秘密:Down the Abstract-Hole.
まずい。
『いる』。
茉莉花の隣に。
立ってる。
公園で女の子と一緒にいる時に出てきてほしくなかった、何となく。
いつ出て来てもらっても、特に大丈夫なTPOは存在しないが。
目が合う。
綺麗な女の子だ。
茉莉花に、やはり似ている。
でもやっぱり、多分、人じゃない。
どうしたことか、今は、振袖の柄まで、はっきり見える気がした。
『いる』。
この、柄の部分の、紫色の染料が鮮明な感じ、江戸時代の着物というよりは…。
「どうしたの?」
茉莉花の声で、俺は、ハッとした。
茉莉花そっくりの、振袖姿の女の子が見える、とは言えない。
いや、誰にも言えていない。
優将そっくりの、着物姿の男の子が見えることすら。
絆にどころか、親にさえ。
どう説明して良いか分からないし、言っても、精神状態か視力の異常を疑われて、心配されて終わるだけ、という気がするからだ。
しかし、次の瞬間、信じ難いことに、相手から、「何か見えるの?」と聞かれた。
「…何か、って?」
「私の隣に、何か『いる』?」
どうして、それを。
目を丸くして、黙っていると、「やっぱりそうなんだ」と言われた。
「やっぱり、って?」
「私の隣に、何か見える、って顔してる」
「…分かるのか?」
「…私には見えないんだけど。何かが見えてるんだろうな、っていうのは、分かる」
信じられない。
信じられないのだが。
理解してもらえて、俺は。
嬉しかった。
「あ、消えた」
「タカラ、霊感ある人?」
「そんなのは、ないつもりだし、厳密には幽霊の存在も信じてないんだけど」
え、俺の名前。
「あ、呼び捨て気にした?ごめん、ヒトミちゃんがタカラって言ってたから」
またしても、何か伝わってしまったものがあったらしく、相手は、少し申し訳なさそうな顔をした。
「いやいや。上下関係があるでもなしに、そういうのは別にいい」
何故か、呼び捨てが嫌ではないからだ。
驚きはしたが。
「そ?私も茉莉花でいいよ。えっと、古い畑で、『古畑』さん?だっけ」
「あ、漢字、教えてなかったんだな。籏の字が、ちょと珍しいんだけど」
ジーンズのポケットの中から財布を出して、俺は、財布から取り出した学生証を茉莉花に見せた。
「降籏高良。わ。長野の遠縁の親戚と同じ名字だ、降籏さん。そっかー、この字だったんだ。え、珍しい、かな」
「…え?」
「私、父親が、長野出身でさー、結構いない?この字の『降籏』さん」
「…もしかして、長野県の、A市?」
「そうそう。A市の、M。松本市に近い方って言ったら通じる?昔はM村だったらしいんだけど。そこの、O地区。御墓の近くに、菫が沢山咲いてたなー、懐かしい。もう、全然行ってないけど」
「…JR大糸線の、H駅か、N駅で降りる…?」
「うん、よく知ってるね。一回、新幹線で長野駅まで行ってから、在来線乗り換え」
「…母親の出身地なんだ」
「えっ」
「両親ともA市出身。母親はO地区出身」
「…うそ」
「確かに、多いな、あの辺、小松姓の人。…それを言うなら、柴野も多いし、中澤も」
「うっそ、もしかして、すっごい遠い親戚だったりしてー」
待てよ?苧干原、って。
「…苧干原さんも、O地区の人?」
「そっかな?本人に聞いたことないけど。そんな珍しい名字じゃないし」
「…物凄く珍しいけど?」
少なくとも、俺は、O地区以外で聞いたことがない。
茉莉花は、目を見開いた。
「え、でも、父方のお祖母ちゃんの遠縁にいるもん。結構いるでしょ?苧干原さん」
何だ、その思い込み。
表情で気持ちが伝わってしまったのか、茉莉花が真っ赤になったので、俺は焦った。
「いや、えっと」
「あ、ごめん。…私、こうなんだ。思い込みっていうのかな。ちゃんと現実が見えてないって、自分でも思う時があって。…あのね、それこそ、降籏も柴野も中澤も、周りや親戚に多かったから、高良みたいには、気付かなかったの。苧干原さんも、普通にいるんだと思ってて。Mに多い名字、っていう風に考えたこと、なかったの。…珍しいんだね」
「…そんな、落ち込むようなことじゃない。例えば、田中や中村が多い地域もあれば、高橋や鈴木が全然いない地域もある。地域差があることだから、認識や、物事に対する観念が人によって違ったって、良いじゃないか」
…俺の馬鹿。『そんなことないよ』で充分なのに。また、こんな、伝わり難い言い方して。
だが、また伝わったらしく、驚いた様子で、「慰めてくれてるの?」と茉莉花は言った。
「優しいんだね」
この子…。
「…その、『現実が見えてない』ってのは?俺は、そこまでとは思ってないけど」
慧よりは周りが見えていて常識的であり、他人を気遣って行動できるからこそ、友人も多く、合コンの幹事なんてものが出来たわけで、俺にはそんな離れ業を演じることも、まず、合コンの幹事をやろうと考えること自体も出来ないから、その点では、俺より茉莉花の方が優れた能力を有していると言える。
何より、『ベクトル』に対する示唆を与えてくれた、新鮮な存在なので。
実際は俺より頭が良い子なのかも、とまで思っている。
そこも何となく、優将の幼なじみ、と思う。
「あー、あのね、現実にフィルターがかかってる感じ、っていうのかな」
感覚的な表現だな。
またしても表情で伝わってしまったらしく、茉莉花は、「分かり難かったね」と、申し訳なさそうに言った。
まただ。凄いな、この子。俺、表情に、ほとんど出ないらしいんだが。だから、「嫌だ」と思っていることが、上手く大町さんに伝わらなくて、良い風に解釈されたのか、…何か、散々だったんだし。
「えっとね。…何て言うんだろ。あんまり、ものをね、真面に見るのが辛い時があるんだと思うんだけど。現実にね、一枚、フィルターみたいなのを掛けて見てるんじゃないか、って、自分でも、思う時があるんだ」
「その…『と思うんだけど』とか、っていうのは?」
自分のことじゃないのか?…って、また、分かり難い聞き方を。俺の馬鹿。
だが、茉莉花は、「えっとね」と言って、話を続けようとしてくれた。
凄く、他人に寄り添って話を聞こうとする子なんだ、ということが、今では、俺にも理解出来ていた。
そして、今気付いたのだが、歴史さんが、驚く程、静かに眠っている。
分かった。
この子、無意識で、犬をおどかさないような声量で話してるんだ。
動物には、それが心地好いんだろう。
そう言えば、歴史さんは、茉莉花に一度も吠えない。
「あの…。自分の本心が分からないことがあって。誰かの話を聞いてると、自分の感情なのか、相手の感情なのか、分からなくなる時があるんだ。相手に合わせすぎちゃうことがあるし。相手の悩みを、自分のことみたいに思っちゃって、一緒に悩んじゃったり。自分じゃない人が怒られてても、自分が怒られてるみたいに辛いし、不機嫌な人の傍にいると、自分のせいじゃないのに、責められてる気分になったり。誰かの話を聞いたり、絵を見たりするだけで、何かを実際に見て、自分が体験してるみたいに、リアルに感じちゃったり。何にも言われてないのに、本音とか嘘とか矛盾に気付いちゃったり。相手の気持ちを想像し過ぎて勘違いしちゃったり。…そう、勘違いが多いのかも。他人の気持ちが分かる、とかじゃなくて。勝手に、意図を汲んで、行動しちゃったり。紫苑高校の学祭に行ったのも、合コンのセッティングも、今思うと、そうだったのかな…。『そうしてほしいのかも』って。『困ってるのかな』とか、『辛いのかな』とか、思っちゃって。例えば…お弁当欲しい、って、言われてないのに、作っちゃったりするの。『お弁当が欲しいのかも』って、なんでか、思っちゃって。作ってくれた料理も、こういう思いを込めてくれたのかな、って思うと、残せないし。…一緒にいる人と似てきちゃったり。ごめん、取り留めがない感じで。えっと、とにかくね、なんか、困ってる人が傍にいると、同じ感じで、困ったような感じ?になっちゃう時があって」
相手と自分との境界線が曖昧になる感じだろうか。
「えっとね、だから。分かるよ。高良が見えてるものは見えないけど。高良が、見えてるものに『困ってる』のは分かるよ」
この子、Empathか。
共感力が高過ぎて、それに振り回されてしまうんだろう。
だが、要は『優しい人』だ。
そして俺は、それに救われた。
「ありがとう」
「え、何もしてないよ。ただ、『困ってる』のが分かるだけ。…何も出来ないんだ。そうだよね、ホント、…お弁当、作るぐらい、なんだな」
…誰に弁当作ってんだ?家族にか?平日の朝食はさすがに両親のどちらかが担当で、俺ですら、弁当作りまではやらないから、本当にそんなことを、誰かの為に、高校生でやってるなら、偉いとしか思わないが。
「…フィルター、外したいんだよね。あ、あと。…あんまり、人の気持ちを考え過ぎちゃうのも。…直したい、っていうか」
ちょっと待て、それは美点だ。
「俺、別に詳しくないけど。日本人の五人に一人は、そういう感じらしいし。別に、病気じゃなくて、ただ、そういう気質ってだけ、って話なんだろうから。個人差も有るらしいし。そういう人の方が向いてる職業だってあるんだから。短所だなんて思わなくていい」
それを言うなら、誰にでも、何かしらの『他人と合わない部分』が存在して、通常それは『個性』と呼ばれるのだ。
何なら、接していて、水戸は、HSPの中でも、HSS型HSEなんじゃないか、と思うことすらある。
でも、だからこそ水戸はクリエイティブなのだろうし、何かに敏感だから絵が描けるのだと思う。
長所と短所は表裏一体だ。
恐らく、短所を直すと、長所も無くなることが、往々にしてあるのだと思う。
「直すようなことじゃない。特殊な力、特殊な人、ってわけじゃない。『空気を読める』のは才能だ。カウンセラーとか、医療関係とか、教育関係とか。そう、心理業務従事者なんかにも向いてるはずなんだ」
「…向いてる職業なんて、私にもあるんだ」
そりゃそうだろう。
何せ、俺には、今まで会った誰よりも長所の多い人間に見えるのだ。
俺なんかより、凄いことが出来るんじゃないか、とまで、この短い付き合いで、思っている。
「困っていることに『気付いてくれる』人なんて、滅多にいないし、気付いても、実際に行動に移して、助けてくれる人は、更に少ない。口で、好きだとか可哀想だとか、仲が良い風に見せ掛ける人より、俺は、困っているところを見付けて、どうしたの、って聞いてくれて、行動に移してくれる人の方を信用する。『心配だ』って口で言うだけの人より、実際、手を差し伸べてくれる人の方が良い。自信持ってくれ」
そうでなきゃ。
茉莉花より、それが出来ていない俺なんて、印刷失敗した、裏紙に使うくらいしか使い道のない、A4コピー用紙くらいの、一枚一円の価値もない存在になってしまいそうだ。
だって、誰にも言えなくて。
…相談して『頼る』っていう甘え方が、俺には、できなかったのだから。
茉莉花は、「分かった」と言って、俺の隣に、そっと座った。
「何に困ってるのか、聞かせてよ。絶対信じるし、誰にも言わないから」
フワッと、花のような香りがした。
東屋という、四角く切り取られた空間に、公園という、四角く切り取られた空間に、ただ二人だけ、という気がした。
これから、この人間と秘密を共有するのだ、という事実に、何故か俺は、少し緊張した。