誕生日:The Pool of Tears.
I wish I hadn't cried so much!
カラオケは楽しかった。
オールの為のフリータイムが始まるのが十二時からだから、それまで、お茶したり、買い物したり、ご飯食べたりして、楽しく時間を潰した。
でも、やっぱり、瑠珠に、高良が好きなのかどうかは聞けなかった。
勝手に『女の子の打算の最上級形』とかにしちゃった手前、何だか悪かったし、瑠珠は、もし高良を好きでも、私に向かって、そうだとは認めないんじゃないかと思うし。
どっちにしても、せっかく楽しいのに、わざわざ、そんな話、聞くことないか、と思った。
瑠珠には、高良とバイトする、とか、言えないな…。そもそも高良との秘密なんだけど、言うにしたって、何て言う?
霊障に悩んでるみたいだからバイト手伝う、とか?
子どもの妖怪が見えるみたいだよ、とか?
…言えないなー。そりゃ、高良だって、誰にも相談出来ないはずだよね。
何の話?ってなるじゃん。
店に入って、カラオケ店のロビーで受付を待ってると、十二時きっかりになった。
おお、私の生まれた日。
携帯の時計表示も見る。
急に、一分おきとか、二通いっぺんとかで、じゃかじゃかと携帯にバースデーメッセージが入り始めた。
マナーモードにしておいて良かった。
携帯、震度1。
お誕生日おめでとうのメッセージが瑠珠からも来た。
隣に座ってる瑠珠と、目配せして笑い合う。
他からちょっと遅れて、日出からも来た。
おお。覚えてたか。
来たメッセージの中に、優将からのメッセージがあった。
意外。
改行で空白が作ってある、内容なんか何もない、ただの、連絡があったことが分かるだけのメッセージだった。
思わず、笑いが込み上げてきた。
「おめでとう」なんて一言も書いてなかったけど、何か楽しくなった。
普段のメッセージも、大した内容じゃないし、誕生日に、何かくれたりとか、こういうことも、したことないのに。
私も、したことないけど。
これ、改行だけ打ったのかな。
ああ、毎日会ってたからか。
今までの誕生日は、直接言えば良かったんだ。
おめでとう、って。
今年は、優将と出会ってから、一緒に過ごさない、初めての誕生日なんだ。
もう、高校生だもんね。
変な楽しさと、変な寂しさを感じながら、受付を済ませて、指定された番号の部屋に入った。
部屋に入ったら、瑠珠がプレゼントをくれた。
大好きな紅茶のお店の、ワイヤーで出来た、小さい鳥籠の形をしたケースに入ってる、シュガーと茶葉のセットだった。
可愛い。
…そして、茉莉花茶。
小松茉莉花、『茉莉花茶』とか、『ジャスミン』系の香りのボディークリームとか、ハンドクリームとか貰い過ぎ問題。イメージし易いんだと思う。
だから、普段使いしてる。ルームフレグランスもジャスミン。
お礼を言って、一緒に歌って。ドリンクバーおかわりして。途中で、ふざけてストレートティーとジンジャエールを半々で混ぜたり。後半は、懐メロまで飛び交う、妙なテンションになって。
楽しい。
ただただ、楽しかった。
何も考えたくない。
今、楽しいことだけ見たい。
今、誕生日の、今、自分の『家』に、電気が点いてないことなんて、思い出したくない。
店を出たのは、朝の六時だった。
夜フラフラ歩き回るよりも、オールでカラオケ朝までやってる方が、実は安全だったりするんだよね。
同じくオールで、テンションが変になってる団体のナンパをかわして、朝マックして、瑠珠と別れた。
さぁ、帰らないとな。眠いし。
朝は、まだ涼しい。
見上げた明るい空が、急に目に沁みた。
何だか泣けてきた。
嫌だな。眠いんだ、きっと。変じゃないか、歩きながら泣いたりして。さっきまであんなに楽しかったのに。
でも、はしゃいだ次の日って、何だか時々こんなことがある。
誕生日を『家』で過ごさなくたって、私は叱られない。
それは分かってる。
だから夜通し、遊びに行けたんだ。
いつものことじゃないか。…いつものことじゃないか。
街が動き始める。
店のシャッターが開いて、ゴミ収集車が来て。
ここに私がいない時でも、ここはきっと、毎朝こういう動きで始まるんだろう。
ああ、腹が立つ。
整い過ぎてる。整い過ぎてる。
私が不規則な時間に寝ようと、勉強しなかろうと、世界は、こうして整ってる。
新聞は毎日来るし、コンビニの物流トラックは走る。
『世界』と私は無関係。『家』には、誰もいない。
自分に出来ることなんて、何もない気がするし、高良に、向いてる職業があるって言ってもらえても、自分のこと、信じられないから、このあと何回誕生日が来ても、大人になっても、仕事なんかないんじゃないかって思っちゃう。
…高良が、優しさで、ああ言ってくれただけなんじゃないか、って。
泣くな。
いつものことだ。いつものことだ。
一晩中遊んでおいて、泣くな。
楽しかったのに、泣くなんて馬鹿だ。
月曜からは学校だよ。
意地でも行ってやる。
こんなこと、…誕生日なんて非日常を、日常に影響させてたまるもんか。
それから、寝て、起きたら夕方だった。
うわ。今日の夜、眠れるかな。でも、動きたくない。
携帯の時計は、まだ私の誕生日の日付を表示してる。
あ、テスト近いんだった。
急に、意識が現実に引き戻される。
取り敢えず、シャワーを浴びる。
何か気だるいけど、温いお湯を浴びるのは気持ちが良い。
ボーっとシャワーを浴び続けていると、遠くの方で、着信音が聞こえた。
シャワーを終えてから見てみると、携帯に、優将からメッセージが入ってた。
『りかさんが家に来いってさー』
相変わらず簡潔なメッセージに、何だか逆に安心しながら、髪を乾かして、服を着て、中澤家に向かった。
出迎えてくれたのは、里歌さんだった。
ピンクのエプロンに、両サイドだけ取って留めた髪の毛が、ふわふわしてて、優しそうで。
ああ、いつもの里歌さんだ。
「お誕生日おめでとう、茉莉花ちゃん。ケーキ焼いたのよ。さ、上がって。長いこと来なかったわねー」
玄関まで漂ってくるバニラエッセンスの香りが、何だか懐かしくて、泣きそうになった。
覚えててくれたんだ!
里歌さんの後ろから、無表情の優将も出てきた。
「有難うございます」
いつもの誕生日だ。いつもの誕生日だ。
「さ、お祝いしましょう。あ、そうだ、主役の人に頼んで悪いけど、慧を起こしてきてくれない?」
…あれ?
「慧、寝てるんですか?珍しいですね」
「最近、ちょっと変なのよ。様子見てやって」
慧の部屋に入るのなんて、何年ぶりかな?
子供部屋のドアをノックする。返事は無い。
そっとドアを開けて入る。
水色のカーテンを引かれた窓。薄暗がりの中、クーラーが機動していることを示す緑色の小さな明かりが、何かの目みたいに光ってる。
少し籠もった空気の臭い。
…最近窓開けてないの?
キンキンに冷えた空気が寒いくらいで、クーラーの下のベッドには、真ん中が膨らんだ羽根布団が見えた。
冷房付けて、布団被って寝てるの?夏の贅沢ではあるけど、土曜の午後って、他にすることあるんじゃない?いや、私も、さっき起きたんだけど。
寝てるのかもしれないけど、起こせと頼まれたからには、容赦しちゃ駄目だよね。
私は、慧の部屋の電気を点けた。
記憶の中にある子供部屋とは、随分、様子が変わってる。
長い、作り付けの机の側に、銀色のステンレスワイヤー製の棚が増えてる。そこに、勉強道具一式と鞄が収納されてるみたいだった。随分参考書が多い。数学ⅢやCの参考書もある。
ああ、慧って理系だっけ。
紫苑高校って、大分授業進んでるんだな。
机と同じ高さに調節された段には、パソコンとプリンターがあった。
椅子を動かせば、簡単に、机でする作業に関係なくパソコンが操作出来るようになってるわけだ。
合理的。
机は、プリント類で散らかってる。
結構整理整頓する方のはずなのに、珍しい。
ベッドの側にある本棚に、小さな絵の入った額があった。
ああ、これなら覚えてる。
里歌さんが、どこかの雑誌かなんかから切り抜いてきた、律法の一番重要な愛の教えを説くイエスの絵だ。
里歌さんの名前の『歌』は『讃美歌』の『歌』からきているのだそうだ。
そんな、敬虔な信徒の里歌さんが、昔、慧の部屋に飾った絵だ。
まだ飾ってたのか。
何だか、慧らしい。
古くなっちゃって、綺麗じゃないけど、変わらないものがあるって、ホッとする。
いつもの場所、いつもの誕生日、って、信じられる気がする。
ちょっと日に焼けて色褪せて、埃を被った額の絵を見てたら、布団が、モゾリと動いた。
「慧、起きて」
布団から、ニョキッと顔が出てきた。
「…あ、まりか」
起きてるじゃん。
「里歌さんが、降りておいでって」
「んー…」
慧は、ゆっくりした動作で上半身だけ起き上がって、枕元からクーラーのリモコンを取って、冷房を消した。
Tシャツとジーンズのまま寝てたの?
慧の黒髪が、後頭部の部分で盛り上がってボサボサになってる。Tシャツは、背中のところだけ皺になっていた。
「ほら、下に降りよ」
私は窓を開けた。
窓から入ってくる熱風が、ちょっと心地良い。
寒いのよ、この部屋。空気悪いし。
慧は、ベッドから出ようとしない。
腰の辺りまで羽根布団を被って、ベッドの上で体育座りして、膝に額を当ててる。
寝起きが悪い方じゃないはずなんだけどな。
それに、眠ってたのとは、何だか違うみたいに見える。
「慧、眠いの?」
慧は、そのままの体勢で首を振った。
…最近様子がちょっと変だって、本当なんだ。
「どうしたの?」
慧は、ゆっくりと、私の方を向いた。
「ねぇ、まりか。―――苧干原さんと連絡って、取れる?」
「あら、やっと降りてきたわね」
慧と一緒に一階に降りると、里歌さんが嬉しそうに言った。
ケーキの他にも御馳走が用意してあった。
皆でご飯を食べてると、中澤さんが帰ってきた。
中澤さんが食卓に加わってから、電気を消して、蝋燭を吹き消す。
一気に十七本吹き消すのは無理だった。
何となく、お願い事は叶わないな、と思った。
どんどん、歳の数だけ蝋燭を立てるのが難しくなる。
いつものように、食器の片付けまで手伝ってから、中澤家を後にした。
見上げると、二階の慧の部屋の電気が、ちょうど点いたところだった。
「ね、優将。今度、テスト終わったら、一緒に、美術館までついてきてくれない?慧に、瑞月を会わせるの、手伝って」
そう言いながら、隣にいる人影の方を見上げた。
「…良いよ」
低い声が、ゆっくりと返事した。暗いから、優将の顔は、よく見えなかった。
信じられない。誕生日なのに。誕生日なのに。
私は、日付が変わっても、回想に苦しめられて、眠れなかった。
「ねぇ、まりか。―――苧干原さんと連絡って、取れる?」
慧は、ゆっくりと姿勢を正して、私に向き直った。
「え?―――瑞月?」
「うん」
こっちを真直ぐ見返す目が、私を見てない。その目に、不思議な熱を感じ取って、初めて、慧のことを、少し怖いと思った。
「会いたいんだ。あの日、苧干原さん、すぐ帰っちゃって、俺も、よく分かんないことになっちゃって。でも、あれから一ヶ月ぐらい、ずっと苧干原さんの事考えてた。苧干原さんに会いたいんだ。どうしても」
頭の中が真っ白になった。
「あんな、綺麗で優しそうな人、初めて会ったんだ。全然忘れられない。まりか、苧干原さんに会わせて」
いつかの優将の言葉が、頭の中で、ぐるぐる回った。
『お前さ、その中から慧に彼女出来る可能性とか、考えないわけ?』
あんまりじゃない?
そりゃ、私のは、恋じゃないかもしれないけど。見苦しい依存なのかもしれないけど。「お誕生日おめでとう」の一言の代わりに貰うには、あんまりな現実なんじゃない?
ああ、本当にそうなんだ。
私が十七年前の今日に生まれたってだけのことだから、私にとってどれだけ特別な日だろうと、慧にとっては、…恋煩いに浸ってた、単なる休日の土曜なんだ。
誕生日ぐらいで舞い上がってたってわけじゃないけど。あんまりじゃない?
そっか。「あんな、綺麗で優しそうな人、初めて会ったんだ」か。
私がしてきたことは、ぜーんぶ無駄なことで。
言いもしない気持ちが通じたりはしないし。
単なる自己満足なんだ。
瑞月には敵わないなんて、分かりきったことだし。
いや、違う。分かってたでしょ?本当は。
この『家』の一員になりたいだけで、慧が『好き』だっていうのとは、違うでしょ?そんな幻想、押し付けられる方の身にもなってみなよ。いつまでも「慧のお嫁さんになりたい」じゃ、世の中通らないでしょ。
笑え、茉莉花。
受け止めて、ちょっとでもフィルターを薄くしていかなくちゃ。
忘れて、今は考えるのを止めなさい。
今日は、笑って、ケーキを食べる日。
びっくりするくらい、心が重くて、逆に静かになった。
急に、何も感じなくなった。
「分かった。私は、どうしたらいい?私に出来ることって何?」
慧は、微笑んだ。
そして、慌てたようにキョロキョロすると、思い出したように立ち上がって、ステンレスワイヤー製の棚の上にあった学生鞄の中から、美術館の展覧会の割引券を一枚出した。
「これ、苧干原さんに。学校で貰ったんだ。これに、苧干原さんを誘って」
…よっぽど誘う口実が見付からなかったんだろうな。形振り構ってられないって感じ。
普通、映画のタダ券とか、お芝居かなんかのチケットじゃない?学校で貰った展覧会の割引券でデートに誘う人なんて、あんまりいないんじゃないかな。
第一、うちの学校にも、この券、配布されてるし。
おまけに、瑞月が慧のこと、覚えてるかどうか。
合コンで会ってから、一ヶ月も経ってから行動に移す人も相当珍しいよ。
良く言えば不器用というか。
…冷静に考えたら多分、『無し』。「ダッサ」って言葉が、喉元まで来てる。
でも、慧らしい。
無理に、ちょっと笑って、券を返した。
「大丈夫だよ、うちの学校も、この券貰ってるから。じゃあ、誘ってみる。テスト終わってからね」
「ありがと!まりかも来て」
…ダッサ。…マジで『無し』。
「うん。…優将も誘うよ?」
「ありがと!」
それから、はしゃいで、お祝いされて、帰ってきた。
大丈夫だ。
優将が一緒なら、きっと行ける。
そして、帰ってきてから、ベッドに倒れ込んで泣いた。
何だよ、泣くことないじゃない。
『好き』だったわけじゃないんだから。
じゃあ、どうして、こんなに胸が重いんだろう。呼吸も、ちょっとし辛い。
別に、慧に好きになってもらうのがアイデンティティーだったわけじゃない。
別に、そんな意味で好きだったわけじゃない。
あの『家』で幸せに笑っていたかっただけ。
あの『家』に入れないのが、そんなに残念?茉莉花。
…そうなのかもしれない。
本当に、『妖怪』みたい、私。
高良が言ってた、『家に入れてほしがる子ども』。
でも、そうじゃない自分であってほしい気持ちもある。
もう自分でも理由は、よく分からないけど、やっぱり、どっちにしても、私、慧に、私のこと、好きになってもらいたかったんだ。
そこだけ認めたら、何故か、ちょっとだけ楽になった。
涙が止まった。
ゆっくり息を吐いた。
また、スーッと、新しい涙が、静かに頬を伝った。
その後、ボーっとして、日曜日も、ずっとベッドから出なかった。
信じられない。誕生日だったのに。信じられない。
でも、こんなもんなんだ。
親だって、ろくに祝ってくれないような誕生日だし。
ふと、昔の事を思い出した。
小学生の何年生だったかな?お父さんと最後にきちんと話したのって。
ある日、帰ってきたお父さんは、私が可哀相だと言った。
こんな真っ暗な家に一人で、何を食べているんだ。可哀相に。お母さんは何をしてるんだ。
とか何とか、言った。
「お父さん、私はかわいそうじゃないよ」
心外だったから言い返した。
「ご飯はちゃんと自分で作れるし、なかざわさんちには、りかさんもけいちゃんもゆーまも、なかざわさんもいるよ。私は、毎日たくさんねむれる才のうもあるし、あたえられた日々のかてに満足する才のうもあるんだよ。寝るお家も食べるご飯もあるよ。お金もいつも机の上に置いてあるし、ちょ金も、ちょっとしてるよ。お母さんもお父さんと同じでお仕事でしょ?なにをしてるかわかってるじゃない」
教会と学校で聞いたことがないまぜになった理論が、すらすらと口を突いて出た。
いやはや、驚愕の表情ってあのことだろうと、今なら思う。
今考えたら分かるよ。
娘が寂しがる以前の状態だってことに打ちのめされたわけだ。
母親への当て擦りだったのか、私を本当に可哀相だと思ったのかはわからないけど、娘の生活に欠けらも自分が関与しておらず、これっぽっちも娘が自分に期待をしていないって事実を、はからずも知ってしまうことになったわけだから。
狼狽しながらも、お父さんは、私に、何か欲しいものが無いかと聞いた。
私は、心から、醤油が切れたから買いに行こうと思ってる、と言った。
ますます打ちのめされた顔で、お父さんは、将来の夢を私に訪ねた。
私の夢は、当時既に、慧のお嫁さんになって、中澤家の一員になる事だったから、言うのが何となく恥ずかしかった。
だから、そこだけ飛ばして、正直に言った。
「今それにむかって努力してるの。幸福つい究けんなのよ」
中澤家の味をマスターするのが取り敢えず、その時の第一目標で、第二の目標は、美人になることだった。綺麗で可愛いお嫁さんの方が喜ばれると思ったからだ。
それが無駄だと分かったのは、つい昨日の、十七歳の誕生日だったわけだけど。
お父さんは、私との会話の、あまりの噛み合わなさにガックリして、せっかく帰ってきたのに、会社に戻ろうとした。
「お父さん、せっかくだから、夕飯食べていったら?」
里歌さんの真似して、そう言ってみた。料理を味見してほしかったからだ。
娘に、完璧なお客さん扱いされて、ますますショックを受けたお父さんは、弱々しく笑って、やっぱり食べずに会社に戻ってしまった。
私は、その後、スーパーに醤油を買いに行った。ちょっと重かった。
あれ以来、特に、お父さんは家に帰って来なくなったような気がする。
あ、小五だったかな。携帯電話買ってくれる時、会ったっけ?
…あんまり、覚えてないな。
覚えてたくないのかな。
今考えると、なかなか、哀しくも滑稽な会話だけど、ある意味真理だな。
私が幸福かどうかは、私が決めます。
…私は幸福です。
確かに、あの段階で、お父さんに出来ることが何だったか聞かれると、今考えても、ちょっと難しい。
取り敢えず、私の作った夕飯を食べて、醤油を買ってきてくれるところから始める、のが良かったのかな。
…それはそれで、違う気もする。
『家』は、もう壊れてて、付け焼刃で何かやったくらいじゃ、元には戻らないし。
誰も帰って来ない。
じゃあ、お母さんって、どうだったかなぁ。
中学生になったかならないか、ぐらいの時だった。
珍しくウキウキして、お母さんが言った。腕捲りして、濡れた手で、ダイニングテーブルの上の花瓶を示してたのを、覚えてる。
「ね、お花を飾ったのよ。綺麗でしょ」
「うん」
アレンジメントの出来云々は私には分からないけど、花は新鮮で、何だか忘れたけど、紫色で、紫は、お母さんの好きな色だった。
「そうよね、茉莉花には、花が綺麗だってことが分かるのよ。お花の名前を付けたんだものね。ね、茉莉花が結婚する時は、お花を飾ったら、一緒に『綺麗だね』って言ってくれる人がいいわね。花を飾っていることに気づきもしない人や、こういうのをくだらないって言う人はダメよ」
あの時の会話に、夫婦仲の悪さが集約されてたんだろうな、と思う。
お母さんは、厳密には、仕事の合間に、フラワーアレンジメントを習いに行ってたわけじゃないんだ。
多分、花を一緒に綺麗だねって言ってくれる人を求めてたんだ。
『家』にいるよりも。
…もしかしたら、もう、そういうことを言ってくれる人がいて、一緒に過ごしてるのかもしれない。
やっぱり、あの会話の後から、ほとんど喋ってない気がする。
三者面談とかは、それなりに来てくれるから、質悪いよね。
…学校側に、育児放棄がバレない。
年々、取り繕うのが上手くなる。
親が、ほとんど帰って来ないなんて、言えないし、誰にも知られたくない。
こんなもんだ。
あまりにも酷いことや、あまりにも劇的なことなんて、現実では滅多に起こらない。
特に酷いことだけが、事件として世間に知れて、残ってく。
何だか、高良の言う『本』にも、何か、読んでみれば、そんな、公式の記録でも、なんでもないようなことが書いてあるのかもしれないんだし。
誕生日も、変な失恋も、事件として新聞に載ったり、歴史に残ったりしない。
酷いことなんか、何も私には起こってない。
あの、一時期続いた、金切り声の夫婦喧嘩を見せつけられるくらいなら、今はなんて、居心地の良い環境。
戸建てに、一人。
誰も仲良くないから、誰も帰って来ないけど、誰も帰って来ないから、誰も、喧嘩をしない。
静かだ。
世の中、大抵のことが相対的な価値観で成り立ってるし、惰性で現状維持されてる。
私の親が離婚しないのだって、そのぐらいの理由なんだろう。
私は多分恵まれてる。
『家』もあるし、両親揃ってるし、義務教育過ぎても学校に行ってるし、それなりに可愛がられて育ったはずだ。
叩かれたことだって、ないもんね。
…叱られも、しないけど。
私だって親には感謝しているし、二人とも私のことが、まだ可愛いはずだ。
だから、この家から追い出されないし、生活費も貰える。学費も払ってくれてるんだろう。
学校が、育児放棄に気付かない程度には、何もかも整ってる。
それでも。私はきっと、可愛がられてる。
でも、多分、それと、私と一緒に、この『家』で暮らすことは、別なんだ。
そういうことなんだろう。
帰って来たって、気持ちの良い『家』じゃなかったもんね。気持ちは分かるよ。私だって、中澤さんちの子になりたかったくらいなんだから。
どうしたら、気持ちの良い『家』だった?
私が、もっと、良い子だったら?
『家』は、壊れなかったの?
何か、私に出来ることはあったの?
…そういうのも、分からない。
…叱られも、しないから。
私の何かが悪かったのか、ってことすら、分からない。
散々そんなことを考えた揚げ句、ふと、携帯を見た。
今日は何処からも、一つも連絡が来なかった。
ちょっと有難い。
返信する元気は無かったし。
ああ、もう七時か。
また、日曜日が終わる。
私は、もそもそ起き上がって、部屋を出た。
シャワーを浴びて、ご飯を作って、食べて、洗濯物を洗って、干した。
さぁ、生活のリズムを戻さなくちゃ。
明日は学校だ。
月曜日、学校に着くと、皆が揃って誕生日のプレゼントをくれた。
日出も、照れ臭そうにプレゼントを渡してくれた。
おお、学校出てきたか。偉い偉い。
お礼を言って、それぞれの個性が出た贈り物を抱えて、席に着く。
上手い具合に、瑞月が、こっちに来た。
うん。よし。吹っ切っていこう。
「ね、瑞月、テスト終わったらさ、美術館に行かない?」
「幼なじみも一緒って、…えっと、あの、合コンに制服で来てた人?」
瑞月の反応は普通だった。
瑞月は先に帰ったから、慧の醜態を知らない。
上手い具合に、『あの時席が隣だった人』という印象しか残っていなかったっぽい。
「あ、うん。そうそう。もう一人、髪脱色してる方の幼なじみも来るけど。…嫌?」
「ふぅん…。そっかぁ。今、印象派展だもんね。あそこの美術館の常設展示も見たいし、久々に行こうかな」
「あ、良かった。瑞月、印象派、好きなの?」
「うん。モネが特にね。あそこの美術館って、常設展示に、すごく小さいけど、モネの絵を数点入れてるから、時々見に行くの」
「へぇー。結構行くんだねぇ」
「海外では、休日に博物館や美術館に行くのって、結構普通なのよ。Museumにこんなに興味が無い国っていうのも、日本ぐらいじゃない?慣れてないから、観覧姿勢も悪いしね。ヨーロッパなんかだと、小さい頃から観覧姿勢を躾けられてて、旅行した先の町の由来を知るのにも、そこの博物館に行くぐらいだよ」
おお。良かったね慧。相手が知的な帰国子女で。
普通誘うか?っていうような場所に、普通のるか?っていうような理由で来てくれそうだよ。
理由、『ヨーロッパの文化』。
凄いじゃん。
意味分かんないけど。
「私も、絵を見るのは好き」と言うと、瑞月は、穏やかに、“Museum”の語源や、美術館も歴史資料館も、全て『博物館』なのだ、とかいうことを教えてくれた。
瑞月の、話しながら交える柔和な仕草を見て、やっぱり敵わないなぁ、と思って、笑った。
「でも、嬉しいな」
「え?」
「合コンであんな帰り方しちゃったから、気まずくて。また茉莉花が誘ってくれるなんて、嬉しい」
おお、ストレートな喜びの言葉。
瑞月は時々、英語を和訳してるんじゃないかと思うぐらい、真直ぐに、こういうことを言う。
照れつつも、ちょっと良心が痛んだ。
ごめん瑞月。前一緒に合コンした幼なじみと美術館に行くのに誘うって時点で、薄々気付いてるかもしれないけど、その幼なじみに会わせる方が目的なんだ…。
「いやいやー、そんな、気にしないで。瑞月も絵が好きで良かったよ」
正直、瑞月も絵が好きで『助かったよ』って感じだよ。
「ふふ。…そうね、私っていうか、姉が好きだったのよ、絵」
「あ、お姉さん?」
私に似てるっていう、あの人か。
「ええ、もう亡くなったけど」
え。―――そうだったんだ。
びっくりしてると、先生が入ってきた。ホームルームの始まりだ。
そう言えば。O地区のこと、あんまり、高良と話さなかったな。
…瑞月も、O地区と、何か関係あるのかな。
’I like birthday presents best,' she said at last.
’You don't know what you're talking about!'
(讃美歌第二編 26番 ちいさなかごに)
ちいさなかごに花をいれ、
さびしい人にあげたなら、
へやにかおり満ちあふれ、
くらい胸もはれるでしょう。
あいのわざはちいさくても、
かみのみ手がはたらいて、
なやみのおおい世のひとを
あかるくきよくするでしょう。