震動:Shaking.
夜、月の光を浴びながら、少しだけ外に出る。
寝起きに、ピザ食べたような感じになっちゃった。
でも、苺、美味しかったな。
無花果も。
あー、昼よりは涼しいかも。
ゴミ捨て場の近くに、秋祭りのお知らせが貼ってあった。
テストと思いっきりかぶりそうだなー。
浴衣ちょっと着たいけど。
今年は、どうしようかな。
一瞬、水戸さんの顔が浮かんだ。
浴衣でデートなんて、普通憧れだよね。
一緒にお祭り行こうとかって言うべきなのかな。
一応、付き合ってるんだから。
でも、何か、二人でお祭りに行くのを想像すると、違和感があった。
お祭りってさ、慧や優将と行くもんだったな。
もっと小さい時は、中澤さんや里歌さんがついてきてくれてさ。
里歌さんハードコンタクトなのに、夜、目にゴミが入っちゃって大変なことになったり、三人揃って迷子になって怒られたりしたのに、凄く楽しかった気がする。
―――やめよう、思い出すのは。
もう、三人で一緒に行ったりしないよ。
何だか、慧とは、あれから疎遠だし。
もともと、慧んちには、私達から出向いてたんだから、私のところに慧が誘いに来たりはしないだろうし、優将は―――こういうの、玲那と行くんだろうな。
行くとしたらだけど。
…お祭りなんて、大して楽しみにしてたわけじゃないけど。
三人で行くことはもうないな、なんて漠然と思ったら、…楽しくなくなった。
悪い癖だ。
そういうのはもう、卒業しなきゃ。
今日は、高良がいたから、ちょっと、優将とも一緒にいられた気がする。
…何か、ぎこちなかった気がするけど。
一人で食べない御飯って、やっぱり、いいなって、思っちゃう。
…優将に、紫苑学院の学祭の時のお金、返せてない。
封筒に入れて、まだ、机の引き出しに入れたまま。
何となく「返して」って言われない気がするんだけど。
…もう、高良の『バイト』も終わっちゃったら、優将との繫がりが、あれっぽっちの、借りたお金しか、なくなっちゃった気がして。
何だか、自分から、渡しに行けない。
そういうのも、良くないよね。
…今月中には、返そう。
リビングに、紙袋が置いてあった。
私がいない時に、お母さんが、洗濯物、置いて行ってたみたい。
鉢合わせなくて、良かった、って、思うようになっちゃった。…あんなに昔は、会いたかったのに。
親とだって、こうなんだから。
優将と関係が変わっちゃっても、仕方が無いことだ。
血が繋がってるのでも、なんでもないんだもん。
高良と約束したから、ちょっと読んでみる。
寝ちゃって、悪かったな、って。
でも、高良、凄く優しかったな。
…思ったより、読める。
ああ、これを書いた人には、好きな女の人がいたんだな、って。
『おかうさん、いらしき。けふは快晴なり。諸々のこと、教はる。内緒、と言ひて、歌ひき。短き歌にて、我にも歌ふべく勧めき。をのこご、ゆかしげに寄り来にけり。我に懐きたれば、つき来ぬ。をみなご、おかうさんに懐きき。おかうさんも、美しと言へり。父の恥かきっ子なれど、自慢の妹なり。』
『をのこご、己と、をみなごとのことを知らず。さりとて、睦まじ過ぐれば、あとあと、困ぜぬやと思へり。いつか、教ふべきや、と迷ふ。』
『おかうさんより、けふも、土産を給ふ。年の頃、数へに十八と聞く。勤勉にして清らか。親孝行なれば、かくして、名代におはするなり。』
『教え給ふる、諸々のこと。日ごとに、興、増しゆく。我も行かまほしき心地す。』
『蔵なるものがために来たるは分かれり。預かりて長し。返す当てもあらず。わらべら、さる物ありとは知らず。わらはを守るまじきや、と思へり。』
『サトさんが、お倉坊主なんめり、と言ふ。郷里に聞く、わらはの怪異と言ふ。をのこごのことを教へず、もろともに遊ばせば、さる風に言はれなむ。』
『サトさん、道祖神分からず。おのれの里には、丸き石なりき、といふ。をみなごの清げなる顔したれば、覚ゆる、といふ。自慢の妹なり。』
確かに、日記っぽいんだよなー。
『女の子』が妹で、別に、自分に懐いてる『男の子』がいる。数えで十八歳の『おこうさん』が、よく来てくれて、なんか、『サトさん』って人もいる。
出来る分だけ、打ち込んで、送ってみた。
中澤さんが、お母さんのお古のパソコンを、学校の調べ物用に設定してくれたから、ワードも入ってる。
バージョンは、そんなに古くないみたい。
フリック入力の方が得意だから、携帯で打ち込んで、自分のパソコンにメールして、ワードにコピペしちゃった。
よくない癖。
お風呂から上がったら、水戸さんから携帯に、連絡が来てた。
どうしようかな、と思う。
結局、一人でいるよりいいのかな、と思っちゃって、明日、家に行くことにした。
水戸さんちの近くの公園に、二人で出てみたけど。
何かね、『相応しくない』って感じがするんだよね。
水戸さんと、一緒に街に行ったりとか、遊びに行ったりとかって。
電話も、何話していいか、よく分かんないし。
ただ、ほぼアトリエみたいになっている水戸さんの部屋で会うだけ。
そりゃ、連絡くらいはするけど。
ただひたすら、水戸さんが絵を描くのを、ぼんやり見ていたり、キスしたりするだけだ。
それ以上はしない。
と、言うより、してこない。
キスした後、私と目が合うと、水戸さんは私を、ちょっと避ける。
何か後ろめたいのかもな、この人。
私が誰かに見えるのかもしれないし、瑞月を思い出すのかもしれないし。
どっちにしろ、何かの葛藤があるんだと思う。
自分のせいで死んだ人に、そっくりな私と一緒にいて。
…死人とキスしてる気にならないのかなーって、他人事みたいに思う。
…よく付き合ってるよね、私達。
瑞月が、水戸さんの学校に行っちゃったみたいなんだけどな。
聞いた方がいのかな。
…分かんない。
聞いても、どうしたらいいか、分かんないし。
瑞月と、どう接したらいいか、…分かんないし。
結局、水戸さんの部屋で、ぼんやり、ただ、水戸さんの手が動くのを見る。
描いてるうちに、水戸さんは、私が見てるのを忘れる。
その時間が案外長い。
その間に、水戸さんは、微笑んだり、キャンバスを睨んだり、何か呟いたりする。
水戸さんの絵は、正直怖い。
上手いとかとは別だ。
描かずにはいられずに、現実の不安を吐き出しているようにも、俯瞰して、計算して描いているようにも見える。
怖いな、と思う。
この人は、執着や不安が強いんだと思う、多分。
そしてそれが多分、描きたいものの全てで、でも、その執着を、ある瞬間に、バッサリと捨ててしまうような人でもある気がする。
凄く極端な人なんだ、って、思う。
その日、完成した絵は、また、どこかの展示用らしかった。
私は、改めて、離れた位置で全体を見て、息をのんだ。
「これ…」
タイトルは…。
「ああ…『マドンナ・リリー』」
一本の白い百合が、歪んだ光を滲ませた黄土色の背景の中に咲いてる。
ただ、それだけの絵だった。
花弁は捻れて、雄蕊は花粉をベットリつけて、雌蘂は曖昧な輪郭で、どれも、しっとりと、歪んだ光を湛えてる。
自分を誇るみたいに。
まだ蕾も残ってる茎は、Y字に分かれてて、平行な葉脈の、深い緑色の葉が、申し訳程度についてる。
ただの百合の絵だけど。
分かる。
これは、『私』で、『瑞月』で、…『ミサさん』なんだな、って。
沈黙が続いた。
それが、感想の代わりだった。
「怖い顔…してる」
水戸さんが、ようやく口を開いた。
そうかも。
怖い絵だな、って思ったから。
今まで見た絵の中で、一番性的だと思ったから、黙っちゃった。
『聖母』じゃないんじゃないかな、って。
何かあったのかな。
この人。
私も瑞月も『ミサさん』も。
こんなに描いてても。
絵として吐き出しきったら。
バッサリ切り捨ててしまえるんだろうな、って、分かっちゃった。
私はまた、『家』に入れないんだろうな、って。
一人で、絵を描いてて、平気な人なんだなって。
何をするより楽しいことがあるから、…結局、一人が、平気な人なんだって。
誰のことが好きでも、一緒なんだろうな、と思う。
多分、瑞月と付き合ってても、この人、こんななんじゃないかな、って。
人間は孤独だと思ってるから、孤独じゃない振りをしているものを見ると、嘘だと思うんだろうな。
孤独なのが当たり前だと思ってるから。
一人が平気なんだろうな。
そういうところは、凄いな、と思った。
多分、そういう風に、自分が思えないから。
一人で御飯、食べたくない。
きっと、これ、分かり合えない。
「これ、展示会に出すの?」
「…そのつもり」
もう大分慣れたつもりだった絵の具の臭いが、その時、ふと鼻についた。
水戸さんを見た。
水戸さんの目を見た。
水戸さんは、今度は怯まなかった。
私の目を見返してきた。
でも、また。
目を逸らした。
何となく、寄り添って、ベッドに座った。
暖かいな、と思った。
この人のこと、どう感じるのが正しいのかなぁ。
多分この人、私が、いつも絵に何かを感じているのに、気付いている。
だから一つは、後ろめたいんだと思う。
本当に、どうして一緒にいるのかなぁ。
私の顔を見ても、死んだ人に似てて、後ろめたそうで。
瑞月のことも後ろめたそうで。
私が絵を見ても、後ろめたそう。
一緒にいる意味って、何だろう、って、思う。
自分でも、何で、ここに来ちゃうのかも、よく分かんないけど。
「シモーネ・マルティーニの『受胎告知』って絵、知ってる?」
水戸さんの胸元にくっつけた頭の方に、妙に声が響いた。
不思議な震動だった。
「さぁ…見たことあるかもね、学校柄」
…学校。
ミッション系の、お嬢さん学校。
女子高なんか、って、里歌さんに言われちゃったの、…多分、まだ、気にしてる。
好きでも嫌いでもない学校だったし、友達だっているのに、そこに所属してるだけで、『なんか』って見下されちゃったような、…凄く、複雑な気分。
里歌さんは、そんなつもりで言ったんじゃないと思うけど。
黙っていると、水戸さんは、勝手に話を続けた。
…聞いてるだけでいいんだったら、こんなに楽なことは無い。
「中世か初期ルネサンスかの中間かな?国際ゴシック様式の代表作。そこにね、『マドンナ・リリー』も描いてあるんだ」
視線を上に上げたら、水戸さんの喉仏が見えた。
上下に動いてる。
「マドンナ・リリーって、他の百合と、どう違うの?」
「宗教画的な決まりごとかな。聖母の、目に見えない純潔をあらわす白百合。だから、雄蕊が描かれないのが決まりだったんだ」
「…じゃあ、あれ『マドンナ・リリー』じゃないね、やっぱり」
また、ちょっと沈黙して、水戸さんが困ったように笑った。
また、執着が動いた。
私は、右手の人差し指で、そっと水戸さんの喉仏に触れた。
水戸さんは、少し、驚いたように震えた。
でも、そのまま、話し始めた。
「分かっちゃうか、やっぱり。でも、あれは『マドンナ・リリー』なんだ」
聖母もミサさんも、『マドンナ・リリー』なのかな。
屈折した人だな、と、ぼんやり、思った。
喉仏から伝わる震動は、何だか面白かった。
でも、眠くなってきた。
「…茉莉花ちゃん?」
「…喋ってて」
馬鹿みたい。
眠いから本を読んでって言ってる、小さい子と、そんなに変わらないこと、言ってる気がする。
でも、震動が、妙に心地よくて、指先が喉仏から離れなかった。
喋っててほしい。
「…喉仏ってさ。英語で“adam's apple”って言うんだ。『アダムの林檎』って意味。エデンの園の禁断の実の林檎がアダムの喉につかえて、喉仏になったって事らしいよ。日本では、ここの骨が仏様の姿に似た形だから、『喉仏』って言うらしいけどね」
本格的に眠りに入りそうな時、私は水戸さんに起こされた。
外はもう暗くて、帰る時間だった。