座敷童:What is the use of a book?
家に帰ると、愛犬の鳴き声が聞こえた。
俺の帰宅に気付いたらしい。
名前は、歴史さんという。
命名者は母だ。
一昨年我が家にやってきた、スピッツと柴犬のハーフだという、正真正銘の雑種だ。
大きさは、小さめの中型犬という、中途半端なサイズ。
犬の瞳とスピッツの声、そして何故か、体毛はシェパードの色。
毛も、場所によって、長い毛と短い毛、硬い毛と柔らかい毛が生えている。
…本当はハーフじゃなくて、クオーターぐらいいってるのではなかろうか、と、俺は常々疑っている。
首に縄がついたまま、こちらに来ようとするので、ビーン、ビーンっという、縄に引っ張られた奇怪な動きになっている。
狂喜乱舞とは、このことだろう。
近寄って撫でると、飛び掛かってきて、顔を舐めて親愛の情を表現してくる。
服に毛が付くから止めろと言っても聞かないが、怒る気にもなれない、愛くるしい、柴犬のような瞳が、何とも言えない。
ともあれ、この存在の御蔭で、獣医という職業が、将来、就いてみたい職業の上位になった。
少なくとも、母親に似たのか、自分では理系が向いている気がするし、理系の学科を受験しよう、とは思っている。
俺が中三の冬のある日、父は、「猫が飼いたい」と言った。
母は「飼えば?」と言った。
俺は、多分、世話は俺がすることになるんだろうな、と想像して、黙っていた。
それから何日かして、父は、とても可愛い―――子犬を連れてきた。
猫は?と聞くことはしなかった。
父が突飛なことをするのに、いちいち理由を聞いていたら、疲れるからだ。
それから、ずっと飼っている。
臆病で、でもボーっとした、その顔を、母は自信満々、雄と断定した。
そして、勝手に名前を付けた。
何のことはない。
生き物に名前を付けるのが好きなのだ。
趣味だと考えると、変わってはいると思うが、幼少期に、自宅でペットを飼うことを許されなかった反動らしい。
母は「家畜ならいたのに」と言うので、『ペット』についての概念が、俺とは違う可能性は否定できないが。
近所の猫は姿子さん。
お向かいの犬は源三郎。
直感とイメージで、飼い主より先に勝手に名前を付け、勝手に、そう呼ぶのである。
しかし、多くの場合、飼い主より先に付けて呼ばれた名前に、動物の方が先に反応し始め、それが定着してしまう。
今度ばかりは直感が外れ、雌だったのだが、母は、意固地に、歴史さんの名前を変えようとはしなかった。
多分気に入ったのだと思う。
時々、『ツネちゃん』とか、『フミちゃん』とか、好き勝手に略して呼んでいる。
本人は明言を避けるが、多分動物が相当好きなのだ。
『好き』と明言しないのは、照れているのだけなのかもしれない。
少しだけ、気持ちは分かる。
だが結局、歴史さんは、父に一番懐いている。
歴史さんは、父が自分を生んだ『お母さん』か何かだと思っているようで、そこを考えると大変ややこしい。
しかし、ほとんどの世話を、俺か母がやっている。
やはり予想通りになった。
まず、最初の頃は、慣れるまで、子犬が鳴いても相手をしてはいけないというのを知らなくて、第一段階の躾は失敗した。
次に、一週間くらいで覚えてはくれたものの、トイレの躾等で、育児ノイローゼになるのではないかと思うような目に遭った。
おまけに、どのくらいのサイズに育つかが分からなかったので、室内犬にするか外で飼うかの判断をつけるのが遅くなり、小さめの中型犬に育って、室内犬には、どう考えても大きくなってしまった頃、我が家の家具調炬燵の足は、歯固めの為に噛まれて傷だらけにされ、寝ていた俺の眼鏡のフレームは噛られ、ティッシュ箱は、中身を引っ張りだされ、ズタボロにされていた。
極め付けは、それでも、母以外誰も、きちんと犬を叱れなかったことだ。
それ故に、歴史さんは、室内犬が受けるべき躾を、きちんと施されなかった、というか、失敗した。
母は、小屋を父に買わせ、歴史さんを前庭の空きスペースで買うことにした。
この場合、決定権は母にある。
父は、格好良いから、綱ではなく、鎖で歴史さんを繋がないかと言った。
俺には格好良さが、よく分からなかった。
母は、格好良いからといって、必要もないのに、こんな小振りの中型犬を鎖で繋ぐのはエゴだと言った。
母の不思議な論理に基づく愛情により、歴史さんは、綱で繋がれることになった。
母曰く、色は、ピンクか赤なのだそうだ。
歴史さんの茶色い毛に似合うから、とのことである。
今は赤だ。
この場合も、決定権は母にある。
毎日の散歩は、ほぼ俺の仕事だ。
大抵は、夕方か、夜の八時から十時に行く。
休日の昼間、長い散歩に出掛けたりもする。
絆と一緒に行ったりもするが、大抵は俺だけで行く。
歴史さんは、雨が降ると外出を嫌がったり、疲れると抱っこを要求する点で、非常に人間臭いが、ちょっと歩かないと糞をしなかったり、自主的に草を食べて腹の調子を整えたりする点においては、非常に動物臭く、何とも興味深い存在だ。
ただ、近年、猛暑の傾向にあるので、あまりにも酷な様であれば、室内で寝かせることも検討中である。
台風の日も雪の日も、家に入れているから、そのうち、室内飼いになるかもしれない。
愛しいし、興味が尽きないが、生き物の命を預かるのは、斯くも難しい。
歴史さんの飲む水を替えてやっていると、アルミサッシが開いた。
短い髪に、眼鏡の中年女性。
母だ。
後ろから、同じく、痩せた眼鏡の中年男性が見える。
父だ。
両親とも、白いシャツにスラックスかジーンズ、という、似通った服装をすることが多い。今日も、揃って、白シャツにジーンズだった。母親がスカートを穿いている姿が思い出せないくらい、物心ついた時から、恐らくは、ペアルックというよりは合理性で、両親共に、このスタイルである。
気は合うのかもしれない。
「あら、帰ってきたの」
「あ、ただいま」
珍しく、両親揃って、俺より先に帰ってきていた。
歴史さんは、興味を俺と母と父の三方に分散させながら、獲りたての車海老のような、余計に奇怪な動きをし始め、構ってくれ、と、腹を見せた。
父が庭まで出てきて、その腹を撫でてやる。
「あはははは、お腹お腹お腹。むちゃちゃちゃちゃ。つねちゃ、お腹ー」
動物を相手にすると、父は途端に人語を解さなくなる。
聞いていると、よく、新しい文法の言葉等を作り出していたりしており、それはそれで興味深い。
「…ただいま」
「おう、お帰り、高良」
実子との挨拶より、歴史さんのお腹を撫でることを優先されてしまった。
犬は、飼われている家に、小さい子等がいる場合、その、一番小さい子よりも、一つ上の位だと思っているのだと聞くが、強ち外れてもいない。
家族の中で、発言権も優先順位も、一番下。
それが、俺のポジションだった。
「あのね、ちょっと調査に行ってくるね、新幹線で」
俺が夕飯の支度をしていると、リビングで鼻歌を歌いながら、トランクの用意をしている父が、近所のスーパーに買出しに行くような口調で、明日からの出張先を明かした。
新幹線を使う距離って、『ちょっと』じゃないだろう。
しかし、父は、脳内に勝手な相対性理論を適用させていると見えて、感覚の中において、好きなだけ、時間と距離を伸び縮みさせて捉えているようだ。
良い性格だ。
俺も、父を見ていると、『ちょっと』の距離だと思ってしまうから危険だ。
父は、郷里が、ここから新幹線を使わなければならない距離にある。そちらへの帰省は、大変面倒臭がる。だから、多分、同じ回数新幹線を使うのなら、帰省の道程と、距離の感覚が、ほとんど変わらないのだ。
因みに、飛行機に対しても、新幹線と同じ態度を取る。
だから、海外も、父の中では『ちょっと』の距離だ。
帰省の感覚で国境を越える男。
それが、我が父、降籏明良教授だった。
専攻は民俗学である。
「あらそう。御土産買ってきてね」
同じくリビングでパソコンをいじっている母、及木貴子助教授は、サラリと土産を要求した。
キャリアのために、仕事では旧姓を使っている、竹を割ったような性格の彼女は、滅多なことでは動じない。
専攻は量子力学である。
偶々同郷だった、という理由で交際が始まった後に結婚した二人らしいが、出身大学も専攻も別で、いつ、どこで出会ったのかについては謎である。
「うん。高良には御菓子を買ってくるね」
そこは普通、『お土産何が良い?』って聞くところじゃないのだろうか。
でもまぁ、欲しい物も特に思い付かないので、いつも『ありがとう』と答える。
何か、アジアの石造物との比較のために、国内の何処かに行って石造物を見てくるとか何とか言っていた気がするが、一先ず、行き先を聞くのは止めた。
興味が無いからだ。
希少種を診察出来る動物病院に就職する対策を考える方が楽しい。
猫専用外来のある病院等もあり、興味が尽きない。
犬や猫は勿論、兔も良いし、フクロモモンガなんかも診てみたい。兔を診られない病院があると知った時は驚いた。ペットを飼う時は、その生き物を診られる病院を調べてからにした方がいいと思う。
母が「私には?」と言った。父は母に笑顔を向けた。
残念ながら、容姿格差のある夫婦、とでも表現したら良いのだろうか、父の容姿の良い所は身長と、豊かな頭髪くらいのものなのだが、両親共に、それを気にしている様子は無い。
母親似で良かったね、とは、幼少の砌から挨拶代わりに言われてきた言葉ではある。暗に『御両親は何で結婚したの』と問われている様で、幼心にも、気不味かったものである。
ともあれ、夫婦仲は良いのだろうと思う。
「いっぱい買ってくるよー、御土産。でも、買ってきた名産を使って夕飯を作ってくれるのは高良でしょ?」
既に、『高良に買ってくる』はずの土産は、俺の意思とは関係ないところで、購入後の処遇まで決定されていた。
しかも、俺が夕飯を作ることになっている。
そこに疑問を挟む余地は残されていない。
「でも、沢山は嫌よ?食べきれなかったら冷蔵庫、臭くなるじゃない?」
「僕が食べきるもん」
多分、臭くなったところで、冷蔵庫の掃除も、俺がすることになるのだろう。
彼らの恐ろしいところは、これだけの会話を、一切自分の作業を止めずに行っている点で、基本的に二人とも自分本位なのにも関わらず、余りにも、お互いマイペース過ぎて、夫婦喧嘩にまで発展しないところだ。
細身だが大食漢の父の『いっぱい』が、平均的な日本人の食材消費量と合致する事を願って、俺は今日の夕飯の支度を続行した。
鍋からの湯気で、眼鏡が曇った。
食卓を囲みながら、各々、近況や、向こう一週間程度の予定を話す。
「あ、私、今度の土日、出張」
「へー。僕も、帰ってくるのは来週の月曜日くらい」
「あ、俺、今度の土曜日、カラオケで合コン」
急に、両親二人の動きが止まった。
「…合コン?」
「…合同コンパか?」
「?そうだけど」
「…もー、何でそういうの、親に言っちゃうの?」
「そうだぞ。内緒で行ったり、嘘吐いたりして、苦労して行くもんだぞ」
「…行っちゃ駄目なのか?なら別に、行かないぞ」
素直にそう言うと、両親は、激しく首を横に振った。
「いいや、そこは、押し切ってでも行くところだ」
「そうよ、勉強ばっかりで、若い時適当に息抜きで遊んでおかないと、ろくな大人にならないわよ。私達みたいに」
…どうしてほしいんだ。
と、言うよりも、若い頃何があったんだ。
「大体、コンパって、意味、分かってるの?」
「学生同士が、資金を出し合って何かをすること、だろ?」
辞書引いたぞ。
「…お前。それは辞書的な意味だよ、高良」
両親は珍しく、気の毒そうな顔をして俯いた。
答えが大変不満だったようだ。
「よし、行っておいで!俺が、御小遣い多目にあげるから!」
「頑張りなさい」
…嫌だ!こんなに暖かく見守られながら合コンに行くのは嫌だー!
散々激励されてから、俺は茶碗を片付けた。
…当日両親がいなくて本当に良かった。
着る服から台詞にまで指導が入ったら、たまったものではない。
茶碗を洗う俺の背中に、父が、ほら、と、声を掛けて来た。
「バイトしてくんない?崩し字読めるだろ?友達とかと分担しても良いから」
「え?…読めるけど」
亡くなった父方の祖父が書道家だったので、一通り叩き込まれたのだが、最近は専ら、読めはするけれども書く事はしていない、という程度の嗜みだ。
「『字典かな』と『くずし字解読辞典』貸すから」
「わ、今、手、濡れてるから、和綴じの本なんか渡さないで」
次の瞬間、突然、目の端に黒い物が見えた。
『あるはずのないもの』だった。
それが存在しないことは分かるのに、確かに、『いる』。
優将の顔をした、着物姿の男の子が。