矢印:The two finger-posts both pointed along it.
散歩から帰って、歴史さんに餌と水をあげて、シャワーを浴びた。
タクシーに乗って常緑学院に行ったのが、何日も前のような気分だが、全部、今日のことだ。
…結果的にだが『本を開く恐怖』からは解放されてしまった。
コピーが、更に、印字の原文になってしまうと、相当、恐怖感が薄まった気がする。
『現物』ではないからなのだろうが。
加えて、茉莉花という、共同作業者もいる、と思うと、優将の働きも加えて、有難い限りである。
今日一日での作業進捗の目覚ましさに、自分でも、本当に驚いている。
霊障の話を信じてくれた茉莉花と、霊障の話など聞かなくても、目覚ましい働きをしてくれた優将に、感謝だ。
父からの『友達とやる』という提案は、正解だったのかもしれない。
髪を乾かしてから、リビングで、麦茶を飲みながら、原文の紙の束を、クリップ留めしたものを見詰めてみる。
優将、有難うな。
優将が茉莉花を、操作したくない、という話を、じっくり考えてみる。
操作。
…考えてみると。相手を、自分の性的な欲求を満たす方向に操作したり、相手を自分に依存させる方向に操作することも。
…不可能では、ない。
いや、多分。あの、高知能な男の懸念は、恐らくそれだ、という気がした。
魔がさしたら。
出来てしまうのではないか、と。
そして、優将の、タクシーでの言い分を信じるなら、操作してしまう、ということは、操作したい、ということなのだ、本当は。
何故、操作したくなってしまうか、なんて。
自覚があったら地獄だな…。
『茉莉花が、誰といたいかは、別だから』
そう。
…本当に『好き』だったら、多分、自分の意志で、自分のことを選んでほしいだろうに。
『操作』してしまったら。
…どっぷり、自分の優しさに浸らせて、依存させて、自分を『好きにさせて』しまったら。
本当に手に入れたい、『相手が自分の意志で選んでくれた』自分なんて、永遠に手に入らなくなりそうな気がするよな。
『一緒に閉じ籠りたくなる』
『俺から逃げてほしいなー、皆』
誰のことも?皆?
…操作したくない。
他人を操作なんて、出来ないもんだと、俺は、今でも思ってるんだけど。
好きな子を大事にしたいから操作したくない、というのは、…それこそ、理解は出来なくても、共感は出来る気がした。
葛藤が、恋愛を越えて、肉体に行って、一周回って恋愛に戻ってきてる感じ。
…そこまできたら、自覚なんて、拒絶したいかもな。
…。
…最近気づいたことがある。
会話が、それほど得意でない俺。
得意でないが。
…何故か、共感力が以前より高まっている気がする。
今日は、タクシーの時から違和感があったが。
前は分からなかったような、前、興味を持たなかったことまで、分かるようになってないか?
…このところ、ずっと。
…茉莉花に会った頃から?
ビクリ、とする。
そうか。
―――――――――座敷童が見えるようになった頃から?
あの霊障が、そういったことにも、影響してる、と?
優将の『家』には入れたけど。
ゾワッ、とした。
恋仲に。
自分に興味や好意を持ってくれて。
自分に時間を使ってくれて。
あの子が、自分を『家』に招き入れて。
自分と同じ空間で、同じ時間を過ごしてくれるのが、『怖い』。
取り込まれるのが、怖い。
『家』に。
あの子に。
幼なじみの絆と育った、男の、高校生の俺が。
俺、という値が。
同じ方向性の、幼なじみと育った、女の子の、高校生の、あの子に。
置換可能になってしまって。
それは。
ベクトルが重なってしまって。
あの子と、同じ値になってしまって。
あの子以外が、喜びじゃなくなったら。
どうしよう。
慌てて、紙の束を捲る。
分かってんだよ、もう、この状態だったら、詳細が何か、まだ読めてなくたって、『出るはずのない文化財』が、何か、くらいは。
好奇心の波が押し寄せる。
新しいことを知るのは、喜び。
でも。
あの子以外が、喜びじゃなくなったら。
こんなの、簡単に紙切れになる。
自分が自分じゃなくなるみたいで『怖い』。
今持っている興味の何もかもが、あの子に塗り替えられるのが、怖い。
分かってる。
繁華街でホットサンドなんか食べてたら。
…長野に行けない。
誰にお勧めしても一緒に飲んでくれないジュースなんか飲んでたら、資料は読めない。
仮に出来たって、楽しくビデオ通話なんか、ずっとしてたら、郷土資料と実地資料の比較は出来ない。
フィールドワークのデータも、エクセルに落とせないし、エクセルのデータを分布図にも落とせない。
どうしよう。
…好奇心が何かと戦ってて。
そうだ、自覚なんて、拒絶したい。
おまけに、相手の一番の心の傷であろう、『育児放棄』に、踏み込まなければならない。
相手の『家』に踏み込むなら。
解決は恐らく、高校生の俺には出来ないし、相手も、育児放棄されていることを、周りに知られたがっていないかも分からない。
でも。
本当に、一緒にいたいんだったら。
それ等を避けて通るのは、きっと、俺には無理で。
そして結局、相手の心が、もし、自分に向いてくれたら、絶対、相手が、自分の喜びになってしまって。
…一緒にいないのは、無理だ、きっと。
気軽に調べ物をしに、『家』を留守に出来ない。
『怖い』。
自分が、取り込まれてしまいそうで。
自分が相手に置き換えられてしまいそうで。
違う、こんなの。『保身』だ。
見て見ぬ振りと同じだ。
『好き』だったら。
一緒にいて、傷に向き合って。
…ずっと一緒にいて。
『一緒に閉じ籠りたくなる』
ああ、『怖い』。
今、知りたいのに、あの場所に隠れている物が。
花の香りのする、あの子と、『家』に、閉じ籠ることが望みになったら。
どうしよう。
『外』に、出られなくなったら。
知りたいことは、一生、諦めなければ。
ハッとする。
傍らに、振袖姿の女の子が立っている。
女の子は俯いて、珍しく、こちらを見ない。
フッと、女の子は消えてしまった。
…ごめんな。
『いる』のに。見て見ぬ振りして。
『保身』だな。
ふと、涙が出る。
他人の墓の上で踊ってるようなもんかもしれない、過去のことを、調べて、ほじくり返して、記録して、検証して、比較して、研究して。
他人の墓を掘り起こしてるだけかもしれない。
『知りたい』から。
あそこで、どんな思いで、誰が死んで、何が残ってたって。
本当は、こうして、生きている時に、相手が、何を考えてたか、どうしてほしかったのか、傍にいて、知ってあげた方が。
いや、そんなこと思ったって、相手が『誰といたいかは、別』だから。
何を自分が考えていたって、相手の心が自分に向いてくれるわけではないから。
やっぱり、結論、自覚なんて、あったら地獄になるだけなんだろう。
親が帰ってくるのを待たずに、寝た。
何もかも忘れて、眠りたい。
変な夢を見た。
真っ白い空間で、瑞月がフワフワと浮かびながら、水戸から逃げている。
水戸は、切ない表情で、沢山の『矢印』を瑞月に向かって飛ばしていた。
『矢印』は、様々な色をしていた。
その『矢印』は、水戸が、優将がタクシーを指し示したように、スッと腕を瑞月の方に差し出すと、遅いような早いようなスピードで、その方向に放たれるのだった。
瑞月は、迷惑そうな顔をして、器用に、それを避けていた。
俺は、俺の周囲で繰り広げられる光景を、ただ傍観していた。
白い空間の中、常緑学院の制服のまま、フワフワ浮かんで逃げ回る瑞月。
地面を走り回りながら瑞月を追いかける、私服のTシャツに制服のズボン姿の水戸。
何故か、瑞月と目が合った。
そこで、目が覚めた。
朝、起きてもまだ、ボーっとしていた。
今日は珍しく、覚醒が遅い。
そのまま階下に降りて、ダイニングテーブルの椅子に座っていると、父がやってきた。
「おはよう」
「…うはよーございます」
「お、眠そうだね。珍しい」
「何か…矢印の飛んでる夢、見た」
「おお、何か性的な夢だね」
「…はぁ?」
俺は吃驚して、ちょっと目が覚めた。
父は、鼻歌で『Jesus Loves Me』を歌いながら、楽しげにパントリーの方に向かった。食品を漁るのだろう。
この民俗学者は、案外歌が上手い。あと、一度覚えた歌を忘れない。
俺が一時期、先輩に強制参加させられていた聖歌隊で歌っていた歌も、よく覚えている。
独自の意見の主張は激しい代わりに、入ってきた外来の物に対しても偏見が無い、と言おうか、目線がフラットなのも、父の持ち味だと思う。
明治時代、近代化、西洋化の波として、キリスト教と一緒に、讃美歌が入ってくることで、日本の、長い伝統をもつ、それぞれの地域の歌も、近代化され、塗り潰されてしまった、という事実が有る。だから本来、それ等が消える前に記録していこうとする側面を持つ、民俗学という学問とキリスト教は、相性が良くないのかもしれないが、日本に入ってきてから、それなりに年月を重ねているが故に、キリスト教の要素が含まれる歴史や文化、民俗というものも、この国には存在する。
それ等を表現するならば、縦軸が宗教で、横軸が民俗の…座標軸と言うよりは、最早、マトリクス図のようなものだろうか。
父のフラットな目線は、そういったマトリクス図上に、様々な要素を整理するのに向いていると思う。
それにしても、疲れている方が、思考がグルグル、回転よく回る気がする。生産性も整合性も置き去りで、実は、頭は上手く回っていないから、ハムスターの回し車みたいな感じなのかもしれない。
でも、変な単位を考えるとかまでは、頭の中だからいいとしても、それを口に出すのは相当疲れていたのだと思う。あんまりああいう感じになったことがないから、自分でも驚いた。
脳疲労は怖い。
応急処置的なものは沢山あっても、睡眠くらいしか完全回復の手段が無い。
父の鼻歌を聞きながら、まだ覚醒しきっていない頭で、懐かしいな、と、ぼんやり思った。
明治時代に日本に輸入された最古の讃美歌『Jesus Loves Me, This I Know』は、現在も、讃美歌461番として残っているが、野口雨情の作詞した童謡、『シャボン玉』の換骨奪胎、という噂が有る。
シャボン玉は、生まれて直ぐ死んでしまった雨情の娘を表現している、という説も有り、歌詞の『taking children on his knee,saying, "Let them come to me."』の『children』も、若くして亡くなった少年のことらしい。
それを知ってから、『シャボン玉』の歌詞を聞いても、夭折の子達を思い浮かべる様になった。
曲調に反して、明るい歌ではないと思うのだが、嫌いではない。
「…父さん、仕事は?」
父は、ドラえもんが四次元ポケットから道具を取り出す時の口調で、「午前休~」と言った。朝から、どういうテンションの高さなんだ。
聞けば、今日が午前休だから、昨日、遅めに帰ってきたというのもあったらしい。
母は、とっくに出掛けていた。
ダイニングテーブルの上には何もない。
父が家に残っている時は、母は、朝食を用意してくれないことが多い。
母は、朝食が軽いのだ。
朝は胃に物が入らない、と、よく言う。
父が、バタンと、勢い良く冷蔵庫を閉める音がした。
その音に合わせて、思わず俺は目を瞑ってしまった。
眉根に皺が寄る。
母が注意するのだが、強く冷蔵庫を閉める癖が、どうしても直せないらしい。
多分、食べ物を見つけた喜びが、彼を勢い付かせるのだと思う。
父は、コップを二つと牛乳のパックを持ってきて、俺の向かい側に座った。
そして、牛乳をコップに注いで、俺の前に置いた。
気が付くと、いつの間にやら、彼はパンの袋を抱えていた。
特売で買ったロールパンか。
「どうぞー」
「どうも…」
…眠い。
矢印が、性的な夢?…そうなんだろうか。…そうかも?思考が纏まらない。
…ああ、誰だっけな、面白いこと、言ってたの。
刺さって、雲丹みたいになっちゃう、って。
それにしても、瑞月と水戸か。
夢に見るなんて、昨日は相当印象が強かったんだろうな。
これからの人生、後何年あるんだかわからないが、『他校に乱入してきて学生の腹を殴る女』なんて、もう見られないだろうし。…『墓場で暴れる女』も、追加しておくか。うん、もう見られないと思う。そう願いたい。目に入る場所で頻発してたら、どんな治安の悪さだ、という話になってしまうので。
…いや、慧さん。墓場の件までは御存知ないだろうが、いくら美人でも…。どうかと思うんですが、俺は。…その辺、どうなんですか、『他校に乱入してきて学生の腹を殴る女』は。何らかのバイアスを掛けて、『美人だからOK』にしてしまうんですか。
…やっぱり、理解出来んなー。
「まぁ、そんな日もあるよー」
ムシャムシャとパンを食いながら、ガブガブ牛乳を飲み、明るい声で、父はそう言った。
…相変わらず、痩せの大食い。
多分この後、俺に、通常通りに朝食をねだるはずだ。
俺の学校が休みで、自分に、朝、時間があると、いつもこうだ。
野菜から食えと、母が言っても聞かないから、青汁でも常備しようか、なんて、割と最近、母と話したような。
…眠い。
「…そんな日って?」
冷たい牛乳を一口飲むと、ちょっと体感温度が下がった気がした。
「あれ?何だっけ?そんな日、って」
単なる気休めだったらしく、彼の脳からは、つい数秒前の発言が、綺麗に消去されていた。
猛烈な脱力感に襲われて、俺は一瞬息を止めて、目を閉じた。
…いつもの事ながら、天晴れな構造の脳だ。
俺は、なるべく溜め息にならないように、ゆっくりと、少しずつ息を吐いた。
父は「んー」と言った。
「ああ、ほらね。考え様によっては牛乳も性的かもよ?」
「…は?牛乳も?」
―――成る程。まぁ、色とか、牛の乳だとか、様々な観点から、色々な連想が出来る辺りが。
そうと言えなくもないが。
…急に牛乳を飲みたくなくなった。
「そうそう。考え様によっては、何でもね。果物でも卵でも」
…フロイトみたいな話?
「あ、俺、オムレツ食べたい」
…寝起きの頭で、この父と会話しようだなんて、俺も馬鹿だなぁ。
理解を諦めて、俺は、中年男性の、可愛くもないオムレツコールが始まる前に、冷蔵庫に向かった。
まだ卵が残ってただろうか。
白身と黄身を分けて、約一分間、菜箸で白身だけ攪拌し、そこに黄身と調味料を入れて軽く混ぜ、フライパンで、弱火で焼く。
そこまでの作業で、頭の回転を普段通りに蘇らせようとしながら、俺は、昨日の出来事を回想しつつ、整理した。
瑞月と水戸…矢印。
早くも、夢の内容の方は忘れかけてきた。
茉莉花と水戸は付き合ってる。
水戸は昨日、瑞月を抱き締めていた。
でも、だからって、どうすることも出来なくて。
…俺は、茉莉花とは無関係。
出来上がったオムレツを皿に移す時、ふと、そんなことを思った。
集中力が切れたせいか、オムレツは、皿の上で『く』の字に潰れてしまった。
―――失敗した。
ケチャップのチューブと一緒に、それを持っていったら、父は、眉根を寄せて、口を縦に開けた。
不満らしい。
彼は、オムレツに、ケチャップで絵を描きたいのだった。
これでは、描くスペースが小さいのだ。
父は、そのまま口をへの字に結んだ。
仕方がないので、それは自分で食べることにして、もう一つ作るついでに、サラダも作って、朝食にしてしまうことにした。
作り終えた朝食を持っていくと、父は、ニカッと笑った。
席に着くと、父が勝手に、さっきのオムレツにケチャップで何か描いて、その皿の空いているスペースに無理矢理ロールパンを一つ乗せて、俺の席の前に置いていた。
…交差する二つの矢印だった。
垂直条件のベクトル。
「ぶっ…」
あの話の流れで、普通これを描くか?
「いただきまーす。内積を求めよー」
…まぁいいか。
「いただきます。…座標を示せ」
俺は、ケチャップをスプーンで延ばして、一口食べた。
オムレツは冷めていた。
あ。
そうだ、同じ値だと、重なれるし、置換可能だけど、交わることは出来ないんだ。
ずーっと、並行で。
そうだ。
やりたいことがあるから。
『保身』したら。
十字架みたいな。
美しい、あの、垂直条件の、直角の交わりは、一生、経験できないのかもしれなくて。
他人の墓の上で踊って、掘り起こしてるようなもんかもしれないのに、過去のことを、調べて、ほじくり返して、記録して、検証して、比較して、研究して。
『知りたい』から。
いや、保身しなくても。
誰が誰と一緒にいたい、なんてことは、俺には、操作することさえ出来なくて。
何かを頑張ったとしても、誰かの気持ちが自分に向くとは、限らなくて。
でも、『保身』したら、全く行動しなかったら、それは、一生、俺とは、無関係になってしまうのに。
『怖い』から、動けない。
やりたいことがあるから。
ボタボタと、涙が出た。
父が、目を見開いたのが分かった。
父を驚かせたのは、随分久し振りな気がする。
「…どうしたの、って、聞いていい?」
「…独特の聞き方…」
「一応気を遣ってんのよ。泣いたの、久し振りに見たから。思春期だし」
「…バイトの作業進捗報告」
父が、「今ぁ?」と言って、珍しく咳き込んだ。
「崩し字解読アプリで、友達に九割くらいの精度で、あの本の原文、解読した。あとは、原文と突き合わせて、内容読解だけ。…御盆には、長野にフィールドワークに入れると思う。…文化財の正体にも見当がついた」
父は、ブッと吹き出した。
「はっ、早っ。はぁー?有能が過ぎるでしょ」
俺は、うっ、と詰まってしまって、すすり泣いた。
「…何で泣いてんの?」
「…悔しい。やっぱり、父さんの言った通りになった。…やってみたい、フィールドワーク。でも、怖い」
「…何が?」
「…フィールドワーク出来なくなるのが怖い」
「…費用は出すって」
「…せっかく何か分かりそうなのに、…フィールドワークより楽しいことが出来たらどうしよう…。そしたら…。でも、別に、フィールドワークに行かなくたって…」
もう、自分が何言ってるか分からない。
…何も分からない。
多分昨日、いろいろあり過ぎて、疲れたんだと思う。
「…バイト手伝ってくれる友達って。女の子?」
「…も、いる。崩し字解読したのは男」
「うーん…」
「そ、そういうんじゃないから。彼氏のいる子なんだって」
「…何も言ってないんだけど、俺」
「…どうしよう。知りたいし、行きたいのに。興味がなくなったら。他人の墓の上で踊って、掘り起こしてるだけかもしれないのに。何の役に立つか、誰が喜ぶかも分かんないのに、過去のこと、調べて、ほじくり返して、記録して、検証して、比較して、研究して。…それだけのことが、今、すごくやってみたいのに。それに、興味が持てなくなったら、どうしよう」
自分が、書き変わってしまいそうで。
怖い。
「え、考古学発掘の人とかに喧嘩売ってくスタイルの朝御飯?」
父は、目を瞬かせながら、そう言って、オムレツを食べ終えた。
「えっと?んー、研究より、興味があることができて、研究に興味がなくなったら、どうしよう、と。…で、聞きもしないのに、彼氏のいる子の話をしてきた、と」
「あ、いや、だからそれは、一回忘れて…」
俺は、そう言って、涙を拭った。
別に。…そういうんじゃないから。
「んー、気付いちゃったんだね、可哀想に」
「え?」
「気付いちゃったんでしょ、自分が、『恋愛より楽しいことがある人間』だってことに。だから、誰かを好きになろうとする気持ちに、ブレーキが掛かってるんだって。無意識に、一番自分が興味のあることに影響しそうな事柄を、排除しようとしてる、って。本当は、『彼女』なんて、『できちゃ困る』んだよね。『好きになっちゃった子』に構ってたら、フィールドワークになんか行けないから」
愕然とした。
父は、「あーあ」と言った。
「貴子さんに似れば、子育てとか躾とか、大人みたいなことができる、素敵な人になれたのに。ごめんね、俺に似たんだ、可哀想に」
聞きたくない。
「…父さんって、何で、結婚したの?」
「偶然、素敵な人が結婚してくれたんだ。それだけ。貴子さんって、俺が、『恋愛より楽しいことがある人間』なのを、許してくれる人だったんだ。それだけだよ。結婚、してもらえた、だけ。素敵な奥さんでしょ」
「それって…」
「デートの約束忘れて、すっぽかして実地調査に行っちゃった日も、修士論文明けで数日爆睡して、クリスマス台無しになっても、誕生日の日にデータ整理手伝わせても、許してくれたの。高校から付き合ってて、別れないでいてくれただけ。それだけ」
「…それだけ?」
「そうだよ。ショック?自分が、人間として、何か欠けてて、冷たいと思う?」
「…うん。でも、そうか。…『恋愛より楽しいことがある人間』。…そうだとしたら」
「そっか。欠けてて冷たいと思うんだ、それを。それなら、俺よりはマシかな」
「え?」
「なんで、空気なんか読まなきゃいけないの?なんで、誰かが喜ぶことを考えないといけないの?俺がやりたいことやってるだけなのに、なんで、研究で、誰かに貢献しないといけないの?なんで、評価されないといけないの?評価されなくてもやるよ、やりたいことだから。欠けてて、何が悪いの?冷たいって、何と比較して?家族も犬も愛してるけど?『恋愛』って必要?俺が今記録しないと無くなる文化があるんだから、『恋愛』は、『恋愛』をやれる人が、きちんとやったらいいじゃん。何か欠けた恋愛でも、家庭だって、曲りなりにも築けたよ。相手の度量によるところが大きかったけど。…別に、研究が一番で、恋愛が二番、とかじゃないじゃん。ちゃんと、貴子さんのこと、好きだったもん」
「…駄目だ。…一緒にいてあげないと。一番が、その子じゃなきゃ」
傷に、向き合ってあげられない。
『家』に、あの子に、取り込まれるくらいでないと。
でも。
分かった。
そういう『覚悟』がない。
…だから、好きじゃない。
…自分のことの方が、好きなんだ。
「…泣くなよ。…大好きじゃん、その子のこと」
「絶対違う。自分のことの方が好きだ。…やりたいことの方が好きだ」
そこまで踏み込む、『覚悟』がない。
それに。
…相手に、好きになってもらえるか、分からないし。
相手が、俺に好かれることを喜ぶかも、分からない。
だから。
「…絶対好きにならない」
「あーあ、絶望したんだねー、自分に」
「絶望?」
「恋愛も、自分の気持ちも、相手も、なーんにも、思い通りにならないでしょ。机の上で勉強することは何だって、ある程度は出来るのに。相手への気持ちを、どのくらいにするとか、相手が誰を好きになるか、とか、なーんの調節も管理もできないでしょ、予定も、なーんにも立たないんでしょ」
図星だった。涙は、引っ込んでしまった。
「一回、思いっ切り好きになったらいいのに。思い切り方を失敗すると、執着しちゃうぞ、変な方向に。フラれてもいいじゃん、吹っ切れれば」
「執着…」
…そうかも。
吹っ切れないと、こっそりアボカドジュースを飲んだり、高いフルーツを冷蔵庫に入れたり、しちゃうのかも。
…人間って。
いや、だから、好きじゃないってば。
「まー、女の子もねー、一人にしようと思うから悩むのかもしんないじゃん。三人目くらいから、どーでも良くなるかもしんないから、日替わりランチ感覚で付き合ってみたら?」
「な、七人の女の子といっぺんに付き合えって?…そりゃ、人生観変わりそうだけど」
「明良さん…。忘れ物を取りに戻って来てみれば…」
振り返ると、呆れ顔の母が、ダイニングテーブルの横に立っていた。
「…貴子さん、いつからそこに?」
「…日替わりランチの辺りね」
母は、腕組みして、深い深い溜息をついた。
「高良。いいから、何人と御付き合いしても、いいから。お母さん、高良を信用してるから。…親の倫理観は信じなくて宜しい。自分の倫理観に従って行動しなさい」
親の倫理観を信じなくていい、って子育て、どうなんだ?
父が、目を泳がせながら、「仕事行ってきまーす」と言って、椅子から立ち上がった。
午前休だろ、あんた。