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座敷童の恋  作者: 櫨山黎
第八章
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hostia nobis missa:That they live in the same house!

「ほら、財布」


「有難う、優将…」


「高良、マジで、大丈夫?疲れてんじゃね?流石(さすが)に、らしくないって」


「そうかも…」


 昨晩、カレーを食べた後、茉莉花と共に、すぐに柴野家を()したのだが、どうやら、俺は、優将の家に財布を忘れたらしいのだ。


 恐ろしいことに、今月から、携帯電話で交通系電子マネーを利用するようになって、ほとんど財布を使わなくなってきたので、電車に乗る時も不便が無く、全く気付かなかった。

 携帯を持っていなかった時は考えられなかった話であり、携帯を持ったら持ったで、持つことに慣れると、この(ざま)である。


 そこで、夜、俺の財布がリビングにあることに気づいた優将が連絡をくれて、今日の昼、財布を届けてくれることになったのである。


「本当に有難う、優将。…何か、毎日会ってるな…」


「あー、ぶっちゃけ(いま)カノより長い時間会ってるかもだわ」


 笑えねぇ。


「あ、ツネ、今日は家の中にいるのかぁ」


 玄関先で、タイル製の三和土(たたき)に置かれた段ボール箱の中に涼感毛布を敷いた上にいる歴史(つねふみ)さんに気づいて、優将は、天使のような笑顔を浮かべながら、歴史(つねふみ)さんの目の高さの合わせてくれるようにして(かが)むと、歴史(つねふみ)さんの頭を、ワシワシと()でた。


 …すっごい良い笑顔。

 普段の無表情は何処(いずこ)へ。

 邪気が無いと書いて無邪気(むじゃき)、って感じ。


 …いや、ホント、幼なじみさんにも、そんな顔で接してあげたらいいと思うんですけどね。


 と、言うか、こんな顔を見せてくれるようになったくらい、俺とも親しくなった、ということなのかもしれないが。(はか)らずも家庭の事情なども知ってしまったし、現時点で、()しかしたら一番距離の近い友達になりつつあるかもしれない。


「日中、三十度超しそうな日は、家で飼うことになったんだ。一先(ひとま)ず、今日は来客もあるし、玄関で」


「そういや賑やかだな」


 優将は、三和土(たたき)に出ている靴を、チラリと見た。


 そう、父親の連日の帰りの遅さの原因である、前回のフィールドワークの資料(まと)めが終わらなさ過ぎて、(つい)に、赤T(アカティー)達が作業を手伝いに来てくれているのである。


「父のところの学生さんが、研究作業を手伝いに来てくれてて。最悪、何人かは泊りかも、って」


「…そんな終わんないの?仕事。助手(じょしゅ)使うくらい?」


「…一人でやってる人の(ほう)が多いと思いたいんだけどね」


 研究の作業補助として、学生を助手にするのは、よくある話だとは思うが。


 何しろ、スケジュール管理が下手な自覚がある父なので、通常業務との並行が不得手(ふえて)なのだと思う。


 どれ程データを取ったところで、集計して、仕える形にまで(まと)めないと、論文作成にも引用出来ないし、学会発表も出来ない。もっと内輪で研究会の論文冊子(さっし)を作成するにしても、話は同じである。

 最近の冊子(さっし)の編集担当は赤T(アカティー)らしいので、その関係もあって、来てくれたのかな、と思っている。

 そう頻繁(ひんぱん)にあることではないが、こういうことは昔からあるので、常時、男子学生なら六人くらいは泊められる構えがある。


 しかし、寝具を用意しても、赤T(アカティー)は玄関で爆睡していたりするので、意味があるのかどうかは分からない。

 小学校の頃、夜中にトイレに起きた時に、薄暗がりの足元に、赤T(アカティー)のボサボサの頭があったのは、密かに(トラウマ)になっている。


 赤T(アカティー)が、睡眠時に薄目を開けてるタイプだとか、知りたくなかったよな、ホント。


 当時の俺が叫ばなかったことは、称賛(しょうさん)に値すると、今でも思っている。




「でも、そっか、ツネ、おうち貰えたのかー、良かったなー。高良が涼しくしてくれたかー」


 優将は、聞いたこともないくらい優しい声で、そう言いながら、歴史(つねふみ)さんを、更に()でた。

 歴史(つねふみ)さんは、目を細めて、大人しくしている。気分が良さそうである。


 母親が涼感グッズなどを駆使して作った、簡易的な段ボール製の居場所だから、俺の功績というわけでもなく、しかも、おうちを貰えた、とまで言ってもらえると、面映(おもは)ゆいのだが。


 ともあれ、来客が帰ったら、リビングに移動させる算段を立ててやらなければならない。


「そうだ、暑いだろ、優将。こんな暑い中、財布届けに、わざわざ来てくれたんだから、御礼に、昼でも喰ってかないか?どうせこれから、炊き出し並みの量、作るんだ、一人増えても変わらない」


「…おー。そんなに?」


「院生が五人来てて。焼き蕎麦でも出そうかって。俺と父親入れて、七人だから、麺、十玉買ってきたわ」


「…マジで炊き出しか、でなきゃ、屋台だな。…じゃー、イタダキマス」


「おー、上がってくれ。洗面所、こっちな」


「オジャマシマス」


 洗面所に通した優将は、手を洗いながら、不思議そうに言った。


「…マジで高良が作るん?その量のヤキソバ」


「…いつものことだよ」


 親の客が来たら、誰が来ても、その中で一番、若輩者(じゃくはいもの)だからな。母親すら不在の場合、俺が持て成し役になりがちなのだ。


 大丈夫、十玉でも、赤T(アカティー)がいるから残らない。赤T(アカティー)がいる時は、足りない(ほう)が問題だから。


 赤T(アカティー)の、食べ物に対する態度って…こう、沢山食べてくることを、作り手としては喜ぶべきなんだろうが、何と言うか…。見てると、ディスポーザーに食材突っ込んでる気分になるんだよな、何か…。

 来客なのに、()った物を少量、数種類出すより、「焼き蕎麦()いいか」と思ってしまう、と言うか…。


「あ、リビング、今、作業場になってるんだ。二階の俺の部屋に、一旦、来てもらおうかな。飲み物くらい出すし」


 優将が、洗面所から出て、階段を上ろうとすると、歴史(つねふみ)さんが段ボール箱から出てきて、ついて来ようとしてしまった。

 玄関のフローリングの上で、歴史(つねふみ)さんの爪が、チャッチャッと音を立てた。


「お、歴史(つねふみ)さん。ごめんな。お客さんは、俺の部屋に来るんだ。良い子で、玄関にいてくれ。…口に、いろいろ入れちゃうかもなんだよなぁ、床に降ろしておくと。家飼用(いえかいよう)(しつけ)もしてないし、部屋も、まだ、犬を飼うための(しつら)えになってないし」


「…あー。俺、抱いとこうか?」


「んー、小型犬と中型犬の、中間くらいの大きさだから、ずっと抱いておくのも、不可能ではないけど。服に相当毛がつくぞ」


 何か、悪いよな。…絶対、その白シャツ、高いだろ。

 長袖でも、この暑さで、袖を巻くるだけで涼しげに見えるのは凄いと思う。


「いや、毛は別に」


 優将が「気にしないけど」と言い掛けたところで、「お客さん?」と言って、父が笑顔でやって来た。


「あ、お邪魔します…」


「父さん、クラスメイトの、柴野(しばの)優将(ゆうま)。忘れ物届けてくれて」


 忘れ物が財布だとは言い(にく)いから、指摘されるまで言いたくないが。


「どぉもー。宜しくー。高良の父ですー」


「そうだ、翻訳(ほんやく)のバイト、手伝ってくれた子なんだ、この子。一緒に昼、家で食べていい?」


「へー、そうなんだぁ、勿論(もちろん)。お昼御飯、あと二、三人くらいなら、増えても、そんなに変わんないよね?高良」


「…うん、まぁ…。俺が作るからな、昼。変わらないけど…」


 明るく「どぉぞー」と言う父の脚に、歴史(つねふみ)さんが(まと)わり付いた。


「父さん、歴史(つねふみ)さんが、優将に(なつ)いてて、二階に、ついて来ちゃうんだけど、どうにかならない?」


「ありゃりゃ、つねちゃ、そっかー、ちょっと遊ぼうかー」


「さ、優将、今のうちだ。階段上ってくれ」


 大急ぎで階段を上がる俺に続きながら、優将は、困惑した声を出した。


「え…?」


「あれは、俺達を助けてくれる、というポーズを取った、作業中のリフレッシュなんだ。集中してたら、落雷の音にすら気づかないのに、来客くらいで作業場から出てくるなんて、飽きてる証拠だよ。学生に手伝わせてる手前、『飽きた』って言い出せないんだ。理由をあげて、遊ばせてあげよう」


「…何か、高良んち、お前の(ほう)が大人みたいだな。昼飯作ったり、リフレッシュさせてあげたり…」


 そんなことは無い、と言いたいところなんだが、この短時間で、父というキャラクターを全て理解してもらうのは不可能だと思うので、現在、その発言を否定するだけの材料を提示できないから、黙っておくしかない。


 …(いま)だに、俺でも、父親がどういう人間か、を、(つか)みかねているからな。


 一言で物事が説明出来たら、論文は()らん、というところだろうか。


 父親のキャラクターについての論文なんか、書く気はないが、油断していたら、本来なら父が依頼されたはずの、和綴(わと)じの本の翻訳(ほんやく)内容についてのレポートを書く羽目(はめ)になったからな。


 人生、何が起こるか分からんので、今後、父に関する書物を編著(へんちょ)しないとも限らないのが恐ろしいところである。

 …リアルに、親の死後、論文集の出版に協力、とかな。


 …なんで両親とも、研究者なんだろう…。

 洒落(しゃれ)になってねぇ。


 幸いにして、レポート作成に関しては、現状、動物に対してより、和綴(わと)じの本の翻訳(ほんやく)内容を(まと)める(ほう)に興味を持てているから、苦痛には感じないのだが、状況としては謎だ。


 …油断するとレポートを書く羽目(はめ)になる家って何だよ。


 いやいや。…油断すると、レポートどころか、博論(はくろん)のテーマを勝手に決められてたりするんだ。


 文系転向しないってば、だから。

 そりゃ、フィールドワークをやって研究してはみたいけど、研究職に就くとか、進学先を変える、とかまでは、考えてないから。


 人生を左右される前に、何としても、レポートくらいの労力で済ませたいところである。




「お、ロフトか。意外に圧迫感なくて、いいな」


 机の上は資料だらけだが、そこは目を(つぶ)ってほしい。他の物はロフトの下のクローゼットに収まる程度しか所有していないので、人を通せる程度には片付いていると思うのだが。


 俺は、ラグの上に、簡易的な、木製のミニテーブルを出しながら、優将に、そこの辺りに座ってくれるように、目で(うなが)した。


「多分、ロフト部分を白で増設したから、視覚的に、狭く感じないんだと思う。建売(たてうり)だったせいか、そんなに内装も()ってなくて、壁紙も白だし。元々、屋根裏がついてなくて、暑くてさ、この部屋。個室として貰う時に、母親が、屋根裏を付けるなら、ついでに、って、屋根裏部分をロフトにすることを提案してくれて」


 携帯電話以外は、ほとんど手ぶらと言ってもいいような状態でやってきた、白シャツにジーンズ姿なのに地味に見えない、恐ろしく脚の長い人間は、胡坐(あぐら)()いて床に座りながら、天井の(ほう)を見上げた。


「あー、エアコンも、ロフト付近設置か。あそこで寝てるのか?」


「そうそう、勉強する場所と、物を食べる場所と、寝る場所は、分けたいんだよな。ゴチャゴチャするから。ベッドは無いけど、ロフトに布団敷いて寝てる」


 何かをする場所は、其々(それぞれ)に分けないと、一発で部屋が散らかるのは、父親の書斎で立証済みだ。


 父は、資料を漁る場所と内容を整理する場所と論文執筆場所と、酷い時は、食べる場所と寝る場所が同じだから、本棚から出した本が床と机に置かれていて、机も床も、本と物で、密林(みつりん)か、カッパドキアみたいな景観になっているのだ。


 何故、今、リビングを父に占拠(せんきょ)されているかといえば、物のせいで床面積が圧迫されて、書斎に人間が入りきらないからである。


 本も書類も、サッサと電子データ化して、現物は廃棄してしまう、母の書斎とは正反対である。


 実は母は、意外にも、合理主義なくせに、インテリアには興味があると見えて、昔はリビングにも、海外のインテリアカタログが置いてあったし、俺も、その縁で、多少はインテリアや建築に詳しくなった。


 だから、俺の部屋にロフトを、などという提案も、父からではなく、母から出たのは、我が家では自然な流れだった。


 今も、母の書斎には、イギリス製の、グリーンのバンカーランプなぞ置いてあり、その、インテリアに対する(こだわ)りの片鱗(へんりん)(うかが)える。


 それなのに、雰囲気が、御洒落(おしゃれ)な書斎よりもラボに寄って見えるのは不思議な話だが。


 合理性を追求すると、インテリアは、ラボと()(かよ)るのかもしれない。

 世界遺産(カッパドキア)()(かよ)る書斎よりは良いと思うが。




「へー、案外広いな、ここから見るだけでも」


「この部屋の三分の二くらいの広さはあるな。寝具以外置いてないから、(たい)荷重(かじゅう)的にも、大人が二、三人寝られると思う」


 ジャンプする奴とかいたら、分からんが。流石(さすが)に、あそこから()ぼうとした友達とか、今のところいないし、大丈夫だろう。


「あー、絆とか、泊まんの?あそこに」


「実は、家が近すぎて、泊ったことないんだよな、絆」


 帰れなくなる、ってことがないから。電車がなくなる、とかもないし。それに、絆以外だと、泊める程親しい、って感じでも無かったし。考えてみると、誰も、この部屋に泊めたことが無い。


「え?近いから泊まるんじゃ?」


「え?…えっ?」


 …えーと。(けい)の家、とか…?


 …。


「…優将さん、つかぬことを(うかが)いますが…。()()()の家に泊ったりなど、なさったり…?」


 ああ、まぁ、小さい時、とか…?ね?小学校の頃とかなら…?


「…何で敬語?あー、最後に茉莉花んちに泊ったの、学祭の前だっけかな?」


「…今年じゃん!」


 高二ですよね?!え、学祭六月だから…二ヶ月前じゃん?!


 最近じゃん!


 怖い怖い怖い。距離感怖い。


 …うわー。そりゃ、自分ちみたいにキッチン使うんだろうなー、お互い、って、もう、想像に(かた)くないじゃないですか。


 怖っ。


 優将は、言い(にく)そうに、「んー」と言った。


「…そう。だから、そろそろ、距離、取らんとなー、と思って…」


 …うーん。そう聞くと…。そうなのかな。…年頃の?親御さんが家に帰って来ない女の子の家に?しかも、彼氏でもないのに、となると。…いや、彼氏でも不味いか?


 優将は、珍しく、(うつむ)いて、ボソボソと言った。


「あー、まー…。いろいろ、反省して。こう…。自分の物ではない財布は…自分から、本人に届けよう、とかさ」


「何だ、それ、落とし物の窃盗(せっとう)の話?」


「や、…落とし物、っつーか。ま、ほら。高良の財布は届けたじゃん」


 怖い怖い怖い。

 高良の財布()、って何。


 優将の(かたわ)らに立ち尽くす俺の、恐怖の表情に気付いたのか、優将は、「あの」と言った。


「…何か、こう。目的のために手段を選ばない時に…。でも、自分でも、そんな、上手くいくとか、思ってなかった時に…。こう、凄く…上手くいってしまうと。上手く()()できてしまったりすると…。ああ、良くないな、って。思うから、そういう(たび)に…彼女、作って。距離…取らんと。良くない、って」


 何言ってるか全然分からんが、『操作』とか『彼女』とかいう単語から推察すると。…なんか、取り敢えず…。茉莉花さんを、()()したりしたくないから、距離を取ろうと努力している、という話に繋がるのかな…?


 怖い怖い怖い。

 俺に抱えきれるレベルの関係性や葛藤(かっとう)の話ではないぞ。


「え、っとー。あー、有難うな、優将。作業、手伝ってくれて」


 何とか話題を転換しようとした俺に対して、優将は、ホッとした顔を見せてから、話に乗ってくれた。


「ん。そういや俺、コピーしか見なかったけど、元は、どんな本なん?」


「…あー、見るか?金庫に入れてんだけど」


「へー、金庫。見る」




 優将は、立ち上がって、俺の傍に来た。俺は、ロフトの下に、優将を招き入れた。

 ロフトの下に設置したウォールランプを()けると、多少、秘密基地感が出るので、ここは、実は俺より、絆のお気に入りの場所である。


 二人で、ロフトの下のクローゼットの前に座って、クローゼットの中にある、濃い緑の手持ち金庫を出すと、俺は、ダイヤルを回して、中から、防水用にビニール袋で包んだままの、和綴(わと)じの本を取り出した。


 一人ではない、と思うと、久しぶりに、この本を開く勇気が出た。そう考えると、イレギュラーだが、優将の来訪は有難(ありがた)い。今日は()だ、一度も、座敷童を見ていないし。


「おー。(さわ)っても良いん?コモンジョ?」


「あー、失くしたり、汚したりしなきゃいいだろ。珍しいか?」


「俺、こういう感じの本自体、見たことねーわ」


「あー、和綴(わと)じ、初めてか」


 俺が「どうぞ」と言って、優将に、和綴(わと)じの本を手渡すと、その、卵色の表紙の冊子(さっし)を、優将は、(うやうや)しく(ささ)げ持った。

 何だか大真面目で、逆に、小さい子の(よう)仕草(しぐさ)に見えて、可笑(おか)しかった。


 やっぱり、誰かと開くなら、怖くないな。


 それにしても、苧干原(おぼしばら)瑞月(みづき)の母親は、何故、こんな本を、娘に残したんだろう。




「えー、これ、(ぜん)(ページ)袋綴(ふくろと)じなん?」


「そうそう。何かに使った紙を再利用して、折り畳んで()じて、裏に字を書き付けられるようにしてあるんだな。()じられる前は、古今集か何かの写しだったんだと思う」


 裏表、筆跡も違う。再利用する前は、達筆で、学のある人間が何かを書き付けていた紙だったのだろう。前に覗き込んだ時は、『わ()せなをみやこ()()て』と、見えた。


 多分、古今和歌集の『我が背子(せこ)を みやこにやりて』だろう。『恋しい夫を都に送り出した』みたいな意味だ。


 この和綴じの本に文字を書いた人間も、学はあったろうし、字も下手ではないのだが、書き付けられた古今和歌集の(ほう)が、余程、端麗(たんれい)で読み(やす)い字なので、格が違いそうだったのは覚えている。


 怖くなってしまったからというもの、ろくに確認しなかったが。


 考えてみれば、そんな、和歌書き付けメモの裏紙の束を怖がっていた、と思うと、滑稽(こっけい)ではある。

 …そりゃ、霊障さえ無きゃ、俺だって…な?




 優将は、感心した(よう)に「へー」と言って、(ため)めつ(すが)めつしながら、(ページ)を、一枚一枚確認した。


「何してんだ?優将」


「やー、アレだろ?この前話してくれたじゃん、あの女のかーちゃんの本だったって。なーんで娘に残したかなー、と思って。で、俺、知らんかったからさ、()()()()本だって」


「え?」


袋綴(ふくろと)じは、()()があるだろ?」


「何の話…?」


「あー、あった、あった」



 優将が、そう言うと、ヒラリ、と、一枚の紙が、和綴(わと)じの本の内側から落ちた。




「…はぁ?!」


()()()を娘に残したんだろ。多分、手紙か何かじゃね?」


「え…?」


「古文書?なら、捨てられないって、分かってたんだろ。内容を翻訳(ほんやく)出来る、なんて、フツー思わんし、翻訳(ほんやく)の算段もつかんのよ、フツーは。だから『本の内容』は関係ねんじゃね?『捨てられないで娘の手に届く』ことだけが、『手紙を残す手段』としてだけが大事だったんだろ。今だって、金庫に入れるような扱い、してもらって。これなら、気づかれず、捨てられずに、娘に手紙が残せる。スゲー、紙のサイズ、ピッタリ。コピーとかしても、(はさ)み込んだ隙間から出て来なかったってことだもんな。巧妙だなー」


「…あっ」


「だろ?高良が翻訳(ほんやく)出来るし、とーちゃんも『翻訳(ほんやく)』で依頼されたから、()()()()がかかってたんだろ。フツーは、どうやって翻訳(ほんやく)したらいいか、とも思い付かないし、誰かに翻訳(ほんやく)させよう、とも思わん。翻訳(ほんやく)も、そもそも出来んって。何か、偶然、娘も含めて、翻訳(ほんやく)の算段を思い付く賢い人間が揃っちまって、伝手(つて)まで揃って、翻訳(ほんやく)の方向に進んじまっただけなんだろ、多分」


「…嘘だろ。じゃあ…。翻訳(ほんやく)したところで、本の内容自体は、母親が、あの子に残してくれたものとは関係ないじゃないか…」


「違うだろ、()()()()()()』は翻訳(ほんやく)なんだよ。合ってる。だから、翻訳(ほんやく)は続けるとして。…ま、この手紙は、あいつに渡してやるのが良いんじゃね?」




 そう言って、落ちた紙を拾い上げた優将の顔は、みるみるうちに青褪(あおざ)めていった。




「…先に優将に、この和綴(わと)じの本を手渡してたら、すぐ、『本来の母親の意図(いと)』は解明できてたのかな…。すごいな、優将。…どうした?」


「あ、えっと。…俺は、見なかったから、ってことに、…しといてあげて。俺は、知らないことに…」


「…え?」




 優将から、紙を受け取ってみる。無印良品の便箋(びんせん)の一枚のような感じで、シンプルだが、しっかりした感じの紙だった。






 瑞月へ。


 この手紙を読む頃、何歳になってるかな。この手紙に、お母さんの、一生の秘密を残そうと思います。実家の蔵で見つけたの。こういう本だったら、誰にも捨てられないなって思ったから、貰っちゃった。よく知らないけど、そこそこ大事な本みたい。だから、この秘密が、瑞月に届くまで、誰も、この本を捨てないでいてくれると思います。


 瑞月のお父さんは、私の、腹違いのお兄さんです。今、瑞月を引き取ってくれてるから、戸籍上も、お父さんだね。


 私達は、十歳離れた、腹違いの兄妹ですが、蔵で逢引きをしていました。私は、大好きな人の子を内緒で、イギリスで生むことを選びました。親友の、小松瑞月ちゃんにだけは、相談してたんだけど、気に病ませたみたいで、私が妊娠したことを知った時に、自殺しちゃったの。でも、大好きな友達だったから、瑞月の名前に貰いました。


 ごめんね。小松瑞月ちゃんのお兄さんが、瑞月ちゃんの残した日記を見つけて読んで、脅してきたので、お金を取られたくなくて、私は、刺してしまいました。揉み消してはもらえたけど、私は、許されないことをしました。

 私が選ぶこと、することは、皆に迷惑を掛けました。

 これから死ぬまでには、何か一つは、誰かの役に立ちたいって、思ってます。

 大好きだよ。ごめんね。でも、瑞月を産みたかったから産んだってことだけは、信じてください。早産だったけど、無事に育ってくれて、本当に嬉しかった。ありがとう。自由に生きてね。


 苧干原(おぼしばら)弥朝(みさ)







※カッパドキア トルコの世界遺産。ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群。いくつかの地下都市を有しており、主として初期キリスト教徒によって、隠れ場所として使用された。カッパドキアの神父たちは、四世紀頃の、初期キリスト教哲学の多くに対して不可欠な存在だった。




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