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座敷童の恋  作者: 櫨山黎
第六章
29/93

山百合:Aren't you sometimes frightened at being planted out here, with nobody to take care of you?

 結局、次に水戸さんと会うのは、八月に入ってからになった。


 もうじきお盆だ。

 お盆が終わったら、少ししてから登校日が来る。


 考えてみたら、あの、夏休みの初日の美術館での一件から、まだ慧とも会ってなかったし、瑞月ともメールしてなかったし、珍しく、優将とも会ってなかった。

 慧の家にすら行ってない。


 ううん。慧じゃない人と付き合ってるんだもん。


 あの『家』には、入れない。




 誰にも、私が水戸さんと付き合ってることを教えてない。瑠珠(ルージュ)にすら。


 何だか言えなかった。そして、少なくとも瑞月にだけは知られたくなかった。


 瑞月に、どんな事情があるのかは、推察するしかないけど、あれだけ瑞月が嫌ってる人と付き合うのは、何だか瑞月への裏切りのような気がした。


 でも、何故か、瑞月にも裏切られたような気がした。


 私は、『ミサさん』とかいう人じゃない。




 瑞月と、これからどうしたらいいか、あれから、ずっと考えてた。


 結局答えは出ないまま、保留になってる。




 何だか落ち着かない気持ちを抱えたまま、水戸さんに会う日になった。




 今日は、水戸さんの部屋に行くことになった。

 私から、絵を見せてほしいと頼んだら、何だか、そういう話になった。


 変なの。『家』に入れてもらえるなんて。




 二回目のデートで一人暮らしの家に上がり込むっていうのもどんなもんだろう、と思いながらも、あの絵が見たかった。


 『四歳』。


 今なら、あの絵の意味が分かる気がする。


 すっきりしない気持ちの中で、それだけは何だか確かめておきたかった。




 招かれて入った部屋は、十畳のワンルームで、なかなか良い部屋なのにも関わらず、絵の具の臭いが充満してた。


 水戸さんが窓を開けた。


 部屋の中は程好く冷えてる。クーラーをつけたままで外に出て、私を迎えに来たらしい。


 部屋の隅に、大小様々のキャンバスと画材が置かれてる。


 ベッドの横にイーゼルが一つ置かれてて、そこには、まだ何も描かれていない、中ぐらいの大きさのキャンバスが置いてある。


 何故かキッチンの脇には細長い、姿見になるような鏡が置かれてる。


 そして、ベッドの下に、収納用の箱がギッシリ入れられてる他には、寝室とキッチンとを(かろ)うじて区切ってる、小さなカウンターの上に、展示会で貰ったような、やたら豪華な花と、勉強道具が適当に置かれてて、その付近に一つ椅子があるだけで、後は、奥に見えるシンプルな、白いシーツのシングルベッド以外は、家具らしい家具も無い。


 台所ちゃんと使ってんのかな。


 無造作に花束が突っ込まれたボウルのあるシンクの、乾燥した感じが、近くで見なくても分かった。


 花も、せめて()けなさいよ。


 何となく、自分の母親が、花を飾る時に言ってた言葉を思い出した。


 お花を飾ったら、一緒に『綺麗だね』って言ってくれる人がいい、って、言ってたっけ…。


 今なら、ちょっとだけ、あの時の言葉、分かる気がする。


 多分誰かからの贈り物の花を、大事に()けてくれないように、…私にも、そういう風に接せられるんじゃないかな、って、ちょっと思っちゃう。




 でも、そういうのについて、何か言うのも変な気がして、私は黙って、目だけで、キャンバスの一群の中から、あの絵を探した。


 …あ、あれじゃないかな。


 重なったキャンバスの端から、あの濃い青が覗いていた。


 吸い寄せられるように絵の傍に行くと、ますます、確信が持てた。


 其の場所を凝視してると、冷蔵庫からペットボトルを出してきた水戸さんが、傍にきた。


「あ、絵が見たいって言ってたんだっけ」


「うん。あれ」


 私は、目的のキャンバスの端を指差した。


 水戸さんの表情が曇った。


 でも、カウンターの上に飲み物を置いて、私が指差した絵を引っ張り出してくれた。




 ああ、この絵だ。この色だ。


 二人の子どもが眠ってる絵。


 私は、左から伸びる、女の人の手を指差した。細い腕。


「…これがミサさん」


 隣に立っている水戸さんが、ビクリと震えた。


 転んで出来た傷を消毒する時、傷口を直接触られた人がする顔に似てるな、と思った。


「…何で、その名前…。瑞月から聞いた?」


 あ、水戸さんは、美術館の時、自分達の話が聞かれてたって、分かんなかったのかな。

 …でも、これで、分かっちゃっただろうな。


 私が、「ミサさん」って人がいたことを、知ってる、って。


「…亡くなったお姉さんが、私に似てた、って、初めて会った時、言われた」


 水戸さんは、返事をしない。


 …私、「死んだ人」に似てるって思われてるんだな、やっぱり。




 どうして私に、「付き合おう」って、言ったの?水戸さん。




 私は、次に、眠っている女の子を指差した。


「瑞月」


 そして、最後に、その女の子の横で寝ている男の子を指差した。


「…水戸さん」


 私の指は、絵の中の男の子の胸の辺りを偶然指差していた。


 水戸さんは、自分の心臓を刺されたような顔をした。




 ―――ああ、合った。今、何かが合わさった。




 一瞬、急に視界がクリアになった気がした。


 どうして、あの絵の腕を、『ミサさん』だと思ったのかどうかは分からなかった。

 でも、水戸さんの反応だけで、説明は要らなかった。


 あの二人は、多分幼なじみ。


 そして、真偽のほどは定かではないけど、―――瑞月は、水戸さんのせいで『ミサさん』が死んだんだと思ってる。




 この絵を見て、涙が出た理由。


 多分、これを描く人が、泣いてたからだと思う。


 『四歳』の頃は、陽だまりに包まれていたんだ、と。あの頃は『世界』が、こんな風に見えていたんだ、と。


「水戸さん、ここにいたかったんだね」


 今になって、こんな絵を描いたのは。

 心のどこかで、この時間に帰りたかったから。

 瑞月が許してくれても、今『ミサさん』が生きてても、決して戻れない、この時間に、帰りたかったから。


 祈るような、守るような。

 陽だまりの色。


 巻き戻らなくて、取り返しがつかない時間。


 私達は何の力も持たないから、季節を止めることも、陽だまりの時間を残しておくことも出来ない。


 私も、あそこにいたかった。

 ずっと、あそこにいたかった。

 あの『家』にいたかった。

 笑っていれば良かった、皆がいた。

 里歌さんがいた。

 夢みたいに、ただ『慧のお嫁さん』になるだなんて思っていれば良かった、あの時間。


 でも、それは、やっぱり、子どもの考えることで。


 私は、誰かが自分を好きになってくれることが想像できないような十七歳になっちゃって。


 誰の気持ちも自分に向けられないような気がしちゃうし、関心を向けられても、それを心から信じられない。


 あの『家』から、切り離されたような気がしちゃう。


 誰のことも分かんないし、誰のことも自分の思い通りに出来ないし、自分のことも分かんないのに。


 この絵を描いた人が、泣いてたってことだけは分かっちゃう。


「私も、あそこにいたかった」


 語尾が(かす)れた。気が付いたら、また私は泣いていた。

 戻れない。容赦なく、時間は過ぎていく。

 あそこに立ち止まることは、許されなかった。

 立ち止まれないということに、気付かないままでいることも許されなかった。


 ―――知恵をつけたら、『楽園』にはいられない。


 いられないんだ。


 食べた知恵の実も、お腹の中で腐って。


 『狡猾な子ども』は、単なる(さか)しい存在になって。

 子どもにしては(さか)しかった存在は、そこで知恵も止まって、どんどん古びて、見掛けだけ年老いた、幼稚な存在になって。


 現実の『家』も、どんどん古びて。

 住んでる人も、どんどん老いて。


 その時、自分が、どうなってるのかも、分からない。


 あの『家』には、入れてもらえなかった。


 あそこは、永遠に、親切な、単なる近所の、他所(よそ)の『家』のままなんだ。


 見たら、水戸さんも泣いていた。


 二人で泣いた。


 絵の前に立って、並んだまま泣いた。


 共感とか、共鳴って呼ぶようなものが、空間を満たしていた。


 無力。


 時間の前に、あまりにも無力な二人がいた。


 共通点は多分、『人間』ということだけ、だったけど。


 お互いが、一つ呼吸をする(ごと)に、無力感を覚えている、ということだけは、多分、お互いに分かっていた。


 呼吸して、何か飲んで、食べて、存在することしか出来ないということが、一呼吸する(ごと)に分かって。


 だから、涙が止まらない。






 しばらくして、水戸さんが口を開いた。


「…何も聞かないの?」


 聞くって。

 『ミサさん』って、誰?とか。どうして亡くなったのか、とか。

 私に似てたの?とか。

 どうして私に、「付き合おう」って、言ったの?とか?

 その(ほか)の、推測の域を出ないこと?


「…別に」


 そう言うと、水戸さんは、意外そうに目を丸くした。


 卑怯にも私は、ここまで相手に近付いておいて、相手のことを何も聞きたくなかった。


 聞いたら、―――もう後戻りが出来ない気がした。


 だって、聞いても。

 多分私は何も出来ない。


 ただ、生の傷口を、消毒する振りをして、素手でなぞるだけな気がする。

 それは、傷のなめ合いより、多分酷いし、傷も絶対治らない。

 傷の場所を、『ここだよ』って、教え続けるような気がする。


 それを受け止める勇気はない。


「…普通、聞きたがるもんじゃない?」


 水戸さんは、そう言って、やっと笑った。


 私は笑えなかった。


 そうなんだと思う。

 あなたのことを好きだったら、あなたのことが知りたいもんなんだろうな、って。


 だから、返事が出来ない。




 その日は、そのまま、帰ることにした。

 せっかく出してもらったのに、ペットボトルに触ることもしなかった。


「…本当に、絵だけ見にきたんだねぇ」


 驚いたように、水戸さんはそう言った。


「…今日はね」


 少し笑って、そう言うと、水戸さんも笑った。


 『次』があるみたいな言い(かた)しちゃったな、と思った。




 水戸さんのアパートを出ると、人気(ひとけ)の無い下り坂の(ほう)に出た。

 来る時は結構きつい上り坂だったんだけど、こうなると逆に楽かもしれない。

 片方にコンクリートの壁が、片方に山の木がある。

 住宅地の中にある小さな山を削って、居住地を増やしたような感じだろうか。

 うちの近所にも、よくある坂だった。


 木々や草の隙間から、山百合が咲いてる。

 上る時は坂がきつかったから、あんまり気にしてなかったけど、結構沢山ある。

 まだ蕾も多かった。


 坂の途中で、立ち止まって、少し近寄って山百合を見た。


 湿った土。少し涼しい日陰。黄緑がかった、白い蕾。


 ―――白いスカート。


 ふと、カラオケの時、水戸さんを見て逃げ出した瑞月のことを思い出した。

 よく似合ってた、あのスカート。走って(なび)いてた。


 瑞月。


 急に、山百合の花が、何かの首のように思えた。


 首を、こちらに曲げた花が、蕾が、私を見ているような気になった。


 どこを見ても、山百合は咲いていた。


 ―――――嫌だ。見ないで。


 怖くなって、駆け出した。


 でも、坂に従って、山百合は咲いていた。


 怖い。私を見ないで。


 私は、走るのをやめて、コンクリートの壁の方に身を寄せた。


 呼吸を整えなくちゃ。


 壁に寄り掛かった。


 …コンクリートなら、百合は咲かないよね。


 深呼吸しながら、空を見上げた。


 山百合!


 私の真上、二メートルくらいに、山百合の蕾があった。


 コンクリートとコンクリートの継ぎ目から、他の草と一緒に生えてるのが、はっきりと見えた。


「嫌っ!」


 弾かれたように、私はまた走り出した。


 見ないで。


 遂に、転んでしまった。


 足を擦り剥いた。


 …ミュールで走るからだね、馬鹿だ。


 白いカットソーは、さっき壁に背中を寄り掛からせたから、汚れたかもしれないし、淡いピンク色のスカートも、今ので汚れたかも。


 血が出てはなかったけど、膝小僧に、斜めに沢山の白い筋が入ってる。


 じんじん痛んだ。


 小さな砂粒が、ちょっと付いている。


 その場にへたり込むと、アスファルトの熱が足に痛かった。


 泣いた。


 私は馬鹿だ。


 認めたくない。

 『生き(づら)い』ことを認めたくない。

 絵や他人の態度から、敏感に物事を感じ取ってしまうことも、あんまり知られたくない。

 『生き(づら)い』ことを知られて、他人に気を遣わせたくない。


 他人のことなんか知りたくない。他人になんか入り込みたくない。

 他人が自分を分かってくれないことは分かってるのに、自分は他人の気分が分かって、それに左右されちゃうから、『何で自分ばっかり』って思っちゃう。


 分かってくれなくても良いから。

 『家』に入れてほしかった。


 私が『生き(づら)い』ことに気付いてくれて、でも、それに見て見ぬ振りをしてくれて、ただ、一緒にいてくれる人が。

 『家』に入れてくれて、『家』に一緒にいてくれる人が。


 一緒にいてくれる人が。

 何処かにいるんじゃないかって。


 ずっと一緒にいてほしい、って、言ってくれる人が。

 何処かにいるんじゃないかって。


 多分、何処かで期待しちゃって。


 そしたら、そんな他人を探さなきゃなんないから。


 結局、他人に関わんないと(つら)くて。


 でも、関わって、誰かのこと知っちゃうと、苦しい。


 その人が苦しいと、苦しい。


 どうしたら、誰の傷も(えぐ)らずに、誰のことも縛らずに、誰かの傍にいて、相手のことを大事にして、相手からも大事にしてもらえるんだろう。




 しばらく、そうして泣いていると、誰かがやってきた。


「茉莉花ちゃん!」


 坂を走って下ってきたのは、水戸さんだった。


 水戸さんは私を助け起こした。


「どうしたの?」


「…何でもない。転んだだけ」


 転んだだけ。山百合は悪くない。

 悪いのは―――私だ。


 居場所がなくてウロウロしてるくせに、『生き(づら)い』って認められなくて。

 水戸さんの傷を受け入れるのが怖くて。

 じゃあ、一緒にいなくていいじゃん、って思うのに。

 何で「付き合おう」って言われて、「いいよ」って言っちゃったのか、本当に分かんなくて。


 凄い、頭悪いんだと思う。


 だから、私が悪いんだと思う。


 涙は止まらなかった。


 水戸さんは、私を抱き締めて、唇にキスした。


「…送ってけば良かった、と思って、追い掛けて来たんだ。やっぱり、来て良かった」


「…転んだだけだってば!」


 離れようとしたら、もっと強く抱き締められた。


 私は、結局、水戸さんに(すが)り付いて泣いた。


 ―――見ないで、山百合。


 私は結局、自分のことが一番好きなんだ。

 (すが)り付くものが、今、この人しかないから、一人になりたくないから、多分あの時、咄嗟(とっさ)に、付き合うことを承諾したんだ。




 何処の『家』にも、入れてもらえないから。




 同罪だ。


 私達は同罪だ。


 瑞月のことを、何となく感づいてるのに。


 水戸さんも、多分、何かの腹いせみたいな感じで、私に付き合うことを持ち掛けたのに。


 私達は、付き合うことを決めた。


 やっぱりそれは、寂しさと絶望から逃避する、姑息な手段を覚えた、―――ただの子どもだ。


 子どもが、お互い、独りぼっちを埋め合うようにして、そこにいるだけだ。


 私は、小さい時から何も進歩なんかしていない。


 こんなことには何も意味は無い。


 でも、水戸さんは、もう一度キスしてきた。


 それが全然嫌じゃないのが、凄く嫌だった。






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