失恋:The Mook Love Story.
though of course I should LIKE to be a Queen, best.
夕方、俺は歴史さんと散歩に出掛けることにした。
散歩となると、歴史さんは嬉しがって、縄を解くまで待てない様子で、狂喜乱舞し始める。
それが逆に、縄を解き難くしていて、散歩に行く時間が遅くなるというのに。
それでも、その様子はひどく微笑ましい。尻尾の動きがプロペラのようだ。
ビニール袋とスコップを持って出ると、こちらに走ってくる二つの人影があった。
歴史さんの歩みが止まり、一瞬、怯えた様子を見せた。
そして、そのうちの一人に、撫でてもらおうとして、また、小躍りを始めた。
「お、絆。…大町さん?」
微妙な組み合わせだ。
何で、ここに二人がいるのか。
うう、怖い。
絆が、見たことも無いような顔をしている。
全部の負の感情がごちゃ混ぜになったような、凄まじい顔だ。
大町さんの方は、嘆願するような目で、こちらを見ていた。
怖い。
歴史さんの動きが止まった。
絆に構ってもらえないということを察知したらしい。
合計六つの、黒丸い、潤んだ目が、俺を見ている。
―――――この状況は、なんだ?
しばらくしたら、絆が走って、自分の家の中に入ってしまった。
「あ、おい、絆?!」
追い掛けたが、間に合わなかった。
歴史さんは、散歩が続行されたと勘違いして、俺と一緒に走った上に、速度を上げだした。
結局、日富家の前を通り過ぎてしまう。
「お、おい、待て待て!歴史さん!」
ヒヅル嬢は、その場に立ち尽くして、俺を見ていた。
…んー。
いいや、このまま散歩に行ってしまえ。関わるのも面倒だし。
怖いし。
俺も速度を上げた。
歴史さんは、更に速度を上げた。
歴史さんだけが、物凄く嬉しそうにみえた。
散歩から帰って、絆に会いに行ってみた。
我が家より広い、立派な家。
そもそも、何代か前に近畿方面から来て事業を起こし、土地を買いあさって地主になった一族の分家らしく、元々、土地持ちなのだ。
絆の家が経営している駅前のコンビニも、親戚の持ち物の駅前の物件を遊ばせておくのも、ということで、テナントとして入れたのが始まりで、業種としてはフランチャイズでも、経営は完全に身内経営である。
地主で駅前の物件を持っていると、身内を使ってコンビニを経営しがちらしいが、あまり商売を広げ過ぎず、駐車場経営や身内経営で留めるのが、派手には儲からなくても、長い期間、土地を管理運用出来る秘訣なのかもしれない。
俺は管理運用するほど土地も持っていないが、一人っ子なので、今住んでいる、比較的駅近の戸建てを相続するかも、と考えると、参考程度には覚えておこう、と思う次第である。
しかし、家の立派さから考えると、庭の管理は結構甘い。
生垣の近くで、あちこち葉を枯らしたノウセンカズラが、夕焼けとよく馴染む色の花だけを綺麗に咲かせながら、どこか、だらしない感じで、ぶら下がっている。
うちの家は、母親の合理主義が原因で、人工芝で庭を埋め尽くして、木の一本も植えていないから、その点、管理は楽であるが、隙が無い、と言うか、あれほど住人の性格が出ている庭も珍しいと思う。
門から入って、ブリティッシュガーデンにしようとして失敗したような感じの庭を通り越し、チャイムを押す。
そう言えば、俺の方から日富家に出向くのは久々だった。
「あら、高良君、来てくれたの?」
玄関に入ると、何処かで嗅いだ、花の香りがした。
出迎えてくれた、いっそ縁起が良さそうなくらいの、ふくよかで色白の中年女性が、クリッとした黒い目を細めて、にこっ、と笑った。
所々、金茶色のメッシュの入っている短い髪に、何本か白髪が見えた。
絆のお母さんだった。
珍しく家にいるようだ。
「上がってって。もう、何だか知らないけど、絆、部屋から出てこないのよね。寝てる風でもないし。何かあったの?あんまり拗ねたりする子じゃないんだけど」
「…お邪魔します」
あの様子だと、何かあり過ぎるぐらいの事態が、あの二人の間にあったのではなかろうか。
聞くのも怖いな、とは思いながらも、真直ぐ、二階へと続く階段の方へ進んだ。
「おい、絆」
ドアをノックした。
「どうした?絆」
返事は無かった。
「絆?」
「―――――ごめん、眠いんだ。帰って、高良」
明らかに涙声だった。
「…分かった」
絆が会ってくれなかった。
こんなのは初めてだった。
鍵のついているような部屋ではないけど、無理に入る気にはなれなかった。
階段を下りていくと、リビングに通じるドアから、絆のお母さんが出てきた。
「どうだった?」
「あー、…眠いそうです」
「あらー。ね、高良君。お茶飲んでいきなさいよ」
「いただきます」
「はい、どうぞー」
日富家が経営するコンビニの商品と思しき、ロールケーキが、かなり厚めに切り分けられて、紅茶と一緒に出された。
…こ、この半分くらいの厚さでいいんですけど。
「遠慮しないで食べてねー。絆の分は残してあるから」
そう言えば、絆は甘党だった。
それにしても。
女の人にケーキを勧められる。
このシチュエーション。
あのケーキ屋での一件が、軽いトラウマになっているのだろうか。
怖いことが待ち受けているような、微妙な気分になった。
あの店、絆だったらそんなに浮かなかったんじゃないだろうか、などと思いながら、一口食べる。
こうして見ると、何故か絆のお母さんが、ヒヅル嬢に似て見えた。
まさか。体格が違い過ぎる。
いや、色白加減と、目の感じのせいか?
「ね、あの子、ふられたんじゃなぁい?」
「えっ?」
俺は、思わず、手にしていたフォークを取り落としそうになった。
「さっき、帰ってきた時にね、常緑の制服着た女の子が、家の前に立ってたのよ。心配そうに、うちの二階の窓辺りを見上げてね。ちっちゃくて、ちょっと可愛い子だったわぁ。私に気づいたら、走って帰っちゃったんだけど」
「…へー」
「どうしたのかな?とか思ってたんだけど、何か様子おかしいしねぇ。大方、その子に、ふられでもしたんじゃないかと思うのよね」
…そうなのかも。あの雰囲気は、そういうことだったのかもしれない。
「高良君なら、何か知ってるかと思ったんだけど。高良君とも会わないんじゃ、重症ねぇ」
「…はぁ」
どうにも、複雑なことになっているらしい。
心言も大町さんと付き合いたいようなことを言っていたが、彼女、結構もてるんだな。
俺には時々、歴史さんに見えるのだが、それは、可愛いということなのかもしれない。
俺は、外見というより、彼女の言動について、そこまでの高評価はしかねているので、『一番可愛い』かどうかは置いておくとして。
美醜なんて総体的な評価なのだから、首長族の中にいれば全員、首の短い不細工になるのだろうし、絆や心言にとって可愛く思えれば、彼女が、あの中で『一番可愛い』にもなり得るのだし。
それにしても、いつの間に、そんなことになっていたやら。
「まぁ、お腹空いたら出てくるわよね」
…そうだといいですが。
「この前も、うちの子、高良君に、ご飯作ってもらったんだって?いつも有難うねー」
「いやいや」
「ホント、うちの子も、高良君くらいしっかりしてくれるといいんだけど。あの子もね、高良君が羨ましいんだと思うのよ。背は高いし、成績は良いし、面倒見は良いし、って。いつも高良君の話が出るもの」
一瞬、視界がキュッと狭まるような、不思議な感覚に襲われた。
…絆、そんな風に?
「…いや。違うんです」
「え?」
「羨ましいのは、本当は俺なのかもしれないです」
俺は、会話するのが、あんまり上手くない。
どちらかというと感情表現に乏しいらしい。
アドリブが下手だと言ってもいい。
感情を、それほど出さないせいで、良い風にも悪い風にも誤解されやすい。
絆みたいに、人とすぐ打ち解けたり、場を盛り上げたりすることも、他人を頼って、素直に甘えたりすることも、上手く出来ない。
俺は、少しも、しっかりしてない、と、自分では思っている。
出来ない事の方が、本当は多い、と。
だから、絆が持っている雰囲気や、開けっ広げな感情に救われることが、よくある。
その絆が、今日は部屋にも入れてくれないくらい、元気をなくしている。
実は、その事実に少なからずショックを受けている自分に気付いた。
「仲良いのね。あの子、明日には笑ってると思うから。これからも、仲良くしてやって」
黙ってしまった俺に、絆のお母さんは微笑んだ。
「御馳走様でした」
「いいえー、また来てね」
帰り際、リビングの棚に、見慣れない、スポイトが蓋についたような形の、小さなボトルを数個発見した。
「?これは?」
「ああ、アロマエッセンスよ。最近ちょっと凝ってるの。カモミールの香りとかね」
「へぇ…」
“LAVENDER”や“ROSEMARY”と書かれたラベルのボトルの中に、“JASMINE”のラベルがあるのが目に入った。
ジャスミンか。
…ああ、あの花の香り。
あの子、自分の名前の香りを付けてるのかな。
「見てもいいですか?」
「あら、興味があるの?どうぞどうぞ」
何となく、ジャスミンだけ見るのが変な気もして、隣のボトルも取った。
裏側に、効能等が書かれている。
何だ?“EUCALYPTUS”って。ユーカリ?プテス?ああ、『ユーカリ』か。葉からエッセンスを抽出したものらしい。
『ユーカリ…比較的清涼感がある香り。意識を明晰にし、集中力を促す。強い消毒効果、抗炎症効果、殺菌効果、風邪予防、花粉症治療に利用される。※刺激強。高血圧、かんしゃく症使用中止。』
ユーカリってやっぱり、あの、オーストラリアとかにある、あれか?
なかなか興味深い。
ジャスミンのボトルの裏側も見てみた。ボトルからは、やはり、覚えのある香りが、仄かにした。
『ジャスミン…エキゾチックで魅惑的な香り。甘く優しく、きわめて官能的な気分にさせる。古くから、インドやアラビアなどで知られており、人々から好まれてきた。不安、自信喪失、抗うつ症状、男性生殖器不調、生理痛、催淫作用適応。※妊娠中は使用禁止。』
…何故か、不思議と納得のいく効能だった。
俺は、二つのボトルを、元の位置に戻した。
知っている女の子の顔が、こういう時に浮かぶのは、何だか不思議だ。
人形染みた顔の、黒髪の。
あ。
『いる』。
男の子の顔が、俺を見上げていて、目が合った。
何か言いたいのだろうか。
…早く、崩し字の本を解読した方が良いらしい。