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座敷童の恋  作者: 櫨山黎
第四章
16/93

Hallelujah(ハレルヤ): Just at this moment, somehow or other, they began to run.

 It(同じ) takes(場所に) all(留まり) the(たければ) running(出来る) you(限りの) can() do(), to(走り) keep(続け) in() the(ければ) same(ならない) place(のだぞ).

 傘持ってくれば良かったかな。


 まだ降ってきてはいなかったものの、俺が書店に入った時には、今にも降り出しそうな様子で、何だかゴロゴロという音も聞こえる。


 降水確率は10%でも、降るときは降るもんだよな。時期が時期だし、曇りだからって(あなど)らずに、折り畳み傘でも持ち歩くべきだった。



 早く梅雨が終わってほしいな、などと思いながら、書店の二階に上がった。


 鞄の中の和綴じの本が濡れないように、最近は、ビニール袋の中に入れている。


 どうも、これを解読し終えないと、あの男の子が消えてくれないのではないか、という気がするのだが、地名の漢字が難読で、意外に前半で(つまず)いてから、少し、やる気を失くしている。


 期限も特にないバイトなので、焦る必要が無いことも手伝って、なかなか読み進まない。


 男の子の存在が、そこまで怖くないせいもあるのだろう。


 優将に似ていると思うと、何だか、知り合い、という気がしてしまって、気になるけど気にならない、という絶妙な距離感で生活できている。

 似ているからといって、優将に対して、何か、怖いと思うこともない。

 身長が違い過ぎて、流石に見間違えないからだろうと思う。



 日ごとに、男の子の姿はクッキリとしてくるのだが。




 目標の参考書のコーナーに行くと、(まば)らに、学生服の客がいた。


 学校が多い駅のせいか、学術書の種類が豊富で、参考書を買う時は、いつも、学校帰りに、この書店にまで寄る。


 目当ての英語の参考書があった。その場所を確認してから移動して、ついでに化学の問題集も買おうかと、手に取ってみる。




 現在、高校二年の六月。

 来年の今頃は、どうなっていることやら。


 良くも悪くも、中高一貫のお蔭で、高校受験も経験していない。

 大学受験なんて想像もつかないが、そうも言ってはいられない。

 十月になったら赤本やらが出るだろうから、買ってみよう。

 その辺りまでには志望も固めておかないと。

 漠然と『獣医』というだけではいけない。

 獣医師を目指せる大学及び学部は、日本全国で十七。そのうち、国立大学は十校、公立大学は一校、私立大学は六校。

 そこで国立の農学部、家から通える、を条件とすると、結構絞られてはくるのだが。

 憂鬱ではある。

 動物のことを考えるのは楽しいが、学校選びは、そこまで楽しいと思えない。

 下手に両親の職場を知っているので、キャンパスライフに対して幻想がゼロで、憧れの学校すら無い。


 高二のクラス替えでは、取り敢えず理系クラスに入った。

 元々、友達も理系しかいなかったから、文系クラスに行くので分かれた友達、というのも、特にはいなかったのだが、理系クラスを選ぶと、そろそろ受験準備、という感じがして、やはり、楽しいクラス替え、という風には受け取れなかった。

 この前の模試の結果も、そろそろ出るだろうし。

 塾に行くなら、親との連絡用に、携帯持てって言われてるしなぁ。


 崩し字の本解読のバイトなんて悠長に出来るのも、今の内かもしれん。


 …そういや、友達と、とか言われたけど、…理系ばっかりで、崩し字が分かる友達なんていなさそうだよな。




 ちょっと憂鬱になりながら、所持金を考えて、化学の問題集を棚に戻していると、視界の盲点ギリギリの位置で、濃い緑色が揺れた。


「あ、あの。…降籏さん?ですよね?」


「…ああ、…大町さん?」


 全体的に顔の下の方にパーツが寄り気味の、色白の童顔。

 下の(まぶた)がふっくらとした、くりっとした子犬のような目。

 失礼ながら、どことなく歴史(つねふみ)さんとイメージがかぶる、その小柄な常緑(じょうりょく)生は、ついこの間合コンで出会った、大町ヒヅル嬢だった。


「…今、暇ですか?」


 忙しくはなかったが。

 用事もなくて参考書のコーナーにいる趣味もないわけだし、大学進学について考えながら、所持金と照らし合わせて参考書を吟味するのが、暇でやる行為なのかと問われると、気分としては複雑だ。


 しかし、そうも言えまい。


「忙しくはないけど」


 正直にそういうと、微妙な顔をされた。


 しかし、尚も、ちょっと力をいれたような声で、「あ、あの。甘いもの、好きですか?」と聞いてきた。


 嫌いではないが。大好きではない。つまり、普通だ。

 コーヒーもブラック派だし。

 甘い物が苦手、と言う程のこともないが、グラニュー糖やガムシロップの甘味は、ベタベタした感じがして、不得意だ。

 コーヒーも、牛乳や豆乳だけ入れてあるなら平気だが、ポーションは、偽物のミルク、という感じがするから、不得意だ。

 そもそも、嗜好品を、敢えて摂取しようと思わない。

 食事もケーキ類もコーヒーも、(まと)めて『食べ物』だと思っているので、好き嫌いはないが、菓子類の嗜好品に対して特別感も感じておらず、それらで腹が膨れるなら、炒め物とかが食べたい。

 茄子とかの炒め物の(ほう)が、全然食べたい。


 父親は甘党で辛党だという、極端な嗜好の持ち主だが、その嗜好は、それ程俺には遺伝していない。


 しかし、恐らく彼女は俺に、“Yes or No”で聞いている。


 はっきり言わないのが日本人の悪い(くせ)ではあるし。


「ああ、まぁ。好きです」


 パァーっという音でもしそうな勢いで、ヒヅル嬢は顔を輝かせた。


「あ、あの!ケーキ食べませんか?!」


 ケーキ?

 今持っているのだろうか。


「はぁ?」


 それは、発音的に、語尾をあまり上げずに発してしまった感嘆符だったためか、彼女には“Yes”の意味で取られたらしい。


「来てください!」


 持っていた鞄を引っ張られた。


 はぁー?!




 そのまま、グングン引っ張られて、本通りから路地裏に入っていった。


 こ、これは、歴史(つねふみ)さんが、散歩が嬉しい時に、リードを持った俺を無視して猛ダッシュする時のあの感覚に酷似している。


「あ、あの、大町さん」


「もうすぐです!」


 何が?!


 今にも泣き出しそうな色の曇天(どんてん)を仰ぎながら、頭の中で、余りにも関係ない、化学のアルカリ土類の元素を覚える、たいそう下品な語呂合わせが出てきたので、意識の別のところで、脳が酸欠かなんかになって混乱しているのではないかと心配になった。


 それでも彼女は止まらない。


 結局、和風の店が並ぶ、不思議な通りに出た。


 こんなところがあったのか。


「こっちです!」


 見ると、瓦屋根の隙間に、でっかいショッキングピンクの看板が見えた。

 そこだけ、真っ白な洋風の建物だ。


『SWEET FACTORY Hallelujah(ハレルヤ)


 神を賛美せよ(ハレルヤ)


 嗚呼。


 嘘でも、バニラエッセンスの匂いを嗅ぐだけでアレルギー症状が出ますとか言っておけば良かった。


 頭の中に、あの、かの有名なマタイ受難曲のハレルヤ・コーラスが鳴り響きだした。


 受難…。


 店内は、…色の洪水だった。


 バラのポプリのような、くすんだ色調の家具が、白い壁に映える。

 それらの椅子に座って、注文して買ったケーキを食べても良い事になっているようだ。

 そういった椅子の中には、二人掛けくらいの、小さな布張りのソファーがいくつかあり、その上に更に、くすんだ、赤い薔薇の花の柄の布が掛けてあった。

 その布は、壁に繋がっていて、上の方で、リボンのように結ばれている。


 レジの正面の壁は、そこだけ()()いたように、白い暖炉の形になっていた。

 その上には、布で作られた高そうな造花が、背の高い透明の細身の花瓶に生けられていて、水の代わりに、ポプリやビー玉やリボンが入っている。

 そんな花瓶が、店内のあちこちにある。


 店内に入った途端に、人の良さそうな、店主と思しきコック帽の、初老の男性の歓待を受けた。


「いらっしゃいませ。さぁ、どうぞ。ドリンクも飲んでいってくださいね」


 客は、年齢層は様々だが、ほぼ全員が女性で、どこかで見たような制服の女子高生や、幼稚園生くらいの女の子もいる。


 わっと、カスタードクリームのような匂いがした。


「季節のタルトの新作でございます。御試食くださいませ」


 清潔そうな、シンプルな形の白いエプロンをつけた女性店員が、四等分くらいに切った小さなタルトをバットに沢山乗せて、各テーブルを回っている。




 ここは―――俺が入っていい店ではないのでは?




 俺は、血の気と共に胃液まで引っ込みそうになりながら、(かろ)うじて学生鞄を握り締めて、意識を保とうとした。


「美味しいんですよ、ここのケーキ!」


 …そりゃ、美味しいだろうな。なんかもう、雰囲気で、流行ってるのは分かる。こんな目立たない路地裏なのに、女の人の甘い物を求める嗅覚は、()くも発達しているものなのか。


「さ、選びましょう!」


 頬を薔薇色に染めて、瞳を輝かせて。その笑顔には、何処か有無を言わさぬ雰囲気があった。


 何なのか、この状況は。


 うっかり散歩中に歴史(つねふみ)さんの綱を放してしまった時の状況に、何だか似ている。


 俺が追うと、大喜びで逃げ回り、勝手に追いかけっこにしてしまうのだ。もうそうなると、取り敢えずはそうやって一通り走らせた後、フェイントを使ったり、帰る振りをしたりしなければ、なかなか追いかけっこを諦めてくれない。


 歴史(つねふみ)さん…じゃなかった、大町さん―――俺、帰りたい。()()




 結局、彼女が選んだクリームブリューレを食べる運びになった。こんな小さいのに、三百円近くする。


 要するに焼きプリンだろ?!と思いながらも、財布を出そうとしたら、とっくに金を払われた後だった。


「あ、今日って、ポイント二倍デーなんです。ここって、美味しいのに安いんですよね。嬉しくなっちゃう」


 へー、安いんだ。…悲しくなっちゃう。レタス一玉、\98、トマト五個で一袋、\280…。

 あ、本当に今、茄子の炒め物とかの(ほう)が食べたい。


 大体、いくら好きでも、夕飯前に二個はきついだろうに、ヒヅル嬢は、俺と同じクリームブリューレに、何かのフルーツタルトを加えた、計三個くらいのケーキを買っていた。


「一つで良かったんですか?」


「いや…お構いなく」


 もう、本当に。お構いなく。

 そちらこそ、その小さい体のどこに、そんなに入るのやら、御身(おんみ)の物理的構造が不思議で仕方が無い。()()。あと、何か、話の通じない感じが、本当に()()




 入り口近くの、出窓のある席に着いた。


 薔薇の造花の花瓶の他に、天使が抱きついた形のランプや、細いワイヤーで編まれた小物入れがディスプレイしてあった。


 じっと見ていると、ちょっと寒気がする。


 視覚的には大分慣れてきたが、自分がこの雰囲気の中で異質であるという自覚は、どうしても意識の底から消えなかった。


 クリームブリューレは、確かに、思ったよりは甘くなくて、美味しかった。


 しかも、店主が無料で出してくれるドリンクが酸っぱくて、それのお蔭で結構食べやすかった。


 しかし、飲みかけのところに、すかさず、その店主が次を注ぎに来てくれるので、理論上このドリンクは無くなることはないのではないか、などという、机上の空論にもほどがある、頓珍漢(とんちんかん)な永久機関のことを考えていると、前方から視線を感じた。


 ヒヅル嬢が、こちらを見ている。しかし、俺が見ると、パッと逸らしてしまう。見れば、ケーキも全く食べてはいなかった。


 ああ、この前も、こんなことがあった気がする。

 何か用があるなら言えばいいのに。…うう、()()




 しかし、この状況って、何なんだろう。

 何で、こんな状況で、この人と向かい合ってケーキを食べているのだろうか。

 そう言えば、心言(みこと)が、付き合いたいとかなんとか言ってたなぁ。今、それとなく打診してもいいけど、余計なお世話かもしれないし。

 そう言えば、参考書買い忘れた。ぐいぐい引っ張るんだもんなぁ、この人。まぁいいや。後で寄りなおそう。書店の閉店時間までには帰れるだろう。




 当然、雷鳴と共に、雨が降り始めた。慌てて店に駆け込んでくる人もいる。


 やっぱり降ったか…。しまったな、店から出られないぞ。


「あ、あの、降籏さん」


「は、はい」


 何でしょうか。あ、光った。


「・と・・・・・ください」


 その時、その、か細い声は、ビシャー!っという雷鳴に掻き消された。恐ろしい程のタイミングだった。


 まだ、ゴロゴロ音がしている。


「え?ごめん。何だって?」


 ヒヅル嬢の顔は、見る見るうちに真っ赤になり、「いえ、あの、…連絡先、交換しませんか?」と言った。


 おお、それなら、はっきり答えが言えるぞ。


「俺、携帯持ってないんだ」


 ヒヅル嬢は、真っ赤になって、急に自分の鞄を掴んで、走って店を出ていってしまった。


 えー?!

 この雷雨の中を?!


 また、空が光った。


 店主が慌てて、「お客様!当店で傘をお貸ししますから!お持ちください!お客様!」と、追い駆けたが、間に合わなかった。


 もう一度、雷鳴が轟いた。


 店内の視線が、店主のものも含めて、全て俺に集まった。


 …何で?


 残された、ケーキ三個とドリンクと共に、俺はただ、呆然としていた。


 ()()()()




「あら?やっぱり」


 そんな中、急に声を掛けて、近づいてきた、女の人にしては背の高い人影があった。


 見ると、その人は、さっき雨が振りだした時、店内に駆け込んできた人だった。


 左側だけにスリットの入ったスカートに、緩く波打つ長い髪。


「…伊原さん」


「あ、覚えてた?」


 伊原(いはら)瑠珠(ルージュ)嬢は、勝手に、さっきまでヒヅル嬢が座っていた席に座った。


「ここ良い?」


「え?」


 良いも何も、もう座ってる。


「ここね、男性は、女性同伴じゃないと入れないお店なの。知ってた?女性専用」


 …え? 


 瑠珠(ルージュ)は、ポイントカードのようなものを出し、店名の下に小さく書かれた一文を、艶のある、形良く長い爪の先で指し示した。


『*男性の方お一人でのご来店はご遠慮ください*』


 …本当だ。…あるんだ、この辺に、そういう、朝の女性専用車両みたいなやつ。


 そして、ここにいる自分に違和感が有った理由が分かった。


「私、ここにいた(ほう)が良くない?」


「…え?」


 いや、もう帰りたいんで。


「ケーキ、三つも残ってるもんね」


 …あ。


 …大町さーん!喰わずに帰ったな!


「食べ終わるまで、ここにいてあげる」


 瑠珠(ルージュ)は微笑んだ。


 店主が、瑠珠(ルージュ)の分のドリンクを持ってきた。ついでに、俺のグラスに、またドリンクを注いだ。


「ごゆっくりどうぞ」


 男性の方お一人でのご来店はご遠慮ください、との注意書きはあるが、途中で同伴の女性を替えても、ルール上は問題が無いらしい。


 店のルールとしては良いのだろうが、倫理観としては如何(いかが)なものか、と思いながら、俺は、ドリンクの入ったグラスを見詰めた。




 今日の日用(にちよう)(かて)は、(いささ)か甘過ぎやしないだろうか。

 しかし、地球規模で言ったら明らかに贅沢な意見であることは分かりきっていた。

 それ(ゆえ)俺は。

 ――残せなかった。


 瑠珠(ルージュ)の威圧感のある微笑みと、店主の心配りによる、無限とも思えるドリンクのおかわりの織り成す地獄の反復運動にも拘らず、有難いことに、そこまで、苦しくなるほどの満腹感は覚えなかったが、もう、しばららくケーキの(たぐい)は遠慮したいものだと思った。


 瑠珠(ルージュ)は、自分の分のケーキを、ゆっくり、一つだけ食べながら、俺が食べるところを愉快そうに見ていた。


 いいなぁ、一つで。


 雷鳴はかなり聞こえなくなってはきたものの、雨の方は、相変わらず降っているようだった。開けっ放しになった入り口から、雨の匂いを感じる。




 俺が粗方(あらかた)食べ終わった頃、探るように、瑠珠(ルージュ)は言った。


「ね、さっきのって、ヒヅル?」


「ああ、大町さんかな」


 そう、連れてきたのは彼女だった。帰ったみたいだけど。


「何で、ここに二人で来たの?」


 こっちが聞きたい。


「いや、ケーキ食べませんか、とかなんとか」


 瑠珠(ルージュ)は、怪訝そうな顔をした。


「それで来たの?」


「…それは表現としては正確じゃないと言いたい」


 脳裏に浮かんだのは、何故か歴史(つねふみ)さんとの散歩だった。


「は?」


「いや、…まぁ。そうだな。来た。そして、何だかケーキを食べたな」


「…そう」


 何だか、少し呆れたような顔をされてしまった。


「ね、もしかして会話下手?」


 ―――刺さった。今の言葉は刺さったぞ。ちょっと気にしてるのに。


 頭の回転の速さと、それが言葉に出る速さとタイミングが、自分でも、時々、合ってない気がする。


 よく喋る相手や、早口の相手だと、押し切られてしまうことがあり、そうなると、断ったり、甘えたりするのも、自然と、苦手になってしまう。

 良く言えば慎重なのだろうが、沢山考えて、黙っていると、勝手に話が進んでしまったりするのだ。



 大体が、女の人というのは、男に比べて、会話が変則的過ぎるのだ。


 一生懸命考えても、脳の処理が追い付かないような展開の話に軽々と跳んでいくし、しかも、その会話の速度に概ね行動が伴うときたもんだ。俺が今この店にいるのが()い例ではないか。


「あー、いやっ、ごめんごめん。嘘嘘!」


 謝られてしまった。

 どんな顔をしてしまっていたのやら。

 しかし、そんなに勢いよく謝るということは、俺の事を、真実(しんじつ)『会話下手』だと思ったということなのだろう。

 何だか切ない。


 話を逸らすようにして、瑠珠(ルージュ)はドリンクを一口飲んだ。


「ねぇ、そう言えば、水戸さんだっけ?あれ、何だったの?ミヅキと、どういう関係?」


「いや、…聞けなかった」


「そっちもかぁ。確かにねぇ。ありゃ、聞ける雰囲気じゃないわよねぇ。元カノとかだとしても、相当最悪な別れ方したんじゃないかな。付き合ってたって風でもないけどね」


「そういうの、分かるのか?」


「だって、元カレが合コン来たぐらいじゃ逃げないよ。何か逃げるのも(くや)しいし。初対面の振りして行動観察して笑うくらいでしょ?」


「そ、そんなもんか?」


 ―――怖いな。


「女の(ほう)がそういうの、肝が座ってると思うな、私」


「ホント、あんな合コン初めてよ」と言って、瑠珠(ルージュ)は大きな溜め息を吐いた。


「でもま、タクシーは助かったけど。アリガト」


「いやいや」


 そう言うと、瑠珠(ルージュ)豪奢(ごうしゃ)ともいえる睫毛(まつげ)に縁取られた目をパチクリさせて、クスリと笑った。


「茉莉花みたい。あの子、こっちが謝ったりお礼言ったりすると、絶対、『いやいやー』って言うの」


 瑠珠(ルージュ)のその笑みは、今までで一番朗らかな笑いだと思った。


「仲いいのか?」


「あ、茉莉花と?うん、まぁね」


 …主語を補足されてしまった。やはり会話下手なのだろうか。


 作文や小論文の(たぐい)はそう下手でもないのに、口から言うとなると、上手く言葉を紡ぎ出せない。


「高校に入ってからの友達だけどね。私等、高校入学組だから、仲良くなりやすかったってのはあるかな」


「ああ、常緑(じょうりょく)も中高一貫だもんな」


「そう。…茉莉花って、付き合いやすいんだよね。干渉してこないけど、結構気遣い屋だし。意外と天然だし、面白いよ。本人は自覚ないんだけどね」


 瑠珠(ルージュ)は、俺にはお構いなしで喋ることにしたらしい。

 さっきまでより格段に滑らかに喋る。

 俺としても、聞き役のほうが楽な気がしたので、ちょっとホッとした。


「最初会った時はびっくりしたけどね。お人形かと思ったもん。すぐ慣れたけど。あれね、『美人は三日で飽きる』ってやつ、ちょっと分かった。ホントね、見慣れるの。顔は、そんなに可愛くない子でも、見慣れると可愛く見えてくるけど、美人って逆なのよね。黒子(ほくろ)の位置とか(にきび)とか、欠点が見えてくるの。不思議」


 成る程。面白い見方もあるもんだな。そういうこともあるのか。


 …ん?でも何か今、上げて、落とさなかったか?微妙に。

 『美人』だけど、『三日で飽きる』って。

 …気のせいか。


 そうだよな、そんな、『仲いい』、『びっくり』するくらい、『お人形』みたいな、『美人』な友達に対する、微妙なネガティブキャンペーン、俺に対してする理由がないし。


 …結局、優将も、この子も、実は茉莉花が『一番可愛い』と思っている、ということなのだろうか?


 よく分からんな…。


 しかし、『お人形』というのは、上手い例えだ。


 “Dolly(お人形ちゃん)”とか“Dolly(綺麗な) bird(女の子)”とかいうと、妙にしっくり来る。


 結論、『綺麗』な存在なんだろうと思う。


 ジャスミンが名前の由来だとか言ってたし、“Dolly Jasmine”とかいうと、英語圏の国にでも、そういう人形なんか売ってないかな、という気がする。


 『人形みたい』と表現してしまうと、海外では、生気を感じない、という意味に取られて、褒め言葉ではない、と聞いたことはあるが、それなら何故、“Dolly(お人形ちゃん)”とか“Dolly(綺麗な) bird(女の子)”という表現があるのかが不思議だ。

 古い英語表現、ということなのだろうか。


 古い英語表現、と考えると、関連して、頭の中に、自然に、最近英語の授業でやったマザーグースの、ポリーさんのお人形ちゃんが病気になったのなんのという内容が出てきた。(はかり)()(やく)が最高だったなぁ。あれは教室中爆笑だった。


「でも、意外と合コン向かないのよね。何人か付き合いかけたんだけど、てんで駄目。こりゃ、好きな人でもいるのかな、とか思ってたんだけど。そしたら、いきなり合コン計画してくるしね。お目当てでもいるのかと思ったら、あの騒ぎだし」


 俺が思考を脱線させている間に、会話は進行していた。

 しかも、前の話題から続いていたらしい。


 これだから会話は恐ろしい。話す者が各自文脈を持っていて、あまつさえ、書いてある文章のように、読み返すことはできないのだ。


 気を付けよう。

 この上『聞き下手』とまで言われたくはないものだ。


「普通合コンって、…あんなじゃないよな?」


「私も、あんまり行かないけどね。あんなのは初めて。人数は合わせてないわ、何か修羅場っぽい雰囲気で女の子は帰るわ、極め付け、幹事は酔い潰れるわ」


 あんまり行かないというのは意外だった。


 瑠珠(ルージュ)は、ちょっとムッとした顔をした。


「あのね、言っとくけど、そんなに合コン好きでもないから、私。場を盛り上げるのに向かないし。よく誤解されるけど」


 顔に出ていたらしかった。


 何となく、優将の言葉が思い出された。


「成る程、それじゃ、あの中で合コン慣れしてるっていうと、――千伏さん?」


「あ、やっぱり分かる?意外だよねー。あんなに合コン慣れしてるとは思わなかった」


 やっぱり、どこが『合コン慣れ』なのか分からなかった。

 それは、やっぱり、俺よりはどの人も合コン慣れしてると言えるからなのだろうか。

 見分け方のコツのようなものは、そういう経験から学んでいくものなのだろうか。


「ま、茉莉花もねぇ。大方(おおかた)、あの(けい)君とやらに頼まれて、断わり切れなかったってとこなんだろね。ホント、誘われた時はビックリしたー」


「ああ、成る程」


 また話題が、そっちに戻ったか。


 いや?聞いてるぞ。


 惑わされてないぞ。


「ホント、面倒見良いわー。あの子、結局、慧君送ってったんでしょ?普通逆じゃない?」


「…確かに」


 夜の繁華街からの帰宅だったもんな。


「それで、結局、茉莉花は誰とも連絡先交換してないみたいだし。あの(あと)、幹事だったからって、凄い気にして謝りまくってたし。やっぱり、普通ああじゃないよ、合コンって。人が()過ぎ。私だったら、腹立てて、慧君置いて帰るかも」


 瑠珠(ルージュ)は本当に置いて帰りそうだな、とは思ったが、俺は何となく、そう聞くと、茉莉花が更に気の毒になってきた。


 しかも、あの後、慧は、茉莉花に謝りに行っていないらしいのだ。


「そうか…」


「まぁ、合コン断わり切れなかったのと同じくらい、放っておけなかったんだろうけどね」


 あの子らしい、と、瑠珠(ルージュ)は、呆れたような顔をしながらも、優しくそう言った。


 やっぱり『仲がいい』のは当たってるんだろうな、と思った。




 しばらくすると、雨が(さいわ)いにも()んだので、俺と瑠珠(ルージュ)は店を出た。


 店主が、念の為にと、(しき)りに傘を進めてきたが、返しに来る勇気が無かったので、丁重にお断りした。




 結構暗い。


 灰色がかった青が、明度を、もう少しで(やみ)と呼べそうなくらいには落としていた。


 一人で歩かせるのも良くなさそうな時間帯だったので、結局、瑠珠(ルージュ)と一緒に、駅まで歩いていく流れになった。


 雨の匂い。

 濡れた土の匂い。

 何処か懐かしい匂いだ。


 部屋に閉じ篭って遊んだ、雨の日の日曜日なんかを思い出す。


 土なんか何処にあるのだろう、と思うような場所でも、必ずこんな匂いがする。


 では、それはやはり、雨の匂いなのだろうか。

 雨自体の匂いは、俺にはよく分からないのだが。




 駅の近くまで来た。


 この周辺は結構明るい。


 そう言えば、ケーキ屋を出てから、一言も口を利いていなかった。何か喋るべきだったのだろうか。


 不意に、鼻の頭に、ポツリと水滴が落ちてきて、驚いた。


 思わず立ち止まる。

 結構大きい滴だ。

 雨は降っていない。


 今いる通りから見える、ごく狭い範囲の空を見上げると、街灯にぼんやりと照らされた電線があった。


 黒く、真直ぐ、並行に。


 もしかして、あそこから滴ってきたのか?


 俺の上の、切り取られたように狭い空を、電線は、真直ぐに、黒々と通っていた。

 これからどんどん、あの空と電線の境界は不明瞭になっていくのだろう。


 夜がやって来る。


 あそこに平行に続く線と、自分が『ベクトル』の観念になって重なってしまいそうな夢想をする。

 ベクトルの観念についての示唆を与えてくれた存在のことも、思い出す。


 黒い髪の。花の香りのする。


 どんな人間が、ベクトルについて、あんなことを考えてるのか、興味があったから。

 実際会えて、話せたことは、よかったのかもしれない、と、思った。


 気が付くと、立ち止まって、ぼんやりと空を仰いでいた。


 隣で、微かに香水の甘い香りがした。


 瑠珠(ルージュ)が、目を丸くして、こっちを見ていた。


 しまった。


 滅多に赤くならない方だというのに、この時ばかりは、顔に血流が集まってくるのがわかった。

 隣に人がいるのを、すっかり失念していた。

 挙動不審にも程がある。


「あはははは!」


 瑠珠(ルージュ)は、大きな声で笑った。


 抱腹絶倒。


 ―――そんなに笑わなくとも。顔が余計に赤くなった。もう(むし)ろ暑い。




 散々笑った後、瑠珠(ルージュ)は、ハンカチを出して、俺の鼻の頭を、そっと拭いてくれた。

 そう言えば、拭うのを忘れていた。

 また、香水のような、甘い香りがした。


 それから、「またね」と言って、瑠珠(ルージュ)は駅の方へ走って行った。


 そちらの方を見ると、ふと、街灯の光が眼鏡に当たって、世界が水玉模様になった。


 俺は、眼鏡を取って拭いた。

 レンズに細かい水滴が付いていたのだ。


 結構視力が悪くなってきた。


 思い切ってコンタクトレンズにした方が良いのだろうか。


「あ」


 また、書店に寄りなおすのを忘れていた。


 今日は本当に、何だったんだろう。


 取り敢えず帰らなければ。


 本物の歴史(つねふみ)さんが待っている。





※赤の女王仮説(Red Queen's Hypothesis)


 リー・ヴァン・ヴェーレンによって1973年に提唱された、進化に関する仮説の一つ。「他の生物種との絶えざる競争の中で,ある生物種が生き残るためには、常に持続的な進化をしていかなくてはならない」という仮説。「赤の女王」とはルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス』に登場する人物で、彼女が作中で発した「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない(It takes all the running you can do, to keep in the same place.)」という台詞から、種・個体・遺伝子が生き残るためには進化し続けなければならないことの比喩として用いられている。




(マタイによる福音書第6:9~13)


天にまします我らの父よ。

願わくは御名みなをあがめさせたまえ。

御国みくにを来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用にちようかてを今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。


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