hostia nobis missa:That they live in the same house!
「ほら、財布」
「有難う、優将…」
「高良、マジで、大丈夫?疲れてんじゃね?流石に、らしくないって」
「そうかも…」
昨晩、カレーを食べた後、茉莉花と共に、すぐに柴野家を辞したのだが、どうやら、俺は、優将の家に財布を忘れたらしいのだ。
恐ろしいことに、今月から、携帯電話で交通系電子マネーを利用するようになって、ほとんど財布を使わなくなってきたので、電車に乗る時も不便が無く、全く気付かなかった。
携帯を持っていなかった時は考えられなかった話であり、携帯を持ったら持ったで、持つことに慣れると、この様である。
そこで、夜、俺の財布がリビングにあることに気づいた優将が連絡をくれて、今日の昼、財布を届けてくれることになったのである。
「本当に有難う、優将。…何か、毎日会ってるな…」
「あー、ぶっちゃけ今カノより長い時間会ってるかもだわ」
笑えねぇ。
「あ、ツネ、今日は家の中にいるのかぁ」
玄関先で、タイル製の三和土に置かれた段ボール箱の中に涼感毛布を敷いた上にいる歴史さんに気づいて、優将は、天使のような笑顔を浮かべながら、歴史さんの目の高さの合わせてくれるようにして屈むと、歴史さんの頭を、ワシワシと撫でた。
…すっごい良い笑顔。
普段の無表情は何処へ。
邪気が無いと書いて無邪気、って感じ。
…いや、ホント、幼なじみさんにも、そんな顔で接してあげたらいいと思うんですけどね。
と、言うか、こんな顔を見せてくれるようになったくらい、俺とも親しくなった、ということなのかもしれないが。図らずも家庭の事情なども知ってしまったし、現時点で、若しかしたら一番距離の近い友達になりつつあるかもしれない。
「日中、三十度超しそうな日は、家で飼うことになったんだ。一先ず、今日は来客もあるし、玄関で」
「そういや賑やかだな」
優将は、三和土に出ている靴を、チラリと見た。
そう、父親の連日の帰りの遅さの原因である、前回のフィールドワークの資料纏めが終わらなさ過ぎて、遂に、赤T達が作業を手伝いに来てくれているのである。
「父のところの学生さんが、研究作業を手伝いに来てくれてて。最悪、何人かは泊りかも、って」
「…そんな終わんないの?仕事。助手使うくらい?」
「…一人でやってる人の方が多いと思いたいんだけどね」
研究の作業補助として、学生を助手にするのは、よくある話だとは思うが。
何しろ、スケジュール管理が下手な自覚がある父なので、通常業務との並行が不得手なのだと思う。
どれ程データを取ったところで、集計して、仕える形にまで纏めないと、論文作成にも引用出来ないし、学会発表も出来ない。もっと内輪で研究会の論文冊子を作成するにしても、話は同じである。
最近の冊子の編集担当は赤Tらしいので、その関係もあって、来てくれたのかな、と思っている。
そう頻繁にあることではないが、こういうことは昔からあるので、常時、男子学生なら六人くらいは泊められる構えがある。
しかし、寝具を用意しても、赤Tは玄関で爆睡していたりするので、意味があるのかどうかは分からない。
小学校の頃、夜中にトイレに起きた時に、薄暗がりの足元に、赤Tのボサボサの頭があったのは、密かに傷になっている。
赤Tが、睡眠時に薄目を開けてるタイプだとか、知りたくなかったよな、ホント。
当時の俺が叫ばなかったことは、称賛に値すると、今でも思っている。
「でも、そっか、ツネ、おうち貰えたのかー、良かったなー。高良が涼しくしてくれたかー」
優将は、聞いたこともないくらい優しい声で、そう言いながら、歴史さんを、更に撫でた。
歴史さんは、目を細めて、大人しくしている。気分が良さそうである。
母親が涼感グッズなどを駆使して作った、簡易的な段ボール製の居場所だから、俺の功績というわけでもなく、しかも、おうちを貰えた、とまで言ってもらえると、面映ゆいのだが。
ともあれ、来客が帰ったら、リビングに移動させる算段を立ててやらなければならない。
「そうだ、暑いだろ、優将。こんな暑い中、財布届けに、わざわざ来てくれたんだから、御礼に、昼でも喰ってかないか?どうせこれから、炊き出し並みの量、作るんだ、一人増えても変わらない」
「…おー。そんなに?」
「院生が五人来てて。焼き蕎麦でも出そうかって。俺と父親入れて、七人だから、麺、十玉買ってきたわ」
「…マジで炊き出しか、でなきゃ、屋台だな。…じゃー、イタダキマス」
「おー、上がってくれ。洗面所、こっちな」
「オジャマシマス」
洗面所に通した優将は、手を洗いながら、不思議そうに言った。
「…マジで高良が作るん?その量のヤキソバ」
「…いつものことだよ」
親の客が来たら、誰が来ても、その中で一番、若輩者だからな。母親すら不在の場合、俺が持て成し役になりがちなのだ。
大丈夫、十玉でも、赤Tがいるから残らない。赤Tがいる時は、足りない方が問題だから。
赤Tの、食べ物に対する態度って…こう、沢山食べてくることを、作り手としては喜ぶべきなんだろうが、何と言うか…。見てると、ディスポーザーに食材突っ込んでる気分になるんだよな、何か…。
来客なのに、凝った物を少量、数種類出すより、「焼き蕎麦でいいか」と思ってしまう、と言うか…。
「あ、リビング、今、作業場になってるんだ。二階の俺の部屋に、一旦、来てもらおうかな。飲み物くらい出すし」
優将が、洗面所から出て、階段を上ろうとすると、歴史さんが段ボール箱から出てきて、ついて来ようとしてしまった。
玄関のフローリングの上で、歴史さんの爪が、チャッチャッと音を立てた。
「お、歴史さん。ごめんな。お客さんは、俺の部屋に来るんだ。良い子で、玄関にいてくれ。…口に、いろいろ入れちゃうかもなんだよなぁ、床に降ろしておくと。家飼用の躾もしてないし、部屋も、まだ、犬を飼うための設えになってないし」
「…あー。俺、抱いとこうか?」
「んー、小型犬と中型犬の、中間くらいの大きさだから、ずっと抱いておくのも、不可能ではないけど。服に相当毛がつくぞ」
何か、悪いよな。…絶対、その白シャツ、高いだろ。
長袖でも、この暑さで、袖を巻くるだけで涼しげに見えるのは凄いと思う。
「いや、毛は別に」
優将が「気にしないけど」と言い掛けたところで、「お客さん?」と言って、父が笑顔でやって来た。
「あ、お邪魔します…」
「父さん、クラスメイトの、柴野優将。忘れ物届けてくれて」
忘れ物が財布だとは言い難いから、指摘されるまで言いたくないが。
「どぉもー。宜しくー。高良の父ですー」
「そうだ、翻訳のバイト、手伝ってくれた子なんだ、この子。一緒に昼、家で食べていい?」
「へー、そうなんだぁ、勿論。お昼御飯、あと二、三人くらいなら、増えても、そんなに変わんないよね?高良」
「…うん、まぁ…。俺が作るからな、昼。変わらないけど…」
明るく「どぉぞー」と言う父の脚に、歴史さんが纏わり付いた。
「父さん、歴史さんが、優将に懐いてて、二階に、ついて来ちゃうんだけど、どうにかならない?」
「ありゃりゃ、つねちゃ、そっかー、ちょっと遊ぼうかー」
「さ、優将、今のうちだ。階段上ってくれ」
大急ぎで階段を上がる俺に続きながら、優将は、困惑した声を出した。
「え…?」
「あれは、俺達を助けてくれる、というポーズを取った、作業中のリフレッシュなんだ。集中してたら、落雷の音にすら気づかないのに、来客くらいで作業場から出てくるなんて、飽きてる証拠だよ。学生に手伝わせてる手前、『飽きた』って言い出せないんだ。理由をあげて、遊ばせてあげよう」
「…何か、高良んち、お前の方が大人みたいだな。昼飯作ったり、リフレッシュさせてあげたり…」
そんなことは無い、と言いたいところなんだが、この短時間で、父というキャラクターを全て理解してもらうのは不可能だと思うので、現在、その発言を否定するだけの材料を提示できないから、黙っておくしかない。
…未だに、俺でも、父親がどういう人間か、を、掴みかねているからな。
一言で物事が説明出来たら、論文は要らん、というところだろうか。
父親のキャラクターについての論文なんか、書く気はないが、油断していたら、本来なら父が依頼されたはずの、和綴じの本の翻訳内容についてのレポートを書く羽目になったからな。
人生、何が起こるか分からんので、今後、父に関する書物を編著しないとも限らないのが恐ろしいところである。
…リアルに、親の死後、論文集の出版に協力、とかな。
…なんで両親とも、研究者なんだろう…。
洒落になってねぇ。
幸いにして、レポート作成に関しては、現状、動物に対してより、和綴じの本の翻訳内容を纏める方に興味を持てているから、苦痛には感じないのだが、状況としては謎だ。
…油断するとレポートを書く羽目になる家って何だよ。
いやいや。…油断すると、レポートどころか、博論のテーマを勝手に決められてたりするんだ。
文系転向しないってば、だから。
そりゃ、フィールドワークをやって研究してはみたいけど、研究職に就くとか、進学先を変える、とかまでは、考えてないから。
人生を左右される前に、何としても、レポートくらいの労力で済ませたいところである。
「お、ロフトか。意外に圧迫感なくて、いいな」
机の上は資料だらけだが、そこは目を瞑ってほしい。他の物はロフトの下のクローゼットに収まる程度しか所有していないので、人を通せる程度には片付いていると思うのだが。
俺は、ラグの上に、簡易的な、木製のミニテーブルを出しながら、優将に、そこの辺りに座ってくれるように、目で促した。
「多分、ロフト部分を白で増設したから、視覚的に、狭く感じないんだと思う。建売だったせいか、そんなに内装も凝ってなくて、壁紙も白だし。元々、屋根裏がついてなくて、暑くてさ、この部屋。個室として貰う時に、母親が、屋根裏を付けるなら、ついでに、って、屋根裏部分をロフトにすることを提案してくれて」
携帯電話以外は、ほとんど手ぶらと言ってもいいような状態でやってきた、白シャツにジーンズ姿なのに地味に見えない、恐ろしく脚の長い人間は、胡坐を掻いて床に座りながら、天井の方を見上げた。
「あー、エアコンも、ロフト付近設置か。あそこで寝てるのか?」
「そうそう、勉強する場所と、物を食べる場所と、寝る場所は、分けたいんだよな。ゴチャゴチャするから。ベッドは無いけど、ロフトに布団敷いて寝てる」
何かをする場所は、其々に分けないと、一発で部屋が散らかるのは、父親の書斎で立証済みだ。
父は、資料を漁る場所と内容を整理する場所と論文執筆場所と、酷い時は、食べる場所と寝る場所が同じだから、本棚から出した本が床と机に置かれていて、机も床も、本と物で、密林か、カッパドキアみたいな景観になっているのだ。
何故、今、リビングを父に占拠されているかといえば、物のせいで床面積が圧迫されて、書斎に人間が入りきらないからである。
本も書類も、サッサと電子データ化して、現物は廃棄してしまう、母の書斎とは正反対である。
実は母は、意外にも、合理主義なくせに、インテリアには興味があると見えて、昔はリビングにも、海外のインテリアカタログが置いてあったし、俺も、その縁で、多少はインテリアや建築に詳しくなった。
だから、俺の部屋にロフトを、などという提案も、父からではなく、母から出たのは、我が家では自然な流れだった。
今も、母の書斎には、イギリス製の、グリーンのバンカーランプなぞ置いてあり、その、インテリアに対する拘りの片鱗が窺える。
それなのに、雰囲気が、御洒落な書斎よりもラボに寄って見えるのは不思議な話だが。
合理性を追求すると、インテリアは、ラボと似通るのかもしれない。
世界遺産に似通る書斎よりは良いと思うが。
「へー、案外広いな、ここから見るだけでも」
「この部屋の三分の二くらいの広さはあるな。寝具以外置いてないから、耐荷重的にも、大人が二、三人寝られると思う」
ジャンプする奴とかいたら、分からんが。流石に、あそこから跳ぼうとした友達とか、今のところいないし、大丈夫だろう。
「あー、絆とか、泊まんの?あそこに」
「実は、家が近すぎて、泊ったことないんだよな、絆」
帰れなくなる、ってことがないから。電車がなくなる、とかもないし。それに、絆以外だと、泊める程親しい、って感じでも無かったし。考えてみると、誰も、この部屋に泊めたことが無い。
「え?近いから泊まるんじゃ?」
「え?…えっ?」
…えーと。慧の家、とか…?
…。
「…優将さん、つかぬことを伺いますが…。お隣りの家に泊ったりなど、なさったり…?」
ああ、まぁ、小さい時、とか…?ね?小学校の頃とかなら…?
「…何で敬語?あー、最後に茉莉花んちに泊ったの、学祭の前だっけかな?」
「…今年じゃん!」
高二ですよね?!え、学祭六月だから…二ヶ月前じゃん?!
最近じゃん!
怖い怖い怖い。距離感怖い。
…うわー。そりゃ、自分ちみたいにキッチン使うんだろうなー、お互い、って、もう、想像に難くないじゃないですか。
怖っ。
優将は、言い難そうに、「んー」と言った。
「…そう。だから、そろそろ、距離、取らんとなー、と思って…」
…うーん。そう聞くと…。そうなのかな。…年頃の?親御さんが家に帰って来ない女の子の家に?しかも、彼氏でもないのに、となると。…いや、彼氏でも不味いか?
優将は、珍しく、俯いて、ボソボソと言った。
「あー、まー…。いろいろ、反省して。こう…。自分の物ではない財布は…自分から、本人に届けよう、とかさ」
「何だ、それ、落とし物の窃盗の話?」
「や、…落とし物、っつーか。ま、ほら。高良の財布は届けたじゃん」
怖い怖い怖い。
高良の財布は、って何。
優将の傍らに立ち尽くす俺の、恐怖の表情に気付いたのか、優将は、「あの」と言った。
「…何か、こう。目的のために手段を選ばない時に…。でも、自分でも、そんな、上手くいくとか、思ってなかった時に…。こう、凄く…上手くいってしまうと。上手く操作できてしまったりすると…。ああ、良くないな、って。思うから、そういう度に…彼女、作って。距離…取らんと。良くない、って」
何言ってるか全然分からんが、『操作』とか『彼女』とかいう単語から推察すると。…なんか、取り敢えず…。茉莉花さんを、操作したりしたくないから、距離を取ろうと努力している、という話に繋がるのかな…?
怖い怖い怖い。
俺に抱えきれるレベルの関係性や葛藤の話ではないぞ。
「え、っとー。あー、有難うな、優将。作業、手伝ってくれて」
何とか話題を転換しようとした俺に対して、優将は、ホッとした顔を見せてから、話に乗ってくれた。
「ん。そういや俺、コピーしか見なかったけど、元は、どんな本なん?」
「…あー、見るか?金庫に入れてんだけど」
「へー、金庫。見る」
優将は、立ち上がって、俺の傍に来た。俺は、ロフトの下に、優将を招き入れた。
ロフトの下に設置したウォールランプを点けると、多少、秘密基地感が出るので、ここは、実は俺より、絆のお気に入りの場所である。
二人で、ロフトの下のクローゼットの前に座って、クローゼットの中にある、濃い緑の手持ち金庫を出すと、俺は、ダイヤルを回して、中から、防水用にビニール袋で包んだままの、和綴じの本を取り出した。
一人ではない、と思うと、久しぶりに、この本を開く勇気が出た。そう考えると、イレギュラーだが、優将の来訪は有難い。今日は未だ、一度も、座敷童を見ていないし。
「おー。触っても良いん?コモンジョ?」
「あー、失くしたり、汚したりしなきゃいいだろ。珍しいか?」
「俺、こういう感じの本自体、見たことねーわ」
「あー、和綴じ、初めてか」
俺が「どうぞ」と言って、優将に、和綴じの本を手渡すと、その、卵色の表紙の冊子を、優将は、恭しく捧げ持った。
何だか大真面目で、逆に、小さい子の様な仕草に見えて、可笑しかった。
やっぱり、誰かと開くなら、怖くないな。
それにしても、苧干原瑞月の母親は、何故、こんな本を、娘に残したんだろう。
「えー、これ、全頁、袋綴じなん?」
「そうそう。何かに使った紙を再利用して、折り畳んで綴じて、裏に字を書き付けられるようにしてあるんだな。綴じられる前は、古今集か何かの写しだったんだと思う」
裏表、筆跡も違う。再利用する前は、達筆で、学のある人間が何かを書き付けていた紙だったのだろう。前に覗き込んだ時は、『わ可せなをみやこ爾や利て』と、見えた。
多分、古今和歌集の『我が背子を みやこにやりて』だろう。『恋しい夫を都に送り出した』みたいな意味だ。
この和綴じの本に文字を書いた人間も、学はあったろうし、字も下手ではないのだが、書き付けられた古今和歌集の方が、余程、端麗で読み易い字なので、格が違いそうだったのは覚えている。
怖くなってしまったからというもの、ろくに確認しなかったが。
考えてみれば、そんな、和歌書き付けメモの裏紙の束を怖がっていた、と思うと、滑稽ではある。
…そりゃ、霊障さえ無きゃ、俺だって…な?
優将は、感心した様に「へー」と言って、矯めつ眇めつしながら、頁を、一枚一枚確認した。
「何してんだ?優将」
「やー、アレだろ?この前話してくれたじゃん、あの女のかーちゃんの本だったって。なーんで娘に残したかなー、と思って。で、俺、知らんかったからさ、こういう本だって」
「え?」
「袋綴じは、中身があるだろ?」
「何の話…?」
「あー、あった、あった」
優将が、そう言うと、ヒラリ、と、一枚の紙が、和綴じの本の内側から落ちた。
「…はぁ?!」
「こっちを娘に残したんだろ。多分、手紙か何かじゃね?」
「え…?」
「古文書?なら、捨てられないって、分かってたんだろ。内容を翻訳出来る、なんて、フツー思わんし、翻訳の算段もつかんのよ、フツーは。だから『本の内容』は関係ねんじゃね?『捨てられないで娘の手に届く』ことだけが、『手紙を残す手段』としてだけが大事だったんだろ。今だって、金庫に入れるような扱い、してもらって。これなら、気づかれず、捨てられずに、娘に手紙が残せる。スゲー、紙のサイズ、ピッタリ。コピーとかしても、挟み込んだ隙間から出て来なかったってことだもんな。巧妙だなー」
「…あっ」
「だろ?高良が翻訳出来るし、とーちゃんも『翻訳』で依頼されたから、バイアスがかかってたんだろ。フツーは、どうやって翻訳したらいいか、とも思い付かないし、誰かに翻訳させよう、とも思わん。翻訳も、そもそも出来んって。何か、偶然、娘も含めて、翻訳の算段を思い付く賢い人間が揃っちまって、伝手まで揃って、翻訳の方向に進んじまっただけなんだろ、多分」
「…嘘だろ。じゃあ…。翻訳したところで、本の内容自体は、母親が、あの子に残してくれたものとは関係ないじゃないか…」
「違うだろ、あの女の『依頼』は翻訳なんだよ。合ってる。だから、翻訳は続けるとして。…ま、この手紙は、あいつに渡してやるのが良いんじゃね?」
そう言って、落ちた紙を拾い上げた優将の顔は、みるみるうちに青褪めていった。
「…先に優将に、この和綴じの本を手渡してたら、すぐ、『本来の母親の意図』は解明できてたのかな…。すごいな、優将。…どうした?」
「あ、えっと。…俺は、見なかったから、ってことに、…しといてあげて。俺は、知らないことに…」
「…え?」
優将から、紙を受け取ってみる。無印良品の便箋の一枚のような感じで、シンプルだが、しっかりした感じの紙だった。
瑞月へ。
この手紙を読む頃、何歳になってるかな。この手紙に、お母さんの、一生の秘密を残そうと思います。実家の蔵で見つけたの。こういう本だったら、誰にも捨てられないなって思ったから、貰っちゃった。よく知らないけど、そこそこ大事な本みたい。だから、この秘密が、瑞月に届くまで、誰も、この本を捨てないでいてくれると思います。
瑞月のお父さんは、私の、腹違いのお兄さんです。今、瑞月を引き取ってくれてるから、戸籍上も、お父さんだね。
私達は、十歳離れた、腹違いの兄妹ですが、蔵で逢引きをしていました。私は、大好きな人の子を内緒で、イギリスで生むことを選びました。親友の、小松瑞月ちゃんにだけは、相談してたんだけど、気に病ませたみたいで、私が妊娠したことを知った時に、自殺しちゃったの。でも、大好きな友達だったから、瑞月の名前に貰いました。
ごめんね。小松瑞月ちゃんのお兄さんが、瑞月ちゃんの残した日記を見つけて読んで、脅してきたので、お金を取られたくなくて、私は、刺してしまいました。揉み消してはもらえたけど、私は、許されないことをしました。
私が選ぶこと、することは、皆に迷惑を掛けました。
これから死ぬまでには、何か一つは、誰かの役に立ちたいって、思ってます。
大好きだよ。ごめんね。でも、瑞月を産みたかったから産んだってことだけは、信じてください。早産だったけど、無事に育ってくれて、本当に嬉しかった。ありがとう。自由に生きてね。
苧干原弥朝
※カッパドキア トルコの世界遺産。ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群。いくつかの地下都市を有しており、主として初期キリスト教徒によって、隠れ場所として使用された。カッパドキアの神父たちは、四世紀頃の、初期キリスト教哲学の多くに対して不可欠な存在だった。