報告:Well, I hardly know
その日は、久々に絆が、うちにきた。
ちょうど携帯電話を買ったばかりだったから、連絡先を交換した。
会いに行った方が早いような距離に住んでるから、変な感じがした。
何とも蒸し暑い、七月下旬の午後。
俺は、塾の帰りで、夏の制服姿のまま、リビングにいる絆に麦茶を出した。
つけたばかりのクーラーの効かなさが、切ない。
温度差のある空気が、モーターで撹拌されているような感じだ。
二人で夕飯を食べた後、絆と一緒に、歴史さんの散歩に行った。
絆は、偶には遠くまで散歩に行きたいと言った。
絆が走ると、歴史さんも走る。
仕方が無いから俺も走ると、歴史さんは、もっと走る。
結局、全員全力疾走のままで、絆の家が経営するコンビニに着いた。
遠くに行く前に、絆の方が、ちょっとへばってしまったから、それが休憩になった。
絆が、歴史さんに、コンビニでビーフジャーキーを買ってくれると言うので、俺は、ついでにアイス代を絆に渡して、入り口のところで、歴史さんと待っていた。
冬毛が全部生え変わって、何だか歴史さんは細身になった。
この前まで、抜けきらなかった部分を、目に付いたときに取っていたのだが、そろそろそんな必要も無くなっていた。
それにしても、あんなに抜けるのか、というくらい抜ける。
羊毛だったらセーターでも作れそうなぐらいだ。
あの毛で作ったセーターなんか着たくはないが、面白いように抜けるので、テスト期間中は、気分転換に歴史さんのブラッシングに精を出したりしていた。
座っている歴史さんの、茶色い頭と黒い背中を見ながらボーっとしていると、目の前に、ヌッと人影が現れた。
「あ、やっぱり高良」
「おお、水戸か」
「久しぶりー」
水戸の銀縁眼鏡に、コンビニの照明が反射して、ちょっと光った。
水戸が歴史さんに気付いた。
歴史さんは、水戸が近づいた分だけ後ろに下がった。
更に水戸が近づくと、尻尾を足の間に入れて、俺の後ろに隠れた。
「あらら、嫌われちゃった?」
「いや、ちょっと臆病なんだ。慣れるとそうでもないんだけど」
それも、どうも、背の高い人が怖いらしい。父と俺は横並びの身長なのだが、それが歴史さんの許せる身長のギリギリのラインであるらしく、俺以上の身長になると、いきなり怖がって、警戒を始める。
水戸は、歴史さんの前にしゃがんで、目線を低くすることを試みたが、それでも駄目なようだった。
「コンビニに用事か?」
しゃがんだままの姿勢の水戸の横顔を見ると、ふと、水戸の目が普段より少し小さいように感じた。
しかし、俺に声をかけられてこちらを向き直った水戸の目は、いつもの通りの大きさに見えた。
ああ、遠視用のレンズなのか。
そう言えば、時々眼鏡を外しているが、遠くの人の顔の判別はつくようだった。
「うん。家がT町で。駅近いから、このコンビニ」
「あ、最寄駅同じなのか。うち、H町なんだよ」
「お、ホント?これから、また新しい展示場所に、会場設営に行くんだけど、設営の時、補強に使うガムテープがないってメッセージが入ったから、買ってから行かなきゃ。あの辺コンビニ無いし」
やれやれ、という感じで、水戸は笑った。
「また展示があるのか」
「そう。比較的新しいギャラリーホール。去年くらいに出来たらしくて。でも、建物は新しいくせに、余った土地に建てたのか、周りに店が少なくてさー。ファミレスあるのにコンビニ無いって、どういうこと?みたいな」
「そうか。頑張るなぁ」
「まぁ、今年までだろうからね、こんなに展示とかして回れるのって。来年の今頃は、こうは行かないだろうから」
「そうか…」
来年の話をしても、笑うのは鬼だけだ。
来年の四月になったら、嫌でも『受験生』の肩書きが追いかけてきて、何を楽しむのも満足に出来なくなる気がする。
「しかも、八時にギャラリーホールが閉まってからじゃないと、会場設営の作業に入れないんだよね。それで、こんな時間から向かう破目になって。その分、焦って行かなくてもいいんだけど」
「そうか、大変だな」
そんな話をしていると、絆が戻ってきた。
「お待たせー。あ、水戸っち」
「久しぶり、絆」
笑いながら、絆は、俺にアイスを、歴史さんにビーフジャーキーを渡した。
歴史さんは、絆がビーフジャーキーの袋を開けるのが待ちきれなくて、また変な動きを始めた。
「じゃ、またね」
「うん、じゃーね」
水戸がガムテープを買うのを待って、コンビニから出てくるところまで見届けることにした。
何となく、水戸を置いてその場を離れるのが躊躇われたのだ。
「あ、そうだ」
駅の方に向かいながら、水戸は思い出したようにそう言った。
「俺、茉莉花ちゃんと付き合うことになったんだ」
ポカンと口を開けてしまった俺と絆に、水戸は手を振った。
…行っちゃったよ。
「…水戸っち、茉莉花ちゃんと付き合うんだねぇー…」
「…そう言ってたなぁ」
「うわぁー、イメージわかなーい。まぁ、可愛いって言ってた気がするし、お似合いっちゃお似合いだけど、どうやってそんなことになったんだろ。あ、…そもそも、あの合コンが、二人を会わせるためだったっけ?」
「そうだなぁ…。元々は、慧が言い出したんだっけ…」
残された俺達は、家に戻りながら、そんな話をしていた。
うん。確かに。
イメージが湧かない。
いや、水戸が茉莉花を意識していたのは何となく知ってたが。
合コンでも、大して進展があったようにも思えなかったし。
そして、俺は、何と無く『茉莉花』を思い出そうとしていた。
漆黒の髪。白い肌。“Dolly Jasmine”
…いや、はっきりと思い出したのは、何故か外見ではなかった。
何故か、俺のイメージの中で、茉莉花は、不思議と、優将の影のような形をとった。
そして、それはやはり、第一印象から動いていないものなのだった。
変な感じがした。
俺の中で、二人が『座敷童』という観念の形を取っている。
「え?なぁに?高良、ショック?もしかして、茉莉花ちゃんのこと…」
絆が、からかうように、そう言った。
「んー?…んー。そうだった方が、すっきりするかも…」
「…なにそれ?」
絆は、怪訝そうな声を出した。
そう言われても、一体俺の中で何が噛み合わないのかが分からないまま、俺達は家に着いた。
あ、しまった。
携帯買ったからって、友達の彼女と連絡先って、交換して良いもんなのか?
あと、水戸とも、連絡先交換するの、忘れてた。
しかし最早、あの和綴じの本は、一人で開くのが、完全に怖いものになってしまっていた。
父親にも、本の話題を出したくない程度には、俺は、あの本の存在が怖くなってしまっている。
情けない話だが、『怖いから』茉莉花と一緒に解読したい、というところまできていて、その他の時間は、本のことなんかスッパリ忘れて、夏期講習の勉強とか、学校の課題とかをしていたいくらいなのである。
『怖いから』一緒に何かをしてほしい、と他人に思えるというのは、俺にしては、他人に甘えることが出来ている気がする。
まぁ、御蔭様で、何故か、勉強の方が逃避になってしまっているから、捗るのなんの。
成績が上がりそうだなぁ。
…いや、何でこうなった。
そりゃ、成績を上げたいから塾に行くわけだが、そうじゃないだろう。
…夏休み前に携帯買って、サッサと茉莉花と連作先交換すりゃ良かった。
彼氏に了承を取ろうにも。
水戸に何て言うんだ。
霊障?が、治まる可能性があるから、解読したい本があるんだけど、一人じゃ怖いから、二万五千円出して、御前の彼女に解読を手伝わせようと思ってるんで、彼女と連絡先交換したい、って?
…まさか、本当のことを言った方が友達を失くしそうな日が来ようとはなぁ。
俺が彼氏だったら、嘘ついて自分の彼女を口説こうと思ってるのかな、としか思わないし、それならまだ良い方で、単純に『ヤバい奴』と思うな。女の子を口説くにしても、切っ掛けが『霊障』の奴は、相当ヤバいだろ。
あ。『いる』。
着物の女の子の、美しい目が、俺の目を捉える。
盛夏に振袖。
やはり、人外のものなのだろう。
絆には、やはり見えないらしい。
なぁ、どうして、俺の前に出てくるんだ。
絆が、うちのリビングでアイスを食べている間、俺は珍しく、女の子の目を、じっと見詰め返していた。
その顔は、やはり、綺麗で。
愛らしいと思った。
何かしてほしいことがあるなら、寧ろ、もう喋ってほしいもんなんだが。
そのうち、男の子も出てくる。
俺は、妙なことに気付いてしまった。
着物姿の男の子と女の子は、お互いのことが、見えていない。
「あれ、高良、アイス食べないの?」
「あ、そうだ、アイス買ったんだった。…俺、明日食べる」
「そっか。あ、麦茶、お代わりもらっちゃうね」
「分かった」
気付けばまた、着物姿の子供二人は、消えていた。