔で「こんな良い子見たことないですけどね」と言った。
「俺が思春期の頃なんて、親の客に料理を作るどころか、台所に立とうとした記憶も、ほぼ無いですし。言ってることも正論だし…多分、精神年齢、俺とかより高いですよ…」
赤Tも「そっスよ」と言った。
「高良君は良い子ッス。…あと…。高良君の焼き蕎麦は…何つーか、常習性があるんすよね、ある種の。俺は…高良君の御飯食べたくて来てるようなとこ、あるッスから」
…そうだったの?!
…だから残さないの…?
諏訪山さんが端的に「キモ」と言った。
父も含めて、赤T以外の全員が青褪めた。しばらくして、珍しく、共感的羞恥心に襲われたらしい父が、顔を真っ赤にして、「ちょっ、赤T!」と言った。
だが赤Tは黙らなかった。
「…凄いんスよ、高良君。ちょっと太めのモチモチの中華麺を使って、そこに、切ったスルメを混ぜてくれるんスよ。太めの麺のモチモチ食感の中に、スルメの、ちょっと歯応えのある食感が混ざってて、オマケに、噛めば噛む程、旨味が出るんス。噛み応えが、もう。しかも、スルメの分、塩分を控えるから、って、ソース少なめにしてくれるんすけど、これが、絶妙なんス。歯に着くから、って、青海苔も鰹節も入れないでいてくれて、でも、スルメが、その風味を補ってて、最高なんス。豚肉との相性も良い。で、紅生姜の代わりに、美味いガリを別添えで出してくれて。お好みで、焼き蕎麦に、ガリ、入れ放題なんス。オム蕎麦のオムも、半熟気味で焼いて、被せてくれるんスよ…。そんで、青海苔も鰹節も入れないでいてくれたことが、オムの上にケチャップをつけた時の酸味に対して、プラスに働いてて。…ああ、もう、今日、焼き蕎麦って聞いた時から、普段より口数少なくなっちゃって、俺」
有難う、そして怖い。
そんなに味の違いが分かるんだったら、ディスポーザーだなんて思ってて悪かったけど、煉獄には更なる地獄を創造しちゃったな、こいつ。美しい反逆者には見えないが、反逆者ではある。
「高良君、夕飯、夕飯は、何スか?!」
「あっ…夕飯は…夏野菜カレー…ですかね…」
決めた。エビフライにしようかと思ってたけど、冷凍してある絆のカレーに、家にある茄子とか獅子唐とかを味噌炒めにして、突っ込もう。
こいつの存在を、絆のカレーの消費に活用してくれよう。
有難う茉莉花さん、献立のヒントをくれて…。
俺、何だか今、無性に茉莉花さんに会いたいし、こいつのことは一生、ディスポーザーだと思うことにするよ。
赤Tは「夏野菜カレー」と呟くと、両目を閉じて、ガッツポーズをした。
更に共感的羞恥心に襲われたらしい父が、真っ赤な顔を、自身の両手で覆った。うーん、こりゃー、理容代を奢りもしますなー。
静寂の中、優将が、珍しく、おどおどしながら、「ちょっと見ても良いですか?」と言って、父のパソコンを弄り始めた。
「えっと…。解凍・圧縮ソフト、入ってます?あー、ありますね。裏技なんですけど…えっと、ちょっと、データのコピーを作りますね、データ消えたら怖いから。そっちでやります」
優将は、しばらく、何事かの作業をした後、「出来ました」と言った。
パソコンを覗き込んだ父は、驚いた顔をした。
「え…。開ける」
「Excelファイルの拡張子をxlsxからzipに変更するんです。で、作成されたzipファイルを右クリックして」
「え…、すご」
「シート保護のパスワードだったから、そう、で、この中のsheet1.xmlファイルをコピーして、デスクトップに。貼り付けたのが、これです。後で消して良いんで」
「…えー、…すご」
「で、sheet1.xmlをメモ帳で開いて、えっと、ちょっと、削除する部分があって。で、上書き保存したのが、これです。そうすると開くんで…」
「…わー!有難う!」
「VBA入ってたら、VBAでもExcelパスワード解除出来るんですが…。あとは、パスワード解除する専用ツールをダウンロードする、とか、方法があるんですけど、人のパソコンに、勝手にダウンロードするのも悪いし…」
「あー、あの和綴じの本の、崩し字を、全部何とかしてくれた子、君?!凄い凄い!有能ー!有難うー」
「いえ、どうも。お昼、御馳走になるんで、このくらいだったら。…お役に立てて、何よりです」
すっげー。優将さん、流石すぎる。言葉遣いも普段と段違い。
煉獄は、優将の有能さと美形さで、赤Tのアレさへの衝撃が払拭されて、相対的に、天国のようになった。
ごめんね、優将さん。見たことなかっただろうけど、これが研究室棟の妖怪達だよ。名前は知らないけど。怖がらせたね。
大丈夫、俺も怖い。
霊障も怖いけど、生きてる人間って、ホント…ねぇ。
ともあれ、和気藹々と、リビングのテーブルは片付けられ、普段のダイニングテーブルの隣に簡易テーブルと椅子を追加で出して、そこに、焼き蕎麦の皿等が並べられた。
来客は全員、簡易テーブルの方に座ったが、俺と父は、いつものように向かい合ってダイニングテーブル座り、優将は、俺の隣の椅子に座った。
「…ハチャメチャに旨い…。え、高良、これ、烏賊素麺入ってる…?」
優将は、一口食べると、口を押えて、そう言った。
気に入ってくれたなら良かった。あんな手紙の存在を知った後だし、ちょっとは、落ち着いた気分になりたいもんだよな。
「ああ、もんじゃ焼きとかに入れる、業務用の切り烏賊なんだ。烏賊素麺の日もあるよ。スルメの日も、烏賊燻製の日もある。冷凍シーフードも生の烏賊も売り切れの時に、それこそ、もんじゃ焼きの切り烏賊にヒントを得て、スルメ入れてみたら、親に好評だったんだよ。生の烏賊より保存もきくし」
嵩増しにもなるし…。それこそ、麺を太めにした切っ掛けも、赤Tの腹持ちを良く出来ないかと模索した結果で、それを、野菜と切り烏賊で嵩増ししてるんだ。普通の太さの麺より美味しく感じたんなら、結果オーライだ。
珍味は嗜好品と考えると単価は安くないので、その時々、安い物を買っている次第だが、今回は十玉分ということもあり、業務用の切り烏賊を購入したのだった。嵩増しとはいえ、隠し味だから、あまり入れ過ぎると、豚肉の良さが生かされないと思うので、加減は必要だと思うが。
「優将、脂っこいの苦手って言ってたけど、うち、サラダ油じゃなくて、太白胡麻油で炒めるんだ。どう?」
「…旨いわ…」
諏訪山さんが、ボソッと「やっぱ、天国でされてる会話かもですね…」と言った。
ふと、父と目が合った。
父は、悄然とした顔をして、空の皿を持って、俺を見詰めている。
食べ終わるの、早っ。
…。
「…分かったよ。二杯目からはオム蕎麦だな?」
父の顔が、パァッと輝いた。
俺が、溜息をつきながら、椅子から立ち上がると、空の皿を持って、俺を見詰めている赤Tと目が合った。
…。
「…オム蕎麦にしたい方は、こちらに、お並びください。…優将、どうする?」
優将は、オロオロしながら「あの」と言った。これ、言い難いことがある時の口癖なんだってことが分かってきた。
「俺、まだ、一口しか…」
「大丈夫。無理しないで。ゆっくり食べて」
怖がらせたね。
大丈夫、俺も怖い。
マジ、すんげー喰うの早いな、父さんと赤T。
高校生男子が引く、って、なかなかだよ。
オムが焼けるのを待つ間、赤Tは、穏やかな微笑みを浮かべて、俺の手元を見詰めていた。
キッツ。…話題を探そう。
「あの…カレーで、いいんですか?夕飯。焼き蕎麦だって、カレーだって、そんな、珍しい物じゃないですけど…」
赤Tは、笑顔のまま、「俺はカレーに信仰を捧げているので。どんな具材も愛してます」と言った。
…夕飯の献立の話をしたかったのであって、カレーに対する信仰告白を受けるつもりじゃなかったんだが。
「そ…うなんですかーぁ。えーっと、普段、ご自分では、どんなカレーを作られていらっしゃるんですか?」
「まず肉じゃがを作ります」
…?
「…閼伽井さん?」
「肉じゃがを大量に作って、三分の一は肉じゃがに、三分の一はシチューに、三分の一はカレーにします」
「…ああ、途中まで作り方、同じですもんね…?」
「はい、だから、シチューにもカレーにも、白滝入っちゃってます」
「…抜きましょ?」
それか、白滝無しの肉じゃがでいいのでは。
「良いんス、めんどいんで!大丈夫、白滝が入ってるカレーだって、俺は愛せます。そんで、カレーがなくなったら、鍋に白米を入れて、ドライカレーに」
「ちょ、赤T!」
父が、またも、共感的羞恥心に襲われたようで、真っ赤になって、俺と赤Tの間に入り込んできた。
「あっ、ありがと、高良!…皿は赤Tに洗わせるから、それ作って、焼き蕎麦食べ終わったら、…ちょっと、友達と遊んできて、外で。お願い…」
…皿を洗わなくていいとか言われたの、初めてだけど。…相当恥ずかしいらしいな。
いやいや、恥ずかしがらずとも、自分だけで食べて満足してるなら、何の料理に白滝が入っててもいいし、自炊してるだけ偉いと思うけどな。
赤Tが美味けりゃ、どんな作り方のドライカレーでも良いと思うし。
ただ、父さんに共感的羞恥心を抱かせて、世話を焼かせるってのは…赤T、やはり、凄い。