夏休み:And ending with the grin, which remained some time after the rest of it had gone.
もう八月だ。
そろそろ墓掃除をしに、長野に行かないといけないし、そう思うと、後一ヶ月しないうちに、九月だ。
そういう言い方をするなと絆に言われる。
夏休みが終わるのが嫌らしい。
確かに、あの課題の進み具合だと、学校に行きたくないだろうな、と思いながら、そこには触れない。
そんな日常。
三食作って家事をして犬の散歩に行く生活。
本当に主婦にでもなったような気がしてくる。
塾も無くて、こうして絆が訪ねて来なかったら、時間の感覚も無くなってくるかもしれない。
そうかと言って、例の本の解読をする気にもなれない。
「ねぇ、どっか行こうよー」
我が家のリビングの床で仰向けになりながら、絆は、そう提案した。
俺は、取り込んだ洗濯物を畳む手を止めた。
「どっかって、何処へ?」
「いいからどっか。遊びに行こうよぉ」
仰向けのままの姿勢で、ちょっと手足をバタつかせた。
小学生みたいな奴だ。
「じゃ、…出ようか、取り敢えず」
「ホント?」
絆は、急に起き上がって、立眩みを覚えたらしい。
暑いからって素麺ばっかり食ってるからだ。
まぁ、貰った御中元が片付くので、うちとしては助かるが。
「何処で何するの?」
おいおい、そこの決定まで俺に任せるのか。
「取り敢えず家を出る。後は行き当たりばったりだ」
「わーい」
何が「わーい」なのか。
行き当たりばったりで行くと言っても、ろくに行き場も思い付かないんだから、精々、日が暮れるまで空調の冷気を求めて店から店を転々と歩き回るくらいのもんだろう。
暑そうだな…。
まぁ、それでも何処かに行きたいのなら、付き合おうじゃないか。
結局、絆も俺も、日常に変化が欲しいのかもしれない。
…確かに、気晴らしはしたい。
着物姿の子供二人の姿に慣れることが全然出来ないから、明るく楽しい気分の夏とは言い難い。
急に、絆が洗濯物を畳むのを手伝ってきた。
早く出掛けたいらしい。
俺は絆に、畳み終わったタオルを、脱衣所の棚に入れてきてくれるように頼んだ。
案の定、外は、茹だるような暑さだった。
アスファルトから立ち昇る陽炎が見えて、家を出たことを、本気で後悔した。
絆が、「暑ー!」と言いながら、コーヒーショップに駆け込んだ。
追い掛けながら、日傘を差している人が数人目に入った。普段は、邪魔そうだな、と思うのに、今は、その日傘が羨ましいくらいの気分だった。
「あれ、絆?高良も」
絆の、シェイクのようになったコーヒーに、固めに絞ったホイップクリームとキャラメルシロップがかかったものを一つ、俺のブラックのアイスコーヒーを一つ注文して、空いた席を探していると、窓際の四人掛けの席を一人で陣取っている、見覚えの有る髪色の男が声をかけてきた。
「あ、ゆーま。来てたの?」
「うん。あ、座れば?」
そう言いながら、優将は、机の上の荷物をどかせた。
俺達は、素直に、その席に座った。
優将は、夏休みの課題をやっていたらしい。
英語のものとも数学のものともつかないような授業用ノートと参考書を広げて、化学の課題をやっていた。
意外と綺麗な字を書く奴なので、授業ノートなんかは、曜日ごとに、ほぼ雑記帳状態にしているくせに、内容は見やすかったりする。
優将の正面の席に座ってコーヒーを飲みながら、広げてあるノートを逆様に見ていたが、それでも、ポイントのまとめ方が上手いノートだというのは分かった。
『ベンゼン環 二つあったらナフタレン 三つあったらアントラセン』…。
呪文か標語のような書き方に、思わず笑ってしまった。
成る程、語呂が良くて覚えやすい。
「勉強しに来たの?」
「待ち合わせの時間潰し。課題でもやろうかな、って」
「偉~い。俺まだ化学手ぇつけてないよー」
俺の隣で、絆が不安げな声を出した。
おいおい…大丈夫なのか、それは。
ミルクで白濁したアイスコーヒーのグラスを片手に、サラサラと計算していく優将の手元を見ながら、ふと、水戸と茉莉花が付き合っているという話を思い出した。
優将は知っているのだろうか。
「あ、そうだ、優将。俺、携帯買ったから、連絡先交換しないか?」
「おー、OK」
…これで、後で、優将経由で、茉莉花と連絡、…取って良いもんなのかな。
優将に、水戸と茉莉花が付き合っているのを知っているか、と、聞こうか迷っていると、左側から、コツコツという、窓ガラスを叩く音がした。
窓ガラスを叩いていたのは、伊原瑠珠だった。
「久しぶり」
「わー、そうだねー。二ヶ月ぶりくらい?」
抹茶のシェイクのようなものに、固めに絞ったホイップクリームと、黒ゴマのシロップがかけられた飲み物と、少し大きめのチーズケーキの乗せられた皿をトレイに乗せて、涼しげな格好の瑠珠がやってきた。
四本ぐらいの、螺旋のように巻かれた髪が、記憶していたより明るい茶色だった。
「ここ、良い?」
「どーぞ」
優将が、自分の隣の席の荷物をどかせた。
ついに優将の荷物は床に置かれることになった。
高そうな革だが、床に置いていい鞄なのか?
「ありがと。あ」
瑠珠が、優将の鞄のブランド名を言い当てた。
聞いたこともない名前だったが、やはり高いらしい。
一体あれがいくらするのか。
そう言えば、いつも優将は持ち物が良い。
それを無造作に床に置いてしまえるところがまた、凄いと思う。
俺は見かねて、テーブルの下に設置されていた、荷物入れの籠に、優将の鞄を入れた。
優将に、実に軽く、「サンキュ」と言われた。
それから、しばらく、瑠珠と優将は、鞄の話をしていた。その後、流れるように、ここのコーヒーショップの新商品の話になり、そこに、飲み物を半分くらい飲み終えた絆が、難なく加わった。
優将が、あまりにも自然に話すので、ちょっと見惚れた。
成る程、これが『会話上手』というやつか。
―――駄目だ。天地が引っ繰り返っても、真似出来そうにない。
成る程なぁ。『お似合い』って、まさに、こういう感じだよな。
優将と瑠珠は、結構、見た目が釣り合うと思う。
しかし、何故、水戸と茉莉花の時は、あんなに不自然に思ったんだろう。
いや、それ自体が不自然なわけではない。
容姿が釣り合わない、とかいうことは、決してない。
俺は、他愛もない話に時々参加しながら、冷たいコーヒーを飲み、切れ切れに、そんなことを考えていた。
全員が粗方飲み物を飲み終わった頃、瑠珠から、三分の一くらいチーズケーキを貰うことに成功した、高校生というにはあまりにも無邪気な友人が、頬についた細かい食べかすを拭いながら、実に何気なく、その話題を切り出した。
「ねーねー、そう言えばさぁ。茉莉花ちゃんって、水戸っちと付き合ってるんでしょー?」
一瞬、その場の空気が凍りついた。
「…え?」
瑠珠の発した声は、低かった。
「…え?知らなかったの?」
場の空気の変化に敏感な絆は、恐る恐る瑠珠に聞き返し、優将と俺の顔を順々に見た。
「え?いつから?」
「夏休みの初日からだよ」
優将が、いつもの無表情で、そう答えた。
そうだったのか。
「…私、聞いてない」
「え…そうなんだ。俺達、水戸っちから聞いたんだけど」
「…水戸って、カラオケの時遅れて来た、背の高い人だよね?」
ゆっくりそう言いながら、瑠珠は俺の方を見た。
「そうだな」
俺の返事を聞くと、そのまま、瑠珠は、俺の顔を見詰めて、黙りこくってしまった。
「…伊原さん?」
「…そっか。そうなんだ」
瑠珠は俯いた。
取り敢えず、店を出ることにした。
優将は、そろそろ待ち合わせの時間だと言うし、瑠珠は買い物に行く途中だったそうで、これからの予定を全く考えていなかった俺と絆の二人は、話し合う必要が出てきた。
「あ、ねー、そう言えば、誰と待ち合わせー?デートー?」
立ち去ろうとしている優将に、またも無邪気に、絆が間延びした声を掛けた。
優将は上半身と首を優雅に捻ってこちらを振り返り、嫣然と笑った。
例のあの、気持ち悪いくらい綺麗な微笑みだった。
今日は、それが何処か艶っぽかった。
―――デートなんだろう。これ以上聞いても答えてはくれまい。
絆が、声は出さずに、口だけを動かして「うひゃー」と言った。
気持ちは分かる。
優将が颯爽と人ごみの中に紛れていった後、その方向を見ながら、瑠珠が口を開いた。
「ね、こんなこと言ったら悪いんだけど、あのバッグ、あの人、本当に自分で買ってるの?」
「え?」
「この前、カラオケに持ってきてたバックも、五万ちょいするやつだったのよね、あの人。家、そんなに金持ちなわけ?私立の子でバイトしてないってことは、お小遣いが多いんだろうけど」
…そうなのか。
それだけ相手の持ち物をチェックしている瑠珠にも驚いたが、優将の持ち物の値段も、充分驚くに値した。
「うーん、そう言えば、ゆーまの家の話、聞いたことないなぁ。でも、学校に時々持ってきてる鞄も、それくらいじゃない?その鞄と、お揃いの財布も使ってるけど、多分結構高いよね」
そうだったのか。
俺は、優将の旧国防色の財布を思い出した。
「もしかして、デートって…」
瑠珠が言い淀んだ。
「援…いや、貢がせてるってこと?」
絆も、言葉を選びつつ、不安そうにそう言った。
雑踏の音が、急に会話に割り込んできた。
「…まっさかねー!」
「…ねー!」
沈黙を振り切るようにそう言って、二人は、無理矢理納得したような声を出した。
多分、あまりにも、それが容易に想像出来たからだろう。
事実とは、関係無しに。
実際に確認が取れたわけでもないのに、そんな、勝手な憶測をされる程に容姿が良過ぎるというのも、損な話である。
結局、そのまま三人で回ることになった。
店を巡る度に、瑠珠から色の洪水が目に入ってくる感覚に既視感を覚えながらも、絆がいるせいか、前のような違和感も覚えず、それなりに楽しかった。
暗くなる前に、駅の方まで瑠珠を送った後、俺達も帰った。
「結局、伊原さん、買い物しなかったな」
家に向かって歩きながら、俺は不意に、思い付いたことを口にした。
「…高良って、そういうとこ変に鈍いよねー」
嫌な顔をして、そう言った絆が、溜め息を吐いた。
「は?」
「なんでもない!」
怒ったようにそう言って、絆は急に目的地に向かって走り出した。
「お、おい!」
「高良んちまで競争!」
走る絆の背中を追い掛けながら、空を見上げた。白い星が姿を現し始めていた。
ふと、何かの花の映像が脳裏をよぎった。
ああ、『素馨』か。この前調べたんだったな。
濃い常緑の葉の中に白い花の咲く木を思い出した。
木の前には、茉莉花が立っている。
何故か、白い花とセットで思い出した茉莉花の姿は、上半身と首を優雅に捻ってこちらを振り返り、無表情で俺の方を見ていた。