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座敷童の恋  作者: 櫨山黎
第七章
40/93

矢印:The two finger-posts both pointed along it.

 散歩から帰って、歴史(つねふみ)さんに餌と水をあげて、シャワーを浴びた。


 タクシーに乗って常緑(じょうりょく)学院に行ったのが、何日も前のような気分だが、全部、今日のことだ。


 …結果的にだが『本を開く恐怖』からは解放されてしまった。


 コピーが、更に、印字の原文になってしまうと、相当、恐怖感が薄まった気がする。

 『現物』ではないからなのだろうが。


 加えて、茉莉花という、共同作業者もいる、と思うと、優将の働きも加えて、有難い限りである。


 今日一日での作業進捗(さぎょうしんちょく)の目覚ましさに、自分でも、本当に驚いている。


 霊障の話を信じてくれた茉莉花と、霊障の話など聞かなくても、目覚ましい働きをしてくれた優将に、感謝だ。

 父からの『友達とやる』という提案は、正解だったのかもしれない。




 髪を乾かしてから、リビングで、麦茶を飲みながら、原文の紙の束を、クリップ留めしたものを見詰めてみる。


 優将、有難うな。


 優将が茉莉花を、操作したくない、という話を、じっくり考えてみる。


 操作。


 …考えてみると。相手を、自分の性的な欲求を満たす方向に操作したり、相手を自分に依存させる方向に操作することも。


 …不可能では、ない。


 いや、多分。あの、高知能な男の懸念は、恐らくそれだ、という気がした。


 魔がさしたら。


 出来てしまうのではないか、と。


 そして、優将の、タクシーでの言い分を信じるなら、操作してしまう、ということは、操作したい、ということなのだ、本当は。


 何故、操作したくなってしまうか、なんて。


 ()()があったら地獄だな…。


『茉莉花が、誰といたいかは、別だから』


 そう。


 …本当に『好き』だったら、多分、自分の意志で、自分のことを選んでほしいだろうに。


 『操作』してしまったら。


 …どっぷり、自分の優しさに浸らせて、依存させて、自分を『好きにさせて』しまったら。


 本当に手に入れたい、『相手が自分の意志で選んでくれた』自分なんて、永遠に手に入らなくなりそうな気がするよな。


『一緒に閉じ(こも)りたくなる』


『俺から逃げてほしいなー、皆』


 誰のことも?皆?


 …操作したくない。


 他人を操作なんて、出来ないもんだと、俺は、今でも思ってるんだけど。


 好きな子を大事にしたいから操作したくない、というのは、…それこそ、理解は出来なくても、共感は出来る気がした。


 葛藤が、恋愛(メンタル)を越えて、肉体(フィジカル)に行って、一周回って恋愛(メンタル)に戻ってきてる感じ。


 …そこまできたら、()()なんて、拒絶したいかもな。


 …。


 …最近気づいたことがある。


 会話が、それほど得意でない俺。

 得意でないが。

 …何故か、共感力が以前より高まっている気がする。

 今日は、タクシーの時から違和感があったが。

 前は分からなかったような、前、興味を持たなかったことまで、分かるようになってないか?


 …このところ、ずっと。


 …茉莉花に会った頃から?


 ビクリ、とする。


 そうか。


 ―――――――――座敷童が見えるようになった頃から?


 あの霊障が、()()()()()()()にも、影響してる、と?


 優将の『家』には入れたけど。


 ゾワッ、とした。


 恋仲に。

 自分に興味や好意を持ってくれて。

 自分に時間を使ってくれて。


 あの子が、自分を『家』に招き入れて。

 自分と同じ空間で、同じ時間を過ごしてくれるのが、『怖い』。


 取り込まれるのが、怖い。

 『家』に。

 あの子に。


 幼なじみの絆と育った、男の、高校生の俺が。

 俺、という(あたい)が。

 同じ方向性(ベクトル)の、幼なじみと育った、女の子の、高校生の、あの子に。

 置換可能(ちかんかのう)になってしまって。

 それは。

 ベクトルが重なってしまって。

 あの子と、同じ(あたい)になってしまって。


 あの子以外が、喜びじゃなくなったら。


 どうしよう。


 慌てて、紙の束を(めく)る。

 分かってんだよ、もう、この状態だったら、詳細(しょうさい)が何か、まだ読めてなくたって、『()()()()()()()文化財』が、何か、くらいは。


 好奇心の波が押し寄せる。


 新しいことを知るのは、喜び。


 でも。


 あの子以外が、喜びじゃなくなったら。


 こんなの、簡単に紙切れになる。


 自分が自分じゃなくなるみたいで『怖い』。


 今持っている興味の何もかもが、あの子に塗り替えられるのが、怖い。




 分かってる。


 繁華街でホットサンドなんか食べてたら。

 …長野に行けない。


 誰にお勧めしても一緒に飲んでくれないジュースなんか飲んでたら、資料は読めない。


 仮に出来たって、楽しくビデオ通話なんか、ずっとしてたら、郷土資料と実地資料の比較は出来ない。


 フィールドワークのデータも、エクセルに落とせないし、エクセルのデータを分布図にも落とせない。




 どうしよう。

 …好奇心が何かと戦ってて。


 そうだ、()()なんて、拒絶したい。




 おまけに、相手の一番の心の傷であろう、『育児放棄(ネグレクト)』に、踏み込まなければならない。

 相手の『家』に踏み込むなら。


 解決は恐らく、高校生の俺には出来ないし、相手も、育児放棄(ネグレクト)されていることを、周りに知られたがっていないかも分からない。


 でも。

 本当に、一緒にいたいんだったら。

 それ()を避けて通るのは、きっと、俺には無理で。


 そして結局、相手の心が、もし、自分に向いてくれたら、絶対、相手が、自分の喜びになってしまって。


 …一緒にいないのは、無理だ、きっと。


 気軽に調べ物をしに、『家』を留守に出来ない。


 『怖い』。


 自分が、取り込まれてしまいそうで。

 自分が相手に置き換えられてしまいそうで。


 違う、こんなの。『保身』だ。

 見て見ぬ振りと同じだ。


 『好き』だったら。

 一緒にいて、傷に向き合って。

 …ずっと一緒にいて。


『一緒に閉じ(こも)りたくなる』


 ああ、『怖い』。


 今、知りたいのに、あの場所に隠れている物が。


 花の香りのする、あの子と、『家』に、閉じ(こも)ることが望みになったら。


 どうしよう。


 『外』に、出られなくなったら。


 知りたいことは、一生、諦めなければ。




 ハッとする。


 傍らに、振袖姿の女の子が立っている。

 女の子は俯いて、珍しく、こちらを見ない。


 フッと、女の子は消えてしまった。


 …ごめんな。

 『いる』のに。見て見ぬ振りして。


 『保身』だな。

 ふと、涙が出る。


 他人の墓の上で踊ってるようなもんかもしれない、過去のことを、調べて、ほじくり返して、記録して、検証して、比較して、研究して。

 他人の墓を掘り起こしてるだけかもしれない。


 『知りたい』から。


 あそこで、どんな思いで、誰が死んで、何が残ってたって。


 本当は、こうして、生きている時に、相手が、何を考えてたか、どうしてほしかったのか、(そば)にいて、知ってあげた(ほう)が。


 いや、そんなこと思ったって、相手が『誰といたいかは、別』だから。


 何を自分が考えていたって、相手の心が自分に向いてくれるわけではないから。


 やっぱり、結論、()()なんて、あったら地獄になるだけなんだろう。




 親が帰ってくるのを待たずに、寝た。

 何もかも忘れて、眠りたい。






 変な夢を見た。


 真っ白い空間で、瑞月がフワフワと浮かびながら、水戸から逃げている。


 水戸は、切ない表情で、沢山の『矢印』を瑞月に向かって飛ばしていた。


 『矢印』は、様々な色をしていた。


 その『矢印』は、水戸が、優将がタクシーを指し示したように、スッと腕を瑞月の(ほう)に差し出すと、遅いような早いようなスピードで、その方向に放たれるのだった。


 瑞月は、迷惑そうな顔をして、器用に、それを避けていた。


 俺は、俺の周囲で繰り広げられる光景を、ただ傍観(ぼうかん)していた。


 白い空間の中、常緑(じょうりょく)学院の制服のまま、フワフワ浮かんで逃げ回る瑞月。

 地面を走り回りながら瑞月を追いかける、私服のTシャツに制服のズボン姿の水戸。


 何故か、瑞月と目が合った。


 そこで、目が覚めた。






 朝、起きてもまだ、ボーっとしていた。

 今日は珍しく、覚醒(かくせい)が遅い。


 そのまま階下に降りて、ダイニングテーブルの椅子に座っていると、父がやってきた。


「おはよう」


「…うはよーございます」


「お、眠そうだね。珍しい」


「何か…矢印の飛んでる夢、見た」


「おお、何か性的な夢だね」


「…はぁ?」


 俺は吃驚(びっくり)して、ちょっと目が覚めた。


 父は、鼻歌で『Jesus Loves Me』を歌いながら、楽しげにパントリーの(ほう)に向かった。食品を(あさ)るのだろう。

 この民俗学者は、案外歌が上手い。あと、一度覚えた歌を忘れない。

 俺が一時期、先輩に強制参加させられていた聖歌隊で歌っていた歌も、よく覚えている。


 独自の意見の主張は激しい代わりに、入ってきた外来の物に対しても偏見が無い、と言おうか、目線がフラットなのも、父の持ち味だと思う。


 明治時代、近代化、西洋化の波として、キリスト教と一緒に、讃美歌が入ってくることで、日本の、長い伝統をもつ、それぞれの地域の歌も、近代化され、塗り潰されてしまった、という事実が有る。だから本来、それ等が消える前に記録していこうとする側面を持つ、民俗学という学問とキリスト教は、相性が良くないのかもしれないが、日本に入ってきてから、それなりに年月を重ねているが故に、キリスト教の要素が含まれる歴史や文化、民俗というものも、この国には存在する。

 それ等を表現するならば、縦軸が宗教で、横軸が民俗の…座標軸と言うよりは、最早、マトリクス図のようなものだろうか。

 父のフラットな目線は、そういったマトリクス図上に、様々な要素を整理するのに向いていると思う。




 それにしても、疲れている(ほう)が、思考がグルグル、回転よく回る気がする。生産性も整合性も置き去りで、実は、頭は上手く回っていないから、ハムスターの回し車みたいな感じなのかもしれない。

 でも、変な単位を考えるとかまでは、頭の中だからいいとしても、それを口に出すのは相当疲れていたのだと思う。あんまりああいう感じになったことがないから、自分でも驚いた。

 脳疲労は怖い。

 応急処置的なものは沢山あっても、睡眠くらいしか完全回復の手段が無い。




 父の鼻歌を聞きながら、まだ覚醒しきっていない頭で、懐かしいな、と、ぼんやり思った。


 明治時代に日本に輸入された最古の讃美歌『Jesus Loves Me, This I Know』は、現在も、讃美歌461番として残っているが、野口雨情(のぐちうじょう)の作詞した童謡、『シャボン玉』の換骨奪胎(かんこつだったい)、という噂が有る。

 シャボン玉は、生まれて直ぐ死んでしまった雨情(うじょう)の娘を表現している、という説も有り、歌詞の『taking children on his knee,saying, "Let them come to me."』の『children』も、若くして亡くなった少年のことらしい。


 それを知ってから、『シャボン玉』の歌詞を聞いても、夭折(ようせつ)の子達を思い浮かべる(よう)になった。


 曲調に反して、明るい歌ではないと思うのだが、嫌いではない。


「…父さん、仕事は?」


 父は、ドラえもんが四次元ポケットから道具を取り出す時の口調で、「午前休(ごぜんきゅう)~」と言った。朝から、どういうテンションの高さなんだ。


 聞けば、今日が午前休だから、昨日、遅めに帰ってきたというのもあったらしい。


 母は、とっくに出掛けていた。 


 ダイニングテーブルの上には何もない。

 父が家に残っている時は、母は、朝食を用意してくれないことが多い。

 母は、朝食が軽いのだ。

 朝は胃に物が入らない、と、よく言う。


 父が、バタンと、勢い良く冷蔵庫を閉める音がした。

 その音に合わせて、思わず俺は目を(つむ)ってしまった。

 眉根に(しわ)が寄る。 

 母が注意するのだが、強く冷蔵庫を閉める(くせ)が、どうしても直せないらしい。

 多分、食べ物を見つけた喜びが、彼を勢い付かせるのだと思う。




 父は、コップを二つと牛乳のパックを持ってきて、俺の向かい側に座った。


 そして、牛乳をコップに注いで、俺の前に置いた。

 気が付くと、いつの間にやら、彼はパンの袋を抱えていた。

 特売で買ったロールパンか。


「どうぞー」


「どうも…」


 …眠い。


 矢印が、性的な夢?…そうなんだろうか。…そうかも?思考が(まと)まらない。


 …ああ、誰だっけな、面白いこと、言ってたの。

 刺さって、雲丹(うに)みたいになっちゃう、って。


 それにしても、瑞月と水戸か。

 夢に見るなんて、昨日は相当印象が強かったんだろうな。

 これからの人生、後何年あるんだかわからないが、『他校に乱入してきて学生の腹を殴る女』なんて、もう見られないだろうし。…『墓場で暴れる女』も、追加しておくか。うん、もう見られないと思う。そう願いたい。目に入る場所で頻発(ひんぱつ)してたら、どんな治安の悪さだ、という話になってしまうので。


 …いや、慧さん。墓場の件までは御存知ないだろうが、いくら美人でも…。どうかと思うんですが、俺は。…その辺、どうなんですか、『他校に乱入してきて学生の腹を殴る女』は。何らかのバイアスを掛けて、『美人だからOK』にしてしまうんですか。


 …やっぱり、理解出来んなー。





「まぁ、そんな日もあるよー」


 ムシャムシャとパンを食いながら、ガブガブ牛乳を飲み、明るい声で、父はそう言った。


 …相変わらず、痩せの大食い。


 多分この後、俺に、通常通りに朝食をねだるはずだ。


 俺の学校が休みで、自分に、朝、時間があると、いつもこうだ。


 野菜から食えと、母が言っても聞かないから、青汁でも常備しようか、なんて、割と最近、母と話したような。


 …眠い。


「…そんな日って?」


 冷たい牛乳を一口飲むと、ちょっと体感温度が下がった気がした。


「あれ?何だっけ?そんな日、って」


 単なる気休めだったらしく、彼の脳からは、つい数秒前の発言が、綺麗に消去されていた。

 猛烈な脱力感に襲われて、俺は一瞬息を止めて、目を閉じた。

 …いつもの事ながら、天晴(あっぱ)れな構造の脳だ。


 俺は、なるべく溜め息にならないように、ゆっくりと、少しずつ息を吐いた。


 父は「んー」と言った。


「ああ、ほらね。考え(よう)によっては牛乳も性的かもよ?」


「…は?牛乳も?」


 ―――成る程。まぁ、色とか、牛の乳だとか、様々な観点から、色々な連想が出来る辺りが。

 そうと言えなくもないが。

 …急に牛乳を飲みたくなくなった。


「そうそう。考え(よう)によっては、何でもね。果物でも卵でも」


 …フロイトみたいな話?


「あ、俺、オムレツ食べたい」


 …寝起きの頭で、この父と会話しようだなんて、俺も馬鹿だなぁ。


 理解を諦めて、俺は、中年男性の、可愛くもないオムレツコールが始まる前に、冷蔵庫に向かった。

 まだ卵が残ってただろうか。




 白身と黄身を分けて、約一分間、菜箸(さいばし)で白身だけ攪拌(かくはん)し、そこに黄身と調味料を入れて軽く混ぜ、フライパンで、弱火で焼く。

 そこまでの作業で、頭の回転を普段通りに蘇らせようとしながら、俺は、昨日の出来事を回想しつつ、整理した。


 瑞月と水戸…矢印。

 早くも、夢の内容の(ほう)は忘れかけてきた。


 茉莉花と水戸は付き合ってる。

 水戸は昨日、瑞月を抱き締めていた。

 でも、だからって、どうすることも出来なくて。


 …俺は、茉莉花とは無関係。


 出来上がったオムレツを皿に移す時、ふと、そんなことを思った。


 集中力が切れたせいか、オムレツは、皿の上で『く』の字に潰れてしまった。

 ―――失敗した。


 ケチャップのチューブと一緒に、それを持っていったら、父は、眉根を寄せて、口を縦に開けた。

 不満らしい。

 彼は、オムレツに、ケチャップで絵を描きたいのだった。

 これでは、描くスペースが小さいのだ。

 父は、そのまま口をへの字に結んだ。


 仕方がないので、それは自分で食べることにして、もう一つ作るついでに、サラダも作って、朝食にしてしまうことにした。




 作り終えた朝食を持っていくと、父は、ニカッと笑った。


 席に着くと、父が勝手に、さっきのオムレツにケチャップで何か描いて、その皿の空いているスペースに無理矢理ロールパンを一つ乗せて、俺の席の前に置いていた。


 …交差する二つの矢印だった。

 垂直条件のベクトル。


「ぶっ…」


 あの話の流れで、普通これを描くか?


「いただきまーす。内積(ないせき)を求めよー」


 …まぁいいか。


「いただきます。…座標(ざひょう)を示せ」


 俺は、ケチャップをスプーンで延ばして、一口食べた。

 オムレツは冷めていた。


 あ。


 そうだ、同じ(あたい)だと、重なれるし、置換可能だけど、()()()ことは出来ないんだ。


 ずーっと、並行で。


 そうだ。

 やりたいことがあるから。

 『保身』したら。


 十字架みたいな。

 美しい、あの、垂直条件の、直角の交わりは、一生、経験できないのかもしれなくて。


 他人の墓の上で踊って、掘り起こしてるようなもんかもしれないのに、過去のことを、調べて、ほじくり返して、記録して、検証して、比較して、研究して。


 『知りたい』から。


 いや、保身しなくても。


 誰が誰と一緒にいたい、なんてことは、俺には、操作することさえ出来なくて。


 何かを頑張ったとしても、誰かの気持ちが自分に向くとは、限らなくて。


 でも、『保身』したら、全く行動しなかったら、それは、一生、俺とは、無関係になってしまうのに。


 『怖い』から、動けない。


 やりたいことがあるから。




 ボタボタと、涙が出た。


 父が、目を見開いたのが分かった。

 父を驚かせたのは、随分久し振りな気がする。


「…どうしたの、って、聞いていい?」


「…独特の聞き(かた)…」


「一応気を遣ってんのよ。泣いたの、久し振りに見たから。思春期だし」


「…バイトの作業(さぎょう)進捗(しんちょく)報告(ほうこく)


 父が、「今ぁ?」と言って、珍しく咳き込んだ。


「崩し字解読アプリで、友達に九割くらいの精度で、あの本の原文、解読した。あとは、原文と突き合わせて、内容読解だけ。…御盆には、長野にフィールドワークに入れると思う。…文化財の正体にも見当がついた」


 父は、ブッと吹き出した。


「はっ、(はや)っ。はぁー?有能が過ぎるでしょ」


 俺は、うっ、と詰まってしまって、すすり泣いた。


「…何で泣いてんの?」


「…(くや)しい。やっぱり、父さんの言った通りになった。…やってみたい、フィールドワーク。でも、怖い」


「…何が?」


「…フィールドワーク出来なくなるのが怖い」


「…費用は出すって」


「…せっかく何か分かりそうなのに、…フィールドワークより楽しいことが出来たらどうしよう…。そしたら…。でも、別に、フィールドワークに行かなくたって…」


 もう、自分が何言ってるか分からない。

 …何も分からない。

 多分昨日、いろいろあり過ぎて、疲れたんだと思う。


「…バイト手伝ってくれる友達って。女の子?」


「…も、いる。崩し字解読したのは男」


「うーん…」


「そ、そういうんじゃないから。彼氏のいる子なんだって」


「…何も言ってないんだけど、俺」


「…どうしよう。知りたいし、行きたいのに。興味がなくなったら。他人の墓の上で踊って、掘り起こしてるだけかもしれないのに。何の役に立つか、誰が喜ぶかも分かんないのに、過去のこと、調べて、ほじくり返して、記録して、検証して、比較して、研究して。…それだけのことが、今、すごくやってみたいのに。それに、興味が持てなくなったら、どうしよう」


自分が、書き変わってしまいそうで。


怖い。


「え、考古学発掘の人とかに喧嘩売ってくスタイルの朝御飯?」


 父は、目を(しばた)かせながら、そう言って、オムレツを食べ終えた。


「えっと?んー、研究より、興味があることができて、研究に興味がなくなったら、どうしよう、と。…で、聞きもしないのに、彼氏のいる子の話をしてきた、と」


「あ、いや、だからそれは、一回忘れて…」


 俺は、そう言って、涙を拭った。

 別に。…()()()()んじゃないから。


「んー、気付いちゃったんだね、可哀想に」


「え?」


「気付いちゃったんでしょ、自分が、『恋愛より楽しいことがある人間』だってことに。だから、誰かを好きになろうとする気持ちに、ブレーキが掛かってるんだって。無意識に、一番自分が興味のあることに影響しそうな事柄(ことがら)を、排除しようとしてる、って。本当は、『彼女』なんて、『できちゃ困る』んだよね。『好きになっちゃった子』に構ってたら、フィールドワークになんか行けないから」




 愕然(がくぜん)とした。




 父は、「あーあ」と言った。


貴子(たかこ)さんに似れば、子育てとか(しつけ)とか、大人みたいなことができる、素敵な人になれたのに。ごめんね、()()()()()()()()()()


 聞きたくない。


「…父さんって、何で、結婚したの?」


「偶然、素敵な人が結婚してくれたんだ。それだけ。貴子さんって、俺が、『恋愛より楽しいことがある人間』なのを、許してくれる人だったんだ。それだけだよ。結婚、()()()()()()、だけ。素敵な奥さんでしょ」


「それって…」


「デートの約束忘れて、すっぽかして実地調査に行っちゃった日も、修士論文明けで数日爆睡して、クリスマス台無しになっても、誕生日の日にデータ整理手伝わせても、許してくれたの。高校から付き合ってて、別れないでいてくれただけ。それだけ」


「…それだけ?」


「そうだよ。ショック?自分が、人間として、何か欠けてて、冷たいと思う?」


「…うん。でも、そうか。…『恋愛より楽しいことがある人間』。…そうだとしたら」


「そっか。欠けてて冷たいと思うんだ、それを。それなら、俺よりはマシかな」


「え?」


「なんで、空気なんか読まなきゃいけないの?なんで、誰かが喜ぶことを考えないといけないの?俺がやりたいことやってるだけなのに、なんで、研究で、誰かに貢献しないといけないの?なんで、評価されないといけないの?評価されなくてもやるよ、やりたいことだから。欠けてて、何が悪いの?冷たいって、何と比較して?家族も犬も愛してるけど?『恋愛』って必要?俺が今記録しないと無くなる文化があるんだから、『恋愛』は、『恋愛』をやれる人が、きちんとやったらいいじゃん。何か欠けた恋愛でも、家庭だって、(まが)りなりにも築けたよ。相手の度量によるところが大きかったけど。…別に、研究が一番で、恋愛が二番、とかじゃないじゃん。ちゃんと、貴子さんのこと、好きだったもん」


「…駄目だ。…一緒にいてあげないと。一番が、その子じゃなきゃ」


 傷に、向き合ってあげられない。

 『家』に、あの子に、取り込まれるくらいでないと。


 でも。

 分かった。

 そういう『覚悟』がない。


 …だから、好きじゃない。

 …自分のことの(ほう)が、好きなんだ。


「…泣くなよ。…大好きじゃん、その子のこと」


「絶対違う。自分のことの(ほう)が好きだ。…やりたいことの(ほう)が好きだ」


 そこまで踏み込む、『覚悟』がない。


 それに。


 …相手に、好きになってもらえるか、分からないし。

 相手が、俺に好かれることを喜ぶかも、分からない。


 だから。


「…絶対好きにならない」


「あーあ、絶望したんだねー、自分に」


「絶望?」


「恋愛も、自分の気持ちも、相手も、なーんにも、思い通りにならないでしょ。机の上で勉強することは何だって、ある程度は出来るのに。相手への気持ちを、どのくらいにするとか、相手が誰を好きになるか、とか、なーんの調節も管理もできないでしょ、予定も、なーんにも立たないんでしょ」


 図星だった。涙は、引っ込んでしまった。


「一回、思いっ切り好きになったらいいのに。思い切り(かた)を失敗すると、執着(しゅうちゃく)しちゃうぞ、変な方向に。フラれてもいいじゃん、吹っ切れれば」


執着(しゅうちゃく)…」


 …そうかも。

 吹っ切れないと、こっそりアボカドジュースを飲んだり、高いフルーツを冷蔵庫に入れたり、しちゃうのかも。

 …人間って。


 いや、だから、好きじゃないってば。


「まー、女の子もねー、一人にしようと思うから悩むのかもしんないじゃん。三人目くらいから、どーでも良くなるかもしんないから、日替わりランチ感覚で付き合ってみたら?」


「な、七人の女の子といっぺんに付き合えって?…そりゃ、人生観変わりそうだけど」


明良(あきら)さん…。忘れ物を取りに戻って来てみれば…」


 振り返ると、(あき)れ顔の母が、ダイニングテーブルの横に立っていた。


「…貴子さん、いつからそこに?」


「…日替わりランチの辺りね」


 母は、腕組みして、深い深い溜息をついた。


「高良。いいから、何人と御付き合いしても、いいから。お母さん、高良を信用してるから。…親の倫理観は信じなくて宜しい。自分の倫理観に従って行動しなさい」


 親の倫理観を信じなくていい、って子育て、どうなんだ?


 父が、目を泳がせながら、「仕事行ってきまーす」と言って、椅子から立ち上がった。


 午前休だろ、あんた。






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